滑石(なめし)教会 教会新聞「めぐみ」
1997,5 この教会はどこに立っている?
1997,6 もうちょっと、元気だそうや
1997,7 「あーら、安かったわねぇ」
1997,8 殉教者が残してくれたこと
1997,9 旅行あれこれ
1997,10 十年後の価値
1997,11 聖水・香炉・祈り本
1997,12 学生服を着たおとなたちよ
1998,1 初夢二題
1998,2 初笑い
1998,3 参加することに意義がある
この教会はどこに立っている?
滑石教会に赴任して、そろそろひと月になろうとしています。センターからの通勤も、ようやく板についてきましたが、一度タクシーを利用したときのことです。
タクシーの運転手に、「滑石教会まで」と言おうと思ったのですが、ちょっとためらいました。「幼稚園」と言った方がよくわかるのかなあ、と思ったからです。それで考え直して、こう言いました。「滑石教会まで行きたいのですが、運転手さんは、滑石の聖母幼稚園まで、と言ったほうがわかりやすいですか」。
すると運転手さんは、あっさりと、「お客さん、滑石には幼稚園が五つも六つもあるんですよ。教会と言ってもらったほうがわかりやすいに決まってますよ」と答えました。まずは、この教会は地域に密着して立っているなあと思いました。
金曜日に赴任した関係で、しばらくは滑石の司祭館に寝泊まりしました。土曜・日曜は司祭館の用人も多いだろうという腹もあってのことです。「夜も車がバンバン走るから、慣れるまでは寝付かれないかも知れないよ」。竹山主任神父様が親切にそう教えてくださったのですが、覚悟はしていたつもりなのに、その日は四回、車の騒音で起こされました。ここは、道路の真ん中に立っている教会でもあるようです。
考えてみますと、同じ交差点でも、ちょっと下った交番の前は、みんな遠慮して速度を落として通り過ぎるのに、教会の前はどうしてあんなふうにぶっ飛ばすのでしょうか。おまけにここは、三叉路の谷になったような格好で、減速して勢いをつけて通り過ぎていきます。そのうちトンネルを掘って、爆発物でも仕掛けましょうか。
けれど、心ではそう思っても、持ち前の明るさでこう考え直しました。「みんな教会の前で止まって、右に行くか、左に行くか、まっすぐ行くか考える場所なんだから、もう少し工夫すれば、教会を振りむいて、人生の分かれ道のことを考えてくれるかもしれない」。
交番を横目に、走り去って行く車のように、三叉路で止まった車が滑石教会をちらっと見て、自分の生き方をふと考え直す。そんな一瞬を皆さんに提供できればいいなあ、と思っています。三叉路の角に立つこの滑石教会は、すごく立地条件の良いところにある教会なのです。
ついこの前も、机に向かって日曜日のお説教を練っていたら、道路の向こうで中学生らしき女の子たちが、「○○ちゃん、じゃあね」「またね」とあいさつを交わして分かれていました。この三叉路で、出会いと別れ、再会の喜びを多くの人が味わっているのです。ほほえましい光景を見ながら、「こんなすてきな場所に立っている教会を、改めて考えたい」そう思って筆をとった次第です。
今日も元気に、スーパーカブが滑石へと出ていきます。アイデアをリュックにいっぱい背負って通勤しながら、次の一手を考えたいと思います。場所は素晴らしいのです。あとは中身を豊かにして、地域のみなさんの受け皿になれるよう、共に歩んでいきましょう。
もうちょっと、元気だそうや
先日、長崎地区の各教会に呼びかけて、高校新一年生の歓迎遠足を行いました。場所は中尾城公園。新しく高校生会に入った人と交流を持とうという計画でした。
呼びかけに応じて、十八人の高校生がJR浦上駅に集まりました。「ようけ来たなあ、こりゃぁ財布が痛むぞ」。うれしい半分、大人の心配も半分です。それでも長崎地区高校生の担当司祭。顔では笑って出かけました。
