マリア文庫への寄稿

「マリア文庫」とは、「目の見えない方々」へ録音テープを通して奉仕活動をしている団体です。概要については、マリア文庫紹介をご覧ください。

2005年 5月 6月 7月
2005年 8月 9月 10月

2005年5月

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●こんにちは、中田神父です。

2005年6月

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●こんにちは、中田神父です。

2005年7月

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●マリア文庫の皆さんこんにちは。中田神父です。過ぎた四月十日に司祭の住まいである「司祭館」が完成しましたが、中田神父の直接の上司である高見三明大司教様においでいただいて完成を祝う式典を行いました。
●落成式を行ったあとに、高見大司教様を囲んでの感謝式を行いまして、その四季の中で教会役員の代表が感謝の言葉を述べました。この、挨拶の言葉にまつわる裏話を紹介して、今月の中田神父の話としたいと思います。
●そしてこの裏話は、聖書の次の言葉「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(マタイ6章3−4節)という言葉を実践する機会となりました。何が、人への施しになったのか、その辺を注意してお聞きください。まずは、代表者が述べた挨拶の言葉を、読み上げてみたいと思います。

感謝の言葉

敬愛するヨゼフ高見三明大司教様、

●このたびは私たち馬込小教区の司祭館落成にあたり、信徒との交わりのミサと司祭館祝別のためにおいでくださり、心より感謝申し上げます。小教区の信徒を代表して、ひと言述べさせていただきます。
●私たち小教区民にとって、司祭館建設は長年の懸案事項でした。先代、先々代の主任神父様の頃から、司祭館の老朽化は目に見えて進んではいたのですが、なかなか行動に移すことができませんでした。まずはこれまで赴任してこられた主任神父様方にご不便をおかけしたことをお詫びしたい気持ちです。
●またこのたび、十年ぶりに若い主任神父様をいただくことになり、喜ばしいと思うと同時に、またもこれまでの旧司祭館にお迎えしなければいけないことに心を痛めていたところでした。こうして司祭館を無事に落成してみると、もっと早くから歴代の主任神父様に住みやすい司祭館を提供すべきであったとつくづく感じております。
●いつも気さくな現在の主任神父様は、赴任する直前に訪ねて来られた時のことを「海岸の道路沿いに、建てて間もないと思える信徒会館を見た時、これなら司祭館はもっと期待できる建物に違いないと思った」と仰っていました。そのように聞かされて、おそらく初めて旧司祭館を訪ねた時は言葉に詰まったのではないかと役員一同肝をつぶしたのでした。
●司祭館そのものは、十一月の地鎮祭から数えても四ヶ月ほどで完成しておりますが、この「目に見える建物」を完成させるためには、ほぼ一年にわたる主任神父様のご苦労と、私たち信徒相互の一致と協力の時間が必要でした。一人ひとりは、「主任神父様にもっと住みやすい家を提供したい」と思っていましたが、心一つにして物心両面で協力体制を立ち上げるためには、時間が必要でした。
●見えない建物である馬込小教区信徒の気持ちを一つにまとめ上げるための主任神父様の苦心は、日曜日毎の説教にも、結婚式や葬儀の典礼からも十分伺うことができました。主任神父様と一つになって、仕事を成し遂げることができるのはこの時を置いてほかにはない、そう感じたのです。
●振り返りますと、高見大司教様のご英断によって決まった一年前の転勤が、司祭館新築をなし終えたいちばんのみ摂理であったと考えております。神様は私たちの小教区の再建・再生の見えるしるしとして、若い主任神父様を派遣してくださり、同時に司祭館建設を一つのチャンスとしてお与えくださったと思います。
●無事完了しました新司祭館は、総額二千三百五十万の大がかりな事業でしたが、その四割は大司教区からの支援であります。これから二年間にわたって、教区の支援なしにこの計画は完成できなかったことを噛みしめていきたいと思っております。
●それと同時に、私たちは行動力ある主任神父様としっかり力を合わせていくなら、まだまだできることがあるということも学ばせていただきましたので、できますなら、これから先何年も現在の主任神父様と共に小教区の活性化・再生のために力を尽くしたいと思っております。大司教様の寛大な御理解をいただければ幸いです。
●どうしても聖書の言葉を一つ挨拶に折り込みたくて、主任神父様にお知恵を拝借に行った所、旧約聖書の「コヘレトの言葉」を入れなさいとのことでしたので、旧約聖書の一節で挨拶を結びたいと思います。

