マリア文庫への寄稿

「マリア文庫」とは、「目の見えない方々」へ録音テープを通して奉仕活動をしている団体です。概要については、マリア文庫紹介をご覧ください。

2007年9月 10月 11月 12月
2008年1月 2月 3月 4月

2007年9月

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●こんにちは。中田神父です。9月の下旬にいつも利用している船の中で財布を落とし、だれかが財布を拾って現金は抜き取ったのでしょう、その財布が出かけていない場所で親切な人に拾われて交番に届き、最終的にその日のうちに財布だけは戻ってきました。お金を抜き取られたことは残念でしたが、その人とは別に、お金も入っていない、領収証や会員カードだけの財布を交番に届けてくれる親切な人もいることを知った一日でした。
●どうやら財布を無くしたみただいと気付いたのは正午のことです。午前9時12分の船で巡回先のもう一つの島「高島」の教会に用事で出向いたときのことでした。島に上陸してからバスに乗るので、バス代を財布から出し、財布はポケットに入れたつもりだったのです。本当は入れたあとすぐに座席に滑り落ちていたのかも知れません。
●財布の紛失に気付いたあと、私は気落ちして交番に被害届を出すこともせず、ただただ心の中で、「見つかってほしいなあ、できれば親切な人が船の事務所に届けてくれてないかなあ」と一生懸命願っていました。ある意味で、わたしの願いは神さまに届いたのでしょう。中身は抜き取られていましたが、財布は戻り、今もその財布は使い続けています。
●聖書の中では、願い求める人に神が必ず答えてくださるというたとえ話があります。新約聖書、マタイ福音書の7章7節から12節には次のような箇所があります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」
●「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
●神に自分の願いを述べることは、何も恥ずかしいことでもその人が人間として弱いということでもありません。願い求め、願いに応えてくれる人がいると知っている賢い人です。私たちはデタラメにだれにでも願うわけではありません。ちゃんと願いを叶えてくれそうな相手に願います。こうして心から願い求める人がいるところには、何かが起こるのだと思います。
●中田神父は9月から、ある人の洗礼の準備を通信教育で続けています。通信教育で洗礼の勉強をしている人もめずらしいかも知れませんが、きっかけはこういうことでした。その方は、結婚してカトリック信者の男性の妻になったのですが、結婚するときにカトリックの洗礼を受けたわけではありませんでした。ところが彼女は結婚相手だった男性の信仰を高く評価していて、配偶者の家族がカトリック信者として立派な生活をしていることにも惹かれていました。ただ、それでは私も、というはっきりしたきっかけのないまま、結婚して10年が経過していたのです。
●ところが思いがけない機会が巡ってきました。配偶者の母親、義母に当たる人がまだまだという年齢であったにもかかわらず亡くなってしまったのです。義母に当たる方は、伊王島の馬込教会に住む家族でしたから、私はその方の信仰生活についてよく知っておりました。もちろん、社会生活においても周囲の人から尊敬されている人でもありました。この人は、生前私に、「洗礼を受けていないお嫁さんのためにずっとお祈りしています。いつか私たちの信仰に入ってくれたらなと思っています」と繰り返し言っていました。
●思いがけなくそのお母さんが亡くなったことで、状況は一変しました。葬儀ミサを終えた数日後に、夫婦が司祭館にやってきて、私の妻の希望を叶えてほしい、妻に洗礼を授けてほしいと言いに来たのです。夫婦は遠方から来ており、2日後には帰省すると言っています。どうして、この2日間で勉強を済ませ、信仰心をはぐくみ、洗礼にこぎ着けることができるでしょうか。
●私は、この状況を十分に理解してもらわなければならず、次のように答えました。「ご縁があってこうして信仰に関わる出会いを持つことができました。ただし、2日間ではかなり無理があると思います。そこでどうでしょう。通信教育お勉強はお手伝いしますから、またこちらに里帰りするときにでも洗礼をお受けになってはいかがですか」。彼女も、その夫も、この提案に賛成してくださり、通信教育が始まりました。
●通信教育が始まったのはよいのですが、実際には全くの手探りで、どのように進めていったらよいのか分かりません。本当に、神さまを捜し求める心が育つのだろうか。神さまに信頼して生きていく決心が固まるのだろうか。それ以上に、次々にレポートに答えてくれているこの人に、この次の材料としてふさわしいものを提供できるだろうか。不安はいっぱいでした。
●ところが、この「願い求める」という心は実際にはたくさんのもの動かす力を持っているのだと感じました。大きなきっかけをもらって洗礼を受けようという気持ちになった人が、一人の司祭を動かしました。その司祭はどうやって導けばよいのか答えを持っていませんでしたが、神の霊が働きかけて、どうすべきかその道を教えてくださいました。それでも司祭には、次々と課題を準備しなければならず、この次どんな課題を準備してあげればよいか、途方に暮れていたのです。けれどもここでも神さまは私の心を照らしてくださり、次はこうしなさいと教えてくださいました。
●私は、願い求める人がたくさんいれば、その願いは人々を次々によいほうへと動かしていくのだなと実感しました。願い求める祈りの力を、身近に体験できました。たとえ行き詰まっても、道を切り開くのは願い求める人々の祈りの力だと思います。特に、同じ目的で願う人がたくさんいれば、事態は必ず良い方へ変えることができるのです。たとえ同じ場所にいなくても、同じ思いで祈るなら、地域を越え、国を超えて、出来事を大きく動かすことができるのだと思いました。
●振り返ってみると、財布を無くしたと気付いたときから何とか戻ってきてほしいと小さな胸を痛めて祈っていたわけですが、その祈りがお金を抜き取った人に、財布を海に捨てずに陸で捨てるように最低限の促しをして、それが親切な人の目に付き、親切な人の心を動かして交番に届けてくれたのだと思います。願い求める人がこの世の中にたくさん増えれば、良い方に回り回って、世界は動いていくのではないでしょうか。