「さあ、施設の遊具を乗りまくるぞ」。公園の目玉、スポーツスライダーの券をみんなに渡し、張り切って飛び出したのですが、あまりついて来ようとしません。
「おーい、一時間しか乗れないんだぞ。早く早く」。せき立てても急ぐ様子もありません。仕方なく一人で出かけていると、重たい腰をようやく上げました。
「これいけるよ」。高さ六十メートルから一気に滑り下りる滑り台にほとんどの高校生が目を丸くしていました。「よっしゃあ。それでいいんだよ。大いに楽しもうぜ」。童心に帰って、はしゃいでくれている。てっきり私はそう思っていたのです。
「もう一回滑るぞ」。すべり台入り口まで、私は駆け上がったのですが、またもや他の高校生は、中央広場にどっかり腰を据えたのでした。もしかしたら、全然面白くなかったのかな、そんな不安がよぎったのですが、高校生たちの声を聞いて、私は力が萎えてしまいました。
「ああきつか。もうよか」
「おれ昼寝する」
「日向ぼっこしとこう」
「それー、行けー」と、無理にでもはしゃいでみせるのですが肝心の高校生はついてこないのです。
「なんだよなんだよ。せっかく来たんだから、ストレス発散しようぜ」。すると別の学生はこう答えました。「神父様は若いですねえ。私たち明日学校だから」。これには二度びっくりしました。
どうも、今どきの学生たちは疲れているようです。言われてみれば無理もありません。模擬テスト、部活、学校の宿題の山。これでは日曜日にくたくたになるまで体を使って遊べるわけがありません。草スキーも、私ひとりで「キャー」と言って楽しみ、宝探しで最後の一枚を私が見つけて、遠くから大声で「おーい、見つかったぞー」といっても、パチパチと、静かに拍手をもらっただけでした。
こんなところに引っ張ってきたおれが悪かったんだなあと、気落ちしていたら、気を察しているつもりなのか、「神父さま、楽しかったです」と、答えるのです。
三十一のおっさんがはしゃいでいるのを眺めて、そんなに楽しいか?大声で笑っているのを見て「神父さま、楽しそうですねえ」とはなんだ?反対に私の方が目を細めたかったのに、連れてきたのは爺さん婆さんだったのか?やるときはやる、遊ぶときは遊ぶ。こんなはつらつとした姿の象徴が、高校生・青年ではないのか?
滑石の高校生も同じですか?
「あーら、安かったわねぇ」
ご存じかと思いますが、私は五月の半ばから右手にギブスを巻いております。バイクに乗っていての事故なのですが、自由のきかない右手ほど不便なものはありません。
へたに入院していないものですから、何とか以前と同じだけの仕事をしようと焦ったりします。衣服の着替えに始まり、三度三度の食事、果ては説教のワープロ打ちと、すべてが何がしかの負担となっています。焦りは苛立ちとなり、かばってあげるべき右手に当たることさえします。右手には何の責任もないのに。
それでもけがの功名とでも言いましょうか、今まで考えもしなかったことに気づかされもしました。通っている病院で順番待ちをしていたときのことです。ロビーで待つ、車椅子に乗った人、松葉杖をついた人は、付添人に伴われた人たちを見て、「自分はこれぐらいですんだんだよなぁ」と思うのです。一生治らないけがでもないのですから、小難で済んだと思うべきでしょう。
けがをする前に、同じ病院に病人訪問で何度も立ち寄りました。車椅子の人もいましたし、松葉杖の人もいました。けれども、健康なときには別段気にも留めなかったのです。何も見えていなかったのです。一体、今まで何を見ていたのでしょうか。
完全にけがを治すことが先なのに、後に控えている予定のことをついつい考えてしまいます。子供たちの黙想会、ヤングフェスティバル、典礼奉仕者球技大会などなど。「ケガもお恵み」と素直に信じられない神父の、ありのままの姿です。
