マリア文庫への寄稿

「マリア文庫」とは、「目の見えない方々」へ録音テープを通して奉仕活動をしている団体です。概要については、マリア文庫紹介をご覧ください。

2013年 1月 2月 3月
2013年 4月 5月 6月

2013年1月

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●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。先日、月に2回実施している病院に入院しているカトリック信者や家庭にいて教会に通うことのできない人を見舞う病人訪問に出かけた時でした。
●一通り回り終えて車で帰っていたら、ほんのちょっと眠気がして、うっかり目を閉じてしまったのです。そこは緩やかな右カーブでした。目を開いた時には、左側の縁石に、危うくタイヤを乗り上げるところだったのです。疲れがたまっていたのでしょうか。冷やっとしました。
●もしもあのとき、縁石に乗り上げていたら、交通事故になっていました。こういう場合自損事故になりますが、ほんの一瞬で、出来事は起こるものです。わたしは15年くらい前に、ほかの車からぶつけられたこともあります。その時は下り坂の道路を走っていて、道路右の駐車場から車が出てきて、出会い頭にぶつかってしまったのです。
●さいわいに車の損害だけで済みましたが、運転席側に車がぶつかってきたので、わたしが傷害を負っていても不思議ではない状況でした。この時も、事故はほんの一瞬で起こったのです。
●何かと何かがぶつかるのは、もしかしたらほんの一瞬のことなのかもしれません。物に車がぶつかる、車と車がぶつかる。自動車事故だけではなく、人と人がぶつかるのも、ほんの一瞬と言って良いでしょう。かなり前から「あの人とぶつかるかもしれないなぁ」と言いながらぶつかることは、ほとんど考えられないのだと思います。
●今わたしは、人と人とがぶつかると言いましたが、ただぶつかって痛い目に遭うということだけではなく、人と人とが出会うことも、一瞬の出来事かもしれないと思うことがあります。新約聖書のヨハネ福音書の中に、生まれつき目の見えない人をいやす物語があるのですが、ここでのイエスと生まれつき目の見えない人との出会いは、ほんの一瞬であったことを伺わせます。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」(ヨハネ9・1)
●「通りすがりの出来事」だったのですが、イエスはこの人に深く関わってくださり、最終的に目が見えるようにしてくださいました。ほんの一瞬、見かけただけだったのに、その出会いは大きく膨らみ、驚くべき結果となりました。ここにはわたしたちが考えるべきことが含まれているように思います。
●それは、「一瞬の出会いを大切にする心」です。イエスと生まれつき目の見えない人との出会いは一瞬だったのですから、そのまま通り過ぎ、何も起こらない可能性もあったと思います。けれどもイエスは、今通り過ぎようとしているこの人が必要としているものはわたししか与えられない。そのことを敏感に感じて、一瞬の出会いを永遠に価値あるものにしたのです。
●もちろん、イエスと誰かの出会いは、たとえそれが一瞬でもつねに価値あることでしょう。けれども、たとえ相手がイエスでなくても、具体的にはわたしたちであっても、一瞬の出会いがとても大切なものとなる可能性はあると思うのです。