2007年10月

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●こんにちは。中田神父です。10月上旬に馬込教会を会場に提供して、ギターコンサートが開かれました。最初にこの話が持ち上がったのは、伊王島で自営業を営んでいる方からの申し出でした。長崎出身のギター奏者で山口 修さんというすばらしい演奏をする人がいるので、できれば教会で多くの人に聞いてもらいたいということでした。
●申し出があったのは8月でしたが、それから教会側として申し出を引き受けるか、話し合いました。実は私もまったく知らない人ではなかったので、一度聞いてみたいという気持ちがありました。そこで私たちもこの計画に協力することにして、10月7日(日)山口 修さんのギターコンサートの日を迎えました。
●中田神父はギター演奏と言えば、フォークソングを思い付く世代です。さだまさしとか吉田拓郎とか、南こうせつとかほかにもいろいろいらっしゃると思いますが、そう言った方々が歌を歌うためにギターを弾く。だいたいそういうイメージで考えていましたが、今回の山口 修さんのギター演奏は、ギター演奏を聴くという本格的なものでした。
●山口さんのギターコンサートの途中途中、山口さん自身がいろんな話題を取り上げて話を入れながら進めていったのですが、彼のギターとの出会いの話は深く心に刻まれました。山口さんは10歳の時からギターを習い始めたのですが、きっかけは学校に行かなくなった、登校拒否をしたことだったそうです。
●そして、ギターに深くのめり込んでいったのですが、最後にはギターのおかげで、高校に戻ることができたと言っておりました。山口さんの話から考えると、10歳の頃に登校拒否が始まったとすると、小学校6年生の時と中学時代の3年間は学校に行くことができなかったということになります。
●高校生になって、学校に戻ることができたというのは、私の想像ですが、自分に自信が付いたので学校に戻る決心が付いたのではないかなと思いました。10歳の時から猛練習をして、すでに15歳、16歳になっていたと思われますので、きっと自分はギターがあれば生きていける、そういう自信が付いていたのだと思います。生きていく自信が付いたというのは、ギターを自分の支えにして生きていける、という意味です。
●さて、ギターコンサートが終わりまして、教会側の代表として中田神父がお礼のあいさつを述べました。私はコンサートの間中、あいさつをどんなふうにまとめようかなと思いながら耳を傾けていたのですが、コンサートが進んでいく中で一つのことが心に浮かび、まとまりました。それは、ギター演奏と祈りには通じるものがあるのではないかなぁということです。そこで、こんなふうにあいさつをまとめてみました。
●「今日は私たちの馬込教会においでくださり、コンサートを開いていただいて本当に感謝します。ギター演奏を聴きながら、私は祈りのことを思い浮かべていました。教会は祈りの場所です。祈りの基本的な姿は、自分の心にあるものを、信じている方に、また友人や家族のために届いてほしいという願いを込めて唱えることだと思います。
●山口さんは、今日のこの演奏を、私たちの思いがみんなに届いてほしいと思いながら演奏していたと思います。心の中にあるものが、観客に届いてほしいと願いながら演奏しているのですから、今日の演奏会は、山口さんから私たちへのすばらしい祈りだったのではないかと思います。
●教会は祈りの場所です。山口さんはギター演奏を通して、教会を祈りの場所にしてくれたと思います。今日の演奏の一つ一つが、私は立派な祈りだったと思います。祈りはまた、どんな伝達手段よりも優れていて、どんなに遠い場所でも、たとえそれが地球の反対側であっても、さらに神さまの所まででも届いていきます。今日の山口さんの演奏は、私たちの心の奥まで届きました。心の奥まで届いて、歌のある生活はすばらしいということを教えてくれたと思います。本当にありがとうございました。」
●ほかにも私自身の体験も交えてあいさつをしましたが、大まか以上のようなことを感謝の気持ちを込めて話しました。山口さんにはどんなふうに伝わったか、また観衆の皆さんにはどのように伝わったか分かりませんが、私自身は精一杯の気持ちを込めて話したつもりです。
●コンサートでは、「歌のある生活はすばらしい」と話したのですが、今月の月刊アヴェマリアのまとめとして、「祈りのある生活はすばらしい」とまとめたいと思います。つまり、その日1日の中で、「心にある思いを、信じている方に、届いてほしいと願いながら唱える」「心の思いを、あの人のために、届いてほしいと願いながら唱える」こういう時間がある人の生活はすばらしいと思うのです。
●なぜ、祈りのある生活はすばらしいのでしょうか。祈ることそのものがすばらしいのはもちろんですが、祈る人は、「神と向き合い、神とつながって生きる」ことを知っているからです。私たちの人生を価値あるものにするのは、最終的には誰かほかの人間ではなくて、神だと思います。私が、ある人の前に価値ある生き方をしても、その人が私の人生を救ってくれるわけではないと思います。私を救ってくださる神の前に価値ある人生を送ること、そのために祈りを通して日々つながっていくこと。この姿勢は大切です。
●また、友のために、家族や隣人のために祈ることは、その人が神によって価値ある人生となるように祈っていることになります。どんなに遠く離れていても、私にできるすばらしい業ではないでしょうか。
●歌のある生活はすばらしいと思います。そして、祈りのある生活はすばらしいと思います。もし理解してもらえるならば、参考にしていただければと思います。

