マリア文庫への寄稿

「マリア文庫」とは、「目の見えない方々」へ録音テープを通して奉仕活動をしている団体です。概要については、マリア文庫紹介をご覧ください。

2003年 10月 11月 12月
2004年 1月 2月 3月

2003年10月

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●こんにちは。中田神父です。今月は、ショッピングセンターのお買い物からひらめいたお話をお届けしたいと思います。何々商店という規模のお店ではなくて、ショッピングセンター、特に郊外のショッピングセンターに行くと、まとめ買いをしてレジに並ぶ人をよく見かけます。
●私もショッピングセンターを利用するわけですが、商品をレジで計算する様子を見ながら、あらためて感心することがあります。それは、商品をちょっとかざすだけで名前と値段が打ち込まれる、あの「バーコード」とか「タグ」とか言われる仕組みのことです。
●先ほどの商品タグ、バーコードを取り入れている店舗では、どんどん読み取り機の前に商品をかざして、代金の計算が進みます。たまに、読みとれないことがあって手で入力したり、持ち場の係員に尋ねたりすることもありますが、ほとんどは、あっという間に計算が終了します。本当に驚かされます。
●バーコードというのは、どう言ったらよいでしょうか、長さ1センチくらいで縦に引いた線を、30本ほどずらっと横に並べた模様です。最近はほとんどの商品につけられていて、この部分を機械にかざすと、ぱっと読みとってくれるわけです。考えてみると店舗のすべての商品がそのように自分の名前と値段を覚えられているわけで、やはり驚きを隠し切れません。
●商品が何千個、いや何万個あっても、すべては30本の短い線の中に記憶されていて、一つ残らず把握されている。今日雇われたアルバイトの人であっても、その商品が何に使われるものか、いっさい知らなくても、簡単に代金の計算、レジ打ちができる。今となっては当たり前のことなのに、あらためて考えると驚異とさえ感じられます。
●このような仕組みが目指していることはなんでしょうか。それは、詰まるところ「管理する」ということです。今日、何がどれだけ売れた、何時頃がいちばんレジを通過した、一人のお客さんが平均どれくらいお金を使った、たくさんレジを置いている店では、どのレジがいちばん利用された、などなどたくさんのことを「管理する」ということが最終の目的ではないかと思います。
●何気なく買い物をしていても、お店側はすべてのことを管理し、手の中に収めようと考えているわけです。それはお店の商品ですから、当然といえば当然でしょう。この流れはこれからもっともっと進んで行くでしょうし、そのうちに今までは考えられなかったものにまで商品タグが張り付けられることになるかも知れません。
●ところで、すべてが数えられているというお話、じつは聖書の中にも登場するのです。イエス様が弟子たちに話した、次のようなお話があります。
●「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(ルカ福音書12章4節から7節)。
●「あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな」。髪の毛、というところがちと気になりますが、まあとにかくすべてが数えられている、というのです。今風に言えば、遺伝子の一つまでも残らず数えられているということになるでしょうか。
●さてここで考えるべきことがあります。神が、人間一人ひとりを数えている、それは髪の毛の一本に至るまで残らず数えられているというのですが、それは何のためなのでしょうか。また、そのことは私たちにとってどういう意味があるのでしょうか。多いに考える必要があると思います。
●すべてが数えられているということは、ショッピングセンターのとき考えたような、「管理する」ということに繋がるのでしょうか。つまり、神は人間をすべて管理するために、すべてを数えておられるということです。私は、神に管理されているということなのでしょうか。
●そうは考えたくありません。神が人間を意のままに扱うために管理している、そんなことはご免こうむりたいものです。人生の長さとか、誰と出会うか、どんな体験をするか、果ては死後に報いがあるのかないのかなど、すべて管理されているなんてことは、考えるだけでもぞっとします。
●たぶん、神のお考えはそのようなところにはないと思います。はっきりそのことを教えてくれるのは、数えられていると言ったそのすぐ後に続く「恐れるな」という一言です。すべて数えられているから恐れるな。安心しなさいと仰るのです。
●すべて数えられていると聞いて、皆さんはすぐに「あーそれは安心だ」とお感じになるでしょうか。お恥ずかしい話ですが、中田神父はすぐにはそのような気持ちになれませんでした。やはりどこかに、すべてのことを見られているって、窮屈ではないかなあ、という思いがあるのです。
●けれども、いくつかの場面を考えることで、先に感じた不安を乗り越えることができました。たとえば海か山で遭難したとします。ほとんどの場合は見つけてもらえるわけですが、場合によっては見つけてもらえず、誰にも知られずに生涯を閉じなければならないこともあるでしょう。そうなると、誰も見つけることができない、いつまでたっても見つけることができないということになります。
●ですが、「神は髪の毛までも一本残らず数えてくださる」お方ですから、遭難したその人を見ておられることでしょう。人間には見つけてもらえませんでしたが、神はその人を助け起こし、ご自分の元へ引き寄せてくださるのではないでしょうか。
●中学生の頃、忘れられない遭難のニュースがありました。それは世界的に有名な登山家植村直巳(うえむらなおみ)さんがマッキンリー山登頂後、下山途中で遭難したというニュースです。私はこの登山家を取り上げた「南極物語」という映画を観て感動した人間でしたので、大変なショックを覚えたことがあります。その後必死の捜索をおこなったと思いますが、とうとう見つかりませんでした。
●今も、どこかに眠っているのかも知れません。もしかしたら、髪の毛一本だけしか残ってないかも知れません。そうした中で、神が人間一人ひとりをすべて数えておられるとしたら、何かしら希望がもてるのではないでしょうか。誰も希望のもてない状況にあって、髪の毛一本までも数えられているということは、こうしてみると安心に繋がるのではないか、と思ったのです。
●誰も気付いてくれない、誰も私を見つけて声をかけてくれない。そうした中で日々を送っている人がいるとしたら、私は今日のお話を届けたいと思います。あなたは神様に数えられています。髪の毛一本までも、すべて数えられています。希望を持ってください。そんな言葉をかけたいなあと思います。
●もちろん、そのような言葉も、私自身に偽りがあれば正しく伝えることはできません。言葉だけの、うわべだけの慰めに過ぎません。神様が人間を数えてくださっていることを実感できるような手を差し延べなければいけないと思います。そんな生き方を目指したい。心からそう思います。
●最後に、マザーテレサと呼ばれる一人のシスターを紹介して、今月の話を終わりたいと思います。彼女は生涯、インド・カルカッタの最も貧しい人を捜し出して最後のお世話をするという奉仕をまっとうしました。誰からも見捨てられた人を見つけてきて、傷を洗い、食べ物を用意し、最期を看取ってあげました。そうして一人の人を天国に送っては、また一人捜してきて、最後のお世話をしたのでした。
●彼女の態度は、お世話を受けたすべての人にとって、「私は人間として数えられている。髪の毛一本までもすべて数えられている」という実感を与えたのではないかと思います。そのシスターは、なんと10月19日、教会の聖人・聖女の列に加えられることになりました。