●考えてみると、わたしとマリア文庫との出会いも、ほんの一瞬、偶然であったということができます。マリア文庫の皆さんが当時大島の太田尾教会にいたわたしの所に巡礼にやってきて、一緒にミサをささげたことが最初の出会いでした。その時、ミサを一緒にささげて、それでも何も感じるものがなかったら、そのまま終わっていたことでしょう。
●巡礼でやってきたマリア文庫の皆さんのおかげだったのか、わたしに何か求めていたものがあったのか、今となっては思い出すことができませんが、間違いなくその日の出会いは、一生忘れることのできない出会いとなりました。
●わたしたちはさまざまな機会に、一瞬の出会いを繰り返してきていると思います。本当に一瞬の出来事ですが、それらの中に、一生忘れることのできない出会いになったものがあるのではないでしょうか。少し、その時のことを思い出してみましょう。その出会いは、わたしのほうから求めて与えられた出会いだったでしょうか。それとも、わたしの思いもしないような形で偶然与えられたものだったでしょうか。
●両方の可能性があると思います。自分から求めていたものであれ、予想もしない形で与えられたものであれ、その一瞬の出会いは、何か感じるものがあって、一度きりにしてはいけないと考え、あとで大切な宝物になることがあります。ですから、わたしたちが誰かと出会うのは多くの場合一瞬の出来事ですが、もしかしたらその一瞬の出来事が大切なものになるかもしれない。そういう気持ちは持っていたほうがよいと思います。
●さてこうした一瞬の出会いは、自分から求めて与えられる場合と、思いがけない形で与えられる場合とがあるとわたしは考えます。ところで、わたしたちは今、その両方の出会いの可能性を保ちながら暮らしているでしょうか。忘れられない出会いになる、そのような人との出会いを求めて行動を起こすという面と、もしそのようなすばらしい一瞬が与えられた時、心を開いてその出会いを喜ぼうという面と、両方を持ち合わせているでしょうか?
●わたし自身に当てはめて考えると、忘れられない出会いになる、その一瞬の出会いを求めて行動する部分が、少し欠けているかもしれないと思いました。出会いを求めて行動するためには、それなりの時間と、勇気が必要です。けれども、わたしは今の自分の生活にいろんな理由をつけて、これで精一杯だ、これ以上は無理だと納得させているような気がします。
●不思議なことですが、一瞬の、貴重な出会いを求める勇気が欠けてくると、突然与えられる貴重な出会いにも準備が間に合わないような気がします。わたしは去年のクリスマスにとあるエッセイストの作家さんと出会うチャンスが与えられました。突然に与えられたチャンスでしたが、ほとんど会話らしい会話もせず、クリスマスのミサを終えてお別れしました。
●もっとゆっくり話すことができなかっただろうかとの後悔がありまして、2月に時間を作って、わたしのほうから訪ねていこうという計画をしています。わたしは、一瞬であっても大切な出会いを求めて行動することと、突然そのような出会いを与えられてその出会いから広がっていくこととは、どこかでつながっているような気がしています。ですから、これからも、できる範囲で一瞬の出会いを求めて行動し、偶然そのような出会いを与えられたらそれを大切に温める、その両方に心を開いておきたいと思います。
●もし興味がありましたら、途中で紹介しましたイエスと生まれつき目の見えない人との出会いが紹介されているヨハネ福音書の第9章を、あとでお読みになってください。ここには、一瞬の出会いを求めて行動する姿と、突然その出会いを与えられた時に大切にその出会いを温める姿の両方が、見事に描かれています。

