主日の福音1993,01,24
年間第三主日(MT 4:12-23)
主の呼びかけ
−−全責任を持っての呼びかけ−−
「皆さん、知らない人について行ってはいけません」。そんなこと、誰だって知っていることです。小さい子どもさんは、お父さんやお母さん、学校の先生からいつも言われているでしょうし、大人ならそれを子どもにきつく言い聞かせているでしょうから、本当に、誰でも知っていることです。
知らない人についていくと、その時はとても楽しいかも知れないけれど、あとで考えると大変なことになります。おうちに帰れません。お父さんお母さんは心配します。学校の先生も、お友達も、みんな心配します。お菓子やおもちゃをたくさんもらえるかも知れないけど、連れて行かれたところには、自分の知っている人は誰もいないのです。こんなに窮屈なことはありませんね。
だから子どもさんは良く知っています。「知らない人について行ってはいけないんだ」。お菓子をたくさんあげると言われても、大きなお人形さんをあげるよと言われても、ついて行ってはいけないんです。
ところで、今日神父様が読んだお話をもう一度思い出してみましょう。イエスさまが湖のほとりを歩いていたとき、ペトロとアンデレを見つけて、こう言いました。「私について来なさい」。さあ、大変です。ペトロとアンデレは、知らない人に声をかけられました。ついて行っていいのかなぁ。
イエスさまは、二人連れて行っただけではありません。そのあと別の二人にも声をかけました。ヤコブとヨハネです。いいのかなぁ、いいのかなぁ。知らない人について行って、いいのかなぁ。
皆さん、本当に不思議だと思いませんか。二組の兄弟が、あんまり見たこともない人に、すぐについて行きました。この兄弟というのは何でも自分で考え、自分で答えを出せる大人の人です。中には、結婚している人もいました。子どもがいたかも知れないんですよ。どうして知らない人について行くの?子どものほうがよく知っています。「知らない人について行ってはいけないんだぞ」。
イエスさまはいけない人ですね。声をかけて四人の人を連れて行ってしまって。ヤコブとヨハネのお父さんは心配しているんじゃないですか?ペトロの家族は、お父さんが帰ってこないから、心配しているんじゃないですか。お父さんがいなくなったら、お給料を持って帰ることができなくなりますよ。本当に連れて行って良かったんですか?皆さんも、そう思いませんか。
イエスさまは何と答えるでしょう。どんな顔をなさるでしょう。きっと、「なかなかきついことを言う人だなぁ」と言って、苦笑いをすると思います。今日は思いきって、イエスさまに聞いてみましょう。そんなに何人も知らない人を連れて行ったら、たくさんの人が困ってしまいませんか。
イエスさまの言葉をよく耳を澄まして聞いてみましょう。「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」。ペトロとアンデレが呼ばれたのは、今までも漁師だったけれども、今度も漁師になることでした。前はお魚をとる漁師、今度は人間をとる漁師です。
二人は、漁師の仕事で今まで暮らしを守ってきました。きっとイエスさまが呼んでくださった漁師の仕事も、暮らしを守る何かを持っているし、その上もっと大きな実りがある。ペトロとアンデレは、そのことに気付いたのだと思います。二人にもちょっぴり心配はあったと思うけれども、イエスさまが今度も漁師にすると言ってくれたときに、この方は、私たちの心配もよく知っておられる方なんだ、だったら安心してついて行ける、と考えたことでしょう。
知らない人には、確かについて行ってはいけません。けれどもイエスさまの呼びかけを聞いたとき、四人の人は気付いたのだと思います。「イエスさまは、自分たちの目ではあまり見たことがなかったけれども、イエスさまのほうは私たちをよく知っている方だったんだ。心の中にある私たちの悩み、心配もよく知っておられて、見知らぬ人としてではなくて、友達として私に声をかけてくれたんだ」ということです。
心の中まで、すみずみまでよく知っておられる方だったら、安心してついて行くことができます。お父さん、お母さんみたいな人ですから。おじいちゃん、おばあちゃんみたいな人ですから。まわりの人も、「あ、イエスさまについて行ったんだったら心配ない」と言ってくださいます。そのあとの留守番も、「大丈夫かな、どこにいるのかな」と考えないでいいわけです。イエスさまが責任を持ってくださいますから。イエスさまが呼んでくださったということは、他のことにもめんどうを見てくださるということですから。
皆さん、皆さんもイエスさまの呼びかけが今私に響いていないか、耳を澄ましてみましょう。知らない人にはついて行く必要はありません。でも、イエスさまは他の誰よりも私のことをよく知っておられる方です。そのあとのことがどうなるかも、ちゃんと考えてくださる方です。私を呼ぶ声が聞こえたら、今日のペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネのように、「すぐに」従う用意をしておきましょう。それは「神父様になりませんか、シスターになりませんか」という声かも知れません。