2003年11月

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●こんにちは。中田神父です。声の奉仕会が送り続けてきた月刊アヴェマリアも、なんと200号を迎えたそうで、本当におめでとうございます。あまりまとまった祝辞にはならないかも知れませんが、200号を迎えるに至ったスタッフの皆様のご苦労を、今回の録音でねぎらってみたいと思います。
●そうは言いましても「おめでとうございます」だけでは私の持ち時間15分を埋めることはできそうにありませんので、200回という長い積み重ねについて思うところをまずは話してみたいと思います。
●まず、自分が積み上げてきたことの中で、200回を迎えたものがあるかと振り返ってみると、もしも許していただけるなら、日曜日ごとの説教は、これは何百回という数字になります。一年を通して教会の司祭は最低でも50回は説教をしておりますし、加えて冠婚葬祭のおりに説教することを考えれば、年に60回は話していることになるでしょう。
●今現在司祭生活は11年目ですが、司祭になる1年前から現実的には説教が始まりましたので、少なく見積もっても12年かける50回で、600回は説教をしてきたことになります。この積み重ねを通ってきた中田神父の目から見ても、月刊アヴェマリアの200回は数段意味のある回数だと考えています。
●なぜそう考えるかはもう少し後に述べたいと思いますが、ほかの積み上げで考えてみると、今赴任している「カトリック太田尾教会」で月1回発行の小さな教会新聞を始めてすでに60号を迎えております。これもあしかけ5年でたどり着いた一つの足跡ではありますが、それでもマリア文庫の200号の比ではないと思うのです。
●あと一つ駄目押しをするなら、日曜日の福音説教を、目の前で聞いている信徒の皆様だけでなく、より多くの人に届けたいと思ってメールマガジンというものを始めました。現代の電子メールという便利な道具を利用して、福音説教を日本中の方々にお届けしようというものです。現時点で海外の読者も含めて271名の読者がおられ、活動を始めてから現在で93号を迎えることができました。
●この福音説教メールマガジンは、年末か、年明け頃にめでたく100号を迎える活動なのですが、それでも月刊アヴェマリアの200号のすばらしさに遠く及びません。褒めに褒めちぎったわけですが、中田神父が月刊アヴェマリアの200号を高く買う理由がいろいろあります。
(1)一つは、多くの協力者が関わっているということです。一人で何かを積み上げることは、考え方によっては簡単な作業です。ある意味、自分の好きなこと・自分のしたいことを、自分一人で続けることですから、そう難しいものではありません。ですが月刊アヴェマリアの1本のテープには、話を提供してくれる人・朗読を入れてくださる朗読者、集まった録音物を1本のテープに収める人、1本のテープを180本ダビングしてくださる方々、郵送のために細かい作業を引き受けてくださる方と、考えつくだけでも多くの方々の協力によって成り立っています。これらのスタッフが、ほぼ20年間にわたって関わってくださったからこそ、このたびの200号につながったと言えるのではないでしょうか。
(2)二つ目は、1本のテープに収められている質の高さです。ここで白状しなければいけないことがありますが、私自身は3回ほどしか月刊アヴェマリアのテープを聴いたことはありません。ただ、その中に収められているいろんなジャンルの録音は、よくぞこれだけのものを収めましたと、手放しで称賛できる内容でした。その中のおよそ6分の1が私の録音内容だということを思うたびに、身の引き締まる思い、穴があったら入りたい思いに駆られます。私のことは横に置いてもらって、質の高い情報を毎月届けて今日に至ったことは、おおいに宣伝して良いことだと思うわけです。
(3)三つ目。それはこの活動が、目に見える形で成長し続けているということです。ここ2年ほど、「音訳奉仕者の養成講座」にちょっぴり手を貸しているのですが、毎年新規の希望者で教室が賑わっていることには目を見張ります。「何か自分のできることでお役に立ちたい」そう思っておられる方が今もいらっしゃることの何よりの証拠ですし、また、「何かしたい」という方々にとって、月刊アヴェマリアを含むマリア文庫の活動が心に響くから、音訳者の募集に集まってくるということだろうと思います。月刊アヴェマリアという一つの種のような活動が、芽を出し木になっただけでなく、成長し続けていることがすばらしいと思います。息も絶え絶えに200回何とか引き伸ばしてきたというものでなくて、これからも大きな目標に向かって歩み続ける中での一つの足跡だと思うのです。
(4)あと一つ言わせてください。それは、この活動は「報いを求めない活動である」という点です。全くの無料奉仕で、200号を送り出すなんてことは、これはなかなか信じがたいことです。何か義務的なことであったり、どこかで報われる仕組みになっていれば話も別でしょうが、無報酬で続けていることが、こうして回を重ねて大きな足跡を残したことに、驚きを隠せないのです。だれもが損をしたくないと思う世の中にあって、「進んで無償での奉仕を引き受ける」協力者に、頭の下がる思いです。もしかしたら、無報酬での働きがどこかで心地よいものとなって、どうしても今月のアヴェマリアを完成させたい、そんな信念のようなものが一人ひとりを支えているのかも知れません。このような「喜んで自分を与える」方々の手で、今回200号が完成したことを、私も協力者の一人として喜び合いたいと思います。
●さて、自分を与えることについて、聖書はどのようなことを言っているでしょうか。いろいろあるかと思いますが、私が今回のお祝い号に選んだみことばは、マタイによる福音書の一節です。次のように言っています。「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」(マタイ福音書5章42節)
●前後の文章をよく読むと、今回取り上げる意味合いとは少し違った文章の中の一節なのですが、自分を与えるということについて、深く考えさせる言葉だと思います。「あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。
●私たちはどうしても自分の都合が先に働きますから、人が何かを頼んでくれば、まずは自分の都合がつくかを考えるわけです。あるいは、その時間をやりくりできるか、都合悪くても何とか都合つけることができるかを考えて返事をします。どうしても都合がつかなければ、それはお断りするということになるわけです。
●ですが、イエス様はまず「求める者には与えなさい」と仰います。それを説明する言葉として、「あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と付け加えています。まずは与えなさい、相手の必要に先に答えてあげなさいと言うのです。
●言葉の並びが逆であれば、「できるだけ与えて挙げなさい。できないときは仕方がない」という意味だったかも知れません。ですが、どうもイエス様が伝えたかったことは、「できないときは仕方がない」ではないようです。「できません」とは言わずに、与えてあげなさい。与えるとはそういうものだよと仰りたいのではないでしょうか。
●月刊アヴェマリアに携わるすべての方々は、「都合がつくかなあ」という自分中心の考えを越えて、「私たちの働きを楽しみにしている人がいる」その一念で、万難を排して作業に当たっているのではないでしょうか。信じるところはそれぞれ違いますが、キリストの先の言葉を、知らなくても生きているのだと思います。あるいは、キリストの言葉が、月刊アヴェマリアの協力者お一人おひとりの中で生きていると言ってもよいでしょうか。
●長々と述べましたが、この200号が月刊アヴェマリアの大きな足跡となったことは間違いありません。これからも良い協力者を常にいただきながら、未来に向かって力強く歩み続けますことを願いまして、今月の話とさせていただきます。

