マリア文庫への寄稿

「マリア文庫」とは、「目の見えない方々」へ録音テープを通して奉仕活動をしている団体です。概要については、マリア文庫紹介をご覧ください。

2004年 11月 12月 2005年1月
2005年 2月 3月 4月

2004年11月

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●こんにちは、中田神父です。ちょっと難しい話をできるだけ分かりやすく伝える。これが物書きや話し手の仕事です。中田神父もつねにそうありたいと思います。
今月は、「色」について挑戦してみたいと思います。色であって色でないのかも知れませんが、今月話をしておかないとこの話はそれこそ「色褪せてしまう」気がしておりますので、強引にこの話に持っていきたいと思います。
●先ほどから長く話を引っ張っていますその色とは、男女のカップルが演出する色です。具体的には、「バラ色」と言われたりします。この、バラ色が、ここ一・二ヶ月で、何となく分かったような気がしました。
●それは、ある結婚を間近に控えたカップルを通してです。このカップルは、長い時間かかって結婚相手に巡り会った二人だったのですが、出会ってから中田神父のところに結婚式を挙げてもらいたいと相談にやってきたのでした。もちろん中田神父は特別な問題を抱えていなければ二人の希望をなるだけ叶えてあげたいと思っているわけですから、話はすぐにまとまり、次の週から結婚の準備のための勉強会を設けることとなりました。
●さてこの二人、長く相手に巡り会わなかったわけですからそれ相当の年齢です。私も勉強会の中では、年齢相応の話をしようと考えていましたし、いくつか質問したり問いかけたりすれば、年齢相応の答えが返ってくるものという期待もあったわけです。
ところが、このカップルのしぐさや会話のやりとり、出された質問への答えは、どう見ても年齢相応のものではありませんでした。なんと言ったらよいのでしょうか。よく若い女性の様子を例えて、箸が転んでも笑う年頃と言ったりしますが、まったくそういった様子で一回目の勉強会は過ぎていったのでした。
●初めにおいでになったときは、いろんな申込の書類に記入してもらう必要があります。男性側の書き込む項目、女性側の書き込む項目とそれぞれ記入していただくわけですが、記入する中で書き方が分からなかったりすると私が必要なアドバイスをします。「そこはこう書いてください」「そこは自分でちゃんと分かっているはずの項目ですけど、書けませんか?」など、ていねいに指示するのですが、そうしている間に聞こえてくる声にちょっと驚いてしまいました。
●「あーん。間違えちゃったあ。ねぇ、どうしよう?」「ごめんなさーい神父様。ここが分かりませ〜ん」そう言いながら一方では相手の方と目を合わせては声を出して笑ったりするのです。
●私は内心「あまりふざけてないで、書類くらいまじめに書いて欲しいなあ」と思っていたのですが、もうこの二人はお構いなしです。書類が書き終わっていよいよ勉強に入ってみると、その様子はますますエスカレートしていきました。
●このカップルは最近ほとんどが当てはまる組み合わせ、つまり「一方はカトリック信者・もう一方はカトリック信者でない方」というカップルでした。こうしたカップルのためには、勉強についてもカトリック信者にどうしても内容を理解してもらいたい部分と、カトリック信者であるかどうかにかかわらず、結婚する方々が必ず向き合うことになる様々な問題と、両方に配慮しながら話を進めてまいります。
●一方がカトリックで、もう一方がカトリックでないという組み合わせは、典型的なパターンですから、中田神父のほうからは勉強する内容も十分に把握できていますし、相手への問いかけもお手の物です。いつも通りにいろんな質問を投げかけていくうちに、何だかこちらの気合いが萎えていったのです。
●例えばこのようなことがありました。具体的な状況は伏せて話しますが、きっとその時の様子が生き生きと伝わるに違いないと思います。それは、カトリックの側にとっては当然理解しておくべき事柄、カトリックでない方にとっては、結婚相手であるカトリック信者のことを少し理解してもらうためにとても役に立つ内容でした。
●具体的にはこんなやりとりです。中田神父が尋ねます。「社会人になるとだれでも権利と義務が生じてきます。例えば日本人としての権利と義務と言えば選挙権・被選挙権とか教育を受ける権利が一方にあり、納税の義務や日本の法律を守る義務があります。それでは、カトリック信者としては、あなたはどんな権利と義務を持っていますか」。
●難しいことは別として、恵みにあずかる権利が一方にあり、カトリック信者に与えられた掟を守る義務があると思うわけです。権利の部分については中田神父のほうから具体的に説明してあげたのですが、義務に関しては、これはどうしてもご自身で答えてもらいたいという思いがありましたので、ヒントを出しながら何とか本人の口から答えてもらおうと努力しました。
