主日の説教 1991,06,23

年間第十二主日(Mk 4:35-41)

必要な物差し

徹底した信仰の物差し

 

今日の福音でマルコは、弟子たちを辛抱強く教え導かれるイエズス様を描き出しています。同時に、イエズス様のことをなかなか理解してくれない弟子たちについても描いています。対照的な両者を、一つの舟に乗せることで、マルコはあることを教えようとしています。この点について少し考えてみましょう。

はじめに、イエズス様の動作に注目しましょう。イエズス様は率先して弟子たちをさそい、舟に乗られます。舟の中では弟子たちの動揺には気付いていないかのように眠っておられます。最後は、権威ある言葉をもって、あらしを静められました。イエズス様はこれら一つひとつの振る舞いを通して、弟子たちを徹底的に教育されます。

イエズス様は、弟子たちに何を教えられるのでしょうか。それは弟子としていちばん大切なこと、いつも忘れてはならないことです。すなわちご自分が神であること、また、ご自分が子としておん父に絶対の信頼を寄せているように、ご自分に全幅の信頼を寄せなければならないということです。イエズス様が弟子たちに示そうと望まれたことは、このようなことでした。

ところで弟子たちは、イエズス様のこのような期待もむなしく、目に見える出来事に気を取られ、自分たちが神様であるイエズス様といっしょにいることをすっかり忘れてしまっています。体はイエズス様といっしょでしたが、心はイエズス様から遠く離れていたのです。弟子たちはぎりぎりの選択を迫られて、イエズス様を見失い、頼りにならない自分たちの判断にしがみついてしまったのです。

イエズス様はただご自分が眠りたくて、枕を高くして眠っておられるのでしょうか。どうも弟子たちはそのように考えたようです。イエズス様の姿は、おん父への信頼を象徴的に示していました。弟子たちにはそれがわかりませんでした。わからなかったのは弟子たちだけでしょうか。実は、この西新教会という舟に乗っている私たちも、耐えられないような困難に直面する時、同じように、「イエズス様は私たちに背を向けておられる」と、しばしば決め込んでしまうのです。

もちろん、弟子たちがあのような心配をし、イエズス様に注意を呼びかけるからには、それだけの理由がありました。弟子たちの中には、プロの漁師がいました。ガリラヤ湖のあらしがどれほど危険かは、少なくとも大工のイエズス様よりは知っていたでしょう。確かに危険だったのです。けれどもイエズス様が彼らに求めたのは、「漁師としての」態度ではなく、「弟子として」必要な態度だったのです。「今、自分たちは神様といっしょにいる」「神様に希望をおいているから、決して見捨てられることはない」そう考えてほしかったのです。

これは、言い方をかえれば、「自分の物差しで物事をはからず、信仰の物差しではかる」ということです。キリスト信者として生活する上で、「わたしの物差し」にはしばしば微妙な狂いがあります。ほんの少しですが、自分に都合のいいようにできているのです。「自愛心」というちょっとしたズレがあるのです。

わたしは、ある神学生から、いちばん思い出に残っていることについて聞いたことがあります。彼は、本気で神学校をやめかけたときのことを話してくれました。この神学生は、割合順調に召命の道を歩み続けていましたが、高校三年生のときに大きな壁にぶつかりました。「自分は勉強が好きで、教える人になりたい。今はこうして勉強させてもらっているけれども、いつまでも周囲をだまし続けることはできない。今こそ自分にも周囲にも正直になって、別の道を歩もう。」

彼は慎重に考え、考えたことを校長神父様に言いました。実に説得的に、また正直に話しましたので、神父様は「そこまで言うのなら、帰って両親と相談してきなさい」とおっしゃいました。両親のところへ戻っても、彼は同じように、なかば自身たっぷりに、神学校をやめたい理由を説明したそうです。

誰もが、「そうね。それなら、仕方がないね」と納得してくれました。「よく頑張ったね」と慰めてもくれました。けれども一人だけ、みんなと違う考えをもっていた人がいました。彼のお父さんでした。お父さんは黙って何も言わなかったのですが、突然、涙を流しはじめました。男泣きと言うのでしょうか、とめどもなく涙が流れます。彼ははじめて、父親が泣くのを見たそうです。

二三日して、その神学生は父親と一緒に神学校に帰ってきました。もう一度、やり直したいと言うのです。内心は不本意だったそうですが、当時のことを振り返って、次のように話してくれました。「親父はそれこそ何も言わなかった。ただ泣いただけだった。『誰が泣きおどしにかかるか』そう思っていた。けれども後で考えてみて、親父はきっと、自分が見失いかけていた大切なものを、なんとかして教えようとしていたんだろうな、そう思った。」わたしはそれを聞いて、「いいお父さんだね」と返事をしたところ、彼も「自分もそう思う」と答えてくれました。

ときおり、わたしたちも、キリスト信者として見失ってはいけないもの、忘れてはならないものを、つい見失い、忘れてしまいます。わたしたちはつい、「自分の物差し」を判断の基準にしてしまうのです。たとえば教会委員会も、あるとき大揺れに揺れることがあるでしょう。けれどもこの委員会を乗せた舟を導くのはイエズス様であって、決してメンバー一人ひとりではありません。わたしの考えが委員会を救うのでしょうか。決してそんなことはありません。

あるいは、家庭という、この小さな共同体を教え導くのは誰でしょうか。お父さんですか。その答えでは不十分だと思います。家庭を導くのはイエズス様です。お父さんはイエズス様の代理として、家庭を導くのです。教会委員会、婦人会、家庭、そのほかどのような舟に乗っているにせよ、私たちは、いつも共におられるイエズス様に全幅の信頼を置いて生活すべきです。いつもイエズス様に聞いてほしいのです。イエズス様だけが、嵐を静めるのだからです。

ごくごく簡単な例を申します。この聖堂は名実ともにイエズス様がおられる舟です。この聖堂が騒がしくなるのはなぜでしょうか。この聖堂での振る舞いを、「あなたの物差しで」はかっているからではないでしょうか。もし、もしもそうでしたら、無条件にそのものさしを捨てて、イエズス様に場所を譲ってください。

今日、イエズス様は「弟子としての態度」をわたしたちに求めます。わたしたちがいつも信仰の物差しで物事を判断できるよう、ミサの中で祈りましょう。