2007年11月

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●こんにちは。中田神父です。今日は、一つの言葉「完成」ということについて話してみたいと思います。物作りをしている人が作り始めてから完成させるとか、物書きの人が書き始めた小説なり随筆なりを書き終えて完成させるとか、そういったときに使う「完成」という言葉です。今お話ししている中田神父も、約15分のお話をまず原稿で書き上げて、それを録音してマリア文庫にお届けすることで今月の分が完成します。
●「完成する」というのは、今話したことのほかにもあります。スポーツ選手に当てはめて考えてみましょう。この原稿を書いている頃はちょうど大相撲の九州場所でしたから、相撲を取る力士に当てはめてみます。すると、横綱まで昇進した力士は、心技体(こころとわざとからだ)のいずれにおいても最高のものを持ち合わせている人と言えます。別の言い方をすると、相撲を完成の域まで高めているとも言えるでしょう。
●いま2つの面から「完成」という言葉について考えてみました。小説や建築物などは、完成した時点で同時に終わります。それ以上何か手を加える必要はありません。一方、スポーツ選手がその道を究め、完成の域まで高めたという場合は、その状態を維持していくためにたゆまぬ努力が必要になってきます。相撲の道を完成させたからと言って、それから以後は一度も負けることがないかと言えば、たとえ横綱であっても初日に負けることもあります。実際、横綱白鵬は、先場所と今場所、連続して初日に黒星を喫してしまったのです。
●ここまでの考えでは、「完成」と同時にすべてが終わる完成と、完成された状態を維持し続ける必要のあるものとがあるということになります。そしてもう1つ、「完成」ということで考えてみたい第3の点を今月は紹介したいのです。
●これからの話を進めるのに興味深い例を1つ挙げてみたいと思います。スペインのバルセロナに、「サクラダ・ファミリア」という大聖堂があります。アントニオ・ガウディという建築家が設計したもので、19世紀に建設が始まったのですが、100年経った今でも建設途中で、完成はあと100年後とも200年後とも言われている聖堂です。
●この聖堂は建築物ですから、あと200年もすれば完成する、そして中田神父が始めに話したことと重ね合わせれば、完成すればそれで終わるはずのものです。ところが、200年という時間は今生きている私たちにとっては永遠とも取れる長い時間です。誰も、100年後、200年後に生きている保証がないからです。
●サクラダ・ファミリア大聖堂は、今もアントニオ・ガウディの遺志を引き継いでいろんな人が建設に携わっているわけですが、自分たちが見届けることもできないものを、どうして作り続けることができるのでしょうか。この大聖堂、現在の主任彫刻家は何と日本人なのだそうです。驚きました。彼はどんな思いで、この大聖堂の彫刻部分を担当しているのでしょうか。
●大聖堂の日本人主任彫刻家を始め、サクラダ・ファミリア大聖堂に関わっているすべての人は、「完成」という言葉についての第3の考え方を持っているのだと思います。それは、「完成を待ち望む」という考え方です。厳密には、「完成」という言葉の意味にはあてはまらないかも知れませんが、「完成を待ち望む」ということも、ある意味で「完成」についての深い考え方を示してくれるものだと思うのです。
●「完成を待ち望む」と言いましたが、完成を待ち望むということは、必ずしも完成を見るということではありません。そうではなく、完成することを信じて疑わないということだと思います。この、完成を信じて疑わない気持ちが、のちの完成を確実なものにしていくのではないでしょうか。サクラダ・ファミリア大聖堂の完成を、建築に携わっているすべての人が信じて疑わないとき、たとえ200年後であっても、実際はすでに完成しているのと同じなのかも知れません。
●もう少し付け加えたいと思います。サクラダ・ファミリア大聖堂の完成は、建設に従事しているすべての人の願いであると同時に、その大聖堂で祈りを捧げる人、その大聖堂に興味、関心を持っているすべての人の願いでもあると思います。
●そうなると、この大聖堂の完成には、建設作業に携わっている人々が完成を信じるのと合わせて、大聖堂を必要としている人々、興味や関心を持っているすべての人々が完成を信じることも大切です。こうして数え切れないほどの人々が完成を信じて疑わない、完成を待ち望むとき、願い求めているものは必ず完成するし、ある意味では完成を見ていない今この時にも、完成していると言えるのかも知れません。
●さてここからは、私たちの暮らしに話を向けていきましょう。私たちの暮らしの中にも、完成していないけれども完成を強く待ち望んでいるものがいろいろあると思います。例えば、平和な社会を私たちは強く待ち望んでいますが、いまだに平和な社会は完成されていると言い切れません。差別のない社会を強く待ち望んでいますが、これまた道のりは遠いような気がします。
●このように、完成を待ち望んでいるのにまだ完成にたどり着いていない出来事について、私たちはどんな思いを持っているのでしょうか。平和な社会も、差別のない社会も、それは理想であって現実ではないと思っているでしょうか。現実には達成できないのだから、待ち望んでも仕方のないことだと思っているでしょうか。
●私は、そうではないと思います。平和な社会、差別のない社会は、直接取り組んでいる多くの人と、関心を持っているすべての人が、待ち望めば必ずやってくるのだと信じることだけでも、意味があると思います。平和な社会、差別のない社会の完成を待ち望むことは、自分が生きている間に完成を見ることはできないかも知れないけれど、すべての人が完成を待ち望むなら、いつかは完成するのだと思います。
●その、未だ完成しないものの完成を待ち望むということで、私たちにできることを1つだけ紹介して話を終わりたいと思います。それは、私たちが平和のために何か働く、差別をなくすために何か手助けするということです。怒りや憎しみの感情にまかせて人に辛く当たることをもうしないと心に決めるとか、これまでどうしてもゆるしてあげることのできなかった人と、もはや過去のことを思い出さないとか、誰でも、何か1つはできることがあると思います。それを心がけることで、私たちは完成を待ち望む人々の仲間に加わることができます。
●ちなみにですが、カトリック教会は日曜日のミサの中で「主の祈り」を唱えるとき、「神の国の完成を待ち望みながら、主キリストが教えてくださった主の祈りを唱えましょう」と呼びかけることがあります。