もちろん、同じようなケガをした人たちにとっては、たいしたことではないかもしれません。堅信組のお勉強の時です。ひどく同情を買おうと思って、「痛かったなぁ」と事情を説明したら、こんな風に言われました。
「神父さまが牛乳ば飲まんけんさ」
「骨の弱かとやろう」
きっと親から言われたことの受け売りなのでしょうが、ここまで言われるとけがの痛みもすっ飛んでしまいます。
雨の降らない梅雨に何とも湿っぽい話になってしまいましたが、今回一番勉強になったことでまとめましょう。それは、「お世話になるべき時はお世話になる」ということです。
親分の右腕になるんだとか、よく頑張っているねと思われたいとか、大層なことを考えてはいても、やっぱりどこかで「おんぶにだっこ」されているわけです。今まで何気なくしていたことの中で、祭壇の準備と後片付け、聖体拝領を代わってもらっていることが私の一番の気がかりです。
結構な授業料を払いましたが、これが高かったか安かったか、これから皆さんでご判断下さい。
殉教者が残してくれたこと
今年の黙想会、子どもたちといっしょに「殉教者」について考えてみました。二十六聖人の殉教四百年という節目の年でもあり、テーマとして適当ではないかと思ったからです。
時津の沖に、「鷹島」という小さな無人島があります。ここで殉教した二人の神父様と、ひとりの修道士の話をおもに取り上げました。殉教者が、神様のためにいのちを捧げた勇気、殉教に至るまでの信仰の歩み、かいつまんで話したのですが、子どもたちの反応はさまざまでした。
ちょっと戸惑ったのは、小学生の部です。一年生から六年生まで、ずらっと並べて話しました。最初から、「これは無理なのではないか」と心配していたのですが、私の予想通り、ものの三十分もすると、一年生は制御を失った機械のように、説教者の目の前でむずがりました。
「まだぁ?まだ終わらんと?」
子どもたちが辛抱できないのも無理はありません。六年生まで同じ話を聞いているのですから、一年生がじっと聞けるわけがありません。まして、小学生の部に参加できず、中学生の部に仕方なく参加した小学生は、よく辛抱したものだと思います。
しだいに私のほうが、一年生の子どもに同情したくなり、時計にちらっと目をやっていると、なんと五十分近く話しているではありませんか。これでは小さい子どもはたまりません。あわてて話をまとめ、各教室に送り出しました。
今回の黙想会で、いちばん気になったことは、「殉教」「殉教者」という言葉を初めて聞いた、ぜんぜん知らなかったという子どもが圧倒的に多いということです。おそらく子どもたちの中には、代表的な殉教者の名前をいただいている子どももいると思うのですが、「はじめて聞いた人?」と尋ねて、涼しい顔で手を挙げる子どもたちに、何となく家庭での宗教教育を見たような気がしました。
男の子では聖ペトロ、聖パウロ、女の子では聖ルチア、聖セシリアなどは、殉教者の雄だと思います。私などは、つねづね母から自分の霊名の聖人の話を聞かされていましたが、最近の子どもたちには、受けた洗礼名の説明などはしないものなのでしょうか?そうした家庭での積み上げがちょっとなされていたら、「はじめてのことを聞いたので、たいへん勉強になった」というような感想文ばかりになることはなかったでしょう。
何はともあれ、夏休みの貴重な二日間を捧げた子どもたちは、立派に殉教者の精神を学んだと思います。殉教者ほどではないにしても、夏休みが始まっていちばんうきうきしている時期を、惜しげもなく神様にお捧げしたのですから。
ひとまずは、黙想会も終わり、子どもたちの暑い夏が始まりました。これも要理部はじまって以来という、黙想明けのスタッフの打ち上げも盛り上がり、上々の出来ではなかったかと思います。良いものはどんどん取り入れて、来年につなげていきましょう。
工夫次第で、子どもたちの夏はもっともっと熱くできるのです。
旅行あれこれ
