主日の説教 1991,07,07

年間第十四主日(Mk06:01-06)

生活と信仰

大切な「神に喜ばれる生き方」

 

今日の福音で、イエズス様はご自分の故郷に帰られます。はやばやと夏休みに入り、なつかしい故郷の空気を味わいながら、キリスト信者に求められる生き方について考えてみました。

 

諺に、「灯台もと暗し」という諺があります。親しくしていると、観察がおろそかになりがちで、出来事の真の意味がわからないということなのでしょう。同じことが、イエズス様が帰られた故郷の人々にもちょうど当てはまっています。

「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」。地元の人々は、イエズス様の言葉、奇跡から、イエズス様がどのように生きようとしておられるかを知ろうとせず、自分たちがよく知っていることで判断しようとしました。名声や地位にとらわれ、しかもそれを持ち合わせていないことに引け目を感じている人は、しばしば他人をも同じ考えで見ようとします。「田舎もんに何ができるか」。なんと悲しいものの見方でしょうか。

地元の人々は、なぜ神様がこの田舎大工、ぱっとしない出の者をこれほど豊かに恵みで満たされるのかがわかりません。それもそのはずです。人々は田舎大工という身分、取り立てて言うこともない血筋を、ことさら引け目に感じていたからです。彼らにとって、イエズス様は「田舎もん」にすぎなかったのです。

確かにイエズス様は大工の家に生まれました。けれどもそれは恥ずかしいことではありません。また親類縁者も、たいしたものではありませんでした。それも、イエズス様には苦になりません。かえって、イエズス様には好都合だったからです。なぜなら、キリスト信者にとって大事なことは、人がうらやましいと思うような生き方をすることではなくて、神に喜ばれる生き方をすることだからです。

 

神に喜ばれる生き方と言うと、何か自分たちには縁遠い生活、それこそ雲の上の生活を想像されるかも知れません。現実の私たちは欠点だらけで、しばしば他人の要求に応えられず、神に喜ばれるようなことなどできそうにもないからです。神様はご自分に喜ばれる生活を、ほんの少しの偉い人々に求められたのでしょうか。私たちは神様に喜ばれる生活にあずかれないのでしょうか。

 

アルコール依存症という病気があります。以前は環境が原因だと言われていましたが、今は身分、学歴といったものを問わず、あらゆる層に忍び寄っている病気です。私の知っているある人は、朝、目が覚めてから夜寝るまで、いっときもお酒から離れられない生活をしていました。家庭生活や仕事は、そつなくこなしていました。本人にとっても周囲にとっても、決して迷惑にならない程度の量でした。それで病気が進んでいる間、誰も病気であるとは気付きませんでした。

あるとき仕事中に倒れ、病院にかつぎ込まれて、医者に次のように言われました。「あなたが倒れたのはお酒のせいです。死にたくなければ、今後いっさいお酒を口にしないでください」。彼はその忠告を聞き入れず、量を少なくすることにしました。結果は、再び倒れ、病院で治療しなければならなくなりました。

入院することになったとき、医者は再び念を押しました。「いいですか。あなたは病気なのです。量の多い少ないの問題ではないのです。自分が病気であることを認めること、これがなければ治療はできません」。彼はそれをどうしても認めることができませんでした。自分がお酒の病気にかかっている。それを認めることは、自分のうちにある弱さを認めることに他ならないからです。

しばらくして、その人は退院しました。医者の紹介で、ある人に会うことになりました。その方ははっきりと、自分はアルコール依存症であると断言しました。さらに続けて、こうおっしゃいました。「私は自分が病気にかかっていると知っています。病気なのですから、治療すればよいのです。けれども病気を病気だと認めない人には、なんの治療も役に立ちません」。

「あなたも、もし病気でしたら、そのことを認めてください。弱さを受け入れることは恥ずかしいことでも何でもないのです。かえって自分の弱さを認めることのできない人が、弱い、惨めな人なのです。あなたの信じているキリスト教の教えには『力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』というのがあるのでしょう。ありのままの自分を認めなさい。弱さも、そこから生じる軽蔑や侮辱も、すべて受け入れなさい。そしてあなたの神に、『私はこのようなものなのです。あなたなしには生きられないのです』と言えばよいではありませんか」。

その日からこの人は、いっさいお酒を口にしなくなりました。お酒が怖くなってのことではありません。自分には欠点がある。自分には弱さがある。それを素直に受け入れることができるようになったとき、問題は解決してしまったのです。

 

ミサの第二朗読で、聖パウロはコリントの教会に次のような信仰告白をしています。「だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。私は弱いときにこそ強いからです」。聖パウロは、どのような時にキリストの力が十分に働くのかをよく知っていました。それは自信にみなぎっているときではなく、弱さを知り、それを認め、神にのみ頼ろうとするときなのです。自分がキリストの弟子として、未熟であり、キリストの助けがなければ何もできないと感じるとき、恵みは効果的に働くのです。

イエズス様も、ご自身の生活ぶりを通して、同じことを教えようとされました。全能の神が、大工の父を持つ必然性はどこにもありませんでした。けれども弱さ、貧しさを神に向かう格好の機会とされたので、おん父から豊かに祝福され、人々を救う力の源とすることができたのです。

 

私たちも、先ず自分の弱さを素直に認めることのできる人になりたいものです。弱い自分を認めたなら、あとは全面的に神の導きに信頼して生きることにしましょう。自分の弱さを認めるとき、同じように他人の弱さも受け入れる必要性に気付きます。ある意味で恵みであるこの弱さを、神に喜ばれる生き方をする効果的な手段とすることができるよう、そのための力を神に祈り求めましょう。