マリア文庫への寄稿

「マリア文庫」とは、「目の見えない方々」へ録音テープを通して奉仕活動をしている団体です。概要については、マリア文庫紹介をご覧ください。

2007年1月 2月 3月 4月
  5月 6月 7月

2007年1月

ページの先頭へ

●こんにちは、中田神父です。昨年末から今年にかけて、似たような経験を2度繰り返しました。考えるところがありましたので、今月のお話しとしたいと思います。
●中田神父は現在長崎本土と伊王島とを行き来してほとんどの仕事をこなしています。伊王島にだけ留まって仕事が済むものならそうしたいのですが、なかなかそうはいきません。となると、どうしても行き帰りに利用する船の時間があって制約されてしまいます。ところが、この船で行き来することを制約とは思っていない人もいるのだと知りまして、考えさせられたのです。
●昨年末のことです。長崎本土でひとまず用件を終え、午後2時半になっていました。今から移動すれば15時30分の船で島に帰れるなと考えました。今いる場所からバスに乗って船に乗る場所まで行けば、じゅうぶん間に合う。そう思ったのです。
●そこで、バスの時間を近くの停留所で確認しました。ところが、この時間帯はたまたまなのか、すぐに乗れるバスがありません。私が乗ろうと考えていたバスは、東京の山手線のように一定のコースをぐるっと周回している環状線のバスでした。ということは、いつもの方向のバスに乗らなくても、理屈では反対回りでも目的地に着くことになります。
●今日くらい、反対周りで行ってみるか。そういう軽い気持ちで反対周りのバスを待つことにしました。偶然、この反対周りのバスがすぐにやってきて、これはついているな、そう思いながらバスにひとまず乗ったのです。
●バスに乗った場所にもよりますが、目的地にたどり着く周回バスに乗る場合、反対周りであればそれなりに時間がかかることは覚悟しなければなりません。私は、最終的に船に乗るのは1時間後だし、いくら反対周りのバスに乗ったからといって、目的地に1時間以上かかるなんてことはないだろう。そう軽く考えいていたのです。ところが、この考えは見通しが甘かったのです。
●反対周りのバスにすぐに乗ったのですが、このバスは途中大きな時間調整を2度行いました。1度目は出発時間になるまで待つというものでしたが、2度目はいったん運転手も降りて、休憩のために外でタバコを吸い、缶コーヒーを飲んで時間調整をしたのです。当然、出発時間にならなければバスは動きませんから、どんどん時間は進んでいきます。乗った私が悪いのですが、途中でどう考えてみても間に合わないなあと思うようになりました。
●ようやくバスが目的地に着いたとき、もしかしたら飛び込みで船に乗れるかも知れない、そんなタイミングでした。私は厚着をした服のまま、懸命に船着き場に向かって走りました。汗が額を流れるのも構わず、一目散に走ったのですが、残念ながらあと一歩のところで間に合わず、唇をかんで出て行く船を見送ることになってしまいました。
●がっくり肩を落として船の待合所に向かいます。伊王島・高島の島民はたった今出た午後3時半の船に乗ったのだから、待合所は誰もいないはずでした。広い待合所に一人寂しく座ることになるのかなと思って待合所に入ってみると、なんとそこにそこに、顔も名前もはっきり分かる人が1人座っているではありませんか。私はギリギリ間に合わなかったのですが、私より一瞬でも早く着いていれば、当然間に合っていたはずです。それなのにこの方は、悠然と目の前の船をやり過ごして待合所で次の船を待っていたのです。
●次に船がやってくるのは一時間後です。私は間に合わなかったのでしかたなく一時間待つことになりましたが、私より少し前に来ていたこの人は、自分のペースを守り、タバコを吸い、用を足し、お茶を飲み、1時間後を待ったのでした。時間を持て余している様子でもなく、ゆったりと、一時間かけて船に乗る準備をしているように見えました。
●どうしてあんなに悠然と構えていられるのでしょうか。先ほどの船の時間でも、すぐ行けば間に合っていたことでしょう。私は時間を持て余しながらも、この人をじっくり観察していてこう思ったのです。この人は、船の時間に振り回されるのではなく、あくまでも船には自分の都合で乗っているのだ。船にせき立てられて乗るのではなくて、自分のペースで動いているのだと思ったのです。
●時間がいくらあっても足りない人にとって、この人の行動は理解できないと思います。けれども、忙しくしているようで時間に振り回されていれば、本当のところ忙しくしているその人は時間という渦に巻き込まれておぼれかけているのであって、時間の主(あるじ)ではないということです。反対に、一時間かけて自分のペースで船を待っていた人は、時間の中心にいたのだと思います。
●時間の洪水に巻き込まれて、おぼれかけている人がどんなに多いことでしょう。こう言っている中田神父も、時間に追われ、追いかけられて疲れ果て、歩みを止めた途端に時間の渦に巻き込まれておぼれてしまう一人です。

●船を一本やり過ごした人の気持ちをすべて知ることはできませんが、こんなふうに言えるかも知れません。たとえ、目の前に船がいたとしてもその人は「わたしが船に乗る気になっていないから乗らない。船に乗る気になったら、その時に乗る」という考えだったかも知れません。そんなことを思っていると、聖書の中の一つの奇跡物語を思い出しました。
●ある結婚披露宴にイエスとイエスの母マリアと、弟子たちが招待されました。披露宴の席でぶどう酒が振る舞われていたのですが、何とそのぶどう酒がなくなりかけていました。喜びや楽しみを分け合うためのぶどう酒がなくなれば、宴会の客は家に帰ってしまうでしょう。マリアはその様子に気付いたのでイエスに「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2・3)と言いました。するとイエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2・4)と言ったのです。
●イエスは必要とあらば奇跡も行うことはじゅうぶん考えられるのですが、いつそのような不思議を行うかが問題になっています。「わたしの時はまだ来ていません」と言っているのは、その時が来たら不思議を行います。その時が来るまで待つ必要があります。と言いたいのでしょう。その時がやってくることを海の漁師たちは「潮時」と言います。潮時にならなければ、動くものも動かない。潮時をわきまえて行動しなさい。船を一便送らせたあの人は、そういう教訓を、私に教えてくれたのかなあと思いました。
●私たちは自分が慌てふためいているとき、いろんな思いで心が乱されます。どうして相手は急いでくれないのか、どうしてあの人から返事が来ないのか。それは「時」がまだ満ちていないということかも知れません。まだ潮時でないのかも知れません。人間がどれだけ急ぎの予定を立てても、神が計画している時間にならないと動かないということを、暗示しているのではないでしょうか。
●イエスが結婚披露宴の席で見せた「わたしの時はまだ来ていません」という態度は、覚えておいて損はないと思います。思い通りに事が運ばないときにはどうしても焦ってしまいます。けれども、「まだその時ではないのかも知れない」という気持ちを保つことができるなら、慌てず騒がず、その時を待とうという気持ちになれるでしょう。来るべきその時というのは必ずやってきます。「今がその時ですよ」と心の中で声がしたときに、遅れることなく行動を起こせる人でありたいと思います。

