主日の福音1993,02,21

年間第七主日(MT 5:38-48)

神の愛

愛の深みを垣間見よう

今日の福音から、神様がもっておられる愛の深みと、人を愛するということのすばらしさを見ることができます。特に、人を愛することのすばらしさを考えながら、それを頼りに、神様の愛の深みを垣間みることにいたしましょう。

 

一定の相手に自分の愛情を表現することは、人間に限らず、生き物の中で自然にみられる姿です。それは神様が生き物すべてに備えてくださったお恵みだと思います。

 

ところで、人間に備えてくださった愛、愛するという能力は、他のどの生き物よりもすばらしい才能を秘めています。すなわち人間の愛は「無限に愛することができる」ということです。「いくら何でも、そんなところに愛を示すことはできないだろう」そう思うような場面、そんな相手にも、愛を示すことができるのです。人間はこの点で、「神業」とも思える力を発揮していきます。

 

例えば、人は創り主を敬い、愛する知恵を授けられています。それはしばしば、祈りという形で現れるのですが、よく考えると、わたしたちは、愛するなんて及びもつかない方を、敬い、愛しているのです。それは神様がわたしたちに与えてくださった、愛のすばらしい力だと思います。

 

そこで、人を愛するということに目を向けましょう。わたしたちに備わった愛する力が、本当に無限の可能性を秘めているのなら、「あんな人は愛せない」「あいつは許せない」と言うときの「あんな人」「あいつ」をも、実は愛することができるのではないでしょうか。

 

「あいつだけは何があっても許せない」。この人間感情の上の物差しを乗り越えたところにこそ、キリストが本当に言おうとしている神様の愛、人を愛することのすばらしさがあるのです。

 

わたしは映画などで感動的なシーンを見たりすると、すぐに涙が出たりするのですが、中学生頃に見た「典子はいま」という映画のときも、終わってしばらくは映画館から出られませんでした。

 

主人公は「典子」という女の子で、生まれたときから両腕が全くないというハンディを背負っていました。その女の子が本当に生き生きと社会の荒波を渡っていくという映画で、モデルになった方もいま生きておられます。

 

彼女はひょんなことから、自分の才能に目覚め、母親からそれを育ててもらうことになりました。あるときお母さんが財布を開いたところ、五円玉が畳に転がりました。典子はその転がった五円玉を、さっと足の指で捕まえました。それを見た母親が、「これはいける」と思って、典子の才能を掘り起こすことになります。その努力が実って、他の人が手でできることは何でも、例えば針の穴に糸を通すことも、できるようになりました。

 

大人になってからは、とても無理だろうと思われた車の免許を取り、これまた無理だろうと思われる公務員試験を見事通過して、実際に職員として採用されました。映画の最後を締めくくるシーンは、夏の広々とした海の上に、小舟に乗って潮の香りを味わっている場面です。一人の青年が海に飛び込みました。高校生くらいの典子は、それを見てこう言います。「わたしも泳ぐ」。そう言うが早いか、彼女は海に飛び込み、足を上手にバタつかせて泳ぎます。それをいつまでも空の上からカメラマンが追い続けるというところで終わります。

 

この映画の主人公は、人が人を愛するということのすばらしさを教えてくれます。誰かが、わたしの両手を奪ったかも知れない。それは公害かも知れないし、環境破壊かも知れない。けれどもそれらの「敵」を憎むのではなく、むしろ自分を本当にいつくしむことで、自分から多くのものを奪い去った「敵」を乗り越えたのでした。母親も、はじめは「この子は生きられるだろうか。どうしてこの子だけ不幸なのか」。そうつぶやいて誰とも知れぬ「敵」を憎んでいたのでした。

 

それでも主人公典子は、最終的には母から、自分を愛することを教えてもらったのでした。報いの期待できない愛の旅を始めることにしました。愛しても、両腕が戻ってくるわけではありません。生活が補償されるわけでもありません。けれどもその姿は、見る人に愛することのすばらしさ、感動を与えてくれたのです。

 

本来あるべき両腕を失った姿を憎むこともできました。自分を憎み、その遠い原因となった社会を憎むこともできました。けれども彼女は、人間に与えられた愛の無限の可能性に賭けたのだと思います。それによって、イエス様が仰られた「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というみことばを生きたのだと思います。

 

あれから一度も、同じ映画には巡り会いませんが、いつまでもその時の印象は忘れられません。人は、考えられないような状況の中でも、愛することのすばらしさを体験できるんだ。敵がどんなに大きくても、理不尽でも、神様が人間に与えた無限の可能性に賭けることができるんだ、ということです。

 

決して愛し返さない敵を愛するところまで、自分の愛を広げるならば、その無限の愛に神が応えてくださいます。それはアレルヤ唱でわたしたちが歌った通りです。「キリストのことばを守るなら、神の愛はその人のうちに全うされる」。