主日の福音 1993,06,27
年間第十三主日(MT 10:37-42)
受け入れる心
神の国へのふさわしい準備
今日の福音から、神の国に住むための心の準備について黙想してみましょう。洗礼を受けて神の子となった私たちが、イエス様の国で幸せに生きるために、どんな準備が必要なのでしょうか。
答えを見つけるために、福音から「受け入れる」という言葉を取り出して考えたいと思います。イエス様はこの言葉を繰り返し使って、誰かをふさわしく受け入れる努力をするとき、新しく始まった神の国で生活するのにふさわしい心の準備ができてくると教えます。
人は、時とともに成長し、どんどん新しくなっていきます。特に子どもの成長は、親の目を見張るものがあります。その中で親と子は、それぞれが相手から独立するという体験をしていくのですが、ここでイエス様が言われた「受け入れる」努力が求められます。親は「子離れ」しなければなりませんし、子は「親離れ」と言うのでしょうか、独立しなければならないわけです。
けれども、実際の親と子の話を聞いてみると、以外とこの体験はうまくいっていないようで、いつまでも子どもが独立できないというケースも見られるようです。どちらが離れられないのか分かりませんが、いつまでもぐずぐずして、タイミングを失っているような家庭の話も聞こえたりします。
何が足りないのでしょうか。おそらく、事実をうまく「受け入れる」ということができていないんだと思います。子どもが就職していく、結婚していく、また親がその人生をまっとうしていく、これらの大きな変化にうまくついていけずに、自分から離れていく誰かを必要以上に寂しがったりするのです。
この前、電話で次のような相談を受けました。あるお父さんが、自分の娘さんが就職しようとしているのだけれども、あまり遠くへ行かないような、いい方法はないだろうかという相談です。「そんなこと言われてでもですね、出ていくものは出ていきますよ」と言うと、「やっぱりそうですか」と言っていました。
こういう電話を受けると、イエス様の言葉が身近に感じます。「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(10:37)。子どもの成長に、親がついて行っていないわけです。もっと言うと、すでに神様がこの子に新しい生き方の招きをしているのに、親がそれに気づかず、子どもの変化を受け入れることができていないのです。
ほかにもあります。召命を感じて神学校や志願院に行った子供と親の間で、たとえば私たちが神学生だった頃にはとても考えられなかったことがたまに起きています。神学校生活も楽しいことばかりではないですが、つらいと思ったとき、その子は最終的に親に相談して、そのあとが問題なんですが、電話などでこう話すことがあるそうです。「お母さん、帰りたい」。
ご両親はどんなふうに答えたと思いますか。「なんば言いよっとか、それくらいのことで!」と思いますか。それとも、「そんなにつらいの。そう、それなら帰っておいで」と答えたと思いますか。わたしが神学生の時代だったら、例外なく「なんば言いよっとか」とか「帰ってこんでもよか」と言ってくれたのですが、最近はそう言ってくれないケースもあるそうです。
もう一度考えてほしいと思います。せっかく神様の呼びかけを聞いて、広い海に飛び出したばかりの子どもを、本当に受け入れるとは、どういう態度をとることでしょうか。「そんなにつらいところなら」では、誰でも挫けてしまいます。神学生を神学生として受け入れる努力がほしいわけです。そうすると、そのときはつらい思いをするかも知れませんが、報いは大きいと思います。
入って早々は、誰でも家が恋しくて、大なり小なりそんなことを思うんですが、それをうまく乗り越えるためには、親は子を立派に受け入れる必要がありますし、子は子で、自分を送り出してくれた親を立派に受け入れる努力が必要です。どちらもそこに、神の働きかけ、新しい生き方への招きをしっかりとらえて、ふさわしい態度をとってほしいのです。
「神様の願いもわからんでもないですが、でも子どももかわいい」。神様を愛することと、子どもを愛することは両立します。イエス様の招きを子どもにしっかりと見いだして、それを見失わないようにするなら、イエス様より子どもを愛すると言って、逆に子どものためにはどうかと思うような結果になることはありません。
こうして、一人ひとりが神様に招かれた姿を見極め、その中で愛するとき、神の国に住むにふさわしい心が準備されていきます。この子の将来を「受け入れる」、父母を離れ、二人が出会って結婚する瞬間を「受け入れる」それぞれの場面で、イエス様の望みを見るか、見ないかを試されます。
イエス様に招かれていく姿を「受け入れ」、イエス様が用意している大きな報いに与れるよう、ミサの中で祈ってまいりましょう。