2007年2月

ページの先頭へ

●こんにちは、中田神父です。2月の12日は朝から晩までのことを書くだけで15分になりそうなくらい盛り沢山でした。ずらっと並べてみましょう。まずこの日は、三連休の最終日でした。土日月の三連休なのですが、私は教会の神父なので、土曜日と日曜日は公務でいっぱいです。それで、月曜日くらいは休みましょうということで島を出てリフレッシュのための時間を取りました。朝の9時47分の船に乗り、夜の会議の時間に間に合うように夕方5時半までゆっくりする予定を作ったのです。
●ところが、この予定は朝の9時半で変更せざるを得なくなりました。横浜から教会訪問に来た一行が司祭館を訪ねてきて、教会でお祈りさせてほしいと頼みに来たのです。そのグループの中には、何と今年の5月に横浜で司祭になる予定の人が含まれていました。
●もし、巡礼者が一般の人だけだったら、「今日は月曜日で、教会を開放している土曜日日曜日ではないので、申し訳ありません」と断っていたかも知れません。けれどもあと数ヶ月で司祭になる人を前にして、「申し訳ないけれども」と言ってしまえば、横浜の教会信徒からは「長崎の神父は横柄だ。今そこにいるのに、私たちのために教会を開けてもくれない」と言われるかも知れません。
●ここはいったん自分の予定をあきらめ、正直言えば「心から喜んで」ではなく、「船に乗りたかったなあ」と思いながら教会の中で建物の歴史や、島の人口の中でカトリックの人がどれくらいいるかとか、そんな話を20分ほど話してあげました。
●やれやれ、と思いつつ、次の船の便を待ちます。「今日は連休の最終日、連休といえばこの船を待つターミナルでおもしろい出会いがあったなあ」と、ふとある日のことを思い出していました。その出会いとは、私が今の教会に赴任する前の教会の子供のことでした。その子は私が転勤していくときに中学を卒業する年齢になっていて、高校はふるさとを離れた土地に下宿してかようと、そこまで聞いていたのでした。
●2年ほど前に、私は今立っているこの場所で、偶然その子供とすれ違ったのです。その子は休みを利用して伊王島の探検に来ていたのでした。当時も背が高かったのですが、高校1年生になってさらに背が伸びて、私はその子を見上げながら、「めずらしいなあ」と声をかけたのです。するとその子も、この伊王島で私とすれ違うとは思ってもいなかったのでしょう。「えー。神父様はここの教会に転勤していたんですか」と言われ、船の乗り降りの時だったのでそれだけ声をかわしてすれ違ったのでした。
●「このターミナルで偶然会ったんだよなあ。あいつ、今頃どうしているんだろう」そう思って私は船に乗り、この日計画していたとおり、JR長崎駅に移動して電車に乗りました。するとどうでしょう。私が何気なく思い出したその高校生と、同じ電車で隣同士に座ったのです。これにはビックリ仰天しました。当人は気付いていなかったようですが、私は偶然の巡り合わせに、神さまの不思議な計らいを感じました。
実はこの「電車でばったりであった」ことは、もっと不思議な出会いを暗示していたのですが、それはもう少ししてから話しましょう。このあと予定していた時間割をこなし、夕方、伊王島に戻ろうとして長崎側の船着き場に到着しました。ニュースに流れた放送に目を疑いました。五島列島の北部にある小さな教会が、全焼したというのです。
●中田神父は、その教会を何度か訪ねてお祈りを捧げたことがありました。外から見たときは普通の民家のように見えるのですが、中は立派な西洋建築の聖堂でした。原因は電気配線の漏電によるものなのだそうです。本当にものの見事に焼け落ちた様子がテレビに映されていました。残念でたまりません。同時に、私が今任せられている教会の防火管理は十分だろうか。強く反省させられました。
●一日の予定もほぼ終えて、伊王島に戻り、司祭館の前に立ってみると、郵便受けに一通の手紙が差し込んでありました。郵便局員が運んだ手紙ではありませんでした。その手紙の差出人は、私の兄弟でした。三男です。彼は自閉症といって、周りの人とうまく会話することができない傾向があります。小さい頃からでした。それで早くから施設に入り、訓練を受け続けていました。
●手紙によると、この弟が三連休の最終日、施設の行事として伊王島に足を伸ばし、ホテルのバーベキューを食べに来ていたのです。伊王島に足を伸ばせば、教会も同時に訪ねてきます。施設に入所している仲間たちと、三男の弟は私を訪ねて教会に来ていたのでした。その、郵便受けに差し込んでいた手紙を、そっくりそのまま読んでみることにします。

輝次おにいさんへ きぼうの里 きてました。
きょうは余暇支援で
長崎温泉のやすらぎ伊王島に
きております。教会までにみんなと
一緒にきて おにいさんおらないことに残念やったです。
元気でがんばってください。
平成19年2月12日(月)
午後13:50
もっとも愛するおとうと靖夫より さようなら
時間があったら電話してください。 0957-25-****