2003年12月

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●こんにちは。中田神父です。明けましておめでとうございます。本来は昨年12月15日締め切りの宗教コーナーなのですが、本人がカゼをひいたことと、のんきに構えていたこともあって遅れてしまいました。申し訳ありません。
●今回は、カトリック教会の宗教行事であるクリスマスのその後ということで少し話してみたいと思います。クリスマスそのものについては、少し学んでおられる方も多いかと思いますが、クリスマスを取り巻く周辺の話や、クリスマスの直後に取り上げられている話題などは、参考になるかと思いまして、今回取り上げることにしました。
●皆さん十分にご承知と思いますが、クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う世界的な行事です。出来事はイエス・キリストの誕生ですから、ユダヤの国(今のイスラエル国)で起こった歴史の一こまなのですが、今や世界中の人が祝う行事となりました。
●クリスマスが12月25日に祝われるのは、あとで始まった習慣です。つまり、ローマ帝国がキリスト教を国教としてから、キリストの誕生は世界に光をもたらす出来事として、それまで祝われていた「太陽の祝日」を「キリストの誕生」に置き換えたことに始まります。
●経験からご存知かも知れませんが、12月の20日を過ぎると昼の時間がだんだん長くなってきます。つまり、「夜が長かった季節」から「太陽が支配する時間が長くなる季節」へと移り変わるのがこの12月下旬なのです。この自然の営みを、当時のローマ世界はキリスト教の普及に結びつけるため、「この世の太陽であるキリストの導きが広まる」という意味で太陽の祝日をキリストの誕生の祝日に置き換えたわけです。
●もちろん、キリストが12月25日に誕生したとすれば、それはそれで結構なことですが、必ずしもそうではないだろうというのが私の本音です。閏年に、2月29日に生まれたからと言って、2月29日と出生届を出せば、4年に1度しか誕生日は回ってきません。そんなことはしないだろうと思います。
●また、仮に遭難した船の中で出産を迎えたとして、無事に助け出されてから出生届を出すとすれば、おそらく正確な時間とはいかないと思います。21世紀の今でさえそうなのですから、イエス様が寒さ厳しき折に馬小屋で生まれてなくても、仮に夏や秋に生まれていても、私は構わないと思っています。
●そうなると、キリストの誕生を12月25日に祝う意味は、別のところにあるのではないか。たとえば、馬小屋のようなところで生まれたとしても、どんな命も尊いものだ、生まれ落ちた命を喜び合いましょうというメッセージと考えることもできますし、聖書の記述では多くの人の暖かいまなざしの中で生まれてはいないようですから、誰にも知られず、ひっそりと生まれたとしても、神はあなたのことを心にかけてくださいます。神はあなたを決して見捨てませんという呼びかけと取ることも出来るかと思います。
●さて、誕生にまつわる周辺の出来事を一つ紹介しましたが、もう一つの面を今月は特に強調してみたいと思います。それは、このイエス・キリストを礼拝するために、東の国から占星術の学者がやってきた、ということです。占星術の学者といいましたが、星占いの専門家と言ってもよいでしょうか。
●この、星占いの学者たちは、はるばる東の国からやってきてイエスを拝みます。彼らは占い師ですから、もともと吉凶を占って、吉のしるしがあるとか、凶のしるしがあるとか、そういうことを人々に取り次ぐ人々です。彼らはユダヤの国にやってきて、当時の権力者に、ユダヤ人の王が生まれたので拝みに来たと、「吉報」「吉の知らせ」を告げ、黄金・香り高い香料・埋葬に使う高価な没薬をささげました。
●星占いの学者たちは、自分たちの国では学者先生と称えられ、他の人が真似できない「未来を告げる」人として敬われていた人たちです。なぜ、彼らが自分たちの名誉にあぐらをかかずに、みずから赴いてイエス・キリストを礼拝することができたのでしょうか。また、当時の人々がなかなか手に入れることのできない莫大な財産のしるしである黄金やその他を、なぜ惜しげもなく生まれたばかりの幼子、それも外国で生まれた幼子にささげることができたのでしょうか。
●考えれば考えるほど疑問が湧いてくるわけですが、一つ言えることは、この幼子は、自分が得た知恵と知識・そこから得た富をささげるに値すると考えたに違いない、ということです。私が手に入れたもの、私がささやかであっても喜び楽しむことができたことを、イエスキリストはささげるに値すると感じたから、彼らはみずから赴いてきたのではないでしょうか。
●一つの例ですが、技を極めた職人とか匠といわれる人々は、しばしば人里離れた山へこもります。山で自分の極めた世界を存分に味わいたいのかも知れません。そして、技を学びたい人たちはわざわざそこへ行って、教えを請うわけです。自分がある程度の名を馳せた人であっても、自分よりも優れていると認めた人のところへは、みずから赴いて教えを請う。これはどこの世界にも通用することなのではないでしょうか。
●現在のイスラエル国のベツレヘムという場所には、キリスト生誕の地とされる場所があり、その上には大きな聖堂が建てられています。毎年たくさんの人がここに巡礼し、キリストの誕生に思いを馳せるのです。
●私も縁あってお参りすることができたのですが、どんなにベツレヘムのことを本やその他で知り得たとしても、その場に赴き、生誕の地とされる土地に足を運ぶと、これまでの知識はどこかへ行ってしまいます。信仰心や、なぜ自分は司祭になろうとしたのか、学生時代にいろいろ勉強したことは意味があるのかなど、いろんなことがあの生誕の地に赴いたときに、意味を持つものとなったような気がしました。
●知識や、それによって得た名声と富は、それ以上に大切な何かに向けていくとき、本当に秩序正しいものとなるのではないでしょうか。学者たちが、自分たちの知識や名声をキリストに向けて旅をしたとき、本当の満足を得たように、私たちが身につけたものを、いちばん尊い方に秩序づけるなら、本当の価値が出てくるのだと思います。
●回りくどくなってきましたので、言い方を変えてみましょう。自分が今持っているものを失ってしまうとしたらどうでしょう。もしかしたらそれは、今これだけしか持っていない、最後の最後に頼りにしていたこのことを失ってしまう、そんな風に考えてみましょう。
●もし、手にあるものを失うとき、それらを誰か他の人に奪われるのと、神とか仏とかに奪われるのでは違いがあるでしょうか。唯一頼みにしていたものを誰か人に奪われたとしたら、私たちは悲しみに暮れるのではないかと思います。自分にはもう何も残っていない、という中でかけがえのないものをあの人に奪われた。これは悲しいに違いありません。
●ところが、もしその大切なたった一つのものが、神によって奪われたのだとしたらどうでしょう。神はたった一つ大切にしていたものまで取り上げるのか、そう思うでしょうか。私はむしろ、神が取り上げたのであれば、神が責任をもってくれるに違いない、神から取り上げられたのであれば、ほかのだれかに奪われるよりはよいと、私はそう考えるかも知れません。
●つまりこういうことです。これまで大切にしてきたものを人間やこの世に結びつけて生きてきたとしたら、最後には大切なものは人間やこの世に奪われることでしょう、ところが大切なものを神に結びつけて人生を送ってきた人たちは、すべてを神に取り上げられても恐れないでしょう、そうは思いませんか?ということなのです。
●馬小屋のキリストを拝みに来た星占いの学者たちは、自分が手に入れた知恵と知識・またそこから得られた財産までも、キリストに秩序づけようと考えたので幼子を礼拝に来ました。ここには、人生を豊に生き抜く知恵者の生き方が隠されているように思うのです。
●私は、人生をどこへ向けて日々を過ごしているのでしょうか、今たくさんのものが手元から離れ、あとはこれしかないという方もおられるかも知れません。もしその最後の頼みが奪われるとしたら、誰に奪われたなら後悔しないでしょうか。誰かほかの人間からでしょうか、あなたが信じて疑わないお方から奪われるのであれば信頼してすべてを任せると考えるでしょうか。
●一年一年、過ぎてはやって来ます。年末年始に、こんな思いを皆さんと分かち合ってみました。

