主日の福音1992,06,28

年間第十三日(Lk 9:51-62)

イエスの旅

「旅する教会」の道しるべ

 

今日私たちは、ルカ福音書の大きな展開点である、エルサレムへの旅の始まりの場面を読みました。「イエスは、天にあげられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」。このときから、イエス様の行動は、すべてエルサレムで起こる出来事、すなわち死と復活の神秘に向けて準備されていきます。

そこで今日は、「エルサレムに向けて旅をするイエス様」を黙想することと、このイエス様につき従うための私たちの覚悟について考えてみたいと思います。

「エルサレムに向かって旅をするイエス様」をルカは福音書全体にわたっていつも意識し、イエス様のお姿を描くときに織り込もうとしています。そこには、私たちが旅をするときに体験する、いろんな要素を同じように取り込み、私たちにも幾らか理解できるきっかけともなっています。

先週、わたしは、「弟子たちを教育するイエス様」についてお話ししまして、「イエス様は私たちを教育しようとしておられる」という見方に立ってイエス様を眺めると、イエス様の気持ちに触れることができると言いました。ここでは、ルカのもう一つの見方が表れています。すなわち、「イエス様はエルサレムに向かって旅をしておられる。この方は旅行中の身なのだ」という見方です。この点に立つとき、今日の福音の要点がつかめると思います。

旅行の経験があれば、次のようなことに思い当たるかと思います。身支度はできるだけ少なくしよう、最終的な目的地のことを心の隅にとどめておこう、旅先ではあまり長居したり、むだな出費をしないようにしよう、などのことです。これらのよく分かる事柄が、実はイエス様のエルサレムへの旅にも当てはめることができるわけです。

イエス様は旅の心得として、二枚の上着も持たず、財布も袋も、履き物も余分に持たないようにと勧めました。それは持ち物に信頼をおかないようにさせるためでした。イエス様ご自身も、そうされたことでしょう。ところで、今日の箇所で大切なのは、目的地をいつも忘れないように旅をするということです。

イエス様はサマリアの人々から冷たい仕打ちを受けました。サマリアを通ろうとする一行が、日頃からよく思っていないユダヤ人の都を目指して旅をしている途中だったからです。弟子のヤコブとヨハネはかんかんに怒って、町を滅ぼさせてほしいと願いました。けれどもイエス様の態度は、それに応じません。イエス様はサマリアの町にこだわらないのです。目的地はあくまでもエルサレムであり、旅先のサマリアで、足を止めてはならないのです。

このことは、私たちの生活にも大切なことを教えてくれます。イエス様がご自分のみ業を完成されるエルサレムに向かおうとはっきり心に決めて、それからは旅人として生活を送られたように、私たちが救いにいたる道のりをはっきり意識してからは、自分たちが旅人に過ぎないことを悟って、目の前に広がる出来事の一つ一つに、あまりこだわってはならないということです。

わたしは、いざ旅行に出かけるとなると、あれもこれも持っていく悪い癖があります。せいぜい使っても一回くらいのものでも、「やっぱりあったら便利だろうな」と思って、つい荷物の中に詰め込んでしまって、しまいには自分で抱えきれないようになってしまったりします。どうも、旅先でも不自由したくない、全部ととのった生活を離れたくないという気持ちがあるのでしょう。

イエス様はこのような者には、特別注意するように戒めてくださいます。「あなたは、弟子としての覚悟が足りないのだ」と。いったん旅に身をおいたら、少々の不自由は覚悟しなければなりません。そして救いをかち取るという、永遠にいたる旅に足を踏み入れた者は、それ以上の覚悟が必要になってきます。ルカはこのことについて、三つの人物を取り上げています。

「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人に、「地上に安住の地を求めているなら、ついてくることはできないよ」とはっきり答えられます。また、「まず、父を葬りに行かせてください」と願った人には、「霊的な死者に、肉体的な死者の世話は任せなさい」と言います。すなわち、ご自分に従う意志のない人に死人の世話は任せて、わたしに従おうとするあなたは、行って、神の国を言い広めなさいと勧めます。最後の人にしても、やはり同じような勧めを与えます。イエスに従うことがすべてに優先されるのです。最重要課題なのです。

こう言うと、何だかイエス様は冷酷、非常識で、世間知らずのように聞こえます。父の弔いに出かけることは、当時の律法によれば、何をおいてもすべきこと、尊いこととされていました。イエス様の答えを無批判に受け入れると、本当に常識知らずのように聞こえます。もちろん、イエス様の本心はそうではありません。

私たちの勘違いは、イエス様の勧めを、私たちの必要と同じ土俵に置くことに原因があります。むしろ、イエス様の勧めは、まったく畑が違うのであって、神の国を目指して生きる喜びを知ったなら、その方向は決して失ってはならない、私たちの基本姿勢は、たとえば磁石が絶え間なく左右に揺れ動きながらも常に真北を指すように、イエスに向き、神の国を目指していなければならない、そういうことなのです。

次のような話を聞いたことがあります。ある台風の日に、教会の司祭館を激しくたたく人がいまして、何だろうと思って、開けてみると、信者さんだったそうです。「どうしたんですか?病人ですか?」と尋ねると、その信者さんはこう答えました。「神父様、教会は大丈夫ですか?心配で心配で、やって来たとです」。「自分の家は大丈夫ですか?」と聞きますと、「いや、神父様、神様の家の方が先です。私たちは神様に支えられて生きとりますけん」という答えでした。これにはさすがの神父様も、甲を脱いだそうです。

この話、私たちにも当てはめて、よく考える必要があるのではないでしょうか。「教会のことよりも、食べることの方が先」と考えるときに、どこか信仰の捉え方にズレがあるのではないでしょうか。神様に支えられて生きているという信仰を一日でも忘れたら、人間らしく生きていけないのではないでしょうか。ご飯を食べていても、それだけでは霊的には生きていないのです。最終の目的地をはっきり見定め、キリスト中心に生活を整えていきましょう。そのための・・・・・