●「カトリック信者として守るべき掟がありましたよね。それは古くから授けられていて、旧約時代のモーセを通して具体的に示されたものですが、思い出しましたか?」カトリック信者である女性は、このヒントを聞いてしばらく考えた挙げ句に、こう答えたのです。「えー?何だろう?ねぇ、何だと思う?」
●「ねぇ、何だと思う?」は結婚相手でカトリックではない相方に尋ねる声なのですが、カトリック信者であるご本人が答えられないのに、カトリック信者でない相手方に尋ねても分かるはずがありません。そのことが分かっているのか分かっていないのか、この幸せいっぱいの女性は「ねぇ、何だと思う?」と、相手に聞いたわけです。
●その時点で、私はほとんど全身の力が抜けてしまいました。答えてくれない無力感もありましたが、それ以上に、「ねぇ?」という会話に、中田神父は気力が失せてしまったのです。はっきり言いますと、そんなやりとりは別の場所でやってちょうだい、といった気分でした。
●とうとう、中田神父の中で積もり積もったものが言葉に表れます。「はいはいご馳走様。こんなに大事なこと、カトリックのあなたが分からないのにカトリックでないこの方に尋ねてもしょうがないでしょ?今日は帰ってもらいましょうかね」中田神父としては、少し厳しく自分を見つめてもらうために「こんな質問に答えられないのでは勉強になりません」というつもりで言い放ったのですが。返ってきた答えはこうでした。
●「いや〜ん。帰れって言われたあ」。正直、私のほうが「いやあん」と言いたい気分でしたが、人生バラ色というのはこういうことを言うのだろうなあと、目を丸くしてこのカップルを眺めておりました。この「いや〜ん」と言った女性は、声を出しながら相手の背中をたたいて、恥ずかしいしぐさを見せたのですが、私のほうが恥ずかしくて穴があったら入りたい気分でした。
●気を取り直し、私はようやく次の言葉を絞り出してその日の勉強を終えることにしました。「どうやら基礎知識が足りないようですから、カトリック信者が守るべき掟、十戒は来週までにしっかり覚えてきてください。来週は何も見ないで言ってもらいますからね。しっかり覚えてくださいね」。十戒とは、旧約聖書のモーセが、神から授かった掟のことです。旧約聖書のイスラエル人に授けられた掟でしたが、イエス・キリストもこの掟を追認され、カトリック教会にもそのまま引き継がれました。「第一、我は主なる汝の天主なり。我のほか、いかなるものをも天主となすべからず」。こういう掟から始まります。
●さて、明けて次の週、二人の勉強会の日がやってきました。十戒の掟はちゃんと覚えてきたのだろうかと、半信半疑でしたが勉強の成果を尋ねることにしました。覚えなさいと言い渡したとき、私はカトリック信者本人だけでなく、カトリック信者がこのような掟を抱えているのですよということを学んでもらうきっかけとして相手の方にもよかったら覚えてくださいと言い添えておいたのですが、どうやらこのカップルはそれを忠実に守って、二人で一生懸命覚えてきた様子でした。
●ところが、ここでも二人のバラ色の世界を見せつけられるとは思っておりませんでした。十戒の掟を唱えてみてくださいと言った後のやりとりを忠実に再現しますと、次のようになります。
●「ちゃんと覚えてきましたか?」「はい、覚えてきました」「じゃあ、唱えてみてください」「どうしましょう?ねぇ、いっしょに唱えましょ。せえの。『第一・汝・われは・主なる・なんじの天主なり・我のほか・いかなるものをも・天主となすべからず。第二・汝。。。』」。
●二人見つめ合って、手と手を取り合ってはいませんでしたが、第一汝と、バラ色の世界の中にいる二人の甘いささやきを第一から第十まで聞かされた私の身にもなって欲しいものです。さすがの私も幸せいっぱいの二人を見せつけられて、返事する言葉も見つかりませんでした。バラ色というのは、こんな状態のことを言うのだろうと思います。そして、この時期は、すべてがバラ色に見えるのだろうと、目を丸くしながら二人を見つめておりました。

2004年12月

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●こんにちは、中田神父です。クリスマスと新年のおよろこびを申し上げます。昨年とは違った土地・違った環境で迎えるクリスマスと新年ですが、良き日であるに違いないと思っております。
●今回お話しすることの要点は、本当に必要なものは、神様に願うとよいということです。中田神父はキリスト教の立場から「神」と申しましたが、それぞれの信じるところにしたがって、当てはめてお聞きください。
