主日の説教 1991,09,30

年間第十三主日(Mk 5:21-43)

生活と信仰

信仰は日常生活の土台

 

はじめて、この水主町教会で説教のお手伝いをします中田助祭と申します。どこでも言われることですが、「説教は短いほど良い」のだそうです。用意した原稿を練習したときは、だいたい12分くらいでした。12分あれば、十二分に話せるだろうと思います。この機会に、各人の信仰生活の土台を確かめ合いましょう。

 

今日の福音では、12という数字がとても大切な数字として登場しています。イエズス様の時代にあって、12という数字には、ある一定の意味がこめられていました。すなわち、「完全である」とか、「足りないものがない」などの、満ちみちたさまを表す数字であったと言われます。最初に登場する出血症の女性が12年ものあいだ病気に悩まされたというのは、単に長い期間というだけでなく、徹底的に、十二分に苦しんだということでもあります。イエズス様は、この女性をお救いになります。

また、当時の有力者であった会堂司の娘は、12歳になっていたと記されています。今の社会であれば12歳はまだまだ洟垂れ小僧ですが、イエズス様の時代ではすでに大人の仲間入りをする年でした。十分に成熟した娘を奪われた父親の悲しみは、容易に想像することができます。イエズス様はその深い悲しみをも癒し、救いの手をさしのべられるのです。

 

イエズス様が目を留められたこの両者には、明らかに共通する土台があります。それは、イエズス様への信仰、それも全面的で絶対的な信仰です。いいかたを変えれば、イエズス様はご自分により頼む人に十分な信仰が認められるとき、必ず報いてくださるのです。

同じことは、私たちとイエズス様の間でも成り立っています。イエズス様は、ご自分に全面的に信頼して生きようとする人に、特別に目をかけてくださいます。それは何も偉い信者ということではありません。立派な仕事で教会に貢献しているとか、すぐれた信心で一目置かれているとか、そのような結果を求めているわけではありません。あなたの生活の信念、土台について問うているのです。

 

「私の服に触れたのは誰か」。イエズス様がその人を知らないことがあるでしょうか。イエズス様があのように言われたのは、ご自分により頼むこの女性を、人々の前で賞賛するためにほかなりません。イエズス様がこの女性に目を留めるためには、彼女のかくれた業、群衆にまみれてこっそりその服に触れるという行為だけで十分でした。それ以上に、彼女の信仰が人々の中にあって注目に値するものだったからです。

また会堂司に向かって、イエズス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われます。娘の墓にはいるとき、イエズス様が「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われたことで、土地の有力者であった彼は、人々の嘲笑を浴びなければなりませんでした。けれども群衆の目には映らなかった、彼のかくれた信仰を、イエズス様は何よりもすぐれたものとして受け取られたのです。

 

信仰に土台を置いた生活について、一つの例を紹介いたします。今年、私は福岡でクルシリオに参加しましたが、ある男性の信徒から、ご自分の信仰体験を聞くことができました。その方はたくさんの友人の借金の保証人になっていたのですが、運悪くそのどれもが自分のところにまわってきたそうです。その方は次のように話してくださいました。

「みんながみんな払えなくなったと聞いたときは、目の前が真っ暗になる思いがしました。どうやって一億のお金を作り出すか、それも問題でしたが、それ以上に、自分が生きる努力をやめてしまうのではないか、それが心配でした。何もかも取り上げられ、住むところも失いましたが、幸い信仰だけは失いませんでした。生と死をつかさどっておられるイエズス様への信仰さえ失わなければ、きっと何とかなる、そう思っていました。

何が幸いしたのか、自分でも説明できません。本当に不思議なのですが、徐々に事態は好転していきました。どうやって返済したのか、説明がつかないのです。

一つだけ言えることは、自分にはもうどうしようもないところまで追いつめられて、それでも信仰は私にすべきことを教えてくれた、ということです。私にはイエズス様しか頼れる方はいない、自分の才能は全く頼りにならない、そう思ったときに、道が開けたわけです」。

 

信仰を飾りのように考えている人を、イエズス様は救おうとは思われません。信仰の土台の上に生活を築いている人、すべてを失っても、人から笑われても、イエズスさまを見失わない人を、イエズス様は救われます。イエズス様だけをより頼む人と、「社会生活で、信仰がなんになるか」と鼻で笑っている人、どちらをイエズス様は心に留められるでしょうか。人間的に考えても、答えは明かです。

 

毎日の生活の土台に、真っ先に信仰を根付かせましょう。信仰は教会に来たときだけのものではありません。そんな信仰は捨ててください。12年病気で苦しんだ女性は、信仰を認められて救われました。彼女に与えられた報いは何だったでしょうか。それは寝ても覚めても悩み苦しんでいた病からの解放でした。会堂司の信仰に対する報いは何だったでしょうか。それは、12年手塩にかけて育ててきた娘を神から返してもらうことでした。どちらも、雲の上にあるような恵みなのではありません。生きる上で最も関心のあるそのことに、イエズス様は報われたのです。同じことが、信仰を生活の土台に据えている人に約束されているのです。

 

生活の中心に、信仰を置いてください。それ以外に、私たちがイエズス様に目をかけてもらえる生き方はありません。最後の最後に、「信仰に生きてよかったね。あなたの信仰があなたを救ったんですよ」と言ってもらえる生き方ができるように、必要な恵みを、このミサの中で祈ってまいりましょう。