2004年1月

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●こんにちは。中田神父です。ご存知ないかも知れませんが、私が住んでおります「長崎県西彼杵郡大島町」というところは、橋が架かってはおりますが周囲20キロほどの島でして、何かと不便なこともある暮らしです。今月は、この「不便」ということから話を切りだしてみたいと思います。
●宗教コーナーにほとんど似つかわしくない話と思われるかも知れませんが、信仰心と日常生活はどこを取っても決して切り離せないという、そのあたりをくみ取っていただいて、しばらくおつきあい下さい。
●これは、本当に些細な例なのですが、中田神父が現在とどまっております太田尾カトリック教会は、佐世保地区という、一つの地区割りの中に含まれております。そして、この佐世保地区に含まれる教会の司祭たちは、月に一度会合を持ちまして、連絡事項や地区全体の活動などを話し合ったりいたします。
●月に一度集まるわけですから、当然私も集合場所になっている佐世保市の中心部にある教会に出かけるわけですが、ただでたどり着けるわけではありません。車を走らせることでガソリン代がかかる、これはまあ許せるとしても、大島を出て橋を渡るときに、必ず橋の通行料金を払わなければなりません。普通車で橋を渡ると、片道700円、往復1400円ということになります。ほかのどなたも必要としない費用が、毎月かさむことになります。
●キリストはたびたび「赦しなさい」ということを仰ったわけですが、5年も6年もこのような負担を求められると、さすがに我慢にも限界を感じてしまいます。「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)とイエス様は言い残しましたが、あと1・2年もすれば、七の七十倍に当たる490回くらいは行ったり来たりするのではないかと思い、まだ忍耐が必要でしょうかと言いたくもなります。
●宗教は決して生活と離れていません。むしろ、生活のまっただ中にいる人にとって、宗教は難しい問題を生むのではないでしょうか。交通費の件では、私よりも大きな負担を引き受けて信仰生活を送っている家族がありました。福岡での話ですが、家族四人が教会に来て帰るために、毎週五千円の交通費が必要なのだそうです。列車に乗り、地下鉄に乗り継ぎ、最後にバスに乗って教会に通う。往復で五千円の費用負担を引き受けてでも、その家族は教会に来て、礼拝に参加していたのでした。お恥ずかしい話ですが、私だったら月に2回礼拝をサボって、浮いたお金で腹一杯焼き肉を食べに行くかも知れません。
●さまざまな不便は喜ぶべきことではないし、できれば便利な方がよいと誰しも思います。ただ、「便利」はあまり人を信仰心へと向けませんが、「不便」は往々にして人を信仰心へと駆り立てるのです。「不便」という言葉が当てはまらないとすれば、「困難」と言い換えても良いでしょうか。
●私が抱えている「不便・困難」がもしも信仰心へと私を向かわせるきっかけになっているとすれば、ある意味で私は、あなたは、生活のまっただ中で信仰生活を歩んでいることになるのではないでしょうか。反対に、不便や困難を感じるときに「便利と安楽」で解決しようとしているならば、私の生活に「宗教・信仰心」は無縁だと言ってよいかも知れません。
●これから、私のつたない経験ですが、「不便・困難」が信仰心につながった例と、信仰心につながらず、「怒りと妬み」しか生まなかった例を、一つずつ挙げてみたいと思います。何か、考えるきっかけになれば幸いです。
●良くない例から、先に紹介しましょう。終わりが悪くなると、少し話のまとまりも悪くなりますので、この順番で進めたいと思います。つい先日のことでした。ようやくこの大島にも、インターネットの高速回線サービスが導入されることになり、早速二つのサービス会社から電話がかかってきました。同じ日に一度にかかってきたことも頭に来る原因だったのですが、内容はおおまかこのようなものでした。
●「もしもしこちらは、○○電話サービスでございます。このたび大島町でも、インターネット高速回線が導入されることになりましたので、ぜひ当社のサービスとご契約いただきたく、ご案内差し上げております。失礼ですが、お客様はインターネットはご利用なさっておられますでしょうか?」
●毎日インターネットに繋がない日はない人間に、「インターネットはご利用なさってますか」というのも失礼な話ですが、まあいちおう話を聞くだけ聞いてみました。何でもそのサービスを利用するとさらに便利に・お得になるということ、たとえばお得になるという意味では、今と同じ料金でポケットティッシュ2個受け取れたのが、これからは同じ料金で8個受け取ることができます。いかがでしょうか?という誘いだったわけです。
