主日の福音 1993,07,11
年間第十五主日(MT 13:1-23)
種まき
神の言葉はたえず蒔かれている
今日の福音は、有名な種蒔きのたとえです。イエス様はたとえの向こう側に、本当に伝えようとしている何かを携えておられます。イエス様が本当に伝えようとしておられることに、一人ひとりたどり着くことを目標に、今日の福音を黙想してみましょう。
イエス様のたとえを聞きながらも、みなさんの中には種を蒔く人の行動があまりしっくりこないという方もおられると思います。こう考えているかもしれません。「この人はどうして大切な種を道端に落としたりするのだろうか。石だらけで土の少ないところに落としたりするのだろうか。私たちだったら用心してそんなことは絶対しないのに。」
もちろん、日本の畑作や、稲作の考え方からすると、福音に登場する人の行動は無駄が多く、いかにも不注意、軽率な行動のように受け取られます。けれども当時のパレスチナで、畑作がどのように行われていたかを知っておくと、種蒔く人の態度に気を取られることも少なくなると思います。
当時のパレスチナ地方の種蒔きは、畑を作ってから種を蒔く日本の習慣とは正反対で、畑にする予定の場所一面に蒔いていました。「ここからここまで、耕して畑にする」そう決めた場所であれば、どこにでも種は蒔かれました。
ですから農閑期に人が歩き、踏み固めて道のようになっている場所や、畑を休ませている間に茨が生え出たところも、後で畑を耕して土をかぶせる予定をしていますので、かまわずに種を蒔いたのです。
「ある種はどこそこに落ちた」という言い方は、人間の不注意でそうなったのではなくて、畑一面に種を蒔いた結果、そのうちのいくつかは道端、土の少ない石地、茨の生え出たところに落ちていったわけです。
イエス様からこのたとえを直接聞いた人々は、実際種蒔きをこのようにしていたので、種蒔く人の態度に気を取られることはありませんが、私たちがイエス様のたとえを聞くときは、その点を注意していないといけません。福音に登場する種蒔く人は、はじめから無駄なことをしようとしているのではなくて、どの場所も耕して、それなりの畑にしようと考えているのです。
この点がわかると、イエス様のたとえが、私たちを動かすようになります。すなわち、この畑全体をわたしに当てはめることもでき、イエス様は種蒔く人として、私たちにみ言葉の種を蒔き続けておられるのです。
畑にする土地全体が、わたしの心であるとしましょう。その中にはいろんな状態の場所があります。人間的な弱さがあって、いつも同じところへ傾いている部分もあるでしょう。たとえば傲慢とか、虚栄心とか、しばしば陥る弱さは、同じ傾きで踏み固められて、一つの道のようになってしまっています。
また、自分の考えだけにこだわって人を受け入れないという部分もあるでしょう。人の勧めを最初からはねつけて、関わり合おうとしなくなるとき、そこは耕すのが困難な、石だらけの場所になってしまいます。
自分の好きな人とはつきあうが、嫌いな人とは目も合わせないということもあります。時として薬になる話も、その人が嫌いだから聞かないというようなことをしているうちに、雑草が生えてしまうわけです。
心はいろいろな要素を含んでいますが、手を加えればどの場所でももう一度畑として使えます。ある場所はとても手間がかかるかもしれませんが、それでも立派に畑に戻すことができるはずです。「み言葉」そのものを蒔こうとしておられるイエス様は、種の持つ力を十分ご存じなので、道のようになったところにも、石地にも、茨の生えた場所にも、かまわず種を蒔くのです。どの場所も、イエス様が「ここを畑にしよう」と決めてくださった場所だからです。
もちろん、土地はよい土地であるに越したことはありません。良い土地、肥えた土地とは、イエス様の言葉を聞いて、それを受け入れる土地のことです。土地の持っている力を引き出す神の言葉を、素直な気持ちで受けとめる心が、み言葉によって100倍、60倍、30倍の実りになって現れるのです。
もう一度、わたしの心を見つめてみましょう。種を蒔かれた場合、どれくらい耕さなければなりませんか。神様はおりが良くても悪くても、み言葉を蒔き続けます。準備のできていない畑でも、種を蒔いておけば種はとどまり続けます。耕すのがどんなに難しい心であっても、神様はそこに種を蒔き、そのみのりまで面倒を見ようとされるのです。
最後に、今日朗読した箇所の、最後の言葉を読み返しましょう。「耳のある者は聞きなさい」(13:9)。イエス様は、み言葉が必ず実をつけ、かたくなな心に対しても必ず勝利することを確信しておられるので、「耳のある者は聞きなさい」と言われます。み言葉そのものが持っている力が、冷えた心を暖め、堅い心をやわらげ、曲がった道をまっすぐにしていくからです。
わたしの中に、神の言葉が日々蒔かれています。豊かな実りに与るため、実りにはっきりと気づかせてもらうため、「主よ、あなたの言葉を響かせてください。わたしは耳を澄まして聞いています」と祈ることにいたしましょう。