今年の夏は、例年になく旅行の多い夏でした。旅行といっても、ふるさとへの帰省ではなくて、どれも収穫を得るための旅行です。
まずは、この夏に開かれたヤングフェスティバルの中で、巡礼旅行をしました。東彼杵にある、二十六聖人の乗船記念碑までです。高校生の組と中学生の組で、それぞれに担当司祭がついて、説明を加えながらの旅でした。殉教四百年祭を、子どもたちなりにつかむのが目的でしたが、雨にたたられ、少々疲れた旅でした。
次に、小学生の典礼奉仕者球技大会の打ち上げで、三井グリーンランドに行きました。大会そのものは、これまた雨に災いされて、サッカーは中止、ドッヂボールは決勝リーグにあがれずじまい、ちょっと不満の残る結果に終わりましたが、遠足となると話は別です。どこからこれだけの人数が集まるのかというほど参加者が膨れ上がり、私の財布はしぼんでしまいました。帰り着くまで、おおいにはしゃいだ遠足でしたが、来年につながることを願いたいものです。
さて、もう一つあるのですが、これは純粋に私自身の研修旅行です。8月20日から10日間、フィリピンで「ヤング海外学習」というコースに参加いたします。寛大な寛大な主任神父様に甘えて、いろんなことを見聞きしたいと考えて計画してみました。
一つは、研修コースの大きな目的である「アジアを知る」ということです。「海外」は五島しか出たことのない私ですから、国民のほとんどがカトリック信者という国の暮らしぶりは大変興味があります。言葉は違っても、一緒にミサにあずかり、ともに祈ることができたら、と願っています。できれば、同じ話題で話し、笑ったり、感心したりできたら最高です。
それと、日本での暮らしをもう一度考える機会にしたいと思います。ふだん何一つ不自由したことのない私が、文化や生活の違いの中で、滑石のことをどんなふうに思い出すのか、考えるだけでも興味があります。離れてみて、新しい発見をするかも知れません。
そういえば、前の助任神父様もフィリピンで研修中です。宿泊先があまり遠くなければ、お会いしてたくさんの話を聞きたいと思っています。駆け足では得られない貴重な体験を教えていただく、またとないチャンスです。
出発までに、たくさんの方から声をかけていただきました。「誘拐されたら、どうしよう」という心配に、「それだけ日焼けしていたら、現地の人は日本人とは思わないでしょう」と、冗談ともつかぬ励ましをしてくださった方、「水だけは用心した方がいいですよ」と、心から心配してくださった方、しまいには、「飛行機に乗る前に、滑石教会受け取りの保険を一口かけとけよ」と、どちらともとれるお言葉まで頂戴しました。
おそらく、無事に帰りますが、前の助任神父様と入れ替わっているかも知れません。それはそれで、どうぞ温かく迎えてください。
十年後の価値
最近、思い立って英語の学習教材を開いたりしています。柄にもなく、と思われそうですが、フィリピンに行ってからというもの、無性に英語がかじりたくなり、段ボール箱をひっくり返して探し出したのでした。
高校二年か三年の時ですから、もうかれこれ十五年も前の話です。お年玉をはたいて買い求めたものですが、当時としては画期的な学習教材で、今の英語力を保っているのは、間違いなくこの教材との出会いからでした。
テキストを開き、カセットを聞きながら、本当になつかしいと感じる一方で、「あー、自分も十五年前の話ができるようになったなぁ」と、ちょっぴり大人になったような、嬉しさもわいてきました。
かつては、「昔はこうだった」という話を聞くと、「古い人だ」と思っていましたが、初めて昔を懐かしむ気持ちに触れ、今は違った感想を持っています。
当時、勉強していた通りのスタイルで教材を開いてみると、驚いたことに、十冊あるテキストのうち、前半の五冊の英文は鮮明に思い出すことができました。石にかじりついてでも、という気持ちで勉強したかどうか、定かではありませんが、次の単語、次の文章がはっきり頭に浮かんでくるのです。我ながら感心いたしました。
