主日の福音1993,01,31

年間第四主日(MT 5:1-12a)

幸いなるかな!

神があなたに報いてくださる

 

今日、イエスさまは群集を見て、山に登られ、神のことばを解きあかされます。この小高い丘に上り、静かに神のことばに耳を傾けている私たちも、実はイエスさまが眺められた「群集」に含まれていると思います。そこで、神が語られる幸いに心を開き、私たちの生活に取り入れるすべを学ぶことにいたしましょう。

 

福音を黙想するにあたって、一つの線を出してみたいと思います。その上で、マタイが九つ書き残した幸いから、いくつかを取り上げ、具体的に考えることにいたしましょう。

基本線として示したいのは、人は、それぞれに備わっている人間的行い、人間的態度を通して、神の国の幸いをかち取ることができるということです。何か並外れた行いがないと神の国の幸いにいたることができないというのではなく、人間に備わっている態度を十分に生かしきるとき、私たちはすでに神だけがもっておられる宝に与れるということです。

 

人はそれぞれ、神様に与えられた才能があって、それをまっすぐに伸ばすとき、イエスさまの語られる幸いな人のどれかに当てはまると気付きます。ある人は、人間の悲しみに敏感です。ある人はやさしさ、憐れみの感情にすぐれています。ある人は正義感に強く心引かれます。

人が心洗われるような心の持ち主がいます。社会正義、平和のための活動に心のはやる人もいます。心をまっすぐに見つめて、自分にある良い面を率直に認めるとき、イエスさまの呼びかけは、とても身近なもの、私たち一人ひとりに呼びかけているものだと分かると思います。

 

このような、一人ひとりに備わっている良い面を生活に発揮するとき、神様だけが完全にもっておられるもの、天の国だとか、慰めだとか、神の子とする力、あるいは真の報いが私たちのものとなるのです。ですからイエスさまが呼びかける幸いは、私たちの持っているものの中に、いくらかずつ含まれているわけです。要は、それを如何なく発揮すること、心に妨げをおかずに、もって生まれた良い面に、自分自身が素直になることではないでしょうか。

 

持って生まれたものに素直になれる時期は、まず何と言っても子供時代だと思います。そこで私が出会った子供たちの体験から、例を引きたいと思います。

心のやさしさにじかに触れると、どんな人でも自分自身が洗われる気がするものです。ある教会の大神学生から、一つの話を聞きました。あるおじいちゃんの孫にあたる子供が、教会の主任神父様の所に行って、お年玉を手渡しました。どれだけあったのか知りませんが、それを元手に、こう言ったそうです。

 

「神父様、よかか、こいでミサばあげてくれろ。じいちゃんの足の悪かけん、治るごと。頼むせんよ」。そばにいた賄いさんはおかしくてたまらなかったそうですが、神父様は真剣に「よしよし。いついつたてるけんの」と答えたそうです。やさしさにあふれるこのお孫さんに、神様がその報いをお返ししないはずがありません。

 

なんとも美しい話しだなーと思って聞かせてもらったのですが、何と私のもとにも、似たような子供がまいりました。司祭館の玄関に、封筒を持って子供が立っています。「お兄ちゃんが立派な神父様になりますように」という意向で、ミサを頼みに来たのでした。

封筒は、中を見るまでもありません。「チャリンチャリン」と音がします。どう考えても子供の小遣いの範囲内です。けれども、私の心を打つには十分な額でした。神様の心を打つにも、きっと十分だったのではないでしょうか。

 

実はこの出来事には後日談がありまして、受付のシスターの話では、はじめ私がいないときにその子供が持ってきまして、その時こんな話をシスターにしたのだそうです。

「ここに来る前に、お母さんと相談したとさね。こいで神父様はミサばしてくれるやろうかって。そしたらお母さんがね、『大丈夫さ、これだけあれば、大人なら大きかお金と同じだけの価値があるさ』って言ってくれたとさね」。このお母さんも立派なお母さんですが、やはり子供のこの気遣いがあったと分かると、なおのことうれしくなりまして、いい子に育つだろうなぁ、などと考えている次第です。

 

ついでになりますが、この子は最近、またもミサの依頼をしにきました。ここにその、実物の封筒があるのですが、皆さんによく聞いていただきたいような意向でした。こう書いています。「川添神父様の目が、早く良くなりますように」。イエスさまの次の言葉が聞こえてくるようです。「憐れみ深い人は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」(MT 5:7)。

 

最後に、今日の第二朗読の言葉をもって、まとめたいと思います。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」。

神からの報いを得るため、人間が自慢するあれこれを追い求めるよりも、神の誇りとなるものを一人ひとり伸ばすように、努力いたしましょう。そのための恵みを、続けて祈ってまいりましょう。