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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/02/12(No.575)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第6主日
(マルコ1:40-45)
イエスに触れた人は、清められる
‥‥‥†‥‥‥‥

本原教会に、同じ郷里の戸村神父さまという先輩がおられます。本原教会はフラ
ンシスコ会が担当している教会です。先週の月曜日、本原教会の朝のミサに参加
しました。先輩神父さまを初め、4人で共同ミサをささげました。

その日、2月6日は聖アガタの記念日でした。ミサ中、先輩司祭とのつながりを思
い出していました。中学・高校時代もよく本原教会に顔を出していましたが、特
に大学生の時代にかわいがってもらいました。

聖アガタの、「アガタ」とは、「よいもの」という意味があるそうです。創世記
に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良
かった。」(創世記1・31)とありますが、殉教者アガタも、ご自身を神への純
粋なささげもとのなさって、「よいもの」となられました。

戸村神父さまも、同郷のわたしを、いつも「よいもの」として扱って下さいまし
た。大学の夏のスクーリングで、休暇になると当時栃木県の松が峰教会に赴任し
ていた神父さまのところに転がり込み、ご飯をご馳走になり、観光名所の日光に
連れて行ってもらったりしました。

よく考えるとわたしは教区の神学生だったので、どれだけかわいがってもらって
もフランシスコ会には得にならないわけです。それなのに、先輩はわたしを「よ
いもの」として、「極めて良いもの」として接して下さいました。その心の広さ
に、わたしは頭の下がる思いです。

福音は、重い皮膚病を患っている人をご覧になったイエスが、「深く憐れんで、
手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』」と言われると、たちま
ち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マルコ1・41-42)という奇跡物
語ですが、「手を差し伸べてその人に触れ」という部分に、わたしは心を打たれ
ます。

重い皮膚病、それは、病気にかかっていない人を震え上がらせる症状だったと思
います。思わず飛び退くような症状の人に、イエスは手を差し伸べ、触れて下さ
いました。イエスが医学の専門家だったから診察したのではなく、イエスは深く
憐れんで、手を差し伸べたのです。

初めに、本原教会の同郷の神父さまの話をしましたが、目的があってわたしをか
わいがって下さったわけではありませんでした。教区の神学生とか、自分のとこ
ろの修道会の神学生とか、そういう区別なしに、寛大に接してくれた。その寛大
さが、わたしの心に触れたのでした。

イエスのなさった奇跡は、それだけで十分心に触れる出来事だったと思います。
声が届くはるか遠くから、「よろしい。清くなれ」と仰っても、病気は治ったか
も知れません。けれどもイエスは、あえてこの重い皮膚病を患っている人に近寄
り、触れた下さったのです。病気であるか、健康であるか、まったく区別なく接
してくださるイエスの憐れみ深さに、この重い皮膚病の人は触れたのではないで
しょうか。

イエスに触れてもらい、重い皮膚病の人はいやされたのですが、イエスは「だれ
にも、何も話さないように気をつけなさい」(1・44)と厳しく注意します。心
を打たれ、どうしても話したくなるような体験をした人は、たとえ話すことを止
められても、止めることはできないと思います。

例えばそれは、「これは内緒よ。だれにも話さないでね」と言った話が、どこま
でも伝わっていくのと同じです。わたしが戸村神父さまに受けた恩も、面と向か
って「だれにも話すなよ」と言われたことはありませんが、きっとそのつもりだ
と思います。けれどもわたしには、仕舞っておくにはもったいない、貴重な体験
です。

重い皮膚病を癒されたその人にとっても、イエスが自分に触れて下さったその憐
れみ深さ、病気を完全に取り去ってくださる神のわざを、話さないではいられな
かったのではないでしょうか。

これは、わたしたちへの模範だと思います。わたしたちも、イエスのように、だ
れかの心に触れるようなお世話、おもてなしをする力が与えられています。何も
経済的に豊でなければ、心に触れるお世話ができないということではありません。
祈りを教えることによっても、親切をほどこすことによっても、人の心に触れ、
その人が心を洗われるということは可能です。