誰でもそうでしょうが、頭の柔らかいうちに刻まれた記憶は、時間が経っても鮮明に覚えているものです。熱中したこと、初めて見、手に触れたものなど、いろんなものが、普段は役に立たなくても、いざというときにはそれを取り出して使うこともできるのです。
神様が与えてくださった、このすばらしい賜物を、どうにかして活かしたいものです。もちろん十年前、二十年前を語れる私たちもそうですが、まだそこまでいかない子供たち、青少年に、この賜物を活かす手はないものでしょうか。
問題は、子供たちが十年後、もっとその先で、懐かしく思い出せる良いものを与えてあげることができるか、ということです。教会の中でそれは、土曜学校であり、日曜日の子どもミサであり、家庭での祈りということになります。
幸い、今月はロザリオの月、聖母マリアにささげられた月です。今回、初めての試みとして、子供たちの学校帰りの時間に、「ロザリオの祈り」を計画しております。「子供のころは、学校帰りに教会に寄って、ロザリオをしたんだ」そういった、貴重な宝を、子供たちに与えてあげたいと思っております。ロザリオは聖母と主イエスの神秘を、単純な祈りの中で黙想するすばらしい祈りです。この機会に、ぜひ子供たちに「学校帰りの祈り」を促してあげてください。
私事になりますが、私は今でも、祖母が居眠りしながらロザリオを繰っていたのを覚えております。「ばあちゃん、ばあちゃん」と起こしたら、何事もなかったかのようにロザリオの続きを言い始めた祖母。私の「祈り」の原点は、ここにあるのかもしれません。
聖水・香炉・祈り本
福岡に、私と同級生の司祭が三名おりますが、そのうちの一人と大司教館でばったり会いました。お互いの小教区の事情などを話す中で、「自分はまだお葬式を一度もしたことがない」というようなことを聞きました。「いっぱいやったから、数えたこともないなぁ」と話すと、「同じ年数でも、違ってくるはずだよなぁ」と感心しておりました。
当時は、毎週のように結婚式があり、葬式があっていました。司祭館から聖堂に移動するまでのわずかな時間が、お説教のポイントを考える時間でした。その時その時、思いついたことを話していたわけです。特に、お葬式はその度ごとに、別のことを話しました。
振り返ると、いまだかつて故人に話しかける説教をした覚えがありません。間違いなく、遺族の方々、参列者の方々に話をしているのだと思います。故人とのちょっとしたかかわりを頼りに、遺族の方々に残された務め、取るべき態度をもう一度思い起こさせる説教がほとんどです。
ときおり、遺族の信仰を呼び覚ますような、手厳しい説教をすることがあります。この人は口も手も動かなくなったのだから、ちゃんとお祈りしてあげないと、交流を持つことはかないませんよ、というような内容です。死者と私たちをつなぐのは、生前の思い出でも、故人の残した遺産や名誉でもないはずです。故人の思い出はいま私たちの手元にあっても、故人はいま思い出の中で生きているのではないのです。故人は神のもとで「今」を過ごしています。その方と出会うためには、祈る必要があるのではないでしょうか。
また故人は、財産・名誉、それに当たる物は何も手に持たずに旅立っていきます。その方に思いを馳せるのに、この世に残した遺産の心配をしても始まりません。故人に本当に思いを馳せるつもりだったら、祈るほかないのです。
葬儀ミサでは、故人のためにミサが捧げられ、故人のことをミサの中で思い起こしていますが、私にとって話す相手は生きている人々とキリストです。その点、一人ひとり見誤ってはいけないと思います。祈りの心で故人への敬意を表さないと、いくら遺体への表敬を丁重におこなっても、それはしょせん「死体の表敬」に過ぎません。「故人と出会う」ためには、徹頭徹尾祈りの心ですべてが行われるべきです。朽ち果てる体にではなく、故人の霊魂に目を向けるべきです。
