主日の福音1992,07,05

年間第十四主日(LK 10:1-9)

七十二人の派遣

持ち物は、主が指示される

 

今日の福音でイエス様は、十二人の使徒の他に七十二人を任命して、すべての町や村にお遣わしになります。そこで私たちも、七十二人の弟子とは、いったい誰のことを言っているのか、しばらく黙想してみることにいたしましょう。

 

おそらく、この七十二という数字は、旧約聖書の象徴的な数字、七十に倣ったものだと思われます。旧約聖書で、七十という数字は、全体を言い表すときに使われて、七十人といえば、それですべての人、すべての代表者という意味合いをもっていました。そこで、もともとの意味として、弟子と認められた人の全体を表しているということが分かります。

この七十二人が遣わされる場所は、イエス様がご自身で行かれる予定のすべての町や村となっています。「すべての町や村」というところに強調点があります。したがって、七十二人は、広い意味で、イエス様に先立って町や村に遣わされるすべての人の意味でもあります。

 

ところで、イエス様は、すべての人に神の国を知らせ、神の教えに従って歩む人が増えることを望んでおられます。そのためには、すべての場所と環境に、これと思われる人を派遣しなければなりません。ともに生活する人に神様のことを知らせ、神様の教えを守って生きる姿を示す人が必要なのです。

このように考えるときに、七十二人というのは、ある決められた人数を指しているのではなくて、イエス様と関わって生きているすべての人、私たち一人ひとりをも含んでいることに気がつくと思います。私たち一人ひとりは、イエス様から何らかの手紙を託されていて、それを自分のおかれた場所・おかれた環境で読み上げるよう、期待されているのです。

 

イエス様に預けられた手紙は、なにも難しいことばかり書かれているというわけではありません。福音を例にとると、病人を癒すことはできないにしても、そのほかのことは誰にでもできることです。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願う・祈ること」、「この家に平和があるように」と言うこと、「神の国はあなた方に近づいた」と言うこと、これくらいのものなのです。

遣わされる弟子は、働き手を送ってくださるように祈る必要があります。なぜでしょうか。思うにそれは、収穫する人が、私でないこともあり得るからだと思います。収穫に携わるのは、私かも知れません。他の人かも知れません。神様が受け取るはずの実りですから、私が今勝手に収穫するというわけにはいきません。私がその人であれば、私が収穫します。けれども、神様は違う人を考えておられるかも知れません。そういうわけで、収穫のための働き手を送ってくださるように祈る必要があるというのでしょう。

「この家に平和があるように」「神の国はあなた方に近づいた」。どちらも、相手のことを中心に考えて作られたメッセージです。平和は、神様が与えますし、神の国は本当に近づいているわけですから、事実をそのまま言うのは造作もありません。要するに、どれも、すぐにでも実行できることばかりなのです。したがって、私たちもイエス様の七十何番目の弟子になることができるのです。

 

昨日私は、「この人も、七十何番目かの弟子に違いない」という人に会いました。高校三年生くらいの子です。司祭館にきて、たまたま応対に出た私に、次のようなことを尋ねました。「私は試験のために福岡に出かけなければなりません。日曜日に試験があるので、かわりに土曜日の晩にミサにあずかりたいのです。それで、教会の名前と、ミサの時間を教えていただけないでしょうか」。

私はこの高校生は立派だなあと思いました。心からそう思いました。彼女は、イエス様にあずかった手紙をよく読み、理解していたと思います。彼女があずかった手紙には、「日曜日にはミサにあずかること」ということが書かれていたのでしょう。そしてそれを実行するため、自分でできないところを補ってもらおうと、司祭館に来たわけです。そこで私は、福岡の大名教会のミサの時間と、天神近辺の地図をお渡ししました。きっと神様は、彼女を守ってくださるだろうと思います。

 

振り返って私たちは、彼女のような立派な態度がとれるでしょうか。旅行に出かけたら、ミサには行けなくなると、当然のように考えているのではないでしょうか。彼女はそんなことは考えませんでした。彼女は、イエス様に預けられた手紙を、言ってみれば大声で読み上げたわけです。「私は、日曜日の務めを果たします」と。

イエス様は、弟子たちを派遣するにあたって、次のようなことで注意を呼び覚ましました。「行きなさい。私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに子羊を送り込むようなものだ」。現代社会にあって、私たちを餌食にしようとしている狼の群れとは、世俗化と、無関心の波です。例えば、ちょっと用事ができてミサに行けなくなると、「これくらいいいじゃないか、だれだってこんなときは休んでるさ」そう言って判断の基準が世俗という物差しになります。地区集会にしても、「みんなが行ってるわけじゃないし、別にわたし一人くらい、いいじゃない」。無関心がこの人の物差しを狂わせ、狼の餌食になってしまっているのです。

 

むしろ私たちは、イエス様に委ねられた一つ二つの使命を忠実に果たすことで、自分のおかれた場所、環境で世俗化と無関心という狼に対抗いたしましょう。人間の力だけに頼っては、狼の圧倒的な数に負けるかも知れません。私たちは使命を果たすために、財布や袋や履き物といった、自分の持ち物、この世的なものに信頼せず、神の助け、支えに絶対の信頼をおきましょう。そのとき私は、先ほどの高校生のように、七十何番目かの弟子として、立派に使命を果たせるのではないでしょうか。必要な恵みを、ミサの中で祈ってまいりましょう。