2007年12月

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●こんにちは。中田神父です。クリスマスと、新年のおよろこびを申し上げます。2008年が皆さまにとって希望の年でありますようにとお祈りいたします。2008年最初の話として、過ぎた12月のクリスマスの話を取り上げてみたいと思います。
●クリスマス。何だか日本でも年中行事として定着している気がしますが、実際はどこまで行ってもキリスト教の祭りです。イエスの誕生を祝うことがクリスマスの中心ですから、イエスの誕生を横に置いたクリスマスは、どんなに華やかで美しいものであってもうわべだけのものになります。うわべも大事でしょうが、物事や出来事に本来の意味を与えるものをしっかり捉えることは忘れてはいけないと思います。
●さて、クリスマスの中心メッセージから話に入りたいと思います。クリスマスの中心、それはイエスの誕生です。イエスは、キリスト教の考え方によれば、神が人となってこの地上においでになった方です。この方はユダヤ人で、ダビデの子孫としてマリアから生まれます。お生まれになった場所はユダヤの国のベツレヘム、育った場所はナザレでした。
●生まれた年は、今からおよそ2007年とちょっと前です。まだ歴史学が発達していない頃に、イエスが生まれた年を暦の初めとしようということで現在の西暦が始まったわけですが、あとで学問が発達し、年代の研究が行われてみると、イエスの誕生はちょうど2007年前なのではなく、それよりもうちょっと前であることが判明しました。すべての歴史を書き換えることもできませんので、イエスの誕生をさげて、現代では紀元前7年から紀元前4年の間であろうと言われています。クリスマスのお話しはだいたいこのへんで終わりということになります。
●ついでにその生涯まで加えておきますと、この世においでになったイエス・キリストは、すべての人のためにおいでになりました。救いのためです。そしてその生涯を通じて、ことばとわざで数々の不思議をなし、一方では当時の宗教指導者のねたみから、十字架に張り付けにされて最期を遂げ、キリスト教の教えによれば、復活を遂げるのでした。
●今月の話に前もって念を押しておくべきことでしたが、この「月刊アヴェマリア」は、キリスト教を教えるコーナーではありませんし、ましてや強要するものでもありません。一つのお話しとして聞いてください。そのクリスマスの話ですが、クリスマスはイエス・キリストの誕生についての物語ですから彼の人生の始まりに関する話のはずです。ところが、この誕生の物語は、別の見方をすれば、イエス・キリストの最後の物語とも通じる出来事でもあるのです。
●それは、誕生のいきさつと、誕生に深く関わったマリアの存在の中に凝縮されています。それぞれについて、簡潔に話してみましょう。まずは誕生のいきさつについてです。先ほど話した通り、イエスは歴史のある瞬間の、ある状況の中に生まれました。人類の歴史、またユダヤ人の歴史の中のほんの一コマに過ぎません。長い長い人類史の一点なのです。
●ところが、イエスはその教えによれば、すべての人のために生まれたとされています。それを文字通りに取れば、人類が始まってから今日までの、もっと言うと人類が終わりを迎えるときまでの、すべての人のために生まれたことになります。そういう意味では、歴史の一コマに留まらず、広がりを持つことになります。
●この2つのことを合わせるとこういうことになります。イエスの誕生は、歴史という線の一点であると同時に、人類全体という広がりとが交差した場所で起こった出来事だということです。仮に、歴史の流れを縦の線として、人類全体に及ぶ広がりを横の線とすれば、イエスはその縦の線と横の線が交差した場所で生まれた方だということです。
●もう、お気づきの人もいるかも知れません。縦の線と横の線が交差した場所が、イエスの人生の中でもう一つあるのです。それは、イエスの最期の場面、つまり十字架の出来事がそのもう一つの場面です。イエスは十字に組み合わされた気の交差した場所に張り付けにされて息絶えたのです。このことを考え合わせると、イエスの誕生の場面には、すでにイエスの十字架上の死が、織り込まれていたと考えることもできるわけです。
●その考えを補足してくれる出来事がイエスの誕生のあとに起こります。星占いの学者が、誕生して間もないイエスを訪ねてきます。そしてイエスを救い主として、彼に贈り物をしました。黄金、乳香、もつ薬がささげられたとされています。
●黄金は王に与えられる贈り物、乳香は祭司に与えられる贈り物、そしてもつ薬は、死を迎えたときの葬りの日のための贈り物でした。誕生のその時に、葬りの日のための贈り物が用意されていたというのは、誕生の出来事の中に、十字架上での最後が織り込まれていたことを物語るのだと思います。
●これは、クリスマスの中心メッセージであるイエスの誕生を見つめる中での気づきですが、もう一つ、マリアの存在からも、誕生の場面が、十字架の場面と重なっている、つまりイエスの生涯の始まりが、その最期とつながっていることを暗示しているのです。
●イエスは誰でもよく知っているマリアから生まれました。マリアが母であれば、その場に居合わせなくても、マリアが生まれたばかりのイエスをその腕に抱いたであろうということは容易に想像できます。
●そのマリアは、もう一つの場面でイエスを腕に抱いたと考えられます。私がそのように考える根拠は、「ピエタ」という呼び方で知られている芸術作品にあります。ピエタとは「あわれみ」や「慈悲」を表す言葉で、芸術作品では死んで十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの彫刻や絵の聖母子像の事を指しています。中でもミケランジェロの作品が特に有名です。
●イエスが息を引き取ったときに、母マリアがイエスを腕に抱きかかえる場面が数多く残されたというのは、誰もその場面を見た人はいないとは言え、おそらくそうしたであろうと多くの人が考えているからでしょう。そして実際に、そのようなことは十分考えられるわけです。
●そうなると、母マリアが、イエスを抱きかかえるという意味では、イエスの生涯の始まりに起こった出来事は、すでに生涯の最期の場面と重なるのです。母マリアは、イエス誕生の場面と、イエスの最期の場面を重ね合わせる重要な働きをしたわけです。
●もちろん今までの話は、私がいろんな人の考えを参考にしながら導き出したもので、実際はもっと違う考えがあるかも知れません。ただ、これまで話したことに私たちの人生を重ねて考えると、興味深いことが浮かび上がってきます。そのことを今月の話の結びとしてみましょう。
●実は私たちも、誕生によって歴史の中に時代を築く生き物です。有名になるか無名で終わるかはあるかも知れませんが、それはたいしたことではないと思います。歴史の一点を刻むことに変わりはありません。そして、私たちは自分一人のために生きるのではなく、ほぼ間違いなく、誰かと関わって、または誰かのために生きています。兄弟姉妹と関わって生きていたり、兄弟姉妹を支えるために生きていることもあるでしょう。または、支えを受けながら生きるのかも知れません。
●それはまた、私たちの人生の最期においても同じことが起こりうるのです。私たちは自分一人のために生涯を終えるかと言うと、必ずしもそうではないと思うのです。誰かのために生きた人の最期は、そのまま、誰かのためにその人生を終えたとも考えることができるわけです。
●こうして、自分のためと同時に誰かのために生きる人の人生は、そのまま、誰かのために最期を迎える人生と重なっているのです。人は生きながら、人生の瞬間瞬間にその人生の最期を重ね合わせて生きているのではないでしょうか。
●クリスマスの物語。キリスト教の行事でありながら、現代ではほとんど世界中の年中行事のように祝われています。そのクリスマスの出来事の中に、私たちすべての人間にあてはまるものが秘められているような気がしました。