そういえば、通夜の席での灌水、焼香と、葬儀ミサでの献花のことですが、あまり仰々しくなさらないほうがよろしいのではないかと思います。聖水をふったあとに手をすりあわせて祈ったり、ロザリオを手にぐるぐる巻き付けてみたり、見ていると、「あーこの人はふだんお祈りしてるのかなー」と思わせるそぶりの方も見受けられます。ふだんからお祈りする方は、手をすりあわせたり、ぐるぐる巻きにロザリオをしたりはしないようです。
死者の月です。ご参考までに。
学生服を着たおとなたちよ
十二月十四日、晴れて堅信の恵みをいただいた受堅者の諸君、君たちの努力を信徒数三千のこの教会でおおいに宣伝しておこう。
いつの日か、君たちの中から広報部員が出て、懐かしく読み返す日を夢に見ながら。
はなむけのことば
「大司教様に、感謝の言葉を書きなさい。いちばん出来のいい人は、当日代表で読んでもらいます。」まあ可愛いというか、単純というか、「我こそは受堅者代表」そんなつもりで作文を書いてくれた。
もちろん、一人ひとり読みごたえがあるので、大司教様に全部披露してもよいのだが、私なりの考えで代表者を選ばせてもらった。
いちばん面白かったのは、教会学校での指導風景を「暴露本」みたいに描写したものだろう。婚姻の秘跡をかいつまんで話したあとに、「まあ、今の君たちには、彼氏も彼女もいないだろうから、遠い遠い話だけれどね」と言い添えたことを、どう思ったかずいぶん気にしているようであった。
じつは、思春期を迎える彼らに発憤してもらうため、「俺にだって彼女ぐらいいるよ」と、プライドをかき立てるために冷やかしたのだが、本人は相当痛いところをつかれていたのかもしれない。恋人と出会い、結婚を考えるようになったとき、きっと当時のことが思い出されるだろう。それまでに、隠された真意に気付いてほしいと願うばかりである。
準備期間が、思いのほか短く、一人ひとりの素顔を知ることができなかったが、以前の教会とはまた違った面白さがあった。魚釣りに出かけて、「神父様は間に合わないかもね」とシスターから期待を持たされ、いよいよになって帰ってきたこともあった。知らなかったとは言え、学校の中間・期末考査と重なったときに試験をしたのは、相当つらかったに違いない。
だが君たちは見事にそれを乗り越えた。嫌々ながらだったかもしれないが、次回は軽く乗り越えられるはずだ。
十一月二十四日の、黙想会とリハーサルの日は、私も週に一度の休みの日で、テニスに行きたくてたまらなかったのだが、腹をくくって犠牲したつもりである。何かをやり遂げたという充実感が、私にさえあったのだから、みんなはなおさらのことであろう。
最後に、堅信を終えた勇敢な中学生・高校生たち、大人の信者への道を歩き続けてほしい。信仰というすばらしい神の恵みを次の世代に伝える「おとな」であってほしい。そのためには、これからの中学・高校生活の中で、教会とのつながりを失わないようにしながら、今の思春期を大いに満喫することだ。
そのためのお世話なら、喜んで引き受けることを誓う。
堅信式の記念に
馬小屋でお生まれになった御子も、きっと君たちのことを頼もしく思っておられることだろう。
初夢二題
新年、明けましておめでとうございます。今年も、よろしくお願いいたします。
嵐のように過ぎ去った97年を振り返ると、有名人とか、偉大な人が亡くなった一年でした。その意味で、私たちの主任司祭も、偉大な主任司祭でした。
主任司祭を失ったことで、小教区にあいた穴はいかんともしがたく、残された助任は途方に暮れた年の瀬でした。ですが父なる神様は、この小教区を見守ってくださり、私に小さな初夢をお年玉として与えてくださいました。