●いくつかの具体例から、今回お話しする話題につながっていきます。まずその一つは、中田神父がここ数ヶ月いちばん心を砕いている「馬込教会司祭館建設」のことです。司祭館がずいぶん古くなり、改修では追いつかず、解体新築することになったというお話しは以前ちらっと触れただろうと思いますが、改修にしても新築にしても費用はどこからか捻出しなければなりません。
●当然、そのことについて知恵を絞って考えるわけですが、まずは建設委員会を立ち上げ、その委員さんを交えて具体的な青写真を描くことから始めました。解体・建設費用合わせて2350万の大仕事であることがはっきり見えてきました。この費用をどこから捻出するか、皆でそろばん勘定をします。
●皆で十分検討して、この線で行きましょうというはっきりした道筋をつけて工事に取りかかったのですが、解体作業が始まってから現在までおよそ二ヶ月、思いがけないほどたくさんの方々から寄附を頂きました。本当に、考えられないくらいの人数と金額の、寄附が集まっているのです。
●考えられないくらいの、と言うと何だか大げさに聞こえるかも知れませんが、中田神父が考えている人数と金額の、約三倍は集まっていると思います。それも、全国から寄付を募ってということではなくて、ほとんどが教会の信徒みずからが、まるで自分の家ででもあるかのように寛大にささげてくださっているのです。
●地元の信徒の方々は、あとでは積み立てのかたちで計画に含まれている金額をお願いすることになっています。それを承知の上で(承知していると信じたいのですが)、こんなに寛大な協力をしてくださるとは、思いもよりませんでした。
●これほどの大幅な増収は、中田神父はもとより建設委員会の方々も予想だにしなかったことでしょう。ということはつまり、この結果を予想できるような雰囲気や兆候は、どこをどう探しても見つけることができなかったことを意味しています。それなのに、現実に寄附が集まったのです。
●限られた能力の人間が立てた計画ではあったとしても、それなりに入念に立てた計画、綿密に検討され、ああでもないこうでもないと議論を戦わせ、見込みのありそうな収入はすべて見積もったのです。考えられる収入源はすべて織り込んだはずでしたが、人間の知恵を越える喜ばしい結果が、今現在馬込教会の司祭館建設を推し進めてくれています。
●次に、中田神父個人の活動を例に挙げたいと思いますが、まだあまり大きな声ではお知らせしていないのですが、本を出版しようと計画しています。内容は、日曜日毎の説教案を、文庫本の形にして出そうというものです。現在の段階は、原稿を出版社に提出して、出版社から製本される状態のコピー原稿(専門的にはゲラ刷りと言うのだそうです)が届いていまして、それに目を通している状態です。
●この文庫本出版計画ですが、ゲラ刷りの原稿が送られてきて出版社から訂正箇所などあれば書き込んで送ってくださいと言われていたのですが、普段でさえ何かと忙しいのに、年末でもあり、クリスマスに向けてもいろいろと盛りだくさんの内容の仕事が舞い込み、さらに司祭館の建設で方々に飛び回っている中で、どうやって時間を工面するの?と思っていたわけです。
●ところが不思議なもので、忙しい人に限って時間は探せば見つかるものなのですね。時間を見つけることである人から教えられてなるほどと感心したことがありますが、それは、何かを頼むときは忙しい人にお願いするのがいちばん確実だという体験です。暇な人に仕事を頼んでもいつになっても仕事に取りかかってくれないけれど、忙しい人はすぐに取りかかってくれる、しかも確実にこなしてくれるというものです。
●実際その話の通りでして、私にはそんな時間はないと頭を抱えていましたが、よくよく考えると、一つだけ工面できる時間があることに気が付きました。そうか、この時間は同時に待ち時間としても活用できるから、原稿に目を通しながらでもその時間を過ごすことができるなあ。はっとひらめいたのです。
●おかげで、出版予定の原稿にたっぷり八時間費やすことができました。もちろんこれでも十分ではないと思いますが、この年末の忙しい中で八時間もの時間を見つけることができたのは本当に奇跡としか言いようがありません。中田神父の頭をどうひねっても工面できそうになかった時間でしたが、ある瞬間にそれは与えられたのでした。
●人間の知恵ではどうしても手に入りそうにないものが、何かのきっかけで与えられたり確保できたりといった経験は、私たちに何を教えてくれるのでしょうか。私は、人間の知恵では確保できないものが時として与えられるとき、そこには確かに神が働いておられるのではないかと思っています。本来人間には思い描くこともできないようなものが与えられるのですから、それは他のいかなる人間の力でもあり得ないはずです。それなのに、与えられることがある。やはり、神がそこに働いているとしか、私には思えないのです。
●想像を超えるようなものが与えられる体験を、何とか説明づけることはできるでしょうか?次のような考えを示しておきたいと思います。それは、旧約聖書の天地創造にさかのぼる根拠です。