●私は弟の手紙を読みながら、さまざまな思いがあまたの中で駆けめぐりました。まず、私がこの日外出せず、弟に直接会うことができたなら、弟にとって誇らしい兄をみんなの前で紹介できて、本当に嬉しかっただろうに、ということです。
●時間を決めてどこか他の場所で会うのではありません。自分の兄は、あの美しい教会で働いている主任神父だ。兄が働いているその場所で今日は会える。この状況は他には成り立たないわけですから、教会で会えることは特別な意味があったはずです。
●また、私はこの三男の弟をあまりよく思っていませんでした。弟の病気のせいで、母親は夏休み冬休み春休み、必ず施設まで送り迎えをしなければなりません。運動会や文化祭にも、都合をつけて遠出をしなければなりません。熱が出た、具合が悪くなったと言えば、遠い五島列島から船に乗ってその施設に通わなければなりません。弟が病気だから、母親はあんなに苦労している。弟があんな病気でなければ母親に重荷を負わせることはなかったのに。私は弟がどうしてもゆるせませんでした。愛することができませんでした。
●ところが、弟の手紙には私に対する尊敬の気持ちと深い愛が込められていたのです。私は長い間弟を愛することも、ゆるすこともできなかったのに、弟はそんな私のことは知らずに、ずっと尊敬し、愛してくれていたのです。イエス・キリストは互いにゆるしあい、愛し合いなさいということを絶対の命令として信じる人々に求めるのですが、私はそれがまったくできていなかったのです。むしろ弟のほうが、私以上にイエス・キリストの命令に素直に生きていたということなのです。
●私は、弟のこうした深い愛情に心を打たれ、心を洗われました。もしやその日一日は温泉施設に宿泊していないだろうか。そんな思いで慌ててやすらぎ伊王島に連絡を取ったのですが、残念ながら弟たちのグループは日帰りで施設に戻っていました。
●私は手紙をすぐに準備し、弟に会いに行く約束をしました。弟が思っていたことを兄が果たしてあげたい。そういう思いからです。弟はこの施設に入って立派に自分の役割を果たしている。私の自慢の弟は、この施設でこんな仕事に携わっている。私は弟を誇りに思っている。そんな思いを、出かけていって伝えてあげたいと思ったのです。
●文字に表して表現するような、筋道立てての内容、論理的な考えは弟の頭の中にはもしかしたらないかも知れません。けれども、宗教の道で一生歩いていく私にとって、三男の弟からこんなに貴重な教えをもらって生きるとは驚きでした。私は確かに、弟のことを理解していなかったのです。弟のほうが自然に、理屈抜きで、イエス・キリストが求める生き方を実行していたのでした。
●イエス・キリストの次の言葉が思い浮かびました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8・21)。聞いて、行うことに、人間的な能力の多い少ないは関係ないのかも知れません。

2007年3月

ページの先頭へ

●こんにちは、中田神父です。締め切りをはるかに過ぎて、延び延びになってしまいました。この締め切りを過ぎてから、交流のある一人の神父様に、とある青年の話をしたのです。29歳のこの青年は、3月の中旬に職場の朝礼を終えた後脳出血を起こし、急いで病院に運ばれたのですが意識不明の重体になってしまった青年でした。
●結果としては、3月の下旬にこの青年は神に呼ばれていったのですが、この青年が意識不明の重体であったときに、交流のある神父様に「うちの教会の青年で、一人心配な子がいるんです。心に留めて、お祈りしてもらえませんか」と話しました。
本人が意識不明の重体で、脳波も反応がないのだと話したところ、意外にもこのような言葉が返ってきました。「中田神父さん、人間は聴覚が最後まで残るそうですよ。ですから、最後の最後まで声をかけてあげた方がいいってよく言われています」。聴覚が最後まで残るのだという話は、私は初めて知りました。恥ずかしながらそれまではまったく知らなかったのです。
●私は、この青年も客観的に考えれば残りわずかだろうし、教会の主任司祭としては何か話してあげる言葉を探さなければならないと考えていたところでした。「聴覚は、最後まで残るんですよ」と聞いたとき、何か話すことができるのではないか、直感でそう思ったのです。
●3月中旬に家族から脳出血で病院に運ばれたと連絡を受けたとき、私はすぐに病院に向かうために船に乗りました。すぐに、とは言っても1時間後の船しかなかったので大変もどかしい思いをしたのですが、焦っても仕方がないので私は心の中で、彼にどんな声をかけてあげようか、家族にはどんな言葉をかけてあげようかと、落ち着け落ち着けと言いながら考えを巡らせていました。病院ではいつ来るかと私を待っていた青年の両親が出迎えてくれて、病室に着くまでに大まかな様子を聞かせてくれました。ご両親は心配していたよりはしっかりしていて、私は少し安心しました。
●本人と対面したとき、正直私は、これは厳しいなあと感じました。自発呼吸はなく、安らかに眠っているような顔をして、額に手を置いても人肌のぬくもりという感じではなかったからです。けれども私はカトリック司祭として、必要なお世話を施し、声をかけたのです。大丈夫、みんなそばにいるよ。実際、家族はこの日から片時もそばを離れず、あきらめることなく声をかけ続けてくれたのです。
●この原稿を書く時点では青年は神に召されていたわけですが、聴覚が最後まで残るということを聞いたとき、当時を振り返ってこう思ったのです。この青年は、家族の愛情深い声をずっと聞きながら、最後を迎えたのではないだろうか。また、声が聞こえるということは、カトリック信者であったあの青年が、イエス・キリストの声も当時聞くことができたのではないか。そういうことを考えたのです。
●イエス・キリストの生涯を振り返ってみて、また今回の青年の置かれた状況を重ね合わせて、私はイエスの二つの言葉を思い出しました。一つは、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4・9など)という言葉、もう一つは、直接繋がらないように思えるかも知れませんが、「わたしに従いなさい」(マタイ9・9など)という言葉です。
●イエスは宣教活動に出かけていろんなたとえを話しながら、「聞く耳のある者は聞きなさい」と仰いました。青年も、家族の愛情深い励ましや慰めの声が力強く響いている中で、イエスの声にも耳を傾けていたのだと思います。耳が最後まで働いてくれる、聞こえてくれるって、神さまが造ってくれた人間の体は何と立派なことでしょう。
●また、この青年は8日間ほど長らえたのですが、家族の話では偶然にもその間に会うべき人にはすべて会うことができたのだそうです。それは、一人ひとりの声を聞きながら、本意ではないにしてもお別れをしなければならない、そのお別れをするため、時間が与えられたのかなあと言っておりました。もちろん、家族とのお別れをするためにも、十分に家族に愛されていることを感じ取るためにも、この8日間は必要だったのかも知れません。
●次に、イエスは宣教活動の初めに、弟子を集めました。その時にかけた言葉が、「わたしに従いなさい」という言葉でした。生き方を、これまでの生き方から、イエスの導きに従っていく生き方に切り替えること。この決断が、イエスに従うということだと思います。聖書の中では、もちろん弟子になる人に決断を求める言葉だったのですが、この青年に当てはめて考えれば、この世に残って「イエスに従う」ことにするのか、この世を去って、神のもとでずっと「イエスに従う」ことにするのか、その選択を青年に求めていたのかなとも思ったのです。
●家族の愛情深い呼びかけがずっと聞こえています。そんな中で、もう一つの声「わたしに従いなさい」という声も響いています。自分は、もう行かなければならない。残念ながらこの世にはもう留まることができない。これまで愛し続けてくれたお父さんお母さん、お姉ちゃん、周りのみんな、本当にありがとう。感謝の気持ちを持ちながら、それでも決然としてイエスの声に従って神のもとへ旅立つ。心の整理をするためにも彼は8日間が与えられたのかなあと思いました。
●29歳と言えば、おそらく平均的な人生の半分も過ごしていないことになります。まだ結婚もしていませんでした。家族もこの青年を通して将来いろんな喜びを与えてもらうことができたかも知れません。けれども運命というものは時に厳しいもので、私たちの淡い期待をかき消してしまうことがあるのです。
●ただ、それでもあえて言わせていただけるなら、彼は最後の最後まで、家族が片時も離れず声をかけてもらったということは言えます。家族の愛を受けて、キリストの声に力づけられながら、この人生の幕を閉じたのだと思います。最後まで耳が聞こえるということ、聴覚が最後まで残るということ、これは人間に備わった仕組みなのでしょうが、本当に不思議な、本当に考えさせられる働きだなあと思ったのでした。