初夢の序曲は次の通りです。年明けて最初の青年・高校生会を終えて、青年を同伴して急ぎのハガキを北郵便局に投函しに行きました。途中、この青年は高校生の掘り出しのための妙案として、年の黙想会をキャンプ形式にしてはどうかと提案してきました。
「それはいい」と、頷いたうえで自分なりの意見を付け加えます。「マイクロバスを一台借り受けて、申し込み制にして出津の祈りの家でやってみよう」ということに落ち着きました。今考えると、一人でこの小教区を背負って立っているつもりでいた私に、「協力者がいなければ、君一人では何もできないのだよ」ということを教える出来事だったのです。
夢はその直後に訪れました。なんと、竹山神父様が、私の夢枕についに立ったのです。そして、私のPHS(携帯電話)に電話をかけて、何か話しかけておられました。私は何とかして、話の内容を聞き取ろうとしたのですが、どうしても聞くことができませんでした。
確かに、生前の竹山神父様に、緊急の時のためといってPHSの電話番号を教えたことがありましたが、当時は「こらっ、いくらかけてもつながらんやっか!」とお叱りを受けてばかりでした。神父様がかけるときに限って、私が携帯電話を部屋に置きっぱなしにしていたことが原因なのですが、いまいまになって繋がった電話なのに、話している内容が聞き取れないとは、何とも歯がゆい思いがしました。
そうこうしているうちに、今月号の原稿の締め切り日が迫り、私は原稿のことは気にしながらも、暖かい布団に滑り込んでうたた寝をしておりました。そこへ、次の初夢が飛び込んできました。二階にある私の部屋のドアを、けたたましくたたく音で私は飛び起きたのですが、慌ててドアを開けても誰もいません。眠い目をこすりながら時計を見ると、なんと朝の四時になろうとしています。「うわっ!これはいかん。原稿を書き上げねば」。パソコンに向かった私の頭にのぼったのは、原稿が書けずにふて寝していた私を、確かに誰かが助けてくれたのだ、という思いでした。
竹山神父様の霊界からの電話も、締め切り二時間前にドアを激しくたたいた音も、非力な助任司祭を、小教区のみんなが支えてくれるのだよという神のお告げだったのかもしれません。
みなさんはどう夢判断なさいますか?
初笑い
一月末日。五島福江島で恒例の司祭団マラソン大会がありました。並み居る司祭達が、健脚を競い合う大会です。
かく言う私も、二年前までは四大会連続二位の戦績を持っておりまして、勢い込んで出かけるところなのですが、今年は練習不足。あまり気乗りのしない大会でした。
「やあ、中田師。今年は勝たせてもらいますよ」。往年のライバルは、きっちり仕上げてやる気満々です。噂では、新司祭も、相当のトレーニングを積んでいるとか。これではもう、生き恥をさらしに行くようなものです。
午前十時三十分。スタート地点の堂崎天主堂へ移動し、ゴールの福江教会を目指します。ついに観念して、スタートラインに立ちました。「よーい、ドン」。ライバル二人は、合図とともに飛び出して、見る見るうちに豆粒のようになっていきます。当然の結果です。
途中一人かわして、やっと三位が見えてきました。何とか賞にありついて、レース後は苦いビールで乾杯せずに済みました。
問題はそのあとです。成績上位の三人で、祝杯をあげながら、それぞれ自慢話に花が咲きます。「いやぁ、これで神学生に威張れますよ」「学校の生徒に、いいお土産ができました」。ついに私に話題が移ります。「ところで、シスターにはどう伝えますか」。あまり芳しくない成績です。一泡吹かせるなんてとてもできません。ですが、ちょっとしたいたずらを思いつき、こう切り出しました。
「どうせシスターは何も知らないんだから、思い切って優勝したことにしましょう」。それは面白いということになり、祝勝会のあと教会に電話しました。
「シスター。優勝したぞ。優勝。それもぶっちぎりよ」。