●つまり、神は天地万物を創造された方です。天地万物には、言葉に表れてはいませんが「時間」も、人間の知恵からのちに生み出される「お金」も、言ってみれば神様がお造りになったものだと思います。そしてお造りになった方は、それらを自由に扱うことのできる方でもありますから、必要な場面に時間とお金を与えることも、これまた自由におできになるのではないでしょうか。
●そうです。私たちがどう頭をひねっても見つからないものは、もしそれらがどうしても必要なものであれば、神様が、すべてをお造りになったすべてのものの所有者でおられる神が、お与えになるのだということです。そうであれば、私たち人間は、与えてくださる方に願うことが、必要なものを手に入れるいちばんの近道なのではないでしょうか。
●内輪の話で大変申し訳ないことですが、馬込教会の司祭館建設のために、私は教会の本部に当たる事務所に出向いて、何とか一定の額を貸し出しいていただけないものだろうかとお願いに行ったことがありました。実際その時の願いは聞き入れられまして、ほぼすべての金策に目処が付いたわけですが、貸し出しを受けたお金なのですからいつかはすべて返さなければなりません。
●完全に返済するまでこれから二年間、心配が延々続くなあと思っていたのですが、もしかしたら信徒の皆さんの積み立てが始まる前に、返済することができるのではないか、そのような勢いです。少なくとも、中田神父にはこのような恵みは予定として思い描くことはできませんでした。
●ウソのような本当の話ですが、かつて北イタリアの少年少女教育に尽力したヨハネ・ボスコという司祭は、台所のコックが「子供たちに食べさせるものが何もありません」と知らせてきたときに、「何も心配いりません。必要なものはすべて神様が用意してくださいます」と言ってコックには調理場で待機させ、実際に全く予想もしなかった方法で、予想もしない人からの差し入れで、多くの子供たちのその日の食事を用意させたという逸話があります。
●ヨハネ・ボスコはのちに教会の聖人の列に加えられましたが、中田神父はこの聖人ほどの確信はありませんが、確かに本当に困り果てた挙げ句にそれでも必要なものは、神様に願い求めるのがいちばん確実だなあという印象を今回持ちました。
●最後に、カトリック教会の今の季節にちょっと関連する一つのエピソードを紹介して今月の結びとしたいと思います。カトリック教会ではいろんなお祝い事に向けて準備の季節が設けられていまして、クリスマスに向けても一ヶ月の間クリスマスを待つ季節が設けられています。また、その間に「よいクリスマスを迎えるために」と、おのおの信者は赦しの秘跡・罪の赦しを受けることが習慣となっております。
●馬込教会でもこの恵みにあずかるために時間を設けたわけですが、何人の方がこの機会を利用してくれるかは、それこそ神頼みで、人間である中田神父には予想もできないことでした。ですが、設定した曜日・時間に、心ある方がちゃんと集まってくださって、各自罪の赦しを受けに来てくださいました。
●本当にありがたいことだと思います。二時間ずつ、四日間、合計八時間組みましたが、それぞれの時間帯に、思いがけない数の方々が参加してくださいました。参加人数は、人間が当てにできない部分でしたが、神様はちゃんと与えてくださったのだと思います。
●皆さんにとっても、同じような経験があれば幸いです。または振り返って、あの時自分に与えられたものは、実は神様からのプレゼントであったのかと思い至ることになれば幸いです。今回のお話しが、神様からのクリスマスプレゼントとしてお一人おひとりに届くことを願って、今月の話を終わりたいと思います。

2005年1月

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●こんにちは、中田神父です。新潟県での地震被災に心痛めていた矢先、インドネシア・スマトラ島沖で大地震が起こり、あわせて大津波が発生しました。計り知れない犠牲者が報告されています。失われた尊い命を取り戻すことはできませんが、犠牲者の冥福を心から祈りたいと思います。
●新潟県の災害の時に日本の全国民が注目し、支援したわけですが、スマトラ島沖地震・津波災害の時にも、災害が発生した直後から各国の支援が寄せられました。日本も資金援助と並行して、自衛隊の派遣、ボランティア団体が応援に駆けつけています。一日も早い復旧を待ち望みたいものです。
●こうした災害復旧の活動は、「届ける」ということを深く考えさせるものだと思います。私たちが手紙や葉書を通して便りを届けるように、復旧活動もたくさんのものを届ける出来事だったと思います。
●一つは、物質的なものです。災害で多くの人々がすべてを失いました。物がなくなれば、それはどこからか手に入れなければもとには戻りません。家を失った人にテントを供給し、作物を植える畑が壊滅したり、魚を捕らえるための船を失った人々に食料を届けたり、直ちにこれらの物質的な援助は世界各地から寄せられました。