2013年2月

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●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。2月の中旬に3泊4日の旅行をしまして、たくさんの人と会う約束をして、その人たちと面会してきました。その中に、ある視覚障害者の方との面会を果たすことができました。とても気さくにお話しすることができました。一緒に声を出して笑うような話もしました。けれども、見えないということで経験した体験談には、考えさせられる話がありました。それらを紹介しながら、今月のお話としたいと思います。
●その方がいつ頃視力が無くなったのか、そこまでは聞けませんでしたが、子供の頃、近くの子供と自転車で遠出をした経験があるそうです。わたしの記憶に間違いがなければ、すでに視力を失ってからと受け止めましたから、それだけでもビックリする話でした。さぞ、ご両親は肝を冷やしたことでしょう。
●近所の友達と自転車で遠くに行きましたが、今になって考えると、もしその友達が、悪意で置き去りにして帰っていたら、自分一人では決して家に帰り着くことはできなかっただろうと言っていました。ですから、当時の近所の友達には、視力を失っている友達に対して、ここまではいたずらをすることがあってもこれより先は守ってあげなければならないと、そういう理性が働いていたのでしょう、と話してくれました。
●一つの聖書の言葉を思い出しました。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6・36)一緒に遊んだ両方の子供、視力を失った子供とそうでない子供、そのどちらも、この聖書の言葉を知らないかもしれません。けれども、視力を失った子供には、この聖書の言葉が生きていたような気がします。
●さて、面会した視覚障害者の方は、最近遭遇する心を痛める場面も話してくださいました。地下鉄の電車に乗って通勤していると、うっかりだれかに接触することがあります。それはどんな人でも起こりうることですが、その方は接触したと思われる人から、「もっと気をつけて歩け」と、厳しい言葉を投げつけられたそうです。
●考えてみれば、これはひどい話だと思います。視覚障害者の方は、十分注意して、点字ブロックなどを頼りに歩いているはずです。また、杖を左右に振って、周りを十分確かめながら歩いているはずです。それなのに、視覚に障害のない人から、「もっと気をつけて歩け」と言われるのは、中田神父は納得がいきません。杖を左右に振って歩くときに、もしかしたら杖が接触したのかもしれません。けれども、それは視覚障害者が十分な注意を払わなかったからそうなったのでしょうか。決してそうではないと思います。
●ほかにも、残念だなぁと思うような体験を話してくれました。あるとき、小学生と思われる子供たちがベンチに座っているところに近づいてきました。「何か用があるのかな」と思っていたら、ベンチに立てかけていた杖を理由もなく地面に転がして立ち去ったそうです。
●「この人は目が不自由だから、いたずらしても追いかけてこない。」そんな考えだったのでしょうか。弱い立場の人に、さらに意地悪いことをしてかさにかかる。そんな小学生たちと遭遇して、この子供たちの心の中には、どんな暗闇があるのだろうかと思ったことでしょう。
●話してくれた視覚障害者の方によると、こうしたことは珍しいことではなく、残念だけれどもよく起こる出来事なのだそうです。わたしは話を聞いていて、その小学生たちが本当にかわいそうだと思いました。自分たちのしていることが意地悪だとは理解していたでしょうが、「意地悪をしてもかまわない、なぜなら相手に発見されないから」と考えたことが、悲しいなぁと思いました。
●「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」この聖書の言葉は、キリスト教を知らない人にも、どんな人にも生き方に深く影響を及ぼすことのできる言葉だと思います。引用した聖書の言葉、参考になると思いますのでもう少し続きの部分も含めて紹介してみましょう。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカ6・36-38)

●人に接するとき、程度の差があると感じることがあります。儀礼的に接している場合、決められた範囲を守って接している場合、範囲を超えて、徹底的に接してくれる場合などです。もちろん相手に不快な思いをさせようとしているわけではないのですが、儀礼的に接している人からは、失礼にならない程度の思いしか届きませんし、決められた範囲を守って接している人からは、特別な思いは伝わりません。
●けれども、範囲を超えて、徹底的に接してくれる人からは、相手の深い思いが伝わります。それは、聖書が語る「憐れみ深い」態度です。「憐れみ」で終わらず、「憐れみ深い」態度が、人の生き方に深く影響を及ぼすことのできる姿勢ではないでしょうか。
●「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」たとえ聖書を見たことも読んだこともない人でも、この言葉を心に留めて生きている人は、聖書の呼びかけを理解できる人だと思います。こうした憐れみ深い人が、いつか聖書と出会い、「あー、自分が基本に置いている生き方は、すでに二千年前に語られていたんだなぁ」と感じることができたらすばらしいと思います。
●わたしたちの心は、広い広い畑です。その畑には、いろんな種が蒔かれます。よい種が蒔かれ、それがすくすくと伸びて欲しいものだと思います。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」こうした思いが種蒔かれ、育ってくれたらどんなに嬉しいでしょう。
●一緒に遊んでくれて、置き去りにしなかった友達。通勤途中に接触して、「ぶつかったから謝れ」と要求してきた大人。見えないことにつけ込んで、杖を転がしてしまった小学生。広い広い心の畑に、種蒔かれたものがあったはずです。良いものも、悪いものも種蒔かれたことでしょう。その中で、良いものは伸ばし、悪いものは抜き去って、心の畑をいつも良い状態に保ちたいものです。
●そうして、良い種から育った実りのうちいくつかが、実は二千年前の種だったかもしれません。そのうちの一つは、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」イエス・キリストが、全世界の人に蒔いた種なのだと思います。