2007年4月

ページの先頭へ

●こんにちは、中田神父です。結婚式でお話ししたことを、今月の話にしたいと思います。えー、こんなことを話してお祝いの言葉にしてるんですかと、叱られるかも知れませんが、中田神父はいつも自由な発想で話します。その一例をどうぞお聞き下さい。
●アヴェマリアをお聞きの方は私の趣味のことは十分ご承知だと思います。私は海の魚釣りが大好きです。川や湖の魚釣りもありますが、私はいたって海の魚専門です。そして海の釣りの中でも、現在はボートに乗って、好みの魚のいる場所で釣りをするのがほとんどです。
●さて、この魚釣りのことを十分に話してから、結婚生活の一つのポイントに入りますので、しばらく魚釣りに付き合ってください。ボートでの魚釣りは、多くの場合海底数十メートルの場所にいる魚を、ボートの上から釣るというものです。私が釣りをする場所も、だいたい海底40メートルの場所です。同じ魚を釣る場合でも、季節によっては80メートルから100メートルの深い場所が狙う場所になってきます。
●この深い海の底で釣りをする難しさは、実際に体験しないとなかなか伝わりませんが、それは、釣り糸をピンと張って、40メートル先の出来事を海の上で感じ取らないといけないということです。おもしろいことに、この40メートル先の魚の様子を感じ取ることを「聞き合わせ」と言うことがあります。
●実際には音を聞くわけではありませんが、竿先が微妙に動く瞬間や、40メートル伸ばした釣り糸に伝わる魚の挙動を敏感につかむ様子は、「聞く」という表現がいちばんよく言い当てているので、そう言われているのでしょう。おもしろいと思いませんか。
●では、ボートで釣りに行くような深い場所では、「聞く」ことができれば魚を釣ることができるのでしょうか。言い切ってしまえば、その通り、「聞く」ことができる人は魚を釣ることができます。ところが、この「聞く」という作業は、ボートの上ではそうたやすいものではないのです。
●想像してみましょう。ボートの上にいるということは、つねに不安定な状態で座っているということです。海の上、海上は、例外的な天気を除けば、多少の波があるのが普通です。波のおかげで、船は上下し、当然釣り道具と道具を持つ自分も上下します。その中で、40メートル先で起こるかすかな変化をとらえなければなりません。
●また、釣り糸を40メートル沈めるということは、釣り糸にはある程度の重さのおもりが取り付けてあるはずです。例えば100グラムのおもりでまっすぐに張られた糸に、わずかな魚のアタリが加わります。最初のおもりの重さに、かすかに重さや振動が加わるのですから、その変化を聞き分けるということもそうたやすいことではありません。
●さらに加えて、海上には自分たちだけがいるわけではありません。人々を運搬する客船や、自動車やバイクだけを専門に運搬する船、また沿岸で漁業を営む漁船がそばを通過したり、その他の貨物船が通ったりします。それぞれの船がエンジン音を響かせて通過するのですが、同時に、船は波を作ります。釣りをするボートはその波をまともに受けてしまうのです。
●このような諸条件の中でも、集中して、40メートル先の出来事に耳を澄ます必要があります。ですからボートの上の釣りと言ってものんびり優雅に釣りをしているのではなく、神経をとぎすまして、40メートル先のドラマを絶えず「聞いて」いるのです。たぶんこんなに複雑なことをしているとは、たいていの人が想像もしていなかっただろうと思います。
●魚釣りの話をここまでたっぷり話しました。さてこの釣りの話が、結婚式の話にどう繋がるかと言いますと、実は結婚生活も、お互いがお互いのことを「聞き合う」ということが、結婚生活に実りをもたらす大切な鍵なのです。この「聞き合う」という作業に、釣りと結婚する夫婦は通じるものがあります。
●夫婦は、もともと生まれも育ちもまったく違った環境の2人が、生涯にわたる愛を誓い合うものです。生まれも育ちもまったく違うということは、40メートル離れた魚と釣り師の関係のようなものです。夫婦は絆という糸で結ばれています。けれどもお互いはもともと別々の人間なのですから、絆という糸は細い細い糸なのです。その細い糸の先にいる配偶者のことを、常日頃から敏感に感じ取る、相手のことを聞き合うことが大切なのです。
●例えば、配偶者はお互いの健康状態について、具体的に話してもらわなければ十分に知ることはできないでしょう。そうは言っても「さああなたの健康状態を話なさい」と言って聞くわけにはいきません。日頃の様子から、今配偶者は身体的にも精神的にも健康なのか、聞き耳を立ててじっくり確かめる必要があります。ほんのわずかの変化も見逃さず、その変化が健康を妨げるものであれば守ってあげようとするし、健康に向かう兆しであれば共に喜び合います。
●ときには、一つ屋根の下で寝起きしている夫婦であっても、配偶者に心配事を打ち明けることができないで悩んだり苦しんでいることもあるでしょう。解決が難しくなってから配偶者の悩みを知ったとき、力になってあげられなかったことにショックを覚えるかも知れません。私はこんなに近くにいたのに、なぜ私に頼ってくれなかったのだろうか。怒りを覚えたり、不信感に苦しむかも知れません。
●ところが、配偶者に正直に話すことができなかった相手も、実は配偶者に申し訳ないと思っているのです。このような場面に陥った夫婦は、「互いに聞き合う」というやりとりがうまくいかなくなったのが原因ではないでしょうか。どんなに近くにいる2人であっても、注意しないと大切な合図を見落とすことがあるし、かすかな変化に気付いてあげられないことがあるのです。どんなかすかな兆候も見逃さない。それは、釣り師が40メートル先の出来事に耳を澄ませているあの姿です。顔を引きつらせて耳を澄ませる必要はありませんが、笑ったりするくつろいだ雰囲気の中で、耳を澄ませておくのです。
●釣りのことで恐縮ですが、あるベテラン釣り師から、こんなことを教わったことがあります。「神父さん、魚を釣り上げるには、『コツッ』と音がしてからでは遅いんです。『コ』と『ツッ』のあいだで引き上げなければ、魚は釣れないんです」。名言だなあと思いました。
●夫婦の間でも、注意深く耳を澄ませて、かすかな兆候をとらえる必要があります。もしかしたら、「コツッ」と音がしてからでは手遅れ、というような大変デリケートなこともあるかも知れません。そんなとき、私でしたら祈ることを勧めます。「どうか、私がかすかな兆しも逃さないようにして、豊かな結婚生活を送ることができますように」。きっとあなたが信じる方が力ある方ならば、あなたの祈りに応えてくれるに違いありません。
●最後になりましたが、このたびの長崎市長選挙で銃弾に倒れ、亡くなられた伊藤一長前長崎市長のために、心からお祈り申し上げます。

