主日の福音1993,01,17

年間第二主日(JN 01:29-34)

召命

−−演繹と帰納の二つの道−−

 

今日は洗礼者ヨハネの姿から、信仰を証しする生活について模範を得たいと思います。またそこから、模範を一人ひとりの立場に当てはめて、実行していく方法についても考えてみましょう。

 

ただ今朗読された福音には、洗礼者ヨハネをとりまく二つの動きが描かれています。一つは、神様に任せられた務めを、イエス様がやって来ることではっきりと確かめていくという動き。もう一つは、任せられた務めを通して、「確かに私は神様を証しすることができる」と、行いの中で理解していく動きです。

二つの動きは、高さを使って表すこともできます。イエス様がヨハネのもとにやって来られます。これは、「上から下への動き」です。洗礼者ヨハネにとって、この方は、自分が身をかがめ、履き物をお脱がせするのもはばかられる方です。イエス様がやって来て、任せられた使命がこの方に先駆けてのものだったと分かりました。身分の高い方が、自らを低い者と自覚している人間のもとにおいでになる。ここには、「上から下への動き」があります。

 

次に、洗礼者ヨハネが使命を忠実に果たす様子は、「下から上への動き」で表すことができます。彼は、「自分はメシアではない」(Jn 1:20)と何度も答えながら、自分にできることを精一杯果たしてきました。そしてつとめて、「あの方が栄え、私が衰えるよう」(Jn 3:30参照)活動します。人々はその模範を通して、「あとからこられる方」(Jn 1:27参照)への準備をしていったのでした。

この結果、人々は洗礼者の姿に引かれただけにとどまらずに、洗礼者の本当のねらい通り、もっと高いものへ目を向けることができるようになりました。これがすなわち「下から上への動き」だったわけです。回心の呼びかけに答えることで、真の意味で回心を呼びかけておられる神へと心を向けることができた。ヨハネが生活で模範を示し、人々がそこから実際に汲み取っていた「下から、上へ」という動きが、こうして実際のものとなりました。

 

洗礼者と関わった人々、荒れ野へ足を運んだ多くの人が、この「上から下へ」という動き、そして「下から、上へ」という動きを体験したことでしょう。神が、一人ひとりに任せようとしておられる使命を携えて、悔い改めの洗礼を受けるすべての人のもとへ来られます。そして洗礼を受けて、神がゆだねようとしている使命が、私の生活の中で身を結んでいく性質のものであることを、洗礼者の口を借りて教えられていきます。

 

実は、「上から下へ」という動きに始まり、「下から、上へ」という動きで完成する神様の呼びかけは、洗礼者ヨハネにおいてだけ実を結ぶのではありません。生活の中に証しを取り入れようとするすべての人に、その恵みは与えられます。証しする力を真剣に求める人には、必ず与えられる恵みと言ってもよいと思います。

 

一つの例を申し上げましょう。1月15日は成人の日でした。この日、私は、大神学校時代に同級生だった方の司祭叙階式に与るために、福岡に出かけました。「いよいよだなぁ」という思いを胸に抱きながら、司教座聖堂である大名町教会へと急ぎました。

私自身の体験から推して考えると、やはり直前は緊張して、どんなに笑顔を作ろうとしても作り笑いになるところがあったと思いますが、その点は彼の場合も同じでした。「そんなに緊張してもいっしょって」そう言いたいのをこらえて、あえて先輩面はしないことにしました。

叙階式の中心部に移り、司教様の呼びかけに一つずつていねいに答えるさまを見ながら、幾らか気の小さいところがあった彼が、この何ヵ月かの間にどれだけ変わったかが分かるようでした。私は、彼の所に一歩一歩近づいてこられるイエスさまの姿が見えるような気さえしました。そして自分の使命を自覚し、自分の持っている才能で、これからの生活の中に司祭職を取り入れ、実を結ばせようという意気込みが、はっきりと伝わってきました。

司祭に叙階されたばかりの席で、彼は次のようなことをお話ししてくださいました。

「私はこの日に向けての一週間の連続黙想の中で、奉仕ということについて考えてみました。その中で、司祭として奉仕するには、あまりにも不足や欠点が多いということに気付かされました。それは大きな壁となって立ちはだかりましたが、あるイエスさまの姿が私に近く思えたときに、その不安から解放されました。

聖書の中でイエスさまは、病に倒れている人、生まれつきのハンディを背負っている人をいやし、慰め、力づけておられます。私にはいやしの力はありません。ですが、弱さをもっている者として、病の人を思いやることができます。小さい人、弱い立場にある人を励ますことができます。私は、そのような小さい人のためにお世話をするために、神様から司祭職の恵みをいただいたのだと思います」。

新司祭の言葉は、飾らず、小細工がなく、私自身うらやましいと思うくらい、真実味に溢れていました。自分の性格、実際の生活を見つめて、その中から神様の呼びかけに答えるための何かをつかんでいく。それができるということを、彼は立派に証明してくださったと思います。

 

私たちも、生活の中に証しを取り入れることにいたしましょう。神様が近づき、使命を自覚させる場は、どこか遠くにあるのではなくて、あなたが生活の根をはっている、今の生活の場です。そこにふんだんに用意されている材料があります。上手に使って、証しに役立てましょう。そのための恵みを、今日のミサの中で祈り求めましょう。