●次に、病気やけがに見舞われた人々には医薬品が届けられました。医薬品も物に含まれるかも知れませんが、本来は病気・けがに遭わなければ必要としない物です。今回の災害から生じた必要に、医療の専門家を含めて支援の手が差し延べられました。
●これら物質的なものは、どのようにして届けられたのでしょうか。人の手を通して届けられました。輸送の飛行機を使ったかも知れませんが、それらを動かして、人が届けたものです。ですから、物質的なものが届くためには、どうしても人間の手が必要だということです。
●届けられた二つ目のもの、それは、人間そのものです。放送で流れる災害の様子を見ただけでも、呆然としてしまいますが、がれきの山となってしまった被災地で片づけをするために、たくさんの人手が必要でした。人海戦術という言葉がありますが、人助けをしたいという一心で、現地に飛び込んだ人がたくさんおられたと思います。機械の手を借りて大がかりな作業をすることも必要ですが、小さな力を結集して立ち向かっている様子は、希望を持たせる出来事だったと思います。
●ここで考えてみたいのですが、多くの人的支援は、どのようにして届けられたものなのでしょうか。物質的な支援は、人間が運んで届けました。物は、それ自身は動かないからです。それらの物質的な物に目的や行き先を与えるのは人間です。では人間そのものは、どのようにして届けられたのでしょうか。
●二通り、考えられると思います。人間は、自分で考えます。ですから、人的支援は、個人個人の意志でやって来たという考えが一つ成り立つと思います。もう一つは、人的支援を届けたのは神だという考えです。
●それぞれ思い巡らしてみたいと思います。災害のニュースを聞いて、多くの人はいてもたってもいられなくなったのだと思います。その人が自衛隊に所属していれば、派遣されるメンバーにみずから志願して、自分の意志で出かけたということができるでしょう。ボランティアのメンバーに所属している人も、メンバー同士で話し合って、行こうと決めた人々もいるでしょう。お一人であっても、自分の意志で、出かけた人がいらっしゃると思います。
●もう一方で、私は神に送り出されてきた、神に届けてもらったと感じている人もいるのではないかなあと思います。一つの例ですが、中田神父の身近にいる青年が、年末宝くじで100万円みごとに当たったのだそうです。その青年の父親が話を聞かせてくれました。羨ましいなあと言いましたら、その青年は父親にこう言っていたのだそうです。「こういうふうに手に入ったお金は、自分で使ってはもったいない。このお金で来週タイに行ってくる。」
●恥ずかしい話ですが、中田神父はその話を聞いて、もったいないなあとうっかり心の中で言ってしまいました。この青年は惜しげもなく当選して手に入れたお金を使って、八日間タイでボランティアに励んだのだそうです。もったいないと思ってしまった自分が、恥ずかしく感じられました。
●この青年の心の中にあった思いは何だったのでしょうか。お金が手に入った時、青年が自分で思い付いて、このお金で被災地に行こうと思ったと考えることもできると思います。ただその場合、中田神父は恥ずかしいことに、その幸運を聞いても被災地に行こうとは思わなかったわけです。同じ幸運を手にした時に、ある人はタイに行こうと思ったし、ある人は何かを買おうとか取り替えようとか思ったわけです。人間の意志だけでは、皆が皆被災地へ行こうと思うわけではないのです。
●そう考える時、人的な支援は、人間の意志だけですべてが動いたとは思えない部分も含まれています。被災地に出かける十分な可能性が目の前に開けても、すべての人がそこへ行くとは限らない。そうするとこの人的な支援というものは、人間を超える何かが働いていると考えてもよいのではないでしょうか。
●この「人間の思いを超えた何か」を、私は神の働きかけと考えたいと思います。不思議な巡り合わせで、今回被災地に赴いて働いていると感じている人。「あなたはなぜここへ来たのですか」と聞かれた時、自分の思いではなく、やむにやまれぬ思いがあって、気が付いたらここへ来ていたとか、なぜと言われても返事に困るけれども、今自分が被災地にいることだけは間違いない、そんな人もきっといると思います。
●純粋に自分の意志だけではなくて、何かもう一つのきっかけ・働きかけがあって出かけている、こういった方々の「もう一つのきっかけ」は神の働きかけではないかなあと思っています。神と言わなくてもよいのですが、中田神父はそうとしか表現しようがないので、神の働きとしてみました。
●物質的なものは、人間によって目的と行き先が与えられて運ばれると言いました。人は、多くの場合みずからの意志で動きますが、何か逆らえない力に動かされて行動するということも、ある場合は考えられるのではないでしょうか。