「何事にも時があり
   天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
     生まれる時、死ぬ時
     植える時、植えたものを抜く時
     破壊する時、建てる時
 神はすべてを時宜にかなうように造り、
 また、永遠を思う心を人に与えられる。」

●司祭館の祝別を通して、私たち小教区民も大司教様とお会いする時を与えていただきました。神が与えてくださった素晴らしい時をわきまえて、これからも主任神父様と一致協力し、見えない建物である神の家の完成のために一歩ずつ歩を進めていくことをお約束いたしまして、挨拶に代えさせていただきます。

平成十七年 四月十日
カトリック馬込教会 経済評議員

●立派な挨拶の言葉でしょ。私も挨拶の言葉を聞きながら「立派にい読み上げたなあ」と思いました。実はこの挨拶文には裏がありまして、この落成式典を迎える二ヶ月ほど前のこと、中田神父は当日挨拶する予定の人に「感謝の言葉を準備しておいてください」とお願いしていたわけです。(以下は割愛させて頂きます)

2005年8月

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●こんにちは、中田神父です。

2005年9月

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●マリア文庫の皆さんこんにちは。中田神父です。なぜそうなるのか分かりませんが、10月から11月にかけて、長崎の純心大学というところで講義を行う羽目になりました。はじめは電話での相談だったのですが、たいていお願いをするときには「引き受けてくださってもお断りしてもどちらでも構いません」というようなことはありませんで、「お断りしないでお引き受けください」という場合がほとんどです。
●そのことは中田神父自身も重々承知です。なぜなら、中田神父自身が半年ほど前から長崎県全体に配られるカトリック長崎大司教区の広報誌「よきおとずれ」の編集長になり、多くの方々に原稿依頼をするときも、今回の純心大学の先生と同じ心境だからです。
●原稿依頼をする場合は、もちろん適任の方を探してからお願いしてはおりますが、「できれば引き受けて欲しい」「断らないで欲しい」という気持ちでいっぱいだからです。断られた場合は、また一から候補者を探し、お願いするわけで、それだけ時間を失い、次の方に負担をかけてしまうことになるからです。
●純心大学からの電話に耳を傾けながら、「この申し出を断ったら、次はだれにお願いするのだろうか。引き受けてくれる人がいるのだろうか」そんなことを考えると、つい断り切れなくなって、お引き受けしたという次第です。幸いに、一度準備した講義内容を、四つのクラスに繰り返し講義すればよいということで、まあ、引き受けてみるかなあという前向きな気持ちになりつつあります。
●ところで、皆さんは誰かに何かお願い事をするときに、どれくらいの期間をおいてお願いするでしょうか。内容にもよるとは思いますが、一回九十分の授業をお願いするときに、どれくらいの余裕を持ってお願いするでしょうか。今回、十月の半ばの講義の依頼が、九月の半ば、つまり一ヶ月あるかないかのタイミングでお願いされたのですが、私の気持ちとしては、せめて二ヶ月前にお願いして欲しかったなあ、という気持ちがあります。
●電話の翌々日、担当の教授が直接おいでになってあらためて説明してくださいました。いつ私にお願いしようと思ったのか、なぜ私になったのか、その辺のことをお尋ねしますと、さかのぼること半年、四月の新入生研修の折に伊王島に一年生が泊まりに来て、翌朝のミサで話した説教を聞いたときに、お願いしようと思ったのだそうです。
●だったら、なおさら、早めに相談してくれればよいことではないかと思うわけですが、まあ、これ以上いろいろ言っても仕方がないので、腹をくくるしかありません。与えられたテーマに沿って、大学一年生に何かを伝えたい、講義を受け持ったことで私自身も何かを吸収したいと思っております。