2013年3月

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●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。人間には「心に刻まれた言葉」があると思っています。「心に刻まれた言葉」をさらに分けると、身近な人から心に植えつけられた言葉と、だれに教わらなくても知っているし、だれとでも分かり合える、そういう「心に刻まれた言葉」とに分けることができると思います。
●まず身近な人から心に植え付けられた言葉です。「危ない場所に行ってはいけませんよ」「知らない人について行ってはいけませんよ」こうした言葉は主に母親からかけられた言葉で、小さな子供の心に深く刻まれ、母親がそこにいなくても、刻まれた声に聞き従う。そういう事はあると思います。繰り返し母親に諭された子供は、いざというとき母親の言葉を思い出すはずです。
●何かの機会に心の中に言葉が刻まれる。他の場面もあります。わたしは中学生の時に、カトリックの巡礼地、長崎26聖人殉教記念公園で2月5日に開催された殉教記念野外ミサの時にミサの説教をしてくださった司祭の言葉がずっと心に残りました。
●「あなたたちは何を見に、ここに集まったのか。預言者か。そうだ、預言者以上の者である。」たしかこんな言葉だったと思いますが、もとの引用はマタイ福音書の11章からの引用なのですが、遠足気分で野外ミサに参加していたわたしの頭を金槌で殴られたような衝撃を受けました。あの説教をなさった司祭のようになりたい。その憧れで、司祭への道を続けたのですが、その時出会っていたのが、わたしの最初の赴任地浦上教会の主任司祭であったのは、浦上に行ってから知ったことでした。
●さて身近な人によって心に刻まれた言葉は、深く刻まれていきますが、決して消えないとまでは言えません。「危険な場所に行ってはいけませんよ」深く刻まれていても、つい危険な場所に行くことはあります。「知らない人について行ってはいけませんよ」知らない人に声をかけられて、「知らない人について行ってはいけないから」と知らない人に返事をして、その上で話に乗せられてついて行くこともあるでしょう。ですから、身近な人から心に刻まれる言葉は、やはりどこまでいっても外から刻まれた言葉なのだと思います。
●ところで、外から刻まれたことばとは全く別の、他の言葉もわたしたちには刻まれているのではないでしょうか。外からではない、いわば内側から人の心に刻まれた言葉です。それを中田神父の言葉で言い表すと「神の言葉」ということになります。さまざまな形で表される「神の言葉」もまた、人の心の中に刻まれているのではないでしょうか。
●例えば、「父母を敬いなさい」という言葉は、わたしは「神の言葉」だと思います。どういうことかと言いますと、わたしたちは父親母親が教えてくれたから「父母を敬いなさい」という言葉の意味と大切さを知っているのでしょうか。決してそうではありません。誰に教えられなくても、わたしたちは「父母を敬いなさい」という言葉を知り、理解しているのです。
●わたしはこれまで何度か、教会での葬儀にそれまでずっと両親と折り合いが悪くて疎遠になっていた子供たちが、「こんなに早く亡くなるとは思っていなかった。こんなことなら、もっと早くに顔を出して、仲直りをしておけばよかった」と後悔する姿を見ています。「父母を敬いなさい」という言葉は、もしかしたら父母の姿からはこの子供たちに伝わらなかったのかもしれません。