2007年5月

ページの先頭へ

●こんにちは。中田神父です。こんにちはって言いながら、今回は夜の11時50分から準備し始めました。こういう人をオオカミ少年と言います。もう少年と言うには歳を取っていますが。早速本題に入りますが、今月は来世について思うところを話してみたいと思います。中田神父の来世についての考え、と思って結構です。
●今回の原稿を準備するのに、2002年の3月日から始まった全ての原稿にいちおう目を通しました。全てと言いましたが、一つ二つ見つからない原稿がありますので、可能性がゼロだとは言いませんが、今回の話は重なってないようなので、安心してお話しできるなあと胸を撫で下ろしているところです。
●来世について、と言いました。来世をどのように考えているか、それぞれの意見があると思いますが、来世がある、という前提でお話ししたいと思います。来世があって、そこは私たちが死後に行く場所である、と考えておきましょう。厳密には、場所と言っては問題があるかも知れませんが、とりあえずここでは死後に行く場所と考えておきます。
●その、来世について、まず考えておくべきことは、来世で幸せに過ごすことが望ましいということです。来世で苦しむとか、来世で苦労するということはあまり考えたくありませんし、そうでないことを願いたいものです。きっと来世では、たとえばこの世では味わえなかったような幸せな状態を味わえるものだと期待して考えを進めてみましょう。
●来世は幸せに違いない。いちおうそのような状態を期待し、想像することにします。幸せであるためには、何かの条件が必要かも知れません。無条件に幸せにしてくれるのであれば、反対にこのような推理や順序立てて考えを練ることは無駄でしょうから、何かの条件が必要だと考えたいと思います。来世で幸せに過ごすためには、なにがしかの準備が必要である、ということです。
●準備と言いました。来世の準備です。来世の準備は、今、この生きているときにしておかなければなりません。これから例えを引きながら話しますが、来世の準備は、今必要なのです。来世になってから準備できるものではなく、来世の準備というものは、今この世に生きているうちに、確実に済ませておく必要があると思っています。
●ここで、来世の準備についてのたとえを考えてみましょう。私たちはある日ある場所で、母親のお腹の中から生まれてきました。母親のお腹の中で、10ヶ月ほどとどまって、それから泣き声を上げて生まれました。だれもが経験した、この胎児の期間のことをたとえに引いてみたいのです。
●私たちは母親のお腹の中に10ヶ月ほどとどまっていました。その間、どんな状態で過ごしていたかご存知でしょうか。例えば、息を吸ったりはいたりして過ごしていたとか、ご飯を食べて過ごしたとか、どんなふうに過ごしていたかご存知でしょうか。
●多くの方がある程度のことは知っておられると思いますが、赤ちゃんは母親のお腹の中にいるとき、へその緒でつながって、液体に満たされた状態で過ごしています。お腹の中の液体のことを羊水(ようすい、羊の水と書きます)と言うのですが、必ず胎児は羊水に満たされた中で過ごしているのです。
●では、簡単な質問をしましょう。液体の中に10ヶ月も過ごしているのですが、赤ちゃんはお腹の中で息を吸ったりはいたりしているのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。赤ちゃんはお腹の中にいるときは、まだ呼吸はしていないのです。では、ご飯を食べたりしているでしょうか。ご飯も、胎児は母親とへその緒でつながっているので、食べたりはしません。
●では、質問をもう少し続けましょう。お腹の中で、呼吸をしないのに、なぜ赤ちゃんは呼吸するための器官、肺とか、鼻とかを形づくっていくのでしょうか。同じく、食べることもしないのに、なぜ口を形づくっていくのでしょうか。呼吸もしてないし、ご飯を口から入れてもいないから、鼻や口を形づくるのはやめようかなあと、そんなことを考える赤ちゃんはいないのでしょうか。
●何と変な質問をする神父さんだろうと、皆さん思っているかも知れません。ですが、これは結びの話のためにどうしても話したいたとえなのです。赤ちゃんが鼻や口、目や耳や手足を徐々に形づくっていくのは、生まれてきてから絶対に必要になるからですね。おぎゃー、と声を上げた瞬間から、呼吸をしなければなりませんので、呼吸するための器官を生まれるまでに全て準備しておかなければ間に合いません。