●私は、とある先輩神父様の話に考えさせられたことがありました。なぜ司祭になったのですかと聞かれた時に、「司祭職から身を引く理由が見つからなかったから」と話してくださったのです。一見消極的な答えのようにも聞こえますが、抗し難い力に導かれ、動かされて司祭への道を歩み続けたという素直な感想が伺えました。その抵抗できない力を、私は神の働き・神の導きと表現したいわけです。
●どんな人でも、災難の話を聞けば心動かされます。だからといってすべての人が全く同じ動き方をするわけではありません。その中でも、抵抗しがたい力に動かされて現地で汗を流している人々に、敬意を表したいと思います。その方々を通して、「わたしはあなたがたをみなしごにはしない」(ヨハネ14:18)というキリストの思いが、被災した方々に届きますようにと祈りたいと思います。

2005年2月

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●こんにちは、中田神父です。この世に生きて手に入れることのできるもののうち、本当にほしいと思うものと、そんなにほしいとは思わないもの、両方があるように思います。前々回で、本当に欲しいものは神様に願うとよいですよという話をしたのだと思いますが、今月は、「では何が本当に欲しいか」ということについてあらためて考えてみたいと思います。
●中田神父にとって欲しいものとそうでないものの区別はだいたい決まっています。長く使えるものは手に入れたい、その場限りのものはその場限りで済ませたい、たとえば借りて済むものならそうしたいと思いますし、いろいろ応用できるものはほしいと思いますが、一つの目的にしか使えないものは、どうしても必要か、そうではないかをよく考えます。
●まとめると、長く使えるもの・いろんな場面に応用の利くものが中田神父にとっての欲しいものということになるでしょう。「物」「製品」ということで言えば、まっ先に思いつくのはコンピューターということになります。この一つの製品から、私は文章を生み出し、メールやFAXを送信して連絡のやりとりをし、音楽を制作し、写真を編集し、お金の入出金をします。ほかにもいろんなことをしていますが、少なくとも今並べたようなことを机の前でおこなっているのです。最近はお金の振り込みすらも、机の上のパソコンでできる時代になりました。
●大胆に言わせてもらうなら、中田神父は仕事をこなすということでは、このパソコンと、パソコンを活かすための周辺の機器があれば、あとは要らないとさえ思っています。これはちょっと乱暴な言い方かも知れません。そして、私の人生にもう一つ欲しい物があります。物と言ってよいのかどうか迷いますが、それは「物事を理解する知恵」です。私一人欲しがっているわけではないでしょうが、大胆に言わせてもらえば、「知恵」があれば、あとはあれば幸い、なければなくとも暮らしていける、そう思っています。
●世の中で「知恵」ほど大事な物はないのではないかと思うようになったのは、聖書を本格的に学び、旧約聖書のソロモンという人物に触れた時だと思います。このソロモンはダビデ王の息子であり、ダビデの跡を継いでイスラエルの王となりました。ソロモン王の名声は、当時の世界中に知れ渡っていましたが、それは「たぐいまれな知恵者である」という名声でした。
●彼が知恵者となった最大のきっかけについて、次のような物語が残されています。旧約聖書列王記上の3章に、次のような話が残されています。
●「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。ソロモンは答えた。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
●主はソロモンのこの願いをお喜びになった。神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない・・・」(列王記上3・5−12節)。
●知恵は、中田神父が好む条件をすべて満たしています。つまり、長く使えるもの・いろんな場面に応用が利くものです。知恵があれば、条件に恵まれた場所ではいよいよ才能を発揮するでしょうし、条件に恵まれてない場面でも知恵を発揮して難局を乗り越えることができます。知恵があれば、過去の経験を生かして現在をよりよいものに変えることができますし、一度の成功に奢ることなくさらに成功を手中に入れるために応用するのです。まさに、願ったり叶ったりのもの、私にとってはどうしてもほしいと感じるものです。
●知恵がなくても、家柄や財産にものを言わせて何かを成し遂げるということもできるかも知れません。ですが家柄も雲の上のような家柄からたいした家柄でもないというものまであるでしょうし、お金はたとえば中田神父には百万円は大金ですが、人によっては「たったの百万円」と感じる人もいるに違いありません。つい最近までそのような人の影を見ていましたので、実際こんな人もいるのだなあと思い、仰天した経験があります。