●そのため長い間会うことすら避けていたわけですが、心の中には「父母を敬いなさい」という言葉はたしかに刻まれていたのです。このような例を考えても、人間によって刻まれたのではない、別の言葉が人の心にはある。それはすなわち、「神によって刻まれた言葉」が人の心にはあるというたしかなしるしではないかと思うのです。
●ですからある種の言葉は、誰からも習っていないのですが、「神が人間に教え、刻み込んでくれた言葉」として、人の心に存在するのだと思います。ほかにも、「殺してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」こうした言葉は、たとえだれかが正反対のことをあたかも真理であるかのように刻み込んだとしても、書き換えることのできないものとして、人の心の中にあるのだと思います。
●この、さまざまな形で心の中に刻まれた「神の言葉」は、すべての人と分かち合える言葉でもあると思います。あの人には通用するけれども、別の人にはまったく意味を持たない。そういう言葉ではありません。すべての人に意味と価値が見いだせる言葉です。ですから、だれかが単純な言葉でその意味と価値を解き明かしてくれるなら、人は心の中の「神の言葉」に気付くのだと思います。誰かがその人に指摘してくれる場合だけでなく、ある場合はだれかの声を聞いて、または誰かの本を通しても人に響くのだと思います。
●例えば、心を打つ詩集を発表する人。その人の詩が多くの人の心に響くのは、表面に刻まれた言葉を示してくれるからではなく、心の中に刻まれたある種の「神の言葉」を指し示してくれるから、多くの人の心を打つのだと思います。ある人には響いて、ほかの人には響かない言葉は、多くの人の心を打つことはできません。多くの人に響くとしたら、きっとそれは何かの形で「神が人の心に刻んだ言葉」を指し示しているからだと思います。
●ここに、マリア文庫は活動のチャンスがあります。多くの人の心を打つ書物があり、それを目の不自由な方に届けるために、音訳という形でマリア文庫はお役に立つことができます。それは有名作家の書物を音訳するということではありません。ある場合そうなっているかもしれませんが、基本は「人の心の内部に刻まれた神の言葉を指し示してくれる良い本を、音訳してお届けする」そういうお手伝いです。
●飛ぶように売れる人気作家の音訳図書は、わたしたちマリア文庫でなくても他にもたくさんの点字図書館が手がけることでしょう。そうではなく、マリア文庫が何よりも手がけたい書物は、人の心の奥底に刻まれた「神の言葉」を立派に指し示してくれる書物です。それらを音訳して、一人でも多くの視覚障害者に届ける。読書に困難を感じる人々に届ける。これが、マリア文庫の使命なのだと思います。
●心の奥底に刻まれた言葉を、中田神父が言うように、あえて神の言葉と言わなくても構いません。生まれたときから人に備わっている心の中の言葉にふさわしい別の言い方に置き換えても構いません。ただ、心の奥底に刻まれた言葉はすでにさまざまな表現で、美術、音楽、文学、宗教などで明るみに出されていると思います。
●これからも、マリア文庫はお届けする音訳図書とその他の活動を通して、人の心に記された「神の言葉」を思い出す一助となりたいと願っています。