●たいへんお得な話のように聞こえますが、じつはインターネットの世界では、もうすでに同様の料金でもっともっと高速の回線が利用できる環境が整っていまして、先のティッシュの話で言えば、同じ料金で8個もらうことができますよ、というのは今では時代遅れに近くて、都市部では同じ料金で24個もらえるとか、どうかすると40個もらえるという環境が整備されているわけです。そのような時代の流れを十分承知している私に、先のサービス会社は、「画期的なサービスです。何と8個ももらえるようになりますよ」と言ってきたわけです。
●人を小馬鹿にしたような話に、私はいささか飽きてきまして、「それで、実際に私の教会の電話番号では利用できるわけですか」と、最後の確認をすることにしました。「ええもちろんですとも。ただし中継局から5キロ離れておりますと、お取り扱いが難しいのですが。早速当方で、中継局からの距離を調べさせていただきます」。
調子のいい声で話を続けていた担当者が、しばらくしてこう言ってきました。「まことに申し訳ございません。お客様のお住まいになっておられる場所が、中継局から4920メートル離れておりまして・・・いやまったく無理というわけではございませんのですが、やはり5キロが目安になっておりまして」
●「けっこうです。あなたのおしゃべりにつきあっている暇はありません。端からお断りです」「そうでございますか。では、さらに高速の(つまりそれは、同じ条件でティッシュが12個受け取れるという意味だったのですが)回線が開通しましたら、あらためて連絡差し上げます」「まったく興味ありません。お引き取り下さい」
●帰れと言っても電話口ですから帰ることもできませんが、便利になるチャンスを拒否しましたが、不便を甘んじて受け入れた割には、怒りと、都会で便利を満喫しているであろう人々への妬み、そういったことしかこの体験からは生まれませんでした。
●次に、私なりに不便が信仰心に結びついた例ですが、このごろ夜中に目が覚めることが割と多くなりまして、いろんな思いに駆られることがあります。初めの頃は、目が覚めて壁掛けの時計を確認しても、「なーんだ3時か」そう言うが早いか、また眠りに入って起きたことすら覚えていないことが多かったのですが、最近は、2時に起きた、3時に起きた、そのことがだんだん気になり始めまして、「また夜中に目が覚めるのだろうか」「途中で目が覚めるだけならまだしも、そこから眠れなくなったらどうしよう」とか、不安に駆られるようになってきたわけです。
●これは、一つの不便・困難です。この困難を前にして、焦りと、いらだちを隠せない自分と向き合っているうちに、私の中で自分を神様に向かわせる何かが働くのを感じました。私は自分で起きたつもりはありません。自分の意志で起きたわけではないのに、自分に腹を立てていたのですが、これはもしかしたら、自分を超える神様が、私と語りたくて、向き合いたくて、私にきっかけを作ろうとしているのではないか、そう思うことにしたのです。
●司祭であるのに、日中あまり神と向き合うことができていない私に、神はきっかけを作ろうとしているのではないか。時間から時間に仕事をこなし、あるいは信徒が集う中で礼拝を執り行って、忙しくしている、それは認めるけれども、忙しさを横に置いて、生活のまっただ中で神である私と向き合う時間がない、そんなに忙しいのであれば、そんなに日中の時間に余裕がないのであれば、せめてあなたが寝ているあいだに、あなたとの絆を確かめたい。何だか、そんなことを合図しているような気がして、私は考えさせられたわけです。
●もちろん、だんだんそういう年に入っていくのですよと、そう思って片づけることも可能です。この考えに沿っていけば、たまにはよく眠れるお薬をいただくとか、「便利・快適」につながる解決法を探すことになるでしょう。ですが、少なくとも私の今回の経験からは、「便利・快適」で解決しようという気持ちは涌いてきませんでした。考えるきっかけとなり、生活の中で信仰心に向かう体験だったのです。
●みなさんお一人おひとりの生活も、さまざまな「不便・困難」があることと思います。私などが理解し得ない悩みを抱えているかも知れません。そうしたことの、いくつかでも、生活の中で自分を信仰心へと向けさせるきっかけになっているとすれば、私はすばらしいことだと思います。
●すべてを便利と快適で解決しようとすれば、もしかしたらそういうことも可能なのかも知れません。ですがそのような対応の仕方からは、おそらく信仰心と結びつく何かは生まれてこないのではないでしょうか。理解しがたい困難・やりきれない困難を目の当たりにするとき、私はその時こそ生活の中で自分に信仰をもたらそうとするいずれかの方の働きかけが起きていると考えるわけですが、みなさまはどうお考えでしょうか。