●同じように、生まれてきた赤ちゃんはすぐに口から栄養を取る必要に迫られますから、食べるための、口から摂取するための準備を完全に調えていなければならないのです。それは他の器官、目、耳、手足とか、全てに同じことが言えます。もし、「あれっ?お母さんのお腹から出てきたら、鼻と口で呼吸しなければいけなかったのね。じゃあ慌てて今から準備します」とそんなことを赤ちゃんが考えたとしても、それでは絶対に間に合わないわけです。
●つまりこういうことです、赤ちゃんは、今は直接必要ないというものであっても、次の世界で、すなわち生まれてきたときに絶対に必要になるものは、今この時点で必ず準備する、準備を怠ることはない、ということです。今のことだけ考えるならば、呼吸器官や視覚や味覚、五感の全てと言ってもいいですが、それらのものは必要ないものかも知れません。今だけを考えれば、必要ないからということで準備しないでも構わないと言い張ることができるかも知れません。
●けれども、赤ちゃんには必ず次の世界が待っているのです。次の世界では、まったく違う生活に移っていくのです。その、まったく違う次の世界に対応できる全ての準備を、今しておかなければ、次の世界では間に合わないということです。そしてこのことは、実は私たちの今の生活に、何かを考えさせるヒントになるのではないでしょうか。
●私は今月の話の最初に、来世について話してみたいと言いました。私たちは今、現世で生きています。現世のことだけ考えれば、来世の準備は要らないと、考える人がいるかも知れません。来世の心配なんてしていられないと、考えるかも知れません。ですが、たとえに引いた赤ちゃんのことを考えるとき、次の世界がまったく違う生活に移っていくのであれば、次の世界に対応できる準備を、今のうちにしておかなければ間に合わない、ということになるのではないでしょうか。
●私はこう考えます。来世はあると、信じています。私を来世に招く方がおられ、来世に私は迎えられていく。その時、私がこの世で、現世で何かしら準備をしておいたことが、必ず役に立つ。そう考えています。問題は、何を準備するか、言い換えると、来世では何が必要なのか、ということです。学力でしょうか。体力でしょうか。財産でしょうか。名声でしょうか。はたまた人脈でしょうか。
●今挙げたような事柄は、残念ながら、来世ではほとんど役に立たないのではないかと考えています。この現世では大いに役に立つものをとりあえず並べてみたのですが、おそらく、来世ではそれら全てが、塵のようなものと判断されるのではないかと思います。では何が必要とされるのか。私にははっきりした答えがあります。それは、信仰です。
●何の信仰か、何を信じているのか、宗教とか、宗派とか、そういったことを言っているのではありません。来世を信じていて、あなたが何か信じている相手がいるとすれば、その相手に対する信仰が、来世では物を言うのではないでしょうか。そして、信仰心を、この現世で育てておかなければ、準備しておかなければ、来世に行ってから大変なことになる、間に合わなくなるということです。
●今、生きている内に信仰心をしっかり養っておくこと。来世を信じているというのでしたら、ぜひこの点を覚えていてほしいと思います。信仰心があるからといって病気にならないわけでもないし、仕事を失敗しないわけでもありません。信仰は、そんなことにはまったく役には立ちませんが、少なくとも、次の世界の準備にはなります。来世では、信じているお方に対する信仰だけが頼りなのですから。
●さて、信仰心を簡単に言うとどういうことになるでしょうか。こういうことではないでしょうか。「わたしは、あなたを信じています。わたしは、あなたを愛しています」。もし、この「わたしはあなたを信じています」ということが信仰心であるとしたら、私たちは今この現世で、どんな準備ができるのでしょうか。「わたしはあなたを信じています」という証しは、具体的には何によって分かるのでしょうか。
●私は、これも答えは単純だと思います。その信じている方に、祈るということでしょう。信じていますと言うのであれば、その相手に祈るということは自然なことだと思います。そして、この世で祈ることで、信仰心を育て、ひいてはそのことが来世への確実な準備になるのではないでしょうか。もっとたくさんの例を挙げたいのですが、ここではこの辺にしておきましょう。
●さて、私たちは以前いた母親のお腹の中から出て来て今を生きています。次は、今のこの世を離れて次の世界に行きます。今、祈ることで信仰心を養い、準備すると言いました。最後に一つの問いかけをして今月の話を終わりたいと思います。私は、祈り方を知っているでしょうか。私は何か一つでも二つでも、祈りを知っているでしょうか。