2013年4月

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●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。久しぶりにお財布を外出先で忘れてきました。外出先から帰宅途中、ガソリンスタンドに立ち寄り、「レギュラー、満タン。それから洗車もお願いね」と言って車を離れようとしたとき、助手席に手提げカバンがないのです。真っ青になりました。
●手提げカバンには、外出先で用事を済ませた銀行の個人通帳と、自分用の財布が入っていました。車の給油と洗車はもう始まっていたので、事情を言って最初に立ち寄った銀行に電話で確認すると、手提げカバンの忘れ物は見当たらないし、窓口の行員も、わたしが訪ねてきたことは覚えているけれども、忘れ物をした感じではなかったということでした。
●不安が募る中、その次に用事で訪れたゆうちょ銀行に電話をかけると、「あー、手提げがありますねー。中身を言ってみてください。」と聞かれたので、財布と通帳があるはずで、財布にはナカダコウジという名前の免許証が入っていますと答えると、「はい、確かに。ではお預かりしておきます。」ということでした。ホット胸を撫で下ろし、ガソリンスタンドには戻ってから支払いをすると伝えて財布と通帳を取りに行きました。
●ゆうちょ銀行に行ってみると、受け渡しに本人確認をしたいと言います。誕生日を伝えましたが、免許証の誕生日を言えても、絶対に本人だとは言い切れません。免許証も財布も通帳も一緒に忘れて、どうやって本人確認をすればいいのと泣きそうな顔になっていたら、上司と思われる男性が「渡してあげなよ」と言ってくれました。本当にありがたかったです。
●本人確認とか、身分証明というのは、この社会では本当に大切ですね。とくに現代社会では、本人になりすますということがあらゆる場面で起こりますから、何か自分を確認してもらうための道具や手段を持っていなければなりません。「わたしである」ということを、わたしたちはふだんどのようにして証明しているのでしょうか。
●まずは、自分自身で証明する力を付けておく必要があると思いました。忘れ物の中身をきちんと言えること。忘れ物の中身をたまたま言えているのではなくて、ふだんから自分が使っているから、財布の中にはあれとこれが入っている。とくに、だれにも言えるはずのない特別な物が入っていて、それを説明できれば間違いなく信用してくれるでしょう。
●けれども、頭が真っ白になって自分の持ち物を説明できない。極端に緊張している場合はどうでしょうか。もしも舞い上がってしまって、落ち着いて説明ができない場合、わたしをよく知っている信用できる人がわたしを証明してくれるかもしれません。たとえば、今回ゆうちょ銀行に忘れた財布を受け取りに行ったわけですが、ゆうちょ銀行の行員さんに、わたしを知っている人がいれば大いに助けてくれるでしょう。あるいは、ゆうちょ銀行に来ている利用者の中に、わたしを知っている人がいれば、十分な証明になるでしょう。
●今回の体験を通して、「わたしである」ということを証明できることは大切だと感じました。そして、今回のことをきっかけに、いろんな「わたしである」という部分があるなぁということも考えました。たとえば、忘れ物をしたとき、「わたしである」ということを証明しますが、「わたしである」ということを証明する場面がそのほかにもあると気づいたのです。
●たとえば、自分がこれまで何を学んできたか、そのことをだれかに話す場面です。インタビューであるとか、体験談を話すよう依頼されたときです。そんな時に、どういった学校を卒業したかを紹介するでしょう。まずは自分で卒業した学校名を話せば、それは自分なりの証明になります。けれども信用してくれない人もいるかも知れません。だれか同級生がいれば、その人の名前を出すことで、より信頼できるものになります。
●自分の信念や、生き方を聞かれることもあるかも知れません。わたしはこう生きてきた。わたしはこういう信念で生きている。それを披露することで、人はわたしが誰であるかを知るでしょう。けれどもあなたを知らない人は、信用してくれないかもしれません。その時、一緒に生活したことのある人、同じ生き方を目指していた人が決め手になるでしょう。
●マリア文庫に籍を置いている人は、マリア文庫での自分の活動を証明することになります。けれども、この活動をまったく知らない人は、活動していると言われてもピンと来ないでしょう。そんな時は、一緒にマリア文庫に顔を出している人が、「わたしである(マリア文庫で活動している会員である)」ということを証明してくれます。
●このように多くの場合、「わたしである」ということを証明するのは、自分自身と、周りの親しい人です。自分自身は、自分のことをよく振り返って、的確に必要な説明ができるように準備しておくことが大切です。そして、信頼できる誰かが、自分の周りにいてくれる。これが「わたしである」ということをさらに確かなものにしてくれると思います。
●このような証明は、もしかしたらこの社会だけに留まらないかもしれません。わたしは、人生を終えたとき、この世界を旅立つとき、そこでも「わたしである」という証明が求められると考えています。この社会を旅立ち、自分が信じている方、信仰している方とまみえるときも、「わたしである」ということを証明する必要に迫られると考えています。
●この場合も、証明するのはまずは自分自身での証明です。自分と、自分が信じている方との関係を、自分で説明できる。それはとても大切なことです。言葉はつたなくても、自分が、信じている方とどのように繋がって生きてきたか、ある程度説明できることは役に立つでしょう。また、わたしの言葉がつたなくても、わたしの友人はわたしを証明してくれるかもしれません。「この人は、あなたとつながりを保って生きてきましたよ。」そういう友達がたくさんいるなら、わたしが言葉に詰まったとき、助けてくれるでしょう。
●そのようなことを考えていると、「わたしである」という証明は、わたしが生まれてから生涯にわたって、ずっと続くもの、ずっと必要なものなのかもしれません。そしてもっと先の世界を信じている人にとっては、「わたしである」という証明は、永遠に続いていくもの、永遠に必要とされるものなのだと思います。
●ですから、身近なことで証明を求められるとき、「あー、こうやって証明するのだなぁ」と考えたり、「ではこれに類する別の場面でも、この証明は生きてくるなぁ」とか、「この証明は、地上では役に立つけど、永遠に変わらない価値ある証明かなぁ」と思いをはせることもできます。わたしは、「わたしである」という証明で永遠に価値ある証明を残した人物は数少ないと思っています。価値観がどんどん変わっていく中で、いつまでも変わらず「わたしである」という証明になるもの、変わらずわたしを証明してくれる友を持ちたいものです。