2004年2月

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●こんにちは。中田神父です。3月10日に、カトリック系の女子中学校で丸1日かけての修養(錬成会)を行います。カトリックでは、よく黙想会と言われるものです。時間割の中で、私は二回話をして、それを基に生徒たちは共同作業を通して話した内容を体験しながら学び、最後に班ごとの発表をして、学んだことを皆で分かち合うという時間を過ごす予定です。
●今月の宗教講話として、女子中学生に話した内容のうち、2回目の話を材料にお話ししたいと思います。中学校での講話は、1回につき50分話す時間が与えられておりました。その、2回目の要点を話すことで、何かお役に立てばと思っております。
●先に、この中学生の黙想会の大きなテーマを紹介しますと、「どんな問題でも解いてみよう」としてみました。学生さんですから、中間試験やら期末試験やらで、これまで大量に「問題を与えられ、それを解く」という作業を繰り返してきております。この子たちがちょっと気が付けば、「自分たちは学校であれだけ課題を与えられてそれを解いてきたのだから、身近な生活の問題も、取り組もう・解いてみようという気になれば、きっと解けるはずだ」そう思って、自分の周りで起こる問題や、日頃悩んでいることを解いてみましょう、そういう取り組みを進めてみたわけです。
●この原稿を用意する時点では、まだ結果がどうなったか、分かっていないわけですが、おそらく、自分たちが学校でしてきたことを身の回りの問題に当てはめていく楽しさを、味わってもらえるのではないかなあ、と期待しております。
●さて、そういう流れの中での2回目の話は、聖書の物語から三つの箇所を取り上げ、一人ひとりの生活にかけがえのない尊いものを発見するお手伝いをしようと考えました。取り上げた三つの箇所は、「愚かな金持ちのたとえ」「バルティマイのいやし」「やもめの息子を生き返らせる」この三つを使いました。
●信仰に関わる問題は取り上げませんでしたが、この三つを順番に追いかけていくことで、「私たちの生活には、かけがえのないものがあるんだ」と気付くことができるのではないかなあ、と思っております。
●順を追って、説明と考え方を紹介しておきましょう。「愚かな金持ちのたとえ」では、農業に携わるある金持ちの畑が豊作になります。穫れた穀物が、所有している倉庫に納まりそうにありません。金持ちはもっと大きな穀物倉庫を作ってすべての穀物を納め、おおいに満足しました。けれどもその晩、夢の中で神が「愚か者よ、お前の命は今日限りだ。お前が集めた物はいったいどうなるのか」と警告するのです。
●イエス・キリストはこのたとえの結びとして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ12:21)と結びます。このたとえを通して、「中学生のあなたにとって、いちばん大切なものはなんですか?」ということを考えてもらいます。おそらく、中学生らしい答えがたくさん並ぶことでしょう。
●それらをいったん答えてもらった上で、この話を聞くわけです。倉庫にしまいきれないほどのものを手に入れたけれども、あの金持ちの命は長くなかった。金持ちの話を聞いてみて、何か気持ちの変化はありますか?そんなことを聞こうと思っているのです。どうでしょうか。限りある人生に、いちばん大切なものを求めた場合、それは決して裏切られないと、保証できるものなのでしょうか。
●もしかしたら、中学生には重い問題かも知れません。そんなことを考える年頃じゃないかも知れません。少し譲って、その通りだとしても、少なくとも、「中学生のあなたが選んだいちばん大切なもの」それは、よく考えた上で、やはりいちばん大切なものですか?そう考えてもらうことは、中学生にとっても意味があることではないかなあ、と淡い期待を持っています。
●二つめの聖書の箇所は、「バルティマイのいやし」という物語です。彼は、目が見えません。生まれたときからか、あとでそうなったのかは述べられていませんが、そのハンディのためにいろんな苦労を強いられることになります。当時、目が見えないということは、仕事に就く可能性が全くなくなることを意味していました。バルティマイは、そのために道端に座って人々の憐れみを乞う生活しかありませんでした。
●イエス・キリストが近くを通りかかると聞いて、バルティマイは人をはばかることなく「私を助けてください」と叫びます。イエスが「何をしてほしいのか」と仰ると、「先生、見えるようになりたいのです」と答えます。奇跡が起こってバルティマイはいやされますが、話の結びとして、「なお道を進まれるイエスに従った」と書かれています。
●ここで取り上げようと思っていることは、バルティマイが「見えるようになりたい」と願い、願いが叶えられたあとに「イエスに従った」ということです。バルティマイは、どうしてもかなえてもらいたい願いがあり、それを奇跡を通してかなえていただいたのですが、普通にこの物語を結ぶとしたら、「その後彼は感謝のうちに日々を過ごした」とか、そういう結びになりそうなのですが、「イエスに従った」わけです。
●たぶん、「人間の心の底からの願いを叶えてくれる方に出会い、その方に後の人生を委ねて生きることにした」そういう意味ではなかったろうかと思います。そこで中学生に尋ねようと思っていることは、「あなたに大切な願い事があるとしたら、誰にそれを願いますか」と聞くことにしています。