2007年6月

ページの先頭へ

●こんにちは。中田神父です。今回は「沈黙」ということについて少し考えてみたいと思います。もちろん、意味はそのままの「静かな状態、音のない状態」のことです。馬込教会の司祭館で司祭のために奉仕してくださっている賄いさんのちょっとした体験をもとに、この沈黙について話を進めていくことにします。
●現在、馬込教会の司祭館では74歳の女性信徒が賄いさんをしてくださっています。賄いさんのお仕事は掃除、洗濯、料理、中田神父の外出中に適当に電話の応対をすること、魚釣りに行っているときは「神父様は用事で出かけております」と返事をすること。こういったことが仕事の内容です。
●さてこの賄いさんが8月の下旬にイスラエル、ローマ、スペイン、フランスといったキリスト教の名だたる聖地へ巡礼に行くことになりました。初めての海外旅行、とても心配して、パスポートのこと、お土産のこと、こまごま聞くものですから、短気な私はぶっきらぼうに答えたのです。「顔が付いてるから、パスポートは取れますよ」「『これー、いくーら』と抑揚を付けたら、ちゃんとお店の人は売ってくれます」。カンカンに怒られてしまいました。
●問題はここからです。友だちといっしょにこの巡礼を申し込むというのですが、友だちは耳が聞こえません。彼女と無事に初めての海外を回ってこれるだろうかと心配していたのです。彼女が、自分にとって負担にならないだろうかということだったのでしょう。「神父様、やっぱり連れて行かない方がいいでしょうか」。その言葉に少々ムッときた私は、すかさずこう言ったのです。「あのさー、外国語がまったく分からない賄いさんと、耳が聞こえない友だちと、いったいどの程度の違いがあるわけ?たいして変わらないじゃない。連れていってあげなさいよ」。私はこの会話で、賄いさんの不安は解決したものだとてっきり思っていたのです。
●1ヶ月後のことでした。賄いさんが「神父様、私決めました。友だちを連れて行くことにします」そう報告してきたのです。そんなことを決めるのに1ヶ月もかかるのかと思っていましたら、続けてこう言いました。「この前、知り合いからこう諭されたんです。『あんたね、外国に行ったらわけも分からん言葉が飛び交って、かえってあんたがパニックになるかも知れんよ。そんな時に、耳の聞こえない友だちのほうが落ち着いていて、助けてもらうことになるかも知れんやかね』って。そう言われてみればそうかなあと、納得しました。だから、友だちを連れて行きます」。
●私はガックリきました。皆さんお分かりかと思いますが、私が1ヶ月前にそのことを諭したはずでした。ちゃんと考えて分かるように話したのに、彼女は1ヶ月後に別の人から言われたときに心に響き、初めて諭しを理解したのです。私が諭したときにはあまりにも矢継ぎ早に言ったので、何も届いてなかったのでしょう。悲しいなあ、どうしてすべて答えてあげていたのに、その時に分からないのかなあと思いました。けれども別のことも考えたのです。もしかしたら74歳の人というものは、いちどに言われてもせいぜい理解するのは1つか2つなのかも知れない。彼女は1ヶ月後に、私が全部答えてあげたはずのうちのまた1つを理解したのかも知れないと、一方では思ったのです。
●私はこの出来事を、もう少し掘り下げてみたいと思いました。いつどんなときだったら、人は誰か別の人の話を聞いて理解することができるのだろうかということです。今回賄いさんは、私がすでに話したときには理解してくれず、1ヶ月後に別の人から同じことを言われたときに、初めて理解した、もしかしたらその時初めて心に届いたのかも知れないのです。この違いはどこで生じているのでしょうか。
●私は、当時のことを振り返って、一つの答えを見つけ出しました。言葉を聞き、理解するためには、聞く人の心は「沈黙」でなければならないのではないか、ということです。「沈黙」すなわち、「静かな状態、音のない状態」でなければ、話す人の言葉を受け止め、何度もかみ砕き、消化することはできないのではないかという結論にたどり着いたのです。すでに何かしらの音が人の心を支配しているとき、それは言い換えれば「沈黙がその人の中に保たれていないとき」ということですが、その場合はどれだけきつい言葉を言っても、はっとするような言い方をしても言葉は届かず、理解もしてくれないのではないでしょうか。
●そうしてみると、「沈黙」というのはとても大切な心の状態であるということになります。何かの音に支配されていない、音のない状態。どんなに小さな音であっても、ひとたび音が聞こえるならば敏感に感じ取れる状態。この「沈黙」の状態が、人間にはぜひ必要なのだと思います。そうしてみると、私が矢継ぎ早に74歳の賄いさんに言葉を浴びせるのはかえって彼女の理解を妨げることになっていたのかも知れません。1つずつ話して、その話が理解されて心から消え去り、また心に「沈黙」が回復されたときに初めて、次の話をしてあげると彼女はきっとすべてを理解するのかも知れません。
●「沈黙」についてこのように考えてみると、その役割は非常に大きいことが分かります。今回話に紹介している賄いさんに限らず、すべての人にとって、「沈黙」は大切な状態なのではないでしょうか。物事の意味をより深く理解するために、その出来事に込められたどんなに小さな意味も逃さないために、かすかな音でも聞き逃さないために、「沈黙」の状態を私たち一人ひとりが保っておくことは、大いに役立つことなのだと思います。
●そしてもう1つ、この「沈黙」が大きな力を発揮している世界があると私は思っています。それは、神と私たち人間との間の世界です。神と言いましたが、それぞれの方で何か信じているその対象に置き換えて考えてください。その信じているお方と人間との間では、「沈黙」の状態を保っていなければ、深い対話、よりよい対話はできないのではないかなあ、と思いました。
●こういうことです。人間は、祈るときにできれば神の声を聞きたいと思っています。神が語りかけてくれるなら、どんなにすばらしいだろう、そう思っています。それなのに、人間は神の声を聞くために「沈黙」を用意しようとしないのです。神から語りかけてくるときの、どんなに小さな声も聞き逃さないようにと、「沈黙」を保っているべきなのですが、私たちの心はいつも何かの音に支配されています。いろんな音、雑音であったり、周りの人の声であったり、あるいはもっと突き詰めれば、「神さまの声を一度でいいから聞いてみたい」という「その音」「わたしの願いそのもの」が邪魔をして、神からの声が聞こえないでいるのではないでしょうか。
●反対に、神は人間の声を1つも聞き漏らさないために、「沈黙」しておられるのだと思います。人間のうめき声、助けてほしいとか、慰めてほしいとか、もしかしたら声にならない声までも聞き逃さないために、神は「沈黙」しておられるのではないでしょうか。神が「沈黙」しておられるのは、いっさい人間に応答していないという意味ではなく、実は、人類すべての叫びを1つも聞き漏らさずに願いに応えるために、「沈黙」しておられるのではないか。そんなことを考えたのです。