2008年1月

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●こんにちは。中田神父です。思うところがあって、私が目を閉じて街の中や公園を歩いて回れるだろうか、試してみることにしました。結論から言うと、私1人では決して目を閉じたまま歩いて回ることはできない、できるはずがないということでした。ある程度景色を記憶して目を閉じてさえも、それでも思い切って前に進むことができなかったのです。足を前に出せなかったのです。
●これは1人では何も始まらないと思い、協力してくれる人を見つけて、肩を貸してもらうことにしました。1人で歩くよりはずいぶん歩きやすいだろうと思ったのですが、肩を貸してもらう場合でも、いろんな問題にすぐ気づきました。今回、視力に頼らない経験を少しだけ積んでみて、たくさんのことを感じました。
●まず、肩を貸してもらうと何とか歩けるのですが、驚いたことに景色を見て歩いているときよりも正確に地面の様子が伝わってくるのです。歩いている地面がコンクリートやアスファルトの場所だとして、その舗装された道が、完全に平らではないこと、つまり細かい起伏があることが、景色を見ているときには分かってなかったのに、肩に手を置いて歩いてみるとはっきり分かったのです。
●細かな起伏が足もとから伝わってくると、実際は歩きにくいということがよく分かりました。例えて言えば、スポンジを敷き詰めた場所を歩くようなもので、ふだん気にしていないことが気になって、軽快に歩くというわけにはいきませんでした。
●次に、これは健常者が目を閉じているからそうなるのかも知れませんが、明るい場所から日陰に入ったり、反対に日陰から明るい場所に入ったりするその切り替えの場面で、足が止まってしまいました。肩を貸してくれる人に「ちょっと待って!この先はどうなってるの?」と思わず声をかけてしまったのです。それほど、日差しの変化は目を閉じて歩いていて神経質になる場面でした。
●しばらく肩を貸して歩いてもらうと、そのうちに肩を貸してくれる人が慣れてきて、中田神父が目を閉じていることに気を配らなくなります。例えば、右に曲がるとか左に曲がるとき、何気なく曲がってしまうわけです。そうすると、中田神父は目を閉じていて急に向きを変えられるわけで、たいへん戸惑いました。そこでようやく肩を貸してくれる人は「ごめんごめん。これから声をかけるから」と気付いてくれます。
●けれども、初めて目を閉じて肩を貸してもらって歩く私の率直な感想ですが、「今から右」「今から左」「今から上り坂」「今から下り坂」と言われただけで、そう簡単には曲がったり坂道に進入したりはできないということです。道なりにやや向きを変えて歩き出すのか、横断歩道を渡り終えて直角に曲がろうとしているのか、「曲がります」とだけ言われても判断できません。
●そんなことを考えていると、いつも視力に頼らずに歩いている人は、はるかに判断力があって、機敏だなぁと感心させられます。上り坂や下り坂についても、傾斜は緩いのか急なのか、私であれば事細かに説明を受けなければ、とても前に進むことはできないと思ったのです。特に、私には下り坂が危険に感じられました。前に倒れそうになって、腰が引けてしまうからです。こんな複雑でデリケートな場所を、いつも歩いているのだなと、あらためて考えさせられました。
●あと少し、この目を閉じて歩いてみた体験の話を続けさせてください。私たちに向かって歩いてくる人の「気配」についても、考えるところがありました。複数で楽しく話しながら近づいてくるグループの声が聞こえてきました。だんだん近づいてきて、すれ違い、その声は徐々に遠ざかっていきます。
●音の変化が、これまでのように景色を見ながらの時とはまるで違っていて、音に神経を集中させているせいか、ふだんよりもはっきりと変化が聞き取れました。そして、今回は協力者の肩に手を置いているのでそれほど怖くありませんでしたが、もしも1人で向こうから大勢でやって来てすれ違うときは、ぶつかるのではないか、何人かでやって来る相手をよけようとして私が思いがけない場所に足を踏み入れて怪我をしたりはしないだろうかと、大変心配になりました。人とすれ違うことが、こんなに緊張を強いられることだとは思いもしなかったのです。
●ただ、いろんな音が以前よりもはっきり聞き取れたことは新鮮な驚きでした。今まで聞こえていなかった音が耳に飛び込んできました。緊張を強いられることもありましたが、木々のざわめきの音、商店街で流れている案内の放送、行き交う人々の声、景色を見ながら歩いているときには気にも留めなかった音が、こんなにたくさん溢れていたのだなぁと、あらためて知りました。
●1つ、心が洗われるような体験もできました。協力者の肩につかまって私はしばらく歩き続けていたのですが、すれ違いざまに2人か3人で歩いていた人が、私たちに声をかけてくださったのです。「この先は手すりがずっと付いていますよ」。もちろん初対面の人だと思いますが、私が目を閉じて協力者につかまって歩いている様子に早くから気付いて、声をかけてくれたのだと思います。うっかり私は目を開けそうになりましたが、目を閉じたまま、背の高い人だろうか、若い人だろうか、学生だろうか、いろいろその人のことを思い浮かべながら、どうもありがとうと心の中で答えたのでした。
●わずか15分か20分ほどの体験でしたが、景色を目で確かめながら歩いていたときとはまったく違う世界を、ほんのわずかですが経験することができました。あとで振り返ってみて思ったことですが、危険を感じて歩くのをやめたり、怖くなって尻込みしたりしたとき、「助けて」と思ってすがりついたのは誰だったのだろうかと考え込んでしまいました。
●驚いたことに、「助けて」と私が心の中で叫んでいたのは、肩を借りている協力者に対してではなくて、目に見えない誰か、つまり私にとっては神に、助けを求めていたということです。こんなこと正直に打ち明けたら、あの日手伝ってくれた協力者は、ガッカリするかも知れません。けれども確かに、そばにいる協力者に「助けて」と叫んだのではなくて、見えない誰かに助けを求めていたようなのです。身の危険を感じて助けを求めるとき、人は知らず知らずのうちに、見えない誰かに、例えば神に、助けを求めるものなのでしょうか。
●来月は、チャンスがあれば旅行の報告をしようと思っています。実は愛知県犬山市にある「明治村」に、旅行の計画を立てています。来月の楽しみのためにここではあまり話しませんが、明治村と中田神父が今住んでいる伊王島とは意外な関係があります。その辺を盛り込んで、来月のお話しにしたいと思っています。緊急事態が発生しない限りは、旅行のお話しができるだろうと考えておりますので、来月までお楽しみに。

