主日の福音 1993,02,07

年間第五主日(MT 5:13-16)

信徒使徒職

もう一度信仰を奮い立たせよう

 

はじめに、イエスさまが呼びかけておられる弟子たちの側に、自分を置いてみましょう。イエスさまはこう呼びかけておられます。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。このイエスさまの呼びかけに耳を傾けるために、私たちはイエスさまとしっかり向かい合っている自分を想像する必要があります。

 

イエスさまは「彼らは地の塩である」とは言いません。ズバリ「あなたがたは地の塩である」と言っています。一人ひとり、直接呼びかけられている自分、イエスさまから大切にされている自分を、まずは思い浮かべましょう。それが、今日のイエスさまの呼びかけを理解するいちばん大切な鍵だと思います。

 

自分を振り返って、これといった味も持っていないと感じている方もいると思います。人様に味付けをするどころか、かえって、誰か立派な人から塩味をつけてもらいたいと考えている人もいるでしょう。

ですがもう少し詳しく見てみると、イエス様の呼びかけは、やっぱり私たちも含まれているようです。というのは、イエス様が「地の塩、世の光」と言っている人々は、先週の福音で幸いな人と呼ばれた、「心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人……」だからです。

 

人の悲しみに同情できる人、困っている人を見て憐れみの情をかき立てられる人は、イエス様から「地の塩、世の光である」と呼ばれています。もっと言えば、イエス様のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられている人さえも(v.11)、「あなたがたは地の塩、世の光なんだよ」と呼んでいるのです。

 

そこで、「地の塩」「世の光」とは何だろうかということになります。今日は特に、塩を考えてみましょう。塩は、たいてい味付けと保存、それと清めのために使われます。料理などでも、味付けは「サシスセソ」、つまり砂糖・塩・酢・醤油・ソースの順だといわれます。味付けのために大切なものの一つです。

もちろん料理のことをイエス様は言っているわけではないので、「何に」味付けをするのか、「どこで」塩の役割を期待されているのかを考えなければなりません。それは地上、この生きている社会、日常生活ということになります。使徒職を暗に言っているとも考えられます。それぞれが置かれている「場所」「環境」で、信仰があるから毎日が生き生きとしているというところを示すよう期待しているのです。

 

その際、塩の使われ方を注意深く見ると役立ちます。味付けのとき、塩はどっさりいれるものではありません。塩の塊の入った卵焼きは、誰だって食べたくありません。塩はちょっぴり使われる、ちょっぴりの塩が全体を引き締める。ここを見逃す手はありません。

 

私たちが住んでいる場所、環境は、ちょうどこの塩の特徴が表れていると思います。アパートの中で、同じ信仰をもっている人はそう多くないと思います。会社の中で、同僚の何人がカトリックの信者でしょうか。ごくわずかだと思います。この事実は、イエス様がおっしゃった「塩」の特徴を、それぞれの立場で理解させてくれます。

大勢のイエス様を知らない人の中で、神様から与えられている信仰を表すこと。それは、本当に大きな効果があります。例えば、弁当を開いて食べるときに、食前の祈りを努めてすること。これは場所によっては多くの人に塩味を感じさせることになります。

 

会社で、食前の祈りをしたとしましょう。いままでとはひと味違った味わいで弁当を食べることができると思います。効果はそれだけではありません。同僚は、見ないふりをして見ると思います。するとその人も、何気なく食べていたこの弁当は、愛妻の真心だけでなくて、神様の贈り物なんだということを、少しずつ理解するのではないでしょうか。

また、味付けの塩は、全体になじまなければなりません。一人二人があなたのふった塩で塩味を感じたとしても、それは全体からするとまだ不十分です。それはまるで私が作った卵焼きのようなもので、あるところは味がなくて、あるところは塩の塊があるといった、未完成品なのです。全体がなじむまで、何度も繰り返す努力。イエス様は最終的にこのことを望んでおられると思います。

 

「世の光」というたとえも、私たちの身の振り方を教えてくれます。ある人は、「あまりむきにならなくても、心の中で信じていればいいのでは」と考えることもあるでしょう。けれどもイエス様の言葉は、こんな態度に留まるべきではないと教えています。「山の上にある町は、隠れることができない」。私たちの信仰は、良きにつけ悪しきにつけ、隠れることができないのです。

 

それなら、健康的な考え方を育てましょう。「隠そうとしても隠れることのできない信仰なら、恥ずかしがらずに信仰に生きよう。信仰が、私のいちばん深いところを生かしていることを、みんなの前で示そう」。こんな考え方を育てることです。信仰を得た人が、信仰のない人の姿に留まることはできません。光は、自分では隠しているつもりでも洩れています。

誰かが、あなたの信仰を認めています。生きた信仰を取り戻しましょう。そのための恵みを、ミサの中で祈ってまいりましょう。