●いかがでしょうか。人間知恵があれば、他のたいていのものを持たなくても幸せに生きる・豊かに生きることができるのではないでしょうか。いろんなものを手に入れては失う人生ですが、知恵だけはひとたび獲得したら、失いたくないなあと思わないでしょうか。
●どの分野で生きていくにしても、人間の知恵は欠くことのできない大切なものだと思います。中田神父は現在の教会に転勤してからすでに十ヶ月が経過しておりますが、司祭館建設に取りかかるために準備資金は何もありませんでした。つまり「物」の準備がなかったのです。ですが、「知恵」を働かせて、司祭館建設を今日まで前進させてきました。いくらぐらいの資金が必要で、どの方面からどれだけの見込みがあってと、ないところから積み上げていって、三月いっぱいには工事が完成するというところまで来ました。
●また、これはささやかなことなのですが、半年ほど前にドラマの撮影においでになった写真撮影班が、教会の写真をいろいろ撮影して残してくれました。私は、この写真の材料をもとに、今回五枚一組の絵葉書を作成してみました。道筋は私がつけて、あとは教会信徒の皆さんがこの絵葉書を観光客の目につくところに置けば、いくらかでも教会の維持管理のために貢献できると思います。たとえ中田神父がいなくなっても、あとは同じように継続していけばよいことです。
●こんなにたくさんの観光客が来てくれる教会なのに、どうして今までこの絵葉書を思いつかなかったのかなあと不思議でさえあります。ですが私もまた、知恵に恵まれず、今の暮らしに何も工夫をしようと思わなければ、何も思いつかなかったに違いありません。こういうことを思う度に、知恵はどれだけ人間にとって必要か、知恵があればどんなに人間は豊かに生きていくことができるかを痛感します。
●ただし、この知恵は譲り渡すようなものではないと思います。一人ひとりに、直接授けられる物、あるいはそれぞれに備わった賜物だと思っています。人の知恵を聞き、なるほどと思ったとしても、本人にそれを活かす知恵が備わっていなければ、ただやってきては通り過ぎる風に過ぎません。あくまでも本人自身の問題です。
●これほど大切なものなのに、なかなか手に入れることができない知恵。皆さんはどうやって手に入れますか。私だったら、古代イスラエルの王に習って神に願い求めます。ある意味自分自身の一生は、神に知恵を願い求めて、この世を旅していくことの繰り返しではないかと思うのです。

2005年3月

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●こんにちは、中田神父です。私は生まれつき社交家ではありませんで、幅広く人脈を築き上げ、巧みに世の中を渡って生きていくというようなタイプではないと感じております。だからといって「この人」と決めた人とは他の人が尊敬してくれたり羨んだりするような人間関係を築くのかというと、そこまでの熱意もありません。こと人間関係については、広く浅くという見方に立っても、反対に「深く」という見方に立っても、合格点はいただけないということです。
●ではなぜ、こんなに人間関係が求められる生き方に身を置いているのか。宗教上のお世話を多くの人に期待され、期待に応えようとします。結婚のためにおいでになる人とは信頼関係を築くために折々にちょっとした話題で楽しい会話を演出します。病める人には慰めを、道を逸れそうな人には時には厳しく、時にはやさしく声をかけます。これだけのことができていれば十分に社交家ではないか、そう言われそうですが、私の中ではそうでもないのです。
●しばしば、人間を恐れています。本当にこの人に心を打ち明けて大丈夫なのだろうか、この人のために骨折ったけれども、私は最終的には失望させられるのではないだろうか。初めての分野を手がける中で出会った人、職人さんなどが「神父さんと話すと気持ちよか」と仰ってくださっているにもかかわらず、私はその職人さんを彼が思っているほどには思ってはいない。仕事が終わればさようなら、どこかでそうやってより深く関わることを恐れているような気がします。
●けれども、中田神父が引っ張り出される所、どこでもふだん出会わない人がいっぱいです。会社の話に当てはめると、こんな場面では名刺を交換する場面なのだろうなあと思うような場所に頻繁に立たされるようになりました。そのたびに、いい顔を作ってその時間を過ごし、帰って来ては「はあ疲れた」とため息をついているのです。こんな私ですから、とても社交性があるとは思えません。
●そこではじめの疑問に立ち帰って、なぜ自分は適していないと感じているのにそこにいるのか、と言うことなのですが、それはおそらく、「自分でそこに居たいから居るのではなくて、私を選んだ方が私をそこに留め置いてくださっているからそこにいる」と言うことなのではないかと思っています。司祭を選ぶのは突き詰めれば神なのですが、神はなぜ、適当でもない人をこのような頻繁に人と向き合う場にとどまらせておられるのでしょうか。