2013年5月

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●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。皆さんは登山家の栗城史多(くりきのぶかず)さんをご存知でしょうか。世界の名だたる山で数々の単独登頂を果たし、その様子をみずからビデオで撮影し、その映像をすぐさまインターネットで公開して注目を浴びた登山家です。
●その栗城さんが、これまでどうしても登頂できなかったのがエベレスト山で、過去に3度挑戦し、3度とも失敗に終わっていました。4度目が、昨年の10月で、今年のNHKの正月番組で取り上げられたので、わたしは内心「これは登頂に成功したのだな」と期待して番組を見始めました。
●ところが、映像を見終わるとわかるのですが、彼は4度目の挑戦も残念ながら失敗に終わりました。この4度目に関して、栗城さんは「これが最後の挑戦になるかもしれない」と、並々ならぬ決意で4度目のエベレスト登山に挑んだそうです。
●ところが、猛烈な風と寒さで頂上を目指すことはできず、しかもこの挑戦で重度の凍傷にかかり、両手の指10本のうち、右の親指を除く9本の指の機能を失ってしまいました。テレビでは、病院に搬送され、指の付け根から指先まで、真っ黒な炭のようになっている痛ましい姿が映し出されていました。
●栗城さんが今後どのように活動していくか、もしかしたら山に登ることは叶わないかもしれませんが、彼はきっと、違う形で、挑戦をし続けていくと思います。そう思うのは、彼がこれまで続けてきた登山の姿勢からです。彼は常に単独で頂上を目指していましたが、単独登頂だけなら、同じことをする人は他にもいるでしょう。ところが彼は、単独登頂の様子を、みずからビデオで撮影し、生中継をしながら登頂するのです。
●これがいかに難しい登山であるか、おわかりでしょうか。酸素濃度が極端に減ると言われる高所で、危険な場所を登っていることを生中継するためには、いったん生中継のためのカメラを設置してきて、そこから戻って、カメラを設置している方向にもう一度登る、そうした作業を何度も繰り返さなければならないのです。
●時には、氷山に割れ目ができた場所にはしごを渡し、いったんカメラを設置してきてから、戻ってその谷底が見えるような氷山の割れ目を渡ることもあります。命がけの綱渡りを、2度も繰り返して、頂上に向かっているのです。
●ではなぜ、そのようなことをして登頂しているのでしょうか。それは、山と人とを結ぶためです。無駄のように思える生中継ですが、実際には数多くの人が中継を見て励まされてきたそうです。ふだんの生活で元気を失っている人、重い病で入院を余儀なくされ、希望をなくしかけている人、さまざまな人が栗城さんの登山の生中継にくぎ付けになり、その様子を見守っていたそうです。
●生中継を見たたくさんの人から激励が届きます。彼自身もそうした応援に励まされ、数千メートルの山に登ることのできない数えきれないほど多くの人々と、実際には見ることも触ることもできないその山の美しさ、険しさ、厳しさを結びつけるために、挑戦を続けていたのです。
●彼のその姿勢、つまり人々に勇気と感動を与えるための橋渡しをするという姿勢は、きっとこれからも変わらないのだろうなぁ、そうわたしは考えました。頂上にたどり着いた人にしか伝えられないことがあります。更に、単独で登頂し、その様子を自分自身で生中継した人にしか伝えられないことがあります。そして最後に、登頂した後、戻ってきた人にしか伝えられないことが、きっとあるのだと思います。
●エベレストへの挑戦はついに果たすことはできませんでした。そしてエベレストへの挑戦で途方もない代償を支払いました。それでも彼は、次の挑戦のことを考えていると思います。その挑戦が何かは分かりませんが、栗城さんの挑戦が、次なる何かと、彼を応援し、支えてくれる人とを結びつける活動であることは間違いないと思います。
●わたしも、栗城さんの生き方に倣って、何かと人とを結び合わせる働きをしたいなぁと思います。わたしは、冒険によってではなく、カトリックの司祭として、人を何かと結び合わせる仕事をしたいと思っています。人を結び付けたいその何かとは、わたしにとっては間違いなく「イエス・キリスト」です。
●この社会には、数えきれないほど疲れた人、重荷を負っている人がいるはずです。そんな人に「疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくれた人は、そうそういるものではないと思います。イエス・キリストは、はっきりとその言葉で人々を招いてくださいました。
●また、重大な病にかかり、余命を宣告されたり、治療法がないと言われて病院や医師から見捨てられたり、病が原因で働く場所を失い、どんなに働く場所を探しても見つからず、生きるすべを失ったりしている人がいると思います。そんな人に「わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。」そう言ってくれる人が、どこかにいるでしょうか。イエス・キリストは確かにそう言って、希望のないところに希望を与えてくれました。
●人を、勇気や感動を与えることのできる人とか物とか場所とかに結び付ける仕事は、とても魅力的な仕事だと思います。栗城さんはそのような仕事を人生の中で見つけ出し、もしかしたら方法は変わるかもしれませんが、同じ働きをこれからも続けていくのだと思います。
●わたしも、人に勇気や感動を与える何かを指し示し、そこに人々を結びつける仕事はステキだと思います。ただしわたしは、人々を結び付ける何かは、イエス・キリストだと信じて一生をささげたいと考えています。元気を失っている人、希望を失っている人を、希望のないところにも希望を与えてくれる人がいると信じて、結び合わせるために働き続けたいと思います。
●カトリック司祭である中田神父は、人を結びつけるならイエス・キリストであると話しましたが、それはわたしの信じる所です。信じるところが違うかたには、それぞれの信じる所に従って、当てはめていただければと思います。できれば希望をつなごうとするその対象が、消えて無くなるものや、いつか価値が下がってしまうものや、人間よりも価値の低いものでないことを願います。
●声の奉仕会マリア文庫も、利用者の皆様と利用してくださるさまざまな図書とを結び合わせる橋渡しをしています。利用者の皆様が必要としている図書と、利用者の皆様を結び合わせるのが大事な務めですが、図書を充実させていく中で、利用者の皆さんを価値が消えて無くならないものに結び付けたい。価値が下がらないものに結び付けたい。そうした思いで、これからも利用者の皆様に提供できる図書を選び、また情報を届けていきたいと考えております。