2008年2月

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●こんにちは。中田神父です。締め切りに間に合わず、何を書こうかと腕を組んでいましたが、先月の終わりの部分を読み返して唖然としました。そうです。旅行の話をするという約束だったのですね。それだったら何もうんうん唸る必要はなかったのですが、締め切りを過ぎてみないと先月言ったことも思い出さないのです。申し訳ありません。
●先月前置きした通り、愛知県犬山市にある「明治村」に、行ってまいりました。明治村ってどういう所?ということから話す必要があるかも知れません。明治村に行った時にガイドブックを買いまして、その中に詳しい紹介が載っていましたので、一部ここで紹介します。「明治時代は、我が国が門戸を世界に開いて欧米の文物と制度を取り入れ、それを同化して近代日本の基盤を築いた時代で、飛鳥・奈良と並んで、我が国の文化史上極めて重要な位置を占めている。明治建築も従って江戸時代から継承した優れた木造建築の伝統と蓄積の上に、新たに欧米の様式・技術・材料を取り入れ、石造・煉瓦造の洋風建築を導入し、産業革命の進行に伴って鉄・セメント・ガラスを用いる近代建築の素地を築いた。これらの建築のうち、芸術上、歴史上価値あるものも、震災・戦災などで多く失われ、ことに戦後の産業の高度成長によって生じた、大小の公私開発事業により、少なからず姿を消していった。取り壊されてゆくこれらの文化財を惜しんで、その保存を計るため、今は二人とも故人となられたが 旧制第四高等学校同窓生であった 谷口吉郎博士 ( 博物館明治村初代館長 ) と 土川元夫氏 ( 元名古屋鉄道株式会社会長 ) とが 共に語り合い、二人の協力のもとに 明治村が創設された(博物館明治村パンフレットより抜粋)」。
●この明治村で、いろんな明治時代の趣を残した建物を見学することができるのですが、それだけでは明治村にどうしても行く理由にはなりません。実は、明治村と中田神父が今住んでいる伊王島とは意外な関係があります。それは、伊王島にある2つの教会、馬込教会と大明寺教会のうち、大明寺教会は、明治13年に建てられた教会が昭和40年ころまで使用されていたのですが、傷みが激しくなり、自力での保存は難しいということになりました。そこで、伊王島町教育委員会の斡旋もあり、明治村に移されることになったのです。もとの大明寺教会が明治村にあることはこちらに転勤してきた当初から聞かされていたのですが、なかなか出かける機会に恵まれず、今回思い切って訪ねることにしたわけです。
●私は基本的におおざっぱな人間です。結果的にうまくいけば、それでいいと考える傾向にあります。ところが、今回の明治村行きの旅行では、緻密な旅行計画を立てて出かけました。何時何分にどこに行って、何時何分のバスに乗り、何時何分の電車に乗り継ぎ・・・というふうに、かなり綿密に計画を練ったのです。それは2つの理由からでした。1つは、どう見ても1泊2日しか日程が取れないこと、もう1つは、その1泊2日の中で、最大限明治村で時間を過ごす効果的な旅行計画が必要だということでした。おかげで、1泊2日の旅行でありながら、明治村だけで5時間の散策を楽しむことができました。
●明治村には、数々の建築物が集められています。そのほとんどは文化財としての価値を評価して運ばれてきた建物です。1丁目から5丁目まで区分けされた広大な敷地の中に、重要文化財の建物だけでも12点集められています。全部で67点の展示物があり、ほかにも、実際に乗車して走ってくれる明治時代の路面電車や蒸気機関車も運ばれてきていました。1日すべて費やしてもすべてを十分見学することはできないでしょう。そこで私は、自分にとって興味のあるものだけにしぼって、その代わり十分に時間を取って、見学することにしました。
●中田神父が見学した建物のうち、教会はすべて見学しました。3つの教会がこの明治村に引っ越してきています。1つはプロテスタント教会の聖堂で、もともと京都にあった聖公会の聖ヨハネ聖堂です。格式と重みを感じさせる造りで、2つの立派な塔が目を引きました。外はレンガ造り、中は木造で、日本の伝統的な技術が産み出す美しい教会でした。
●2つめの教会はカトリック教会の建物で、京都の司教座聖堂と言って、京都のカトリック教会の本山と言える建物です。石造りの壮大な聖堂で、見る人を圧倒し、祈りの雰囲気に引き込む力を持った建物でした。3つめは、私がいちばん見学を楽しみにしていた大明寺教会です。
●大明寺教会は他の2つの教会のような壮麗さや迫力はありません。外見は一般の瓦屋根の民家のような造りをしています。そして、内部は民家のような外見から一転して、伝統的なコウモリの形をした屋根のデザインを持っています。外見を民家のようにしたのは、一説には「キリシタン禁制の高札」が取り払われた直後であって、周囲の住民や役人をむやみに刺激しないように配慮したとも言われています。ですから、この明治村に引っ越してきても、やはり質素な外見で、ほかの明治時代の建物からするとひっそりと建っている建物です。
●ただし、中田神父にはそれが心惹かれる部分でもありました。イエス・キリストはかつて人々に次のような言葉を言ったことがあります。「わたしの家は、祈りの家でなければならない」(ルカ13・46)。これは、神殿内でいけにえにする動物の売り買いをしている人のざわめきが聞こえた時に、神殿を本来の礼拝の場所に戻すために、動物の売り買いをしたり両替をして商売している人たちを追い払いながら言った言葉とされています。
●私は、ひっそりとたたずんでいる大明寺教会を見ながら、そして聖堂内に入り、なかなか人が訪れない静けさをむしろ喜びながら、先の聖書の言葉を思い返していたのです。「わたしの家は、祈りの家でなければならない」(ルカ13・46)。この明治村に教会は3つ存在しますが、ある意味で、大明寺教会がいちばんその大切な役割を果たしていたのではないかなと思いました。
●ほかにも、興味のある建物をいくつか絞って見学しました。それらについてもゆっくり話したいのですが、そろそろ話をまとめなければならない時間になってきました。明治村に移された大明寺教会に出会えたことは大変大きな喜びでしたが、本来伊王島の中にあるはずの建物であり、私が主任司祭であるはずです。そういうことをあらためて考えながら旅行のことを振り返っていたら、大明寺教会について考えさせられる文章に出会いました。以下、その文章を引用して、今月の話のまとめとしたいと思います。
●この文章を書いた方はイエズス会の司祭で、長崎の26聖人記念館におられる結城了悟神父さまです。その著書「長崎の天主堂」(西日本文化協会、1976年8月)の中で「天主堂の死」と題して次の文を書いています。


「私は天主堂がなくなるのを見た。一番古い天主堂のひとつであった。年の重さの下にだんだん弱くなっていた上に人間の理解が足らなかったのでその姿は消えた。伊王島の大明寺の天主堂は秘密教会と塔やステンドグラスがある天主堂の間の興味深い建築であった。
この建築の宝を保存する方法がないだろうかと私は考えた。この天主堂は立ち去った時代の証し人であり、将来のため教えになるものである。
大明寺の天主堂を壊すのは数日しかかからなかった。アーチと柱、祭壇などのまだ役に立つ木はていねいに包まれて、島から、長崎から、遠いところに送られた。そこに、いつかもう一度建てられるそうであるが、決して同じものではないだろうと思う。そこには長崎の空も海もないからである。また一つ長崎は宝ものを失なうことになった。」