●二つ、考えてみました。一つは、不適当な人でも、それでもどうしても使いたいとお考えであれば不適当な面は助けてカバーしてくださると言うこと、二つ目は、神はしばしば人間にそのような不適当な場面こそ適当であると判断して遣わそうとされるということです。ここから得られる結論は、私に不足している面は、神が責任かぶってくださっておられるということです。
●今述べた二つの点について、もう少し話したいと思います。神様は、中田神父の何かに興味を持ってくださって司祭としてお使い下さっているのですが、実は本人は対人関係に問題を感じています。もっと社交的であればこの仕事をもっと円滑にこなすことができるのにと考えている。ところが神は、「だから私はあなたを使っているのだ」と仰りたいのかも知れません。
●努力を嫌う人は別として、人間は苦手なことは何とかできるように努力を重ねて克服しようとする傾きがあります。それは他のどの生き物と比べてもすぐれた一面だと思っていますが、この苦手な面を持っていて、努力をし続ける姿に興味を持ってくださった。苦手を抱えているからこそあなたを使いたがっているのではないかと最近は思ったりしています。得意な人がすればもっと円滑にできそうなものをと考えがちですが、世の中反対に不得意にしている人が選ばれたりするものです。
●次に、神はしばしば人間を、行きたくないなあと思っている場所、したくないなあと感じている出来事に向けて送り出す傾向にあるのではないかと感じます。最近私、一つの重責を引き受けねばならなくなりました。それは、長崎教区という一つの大きなカトリックの仕組みの中で行き渡っている新聞、「よきおとずれ」という名前の広報誌・機関誌なのですが、この新聞の編集長を仰せつかりました。始めに打診を受けた時に、とんでもないと、どうして私なんですかと思ったわけですが、私はこの打診にだだをこねたりして抵抗しようとはしませんでした。実はこの打診を受けるまでに、何かしら神様の周到なご計画を感じまして、引き受けざるを得まいと、思ったのです。
●こう言うことでした。打診を受ける前日まで、私はとある教会の高校生・青年に向けて三日間の黙想会(ちょっというと修養会・錬成会)の指導をしていました。彼らに高校生・青年としての心構えを持たせるための話を四回にわたって話し、最後の日には黙想会でいただいた恵みに感謝してミサを捧げる、そこまでのスケジュールを打診を受ける前日までこなしていたのです。
●その最終日の感謝のミサの中で、一つの聖書の朗読箇所を選び、それに基づいて彼らへのはなむけの言葉のようなものを添えて話しました。選んだ聖書の箇所と、合わせて話した内容を紹介いたします。
●選んだ箇所は、復活したイエスと、イエスの一番弟子であったペトロとの会話のやりとりです。その中で特に取り上げたかった部分は、イエスがペトロに、あなたはわたしのために殉教しなければならなくなるだろうと予言をなさる言葉です。実際の朗読の中では次のようにイエスがペトロに語りかけます。
●イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
●ペトロは殉教して教会のために命を捧げたことが知られていますが、先の聖書の引用はそのことの予言であるとされています。そしてこのイエスの予言の言葉の中にある、「行きたくないところへ連れて行かれる」という部分を取り上げて、高校生・青年に話しをしたのです。「私たちはしばしば神様に、心では行きたくないなあと思っているような場所やしたくないなあと思っている仕事に遣わされていくんですよ。」
●ちょうど、そんな話しをした矢先のことでした。神様は前日に私が話した言葉を確認して、「よく決心してくれた。そのような話を人にするからには、まずあなたが見本を見せてください」という思いで、「したくない仕事」、つまり信徒一万八千人が読んでいる広報誌の編集長をぶつけてきたのだと思ったのです。あまりのタイミングの良さに、私はしばし呆然としたのでした。
●世の中案外そのようなものなのかも知れません。苦手なことを努力で克服するから少しずつできるようになり、努力したからそれは身に付いていきます。得意なものは努力もしないし場当たりで結果だけを追い求める危険がありますが、苦手な対人関係をうまくお使い下さり、イヤだなと思う仕事をどんどんぶつけて、私を神様のために、神様のためだけの奉仕に仕向けておられるのかも知れません。
●皆様お一人おひとりにも、何かそのような面で当てはまることがあるとすれば、今月のお話しもお役に立つかなあと思います。

2005年4月

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