●今回のことでひとつ考えたことがあります。それは、誰かに力を貸して欲しいとお願いされるのは、そのお願いする人にとって私が何らかの形で目にとまったからだと思います。日頃目に付く場に立つことの多い人もいるかも知れませんし、目立たない暮らしをしている人もいるでしょう。どのような暮らしぶりであるとしても、私に依頼が来るということは、お願いする人にとっては他の誰かと区別できるはっきりした何かがあって、目にとまったということなのです。
●そのように考えると、私たちが日々体験する出来事の中には、なぜそうなるの?なぜ私なの?ということに今までとは違った説明を付けることができるようになると思います。なぜそうなるの?それは、あなたが他の人とは何か違いがあって、目にとまったのでその出来事に出会ったのです。何か、あなたにお願いしたいという要素が、備わっていたのです。
●ただ、私たちが出会う出来事の中には、喜ばしい出来事ばかりが巡ってくるわけではありません。喜ばしくない出来事、災難といったり、不幸といったりするものにぶつかることもあるわけです。そうした喜ばしくないことで「なぜわたしがそうなるの」と思い悩んでいる人もいらっしゃると思います。
●そこで、考えられる悲しい出来事の原因を探ってみましょう。一つは、悪意のある人が私に襲いかかってくるときです。悪意のある人に、私は何かの事情で目にとまってしまったのです。もう一つは、神様が試練を与えるときです。試練は、人間が与えるというよりは、神様が与えると言った方が適切なときがあります。神が与える試練は、人間に害を与えたり人間を傷つけたりはしません。試練を乗り越えたときに、神への信頼と大きな喜びが満ちあふれます。
●ところが、試練はいずれの場合も、つらく悲しいものです。それを乗り越えることは決してできないと感じてしまいます。中田神父は、悲しい出来事が人間からであるか、神からであるかにかかわらず、出来事はすべて神の手の中にあって、神は試練の時にそばにいてくださると思っています。
●ですから、わたしが悲しい出来事の的になっているとき、不安と恐れに支配されるのではなく、神はきっとそばにいて、支えてくださるといった信頼を呼び起こすことができればなあと思っています。それは、信じるそれぞれの信念に従って、神と言ったり大きな力と言ったりしても構わないのですが、何かで目にとまって災難の中にあっても、一人ではないのです。
●その、悲しい出来事の中でも神がそばにいてくださるという内容を、詩にまとめたものがあります。昔から言い伝えられていて、外国語でもよく知られているものです。作者は分かりませんが、その詩をもとに作られた歌を、皆さんにお届けして今月のまとめとしたいと思います。詩の題名は「足あと」と言います。
●足あと(作者 不明) footprints(unknown)
ある人が、ある夜、夢を見た。
海辺を、主とともに歩いている夢。

見上げれば大空、浮かぶのは
過ぎてきた人生のさまざまな場面。
一つひとつ場面が 浮かび上がるたびに、
砂浜にくっきりときざまれる足あとは2人分。
その一つは彼のもの もう一つは、主のもの。

大空のドラマが終わるとき、
すべてを振り返り 彼は気づいた
悲しみでつづった場面では、
足あとは一人分 ほかには見えない。

「主よ、いちばんあなたが必要だったとき
 主よ、いったいどうして
 ひとりぼっちになさったのですか。
 ああ、苦しくつらく 寂しかったあの頃」

「たいせつな愛する 愛する子よ」

目を伏せて泣く彼に主は語られた
あたたかく やさしく なつかしい
その声は閉じかけた心を開く
一人分の足あと それは愛の証
彼のものではない 確かな足あとは主のもの
主は おぶってくださった そのとうとい背中に

●あなたが何かで目にとまり、幸いを受けていれば幸いです。悲しみを感じていても、あなたは主の背中に背負われて、その悲しみの荒野を歩いているのです。どんな中にあっても、信頼を忘れないで日々を過ごしたいものですね。

2005年10月

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●こんにちは

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