●長崎は、今世界遺産登録に向けての動きで大変賑わっています。ただし、この世界遺産への動きも、「長崎の教会らしさ」が無くならないように、十分に気を付けたいと思いました。「世界遺産」という名前に浮き足立って、「長崎の教会らしさ」をいつの間にか売り渡すことのないように、過去の痛みを決して忘れないように、心したいと思った旅行体験でした。

2008年3月

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●こんにちは。中田神父です。桜の開花も間近となった3月下旬(下旬と言っているところですでに、録音の締め切りを過ぎてしまっていますが)、散歩に出かけました。散歩と言っても怠け者の中田神父はミニバイクでぐるぐる回って春を探しに行ったのでした。
●島を回ってみると、山のあちこちで桜のつぼみがふくらみ、今か今かとその日を待っているのがよく分かりました。あー、ここに春がやってきている。そんな、ワクワクした気持ちにさせられました。
●そんな散歩の途中で、思いがけない大きな音に驚きました。何か分かりませんが、パーン、とふだんでは聞くことのないような大きな音がしたのです。私は音の聞こえた方に目をやり、何が起こったのかを知ろうとしたのです。
●すると、山の中腹にある畑で、枯れ草や小枝を燃やしているお父さんが目に留まりました。火の中に放り込んでいるものの中に、竹のようなものが見えます。どうやら、この竹が火の中で破裂して、パーンという大きな音を立てたのでしょう。ようやく、何が起こったのかが把握できました。
●あの時のことを司祭館に戻って考えていました。すると、こんな考えと出来事がつながったのです。「出来事は音と映像の要素を持っているけれども、もしかしたら音のほうが先に現れて、映像はそのあとにやって来るのではないか」そういうことです。
●厳密には、映像のほうが先に生じます。山で野焼きをしている時に、たまたま入れた竹が破裂する。破裂してから音が生じ、その音が周りに響く。順番としてはこのほうが筋が通っています。
●ところが、厳密には音よりも映像のほうが先とは言っても、人間が体験するのはほとんどの場合、音が先に入ってくるのです。例を挙げればその印象はさらに強くなります。大きな音に結びつく出来事で考えると、深夜に爆音を響かせて走る暴走族に出くわしたとします。ヴーンヴーン、バリバリバリバリ。一体何の音だ?と思って振り返ると、命知らずの暴走族が走り去った後です。
●交通事故がどこかで発生したとしましょう。車と車が勢い余って衝突する。キキー、ガシャン。あー、やったなぁーと思って音のする方に目を遣ると、困ったなぁというような顔をした当事者たちが車から出て来て、あなたがよそ見しているから悪い、あなたのほうが先に出て来たから悪いと、お互い責任をなすりつけ合っています。
●または、救急車が緊急事態にサイレンを鳴らして走り去っていきます。はじめはサイレンの音がけたたましく鳴り響きます。前から来ているのか、後ろから来ているのか?耳を澄まし、目を凝らすとはるか後方に救急車が見えます。音が近づき、音が離れていきます。救急車の姿が見えなくなった後も、しばらくサイレンの音が耳から離れません。
●こうしてみると、「音」とか「声」「ことば」は、受け取る側にとってはしばしば一番最初にやってくるものだと言ってよいでしょう。今私の部屋に設置されているテレビでは、あまり褒められた話ではないですが、春の選抜高校野球がテレビつけっぱなしで放送されています。音量は最小限のメモリに絞っています。
●音声を完全に遮断することもできますが、そうすると大事な場面を見落としてしまう心配があるからです。最小の音量でも、打者が相手ピッチャーの球を痛烈に打ち返せば、「カキーン」という音が聞こえます。すると、それまでテレビを見ていなくても、「おっ、何かが起こったな」と感じてテレビに目を遣るのです。これはアナウンサーの叫び声「あーっ、1塁ランナーが飛び出している!」とか、「うーん、押し出しのフォアボールです」というような声で、テレビをちらちら見ながらでもアヴェマリアの録音の準備ができます。もちろん、録音が始まるとそういうわけにはいきませんが。
●こうした経験を踏まえて、中田神父は聖書のとある物語に、今まで気付かなかった新しい面に触れることができるなぁと思いました。その物語は、イエスが復活したのち、弟子たちを宣教に送り出す物語です。聖書の話ですから信仰に関わる内容が含まれます。お許しください。
●マルコという人が書き残したイエスの物語「福音書」の中で、復活したイエスは弟子たちに次のように言います。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・16)。弟子たちに、告げ知らせに行きなさいと言うのです。イエスの誕生、その生涯に起こったさまざまなことばとわざによるすばらしい奇跡、またイエスの死とその後の復活について、宣べ伝えなさいと命じるのです。
●弟子たちが命じられたことは、「告げ知らせに行く」ことでした。それはつまり、出来事はすでに起こったのだけれども、これから先出会う人々に、まずは「音」で、弟子たちの「声」で、起こった出来事を告げ知らせなさいということだと思います。ですから、やはりここでも、出会う人々が最初に受け取るのは、「声」「ことば」となるのです。
●イエスのこの使命を受けて弟子たちは宣教に出かけていきます。その様子を先ほど紹介したマルコは続けてこう報告しています。「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語ることばが真実であることを、それにともなうしるしによってはっきりとお示しになった」(16・20)。
●興味深いのは、弟子たちが語る、そのことばが真実であることを、「それにともなうしるしによってはっきりとお示しになった」という部分です。弟子たちによって語られ、そのことばを保障するようなしるしが与えられたのです。ここでも、「声」「ことば」がまず人々に届いていくのです。
●この発見は、中田神父にとって新鮮なものでした。私たちが耳にするものを、もっと大切にしたいなぁとも思いました。私たちはふだんの生活で耳で聞いただけで多くのことを判断しています。見ていなくても、聞いた範囲の内容でどれくらい重要な内容であるか、またその話が真実であるかどうか、多くのことを判断しているのです。
●先ほどのイエスの物語について言えば、今キリスト教徒と言われている人々は、どんな身分の人であっても、まず聞いた言葉から信じています。2000年経った現代では、「自分はイエスの奇跡やその他のわざを見てから信じた」という人はいないのです。さらにある人は信じたことを次の人々に教え、教えたことを生活の中で活かしています。私たちが耳にするものは、時には人生を大きく変え、歩むべき道を決定づけ、目で見たことよりも大きな事を成し遂げるのです。
●ついでの話ですが、音の速さ、「音速」がどれくらいなのかご存じでしょうか。調べてみると、その速さは秒速340mにも達するそうです。時速(1225km)で考えるよりも、秒速で考えたほうが、その速さがよく伝わります。実際には音の速さが意味を持つわけではありませんが、イエスが弟子たちに告げ知らせに行きなさいと言ったのには深い意味があるんだろうなぁと感じたのです。伝達の手段としては最速の道具だったことを熟知してそう言われたに違いありません。
●はじめに、「音」がやって来る。私たちはまず、「声」「ことば」を受け取る。考えれば考えるほど味わい深い話題だなぁと思いました。