2007年7月

ページの先頭へ

●こんにちは。中田神父です。今月から来月にかけてめずらしく結婚式が立て込んでおります。そこで最近の結婚式で話した内容を今月のお話しにしたいと思います。内容はもちろん違いますが、結婚式の説教を取り上げるのは今回で2度目になるかと思います。これからも、何を話すか本当に困ったら、ときどき結婚式の話をさせてもらうかも知れません。
●さて今回お祝いの言葉として取り上げたのは、「命をこの世に送り出す」ということです。出発点としては、人間は物作りに優れていることから考え始めました。特に日本人は、と言ってもいいかもしれませんが、優れたものをこの世に送り出してきました。そして、それら優れたものを磨き上げ、さらに向上させ、場合によっては訓練し、また特別なものにはお金をかけたり情を注いだりして大切にします。ここから先は、みなさんも結婚式の参列者のつもりでお聞きになってください。
●これら人間の作り出すものは、あくまで材料があっての話です。何もないところから、作り出すということではありません。この世には、人間が作り出せる物もありますが、人間の英知をどれだけ集めても作り出せない物もあるのです。それは、命そのものです。命は、すべての動植物と人間に与えられているものですが、特に人間の命は、科学者が何人集まって英知を結集しても、命そのものを作り出すことはできないのです。
●たった今、人間がどれだけ知恵を絞っても命をこの世に送り出すことはできないと言いましたが、一組のカップルは、その、人間の英知を結集してもできない業を成し遂げます。一組の男女が愛を交わし合うとき、決して人間ではなし得ない業、命をこの世に送り出すという業に招かれているのです。
●ところで、人間にはなし得ない業のことを何と言うでしょうか。「人間業ではない」と言うでしょうか。私は不十分だと思います。人間ではなし得ない業を、私は「神業」と言うのだと思います。「神業」とは、文字通り「神の業」、人間では普通なし得ない業のことです。
●人間の業と、神の業。どこにその違いがあるのでしょうか。何かを作り出すということで言えば、人間は何かの材料があって作るのですが、神は何もないところから、命あるものを創り出す、その点が違うと思います。何もないところから何かを創り出すことを「創造」と言いますが(創作活動の「創」と、造形美の「造」です)、この創造の業は、神にしかなし得ない業です。そしてこの創造の業に、一組の夫婦は参加し、協力するのです。
●そう考えると、結婚した夫婦は、神にしかできない創造の業を受け継ぐ尊い使命を受けているということになります。神にしかできない業、「神業」を、夫婦は託されているのです。この点に目を留めて、これからの新しい一歩を踏み出していただきたいと思います。
●さて、初めのところで話しましたが、人間はすでにあるものから何かを作ることには秀でています。そして、存在するものを磨き上げたり、訓練したり、成長発展させたり、お金をかけたり愛情を注いだりします。同じように、両親は、この世に生まれ出た新しい命に、本来持っている人間の才能を十分に活かして接してほしいと思います。
●具体的には、新しい命に愛情を注ぎ、訓練し、成長を見守り、社会人として立派に育て上げるということです。ぜひ、持てる力を発揮して、これから生まれてくる新しい命を立派な人格として社会に送り出していただきたいと思います。
●もう一つ、考えておかなければならないことがあります。新しい命をこの世に送り出す神業に参加する夫婦は、もちろん神ではありません。生身の人間です。ですから、創造の業に参加すると言っても神と全く同じ関わり方は不可能です。神が創造し、世に送り出した命を見守り続け、成長発展させ、深い愛情を注ぐのと、人間の参加、協力との間には、おのずと差が生じてきます。人間は神と同じようにはできないということです。
●では、人間にできない部分はどのように補ったらよいのでしょうか。それとも、補うことはできず、不完全な関わり方でしか世に生まれ出た命に接することはできないのでしょうか。私は、人間の不足を補ってもらう優れた方法があると思っています。それは「神に祈る」ということです。
●人間は神と同じではありません。生まれ出た命を健やかに成長させるため、人間にはできない部分を神に助けてもらうように祈ることは、とても理にかなった、賢いやり方なのです。今日一日、この子が無事であるように。
●今から床に就きます。どうか、すばらしい明日をまた与えてくれるように。私たちが眠りに就いているときも、神がこの子を守っていてください。このような祈りは、お二人がどのような信念・信条を持っている方でも、取り入れることができると思います。
●さて、結婚式に参加したつもりで、ここまで話を聞いていただけたでしょうか。この世に送り出された命が、人間にはなし得ない業、神業であるという考えに、みなさんはどのような感想を持ったでしょうか。今回は少し短い話になってしまいましたが、この話をまとめるに当たって、私たち自身についても考えておきましょう。
●実は、私たち自身もまた、人間にはなし得ない業、神業によってこの世に与えられた命だと思います。私自身もまた、神の傑作だと思うのです。そうであれば、私たちは自身の命について、成長発展を目指すことと、それ以上に、自分自身のために祈るということを考えてみたらと思います。
●今日も、私を見守ってください。今日も、私に必要なことを与えてください。こうして、神業としてこの世に送り出された私の命を守ってもらうように、送り出してくれたであろうその方に祈ることは、大変賢い生き方だと思うのです。私が神業を成し遂げてくれたその方に祈ることは、そのまま、周りの人に人間の命のすばらしさと、このすばらしい命をどのようにして守ることがふさわしいかを知らせる良い機会になることでしょう。
●今日からは、私自身を、人間にはなし得ない神業によって造られた存在なのだと思って生きてみる。いかがでしょうか。


「バックナンバー集」に戻る

「話の森」トップに戻る