●私たちは相談する相手を一人か二人は持っているだろうと思います。どんなに難しい願い事でも相談する、そんな信頼できる人を持っているかも知れません。ですがそれでも、すべてを相談相手に委ねるわけではないと思います。なぜなら、相手も人間、自分も人間、互いに限界がある者同士だからです。すべての願いにすべてこたえることができないと、どこかで分かっているわけです。それをわきまえた上で、いろんな相談に乗ってもらい、助けられています。
●中学生にとっても、相談相手はとても大切な部分を担っていると思います。中学生時代に、相談できる相手がいるということは、本当に幸せなことです。それはしばしば、両親であるかも知れません。そういう「いろんなことを相談できる相手」がいるとして、「あなたはその方に、『すべてを』相談できますか?」と尋ねたいわけです。
●すべてを相談できないとしたら、私たちの生活には、すべてを相談できる人はいないのでしょうか?そういうことを考えてもらえたらなあと思っています。この話をお聞きの方々は、どのようにお考えでしょうか。私たちに与えられた人生の中で、「すべてを希望し、すべて委ねる」ことのできる方を望むことはできないものなのでしょうか。
●私は、一つの答えとして、もちろん自分の立場を踏まえての答えなのですが、すべてを相談できる方がいらっしゃるとしたら、それは神様ではないでしょうか。神様と呼ぶ方を信じていないなら、この世のものではない、見えない方がいらっしゃるのではないでしょうかと、話してあげようと思っています。
●ここまでで、考えてきたことは二つです。あなたにとって、いちばん大切なものはなんでしょうか、どんなことでも相談できる相手はいるでしょうか、ということでした。最後に考えてもらうことは、あらゆる希望がなくなったとき、それでも生きていくために何が必要でしょうか、という「究極の」問題を考えることにしています。
●中学生にそんなこと考えさせる意味があるのでしょうか?もしかしたら、考えても意味のないことかも知れません。ただ、私の頭にはある考えが巡っていて、その思いがこの最後の問題を解いてもらいたいきっかけとなっています。それは、中学生にとっても、「まったく希望のない状態」というのはあり得る、という思いです。
●残念なことですが、中学生の時代に、「もう生きていても仕方ないかなあ」と思う人がいることは、ときどきニュースで流れる悲しい事件を通して聞こえてきます。どうして?と思うけれども、それは自分の年齢でものを考えているのでしょうし、事件に巻き込まれたりいじめで命を絶つ中学生のことを思うと、もう生きていても仕方ないよなあ、と思うような場面に立たされているのかも知れません。
●そんなことをときどき耳にするたびに、できれば、どこかで「あなたはまったく希望がないと思っているけれど、そうじゃないよ」というメッセージを送ってあげたいと思うわけです。そこで、イエス様と出会って変えられた物語を通して、いっしょに考える時間を作ろうと思い立ったのでした。
●「やもめの息子を生き返らせる」この話は、物語としてはいたってシンプルです。ある若者が棺に納められ、埋葬されようとしていました。その母親はやもめであって、今まさに埋葬される息子は一人息子です。イエス様はこの母親に、「もう泣かなくともよい」と仰って、若者を生き返らせ、母親に返すという話です。奇跡物語の典型と言ってもいいような物語ですが、ここには「希望」について深く考えさせる内容が含まれています。
●「やもめ」それは夫を亡くし、そのことで生活の支えを失っている女性です。社会の中でも弱い立場に置かれ、彼女たちを食い物にする輩もうようよしていたわけです。その彼女にとって、一人息子とはたった一つの希望であり、すべての希望でもありました。その、一人息子を失ったのですから、彼女は今、すべてを失い、一切の希望がたたれていたわけです。
●そこでイエス様が「もう泣かなくともよい」と仰います。それは、ある面では残酷な場面です。どれだけ泣いても済まないほどの悲しみに突き落とされた女性に、「もう泣かなくともよい」と仰るのです。もし、それに見合う何かができなければ、イエス様は無責任なことを言っていることになります。もし、多少の慰めでその場を濁すなら、イエス様は卑怯者になってしまいます。
●当然イエス様はそれらのことを予想して、一人息子を生き返らせ、母親に返してくださいました。イエス様は一人息子を母親に返しましたが、母親にとってはすべての希望を返していただいたのと同じだったのではないでしょうか。
●そこで考えるべき点は次のことです。「あなたはまったく希望がないと思えるようなとき、それでも生きていくためにはどうしたらよいと思いますか?」いちばん大切だと思っているものを失うこともあるでしょう。どんなことでも、信頼して相談できると思っていた人に裏切られることがあるかも知れません。その上にさらに、すべての希望を断たれてしまったら、普通でしたらもう生きては行けないのかも知れない。けれども、中学生という輝かしい時代に、すでにそこまで追い詰められるような人も、時としているわけです。
●そんな友達を助ける人であって欲しい、そこまで追い詰められる前に、あなたは生きていいんだよ、あなたのことを私は覚えているよと、声をかける人になって欲しい。まあ、そんな願いも込めて、いっしょに考えることにしたいなあと思っています。
●皆様は、いちばん大切なものについて、すべてを信頼して委ねるお方について、まったく希望のもてない時を乗り越えるために、どのようなことをお考えになるのでしょうか。