イエスはまずそのお手本を示してくれました。そしてわたしは幸いに、そのよう
な人の心に触れるお世話を知っている恩人と出会いました。今はわたしが、だれ
かの心に触れ、その人をいやしたり慰めたり、もう一度立ち上がるお手伝いをし
たりする番だと思います。

もしもカトリック信者が、だれかの心に触れるようなお世話ができるとしたら、
それはわたしを通してその人にイエス・キリストを届けるときです。わたし自身
は、心に触れるような力は持ち合わせていないかも知れません。けれどもイエス
は、人の心に触れ、イエスに心打たれた人が自分の体験を次の人に知らせる、そ
ういう力を持っています。

ですから、わたしの生活の中で、心からある人にお世話しようとするなら、もて
なす人にイエス・キリストを体験させるとよいと思います。食事に招待したとき、
食前の祈りを唱えて体験させるのも良いでしょう。そのとき、お世話を受ける人
は、「同じことをほかの人からも受けたことがあるけれども、どうしてこの人の
お世話は心に触れるのだろうか」と感じてくれると思います。

こうして、わたしたちのお世話、奉仕、隣人愛を通してイエス・キリストを体験
させるためには、もっともっとイエス・キリストを知る必要があります。聖書の
朗読会を活用したり、教会備え付けの聖書を借りていって、平日読み続けること
もできます。いろいろ手を尽くしてイエス・キリストをよりよく知ると、わたし
たちの生活そのままでだれかがわたしたちを通してイエスに触れる方法も、見つ
けることができるでしょう。

より多くの人が、イエスに触れ、イエスに触れた人が、さらに多くの人にイエス
を知らせることができるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第7主日
(マルコ2:1-12)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今年の26聖人殉教記念ミサは、2月5日がちょうど日曜日に当たっていたので、
日曜日に26聖人殉教記念ミサをするという方針がちょうど2月5日に当たっていた
ので良かった。ただ、会場となる西坂の殉教記念公園に向かっている時点で雨が
降っていたので、残念ながら会場を中町教会に移動するのだと思っていた。
▼ところが、いつまでたっても会場変更のお知らせが入らない。長崎市内の人に
尋ねてみても「変更はありません」としか言ってこない。これだけ雨が見えてい
るのに、主催者は何を考えているのだろうと思った。26聖人記念館で祭服に着替
えている時点でも、傘なしでは立っていられない状況だった。
▼ところが、ミサが始まるというそのときに、雨はほぼやんでしまい、傘をささ
ずに済む程度におさまった。この時点で、わたしを含め多くの人の疑問も不満も
消えてしまったかも知れない。雨のやんだ曇り空は、40分以上続いた。
▼説教が終わって、ミサの奉献文も唱えた頃、またもや雨。司祭たちはしばらく
がまんしようとしたが、それも長くは続かず、次第に傘をさしはじめた。全員が
傘をさす頃には、傘にあたる音で大司教の声が聞こえないくらいだった。「完全
に、本部の判断ミスだ。」そう言いたかったが、ある1つの出来事でわたしは考
えを変えた。
▼ミサは、「派遣の祝福とあいさつ」で終わる。派遣のあいさつをしたのは中町
教会の主任司祭だった。「2012年の26聖人殉教記念ミサを終わります。行きまし
ょう。主の平和のうちに。」本人がどういう意図でこう言ったかは分からないが、
「2012年の」と言ってくれたことが、救いの言葉に聞こえた。
▼「いろんなことがあり、いろんなことを感じた今年のミサでしたが、無事に今
年の殉教記念ミサを終わりました。行きましょう。主の平和のうちに。」そうい
う意図はなかったとしても、そう感じた人はいるはずだ。だから、わたしたちは
語る言葉が本人の意図しないことも伝えてくれるかも知れない。そう思って言葉
一つひとつをていねいに語りたい。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第182回目。知り合いから26聖人殉教記念ミサの写真を分けてもらいました。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/120212.jpg

