主日の福音 1993,06,20

年間第十二主日(MT 10:26-33)

恐れ

人間にふさわしい恐れと警戒すべき恐れ

 

 今日の福音でイエス様は、人間の「恐れ」という感情に触れて、人間にふさわしい恐れと、警戒しなければならない恐れについて教えてくださいます。特に今週一週間を振り返りながら、人間の感情を整えてくださるイエス様の声に、耳を傾けましょう。

 

 今日読まれた箇所は、イエス様が弟子たちを力強く送り出す言葉のあとに続く箇所です。「わたしがいつも後ろ盾するから、勇気を持って宣教に出かけなさい」と仰った直後の言葉です。

 その中で、イエス様は三度「恐れてはならない」と仰います。「人々を恐れてはならない」「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」「だから、恐れるな」。自分たちの信仰に正直であるために、人様の目や、噂や、反応を気にしてはならない、むしろ遠慮なく信仰を態度に表しなさいと勧めます。

 

 そう言われて、多少身につまされる思いをしている人もいるかも知れません。信仰を言い表すのをためらわせる理由など、簡単に見つけることができるからです。「間違っているんじゃないだろうか」「こんなことを言って笑われるんじゃないだろうか」たぶん、もっとたいそうな言い回しができるかも知れません。そんな、独りよがりの殻から、私たちを自由にするために、イエス様は繰り返し、「恐れてはならない」と念を押されるのです。

 イエス様が注意しなさいと仰るこの「恐れ」を、私たちはどれくらい警戒しているでしょうか。神様の言葉は、世界中の隅々にまで広がる力を持っているのに(2テモテ 2:9)、わたしのちょっとした躊躇いで、みことばが繋がれたままになってしまうということを、考えたことはあるでしょうか。

 

 もちろん、イエス様は言うべきことを言うだけで、私たちを放っておかれる方ではありません。「イエス様の勧めは分かるけれど、けどね」と二の足を踏んでしまう私たちに、勇気づける言葉もかけてくださいます。イエス様に励まされてなお、私たちにためらう理由があるのでしょうか。

 

 「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなた方の父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(6:29)。取り立てて珍しい鳥でもない雀、その雀が空を申し訳程度に飛ぶことにさえも、神様は「さあ、飛んでごらん。おや、上手だね」と声をかけてくださっているのです。

 まして私たちが、とうとい福音を伝えるときに、言葉がつたないとか、十分理解できてないとか、要領が悪いとか、そんなことは神様の目には留まらないのです。むしろ、つたないと思っている言葉が誰かのもとに届けられるとき、イエス様はあなたのことを心から喜んでくださり、「よくやった。賢い忠実な者よ」(マタイ 25:21参照)と声をかけてくださるのです。

 

 わたしはつい昨日まで、大型自動車の免許を取りに、自動車学校に通っていたのですが、「恐れるな」という言葉が、今になって本当にありがたく聞こえてきます。

 大型の免許は、普通車の免許を取って、少なくとも三年すぎていなければ取ることができません。すでに普通車の免許を持っているわけですから、一般的なことは分かっているものとして扱われます。ですから、「エンジンはこうしてかけるけん。そんなら走ってみろ」「安全確認もできんとか。おまえはほんとで免許ば持っとっとか」などと、さらりと聞き流すにはちょっとつらい感じがしました。

 「仕事は何ばしよっとね」と聞かれて、「教会の神父です」と答えたら、本当に珍しそうに、教会のこと、司祭の務めについて、運転とは全く関係ないことばかり尋ねられました。こんな時はいつもそうですが、「なにも知らない人に言ってもね」という気持ちが、ちらっと頭をよぎります。本当に興味があって聞いていると言うより、時間を持て余さないための話の種くらいで尋ねていることが多いからです。それが分かっているときは、やっぱり躊躇ってしまいます。

 

 けれども、練習がだいぶ進んで、先生にブレーキを踏まれることもなくなったある時、とにかく分かるところだけでも話しておいて良かったと思った出来事がありました。練習時間が終わって、車から降りたとき、先生がわたしの肩をたたいて、こんなふうに言ったのです。「中田君、中田君はもう27やろ。そろそろ結婚ば考えんばね」。

 おそらく、「そうですねぇ。誰かいませんかね」と、適当に相槌を打っても、その方は何も不思議がらなかったと思うのですが、すぐ口をついて出たのは、「先生、カトリックの神父は結婚せんとですよ」という答えでした。それがきっかけで、その教官は教会の制度の面や、教えや、自分が抱いている印象など、自由に意見を交わせるようになりました。恐れず、ためらわずに信仰を表すとき、神様はそれがどんなにつたなくても、神様の方で何とかしてくれるのかな、という思いをもちました。

 

 ヨハネ福音記者によれば、私たちにとってもっともすばらしい報いは、イエス様から「友」と呼ばれることとされています。今日のマタイも、それに通じる言葉を残しています。「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」(v.32)。イエスの友なら、イエス様がそばにいて喜んでくれるような言葉を使うはずです。わたしの口は、「イエス様を知っている」(v.33)者の口でしょうか。もう一度思い返しましょう。

 正直に、過ぎた一週間を振り返り、改めるべき点と、伸ばしていける点を確かめ、これからの一週間が実り豊かなものであるよう、恵みを願いましょう。