2008年4月

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●こんにちは。中田神父です。今月は、私が出会った一人のガン患者についてお話ししたいと思います。この方は、今年に入ってから明らかな体調の変化を感じ、病院に診察に行ってガンだとわかった方です。すでに体調の変化に気付いてはいたのですが、まさかそこまでとは思っていなかったということです。
●診察した医師は、「次回診察結果をお知らせします」と伝えましたが、その人は医師に、「診察結果を説明する時は、曖昧さのないように教えてほしい」とお願いしました。医者はその願いを受け入れ、次回の診察時に、「これこれの材料が揃っているので、あなたは肺ガンです。私の見立てでは、五段階のうちの最終段階にまで進行しており、もはや手術の見込みはありません」ときっぱり告げられました。
●この方は診察結果を聞く時、家族を連れて行かなかったので、本人の口から家族には病状を説明しました。家族が「はいそうですか」と言うはずもなく、あわてて診察した医師に「どういうことですか」と詰め寄ったところ、本人の強い意向で病状を洗いざらい説明してほしいと言われ、説明可能なすべてのことを淡々とお伝えしたということでした。
●私は病院で、この方からたくさんの話を聞いておりまして、まだこれからもカトリック信徒の病人と司祭という立場で何度も話を聞くことができると思いますし、もしかしたらこれからの付き合いも長く、辛いものになるかも知れません。それがこのマリア文庫の宗教コーナーにお役に立てそうでしたら、本人の意向を確かめてから、折々にお話ししたいと思います。今回はその1回目です。
●重い病気、例えばガンの中でも、医師からある程度の余命まで宣告を受けるような場合は、患者はほとんどが悲嘆に暮れるのだと思います。年齢にもよりますが、その人には家族があり、身近な人がいて、その人たちと近い将来お別れしなければなりません。そのことを本人が十分理解して、悲しむことなく、前向きに1日1日を大切に生きていくというのはそう簡単なことではないと思います。
●ところが、この方は私に「病気になってしまいました。それも、余命まで告知されてしまいました」とあっさり打ち明け、これまでのいきさつを私に披露してくれたのです。これから、自分は生きていく。そのことを今まで以上に強く決意した人の姿ではないかなと思いました。
●人は健康で病気をしそうな気配すらないようなときは、「本気で生きよう」とか思わないのかも知れません。どんなに不摂生を続けても、どんなに過酷な仕事をしていても、こんなに有り余る健康では不安になれと言われても難しい。そう言う時期には、どうしても真剣に生きる気になれないかも知れません。
●ところが、余命まで宣告されてしまうと、たとえ宣告された余命が予想を裏切ってはるかに長く生きたとしても、以前のようにおごり高ぶって生きることはしなくなります。今日生きていること、今日出会う人との時間、今日誰かに伝えたことが、どれもかけがえのないものであると感じるようになるのです。
●この病人は、医師の診察結果を聞いた時、その結果を淡々と受け止め、自分の信じている信仰に照らし合わせて、これからのことを次のように考えました。「自分が生きなければならないのであれば、神さまの望み通りに懸命に生きるし、自分が死ななければならないのであれば、神さまのご計画のままにしようと思っています」。
●本人の言葉ですから、こうして皆さんにそのままお伝えしているわけですが、なかなかこの言葉を自分で言うのは難しいと思います。きっと慌てて、こんな不合理なことがあってたまるか、こんな仕打ちをどうして自分が受けなければならないのかと、私でしたら恨み言の1つや2つは言いたくなるところです。ところがこの人は、見た目には落ち着いて、神さまが望んでいることに従うだけだと覚悟していたのです。
●私はこの人と出会って、パウロという人物が新約聖書の中で残した手紙の一節を思い出しました。次のような言葉です。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(ローマの信徒への手紙第14章7節から9節)。
●パウロのこの手紙の箇所は、カトリック教会ではしばしば火葬の前の祈りの中で朗読されます。もちろん状況によっていろんな場面で使用してよいのですが、少なくとも中田神父は、1年のうち10回、この箇所を火葬の前の祈りの中で朗読しています。そして、朗読しながら、心の中ではかすかな疑問がくすぶっているのです。
●「『わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです』。うーん、本当にそうかなぁ。人は自分のために生きているし、自分のために死ぬのではないかなぁ。今ひとつ意味が分からないなぁ」。
●遺族が棺の周りに集まり、今まさに火葬されようとしているその場で疑問を感じているのですが、そんなことを言葉に表すことはできませんので、気持ちを打ち消すつもりで、はっきりした声で先のパウロの手紙の一節を読み上げるわけです。それでも、「本当に人は、『生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです』と言い切れるだろうか」という疑問がぬぐえずにいたのです。
●ところが、最近話を聞かせてもらったガン患者は、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」とはっきり自覚している人だと思いました。自分の望みでこれからの時間を生きることが許されていません。残された時間は、本人も家族も、ましてや医師も変えることができないのです。そうなると、「生きるとすれば主のために生きる」という言葉が現実のものになってくるのです。誰かのために生きたとしても寿命を1日でも延ばすことはできません。
●けれどもその最後の日がいつなのかは、教えられていません。「与えられている時間を、与えられている限り懸命に生きる」つまりそれは、「主が望んでいる限りこの世で生きるし、主のお望みとあればこの世を去らなければならない」という一種の「悟り」なのです。このような捉え方が、今自分が置かれている状況を理解するのにはいちばん適していると、お話ししている患者は確信したのです。
●どれだけ人前で、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と言って、頭で理解していても、そう簡単に体は理解しないものだとよく分かりました。司祭であろうが信徒であろうが、このパウロの手紙の言葉を身近に抱きしめた人だけが、真実を理解するのだなと思いました。
●もし仮に、私がこの人にお別れを言わなければならないとしたら、私はこの人に、あなたのおかげでパウロのローマの信徒への手紙第14章がはっきり読み解けましたと、お別れの言葉でお伝えしたいと思います。

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