過去の掲載写真は、ブログをご覧ください。
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‥‥‥†‥‥‥‥
年間第6主日
(マルコ1:40-45)
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‥‥‥†‥‥‥‥
●本原教会に、同じ郷里の戸村神父さまという先輩がおられます。本原教会はフ
ランシスコ会が担当している教会です。先週の月曜日、本原教会の朝のミサに参
加しました。先輩神父さまを初め、4人で共同ミサをささげました。その日、2月
6日は聖アガタの記念日でした。聖アガタの、「アガタ」とは、「よいもの」と
いう意味があるそうです。
●戸村神父さまも、同郷のわたしを、いつも「よいもの」として扱って下さいま
した。大学の夏のスクーリングで、休暇になると当時栃木県の松が峰教会に赴任
していた神父さまのところに転がり込み、ご飯をご馳走になり、観光名所の日光
に連れて行ってもらったりしました。
●福音は、重い皮膚病を患っている人をご覧になったイエスが、「深く憐れんで、
手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』」と言われると、たちま
ち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マルコ1・41-42)という奇跡物
語ですが、「手を差し伸べてその人に触れ」という部分に、わたしは心を打たれ
ます。
●重い皮膚病、それは、病気にかかっていない人を震え上がらせる症状だったと
思います。思わず飛び退くような症状の人に、イエスは手を差し伸べ、触れて下
さいました。イエスが医学の専門家だったから診察したのではなく、イエスは深
く憐れんで、手を差し伸べたのです。
●イエスのなさった奇跡は、それだけで十分心に触れる出来事だったと思います。
声が届くはるか遠くから、「よろしい。清くなれ」と仰っても、病気は治ったか
も知れません。けれどもイエスは、あえてこの重い皮膚病を患っている人に近寄
り、触れた下さったのです。病気であるか、健康であるか、まったく区別なく接
してくださるイエスの憐れみ深さに、この重い皮膚病の人は触れたのではないで
しょうか。
●イエスに触れてもらい、重い皮膚病の人はいやされたのですが、イエスは「だ
れにも、何も話さないように気をつけなさい」(1・44)と厳しく注意します。
心を打たれ、どうしても話したくなるような体験をした人は、たとえ話すことを
止められても、止めることはできないと思います。
●重い皮膚病を癒されたその人にとっても、イエスが自分に触れて下さったその
憐れみ深さ、病気を完全に取り去ってくださる神のわざを、話さないではいられ
なかったのではないでしょうか。
●これは、わたしたちへの模範だと思います。わたしたちも、イエスのように、
だれかの心に触れるようなお世話、おもてなしをする力が与えられています。祈
りを教えることによっても、親切をほどこすことによっても、人の心に触れ、そ
の人が心を洗われるということは可能です。
●もしもカトリック信者が、だれかの心に触れるようなお世話ができるとしたら、
それはわたしを通してその人にイエス・キリストを届けるときです。わたし自身
は、心に触れるような力は持ち合わせていないかも知れません。けれどもイエス
は、人の心に触れ、イエスに心打たれた人が自分の体験を次の人に知らせる、そ
ういう力を持っています。
●食事に招待したとき、食前の祈りを唱えて体験させるのも良いでしょう。その
とき、お世話を受ける人は、「同じことをほかの人からも受けたことがあるけれ
ども、どうしてこの人のお世話は心に触れるのだろうか」と感じてくれると思い
ます。
●こうして、わたしたちのお世話、奉仕、隣人愛を通してイエス・キリストを体
験させるためには、もっともっとイエス・キリストを知る必要があります。いろ
いろ手を尽くしてイエス・キリストをよりよく知ると、わたしたちの生活そのま
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でしょう。
●より多くの人が、イエスに触れ、イエスに触れた人が、さらに多くの人にイエ
スを知らせることができるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
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