2013年6月

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●こんにちは、マリア文庫の中田輝次神父です。最近、もう少しで大けがになる場面に出くわしました。山の上にある墓地での納骨を依頼されていて、祭服を着た状態で墓地に到着し、一通り納骨の祈りを済ませました。納骨を終えての帰り道に事件は起こりました。一緒にいた人が、「前日の雨で足もとが滑りやすくなっていますから、十分気をつけてください」と声をかけてもらっているその瞬間にわたしは足を滑らせ、自然の石を積み上げて作られた石段を三段ほど滑り落ちてしまいました。
●おかげで祭服にはべっとりと泥が付き、そのままにはしておけないくらい汚れてしまいました。滑った時に尻もちをつき、手を擦り剥き、小指の爪を割ってしまいました。あとになって分かったのですが、肩胛骨がやけにヒリヒリするなぁと思っていたら、そこも擦り剥いていました。尻もちをついたことのある人は経験あるかと思いますが、尻もちのその時はビックリして痛みはなくても、あとになって打ち身の痛さがじわじわと出てくることがあります。わたしも四五日してから、体を打ち付けた痛みに悩まされました。
●事故に遭った中で幸いだったのは、滑った拍子に頭や首を打たなかったということです。頭や首を打っていたら、わたしは車椅子に座る生活になっていたかもしれません。これから先、視覚障害者に情報提供する施設が集まっての長崎大会が9月に控えています。場合によっては、もっと悪いことが起こっていた可能性だってあったと思います。あの時頭を打っていたらと考えたら、本当にゾッとします。あの時のわたしの正直な気持ちは、「助けられたなぁ」というものでした。
●思いがけないことで助けられたり、命に関わることで命拾いをしたりした時、皆さんは出来事をどのように理解するでしょうか。わたしは、今回はふだんにも増して、「助けられたなぁ」「命を守ってもらったのだなぁ」と思いました。この「助けられた」「命を守ってもらった」という思いを、もう少し考えてみたいと思います。
●人は何となく、「助けられた」と言ったりもしますが、ではだれに助けられ、だれに命を守ってもらったのでしょうか。わたしが足を滑らせた時、その場にいた人たちは、「キャー!」と絶叫はしましたが、手を伸