「えー!すごーい!ご馳走しましょう」。
「いや、お茶漬けでよかよ」
「そんなこと言わずに、何か色つけますから。待ってまーす」。
その後は押して知るべし。修道院にも知らせが届き、「ただいま」と言うが早いか、「おめでとうございまーす」と、最敬礼を受けて歓待されました。
「おう。努力は報われるねぇ」。「あんまり走ってなかったみたいだけど、隠れて努力していたんですねぇ。すごいわぁ」。
「一位から二位までが三分、二位から三位までが三分。三位は、優勝から六分も離れて。影も形も見えなかったでしょうね」「その通り。影も形も見えなかったよ」。いつにない弾んだ夕食でした。
最後のおちは、晩のミサ後です。ついでという形で、マラソン大会の報告を信者のみなさんにいたしました。「みなさん、ぶっちぎりの優勝でした。優勝は平本師、二位は酒井師、私は三位でした。シスター、電話してから三時間、楽しかった?嘘ついてゴメンね」。
こうして新年早々、お腹がよじれるくらいに笑い、修道院は消灯時間まで笑いが絶えず、本格的に新しい年が明けたのでした。
参加することに意義がある
先日、長野オリンピックが無事閉幕いたしました。たくさんのメダルを日本も獲得して、そのたびに家庭もにぎわったことでしょう。
ヨゼフ館も、ご多分に漏れませんで、ハラハラドキドキ、泣いたり笑ったり、おおいに盛り上がりました。
と言っても、泣いたり笑ったりしたのは私ではありませんで、私は「そうね。おー、それはすごかったねぇ」と、何度も相づちを打っていたに過ぎません。彼女は日本人が金メダルを取ればテレビに映った画面をさすり、涙を流し、その母親を見て「そうよね。お母さんの気持ちは分かるわ。良かったわねぇ」と、ついにはメダリストの母親になって応援していたのでした。
途中、札幌オリンビックの話が出まして、当然私は札幌五輪など母親のお腹の中でも聞いておりませんから、どうしても話が噛み合いません。「ゴメンね。私は当時のことを知らんとさ」と言うと、「神父様、若いわねぇ」と言われ、嬉しいやら、子ども扱いされているやらで、複雑な気持ちになりました。
けれども、当時を振り返るほど人生を生きてきたということは、大切なことだと思います。オリンピックに限らず、すべてについて、「亀の甲より、年の功」ということが言えるのでしょう。自分は見た、その場にいたという体験は、何にも代え難いものです。
誉められたことではありませんが、私はミサの典礼の中で、先輩信者さんが目で見てきたことを、机の上でしか学んできませんでした。ミサの始まりに聖水を振ってまわっていたこと、神父様がミサの時に何度も帽子(ビレッタ)を取ったりはずしたりしていたこと、侍者になる子どもが、まずはラテン語の受け答えの祈りを必死に覚えたことなど、話では聞いても、体で覚えていない様々なことがあるのです。
その場にいなければ、その光景を目で見ていなければ、いくら詳細に語って聞かせても分からないこともあります。その意味で、何事も「参加する」ことに意義があるのではないでしょうか。
今月、参加を促したい行事が一つあります。それは、「年の黙想会」です。毎年のことで、何か通過儀礼のように考えておられる方もいらっしゃるかも知れませんが、これは信者の養成のためになくてはならないものです。
今年一年をじっくり祈りの中で振り返ってみる、次の一年に向けて力を蓄える。そのためには、どうしても日常を離れ、じっくり腰を据えて考える場が必要なのです。
「今年の黙想会はこうだったよ」「お説教は誰それ神父様だったよ」そんな又聞きでは、あなたの修養にはなりません。ぜひ参加して、この教会で私は何を求められているのか、どう振る舞ったらよいのか、聖霊のめぐみを願う三日間にいたしましょう。
黙想会で感動したとか、今年は楽しかったとか、そんなことは二の次です。黙想会も、「参加することに意義がある」のです。