2004年3月

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●こんにちは。中田神父です。桜の季節は、転勤の季節、私も、今いる教会から、どうやら転勤することになりそうです。正式には、もう少ししないと確定しないのですが、今の時点で予定されている任地は、長崎港から二十分ほど離れた島へと転勤することになりそうです。もちろん転勤には、ちょっとしたゴタゴタは付き物ですから、直前になって行き先が変更になるということは、全くのゼロではありませんが。
●そうした中でこれまでの六年間の生活を振り返るとき、自分が関わったことでお世話できたことと、却ってこじれさせてしまい、迷惑をかけたことの両方があっただろうと思います。そう考えるとき、人間には、その人にしかできない特別の役割があるのではないか、そう思うのです。今月は、その辺のことを話してみたいと思います。
●ある一人の子供の話から入りたいと思います。その子は、私が今の教会に赴任してから洗礼を授けました。六年過ぎましたので、この子は保育園の年長さんに成長し、本来ならば教会としては、基礎的な信仰教育が始まる年齢になっております。
●実はこの子が日々成長していく様子を目の当たりにしてきましたので、「年長さんになって、教会のお勉強に来るのが楽しみだなあ」と思っていたところでした。あと一年とどまるなら、その子が教会学校の基礎クラスに入って、楽しく学ぶ様子に目を細めることができたかも知れません。実際には、それはかないませんでした。
●ですが、転勤すると決まってから思うわけですが、私は、その子に洗礼を授ける時期に関わるようにと役割を与えられ、その子が教会学校の基礎クラスになるときには、今度はまた後任の方が関わってくださるように、神様の遠大な計画が立てられていたのだろうなあと思っております。一人の人間にまかせられている役割はその人に特別のものがあるのであって、それを超えることまではしなくてもよいということなのでしょう。
●最初の話につながっていくのですが、この男の子の洗礼式がきっかけとなって、お父さんも洗礼を受ける気持ちが芽生え、それから一年ほどしてお父さんも洗礼をお受けになりました。私は、男の子が洗礼を受けるその時から、お父さんにも同じカトリックの信仰を考えるきっかけになればと思っていて、洗礼式の日の説教の中では、お父さんの心に何かが残るようにと話をしたことを覚えています。
●完全に、そのことがきっかけだったとは言いませんが、おそらく、それもきっかけの一つになっただろうと思います。私に与えられた役割を通して、ある一人の男の子の役に立てた、そしてお父さんのお役にも立てたというわけです。
●当然、私の人間的な面が、ある人にとっては衝突の原因になることもあっただろうと思います。私が「これはどうしても譲れません」と言い張ったために、そのことで教会そのものに背を向け、それから一歩も近づかなくなった人もいただろうと思います。六年過ぎてみると、その時点では「譲って」あとで後始末をするというような方法も取れたのかなあ、と思ったりもしますが、若さ故、そこまでの融通が利かずに厳しい結果で終わった方々もいました。
●お役に立てたこと、私のせいでこじれたこと、両方を思い出すとき、人間は決して神様ではない、だから、その人なりの特別の役割を授けて、その役割に十分に力を発揮してもらうように、ある時期にある場所に置く。そういう使い方をしてくださるのだと思いました。
●次に、何回かの転勤を通して考えることですが、「変わっていくこと」と「変わらないこと」があるのではないかなあ、と思っています。例えば今年2004年と、四年前の2000年とでは、同じ出来事から感じることが少し違っていたりすると思います。四年前には桜を見ても「桜が咲いているなあ」としか感じませんでしたが、今年の桜は、「六年前も、桜の時期に転勤の知らせが来たなあ」と感じたのです。四年前には赴任してきたときのことを思い出したりはしませんでしたが、転勤する今年は思い出したのです。
●感じることや、得られた答えは、時間の流れの中で変わりうると思います。けれども、変わらないものもあります。私にとってそれは、自分の信仰と関わっている部分です。もう少しことばを補うと、私が奉仕する場所は、五月からはすっかり変わりますが、同じ信仰を持つ方々に奉仕することに変わりはありません。
●説教する相手は変わりますが、日曜日の礼拝の中で説教するという基本の部分は変わりません。変わっていく部分はありますが、時間の流れの中でも、変わらないもの、変わってはいけないものがあると思うのです。その、変わらないものこそ大事にしたいと思います。
●洗礼を授けた先の男の子に、できれば小学生になっても関わっていきたいと思うこともありますが、私が関わってあげることはかないませんでしたが、司祭がこれからも関わってくれるということに変わりはない。そう考えるときに、中田神父であるかどうかは変わっていく事柄であって、そう神経質にならなくてもよい。改めてそう思うことにしています。
●皆さんはここまでの二つの話を、どのように受け止めてくださったのでしょうか。一人ひとりには、かけがえのない何かの使命が与えられていて、その部分で何かお役に立つことができれば、ご迷惑をかける部分があってもきっとその人は受け入れてもらえる、そう思っています。お役に立てるであろう、私に特に恵まれたものを精一杯輝かせること。それが、一生懸命生きるということにつながると思います。
●また、この世の中のものは、変わっていく部分と、変わらない部分があって、変わっていくものはその時その時は大切であっても、いつかは手放したりして、しがみつくべきものではないということ。そして変わらないものこそ真に大切なもので、これを見失ってはいけない、と思うのです。
●見た目は変わり得ます。見た目によって、多くの人から受ける印象も、変わることがあるでしょう。ですが、あなたのことを今も心に留めてくださる人がいます。見た目が変わっても、前は歩くことができたのに今は歩けない、そういうことをあまり気にせずに、どのような姿であれ、あなたを思い続けてくださる人がいる。例えばこのような、変わらない思いで見守ってくださる人こそが、大切なのだと思います。
●ここまでは、私自身の振り返りを通して、二つのことに触れてみました。「その人には、その人なりの特別の役割があって、十分にその役割を果たせば、それでよい」また、「世の中のものがどんどん変わっていく中で、常に変わらないものこそが真に大切ですよ」ということでした。
●こうした振り返りは、きっと皆さんがこれまでの生活を考えるときにも当てはまるのではないかと思います。たまたま、私は今「引っ越しの準備」の最中にこの話をまとめようとしています。原稿を書き上げてから録音に入るわけですが、部屋の中の物一切合切、婦人会・壮年会の皆さんが騒動しながら種類分けして箱詰めしてくださっています。その声を聞きながら原稿を進めているので、いろんな声が聞こえてきます。
●「○○さん、それは『音楽』という箱に詰めるのよ。今入れようとしている箱に入れたら迷子になっちゃうわよ」「いいじゃない、ちょうど空きがあって、この品物を入れたら具合がいいんだから」「ダメダメ。そんなことしたら、あとで神父様が探せなくなっちゃう。空きがあるなら、新聞詰めて頂戴」たいへんな騒ぎになっていますが、その声を聞く限り、「てきぱきした性格」「まあいいじゃないといった性格」「言われた通りに言われたことを果たす性格」など、いろんな性格が見えて微笑ましくなります。
●もしも、ここに集まっている人が「いいじゃない、箱に入ってしまえば何でも同じよ」という人ばかりでしたら、あとで引っ越し先に着いてから、大変なことになるでしょう。反対に、「これは、絶対にこの箱に入れなきゃダメ、その箱に入れちゃダメ」そういう人ばかりでしたら、今度は箱に詰める段階で仕事がはかどらないでしょう。
●集まった人が少しずつ違った性格で、変えても良い主義主張は譲り合って、変えられないもの「中田神父が気持ちよく引っ越しできて、向こうで箱を開けるときに困らないように」その思いで協力し合うことで、きっとすべてがうまく回転するのだと思います。
●今月は、何かと落ち着かない中で書いて録音したので自分でもまとまってないなあ、と思うのですが、辛抱してお聞き下さった皆さまに感謝申し上げます。また、次回のアヴェマリアでは、新しい任地から便りをお届けしますので、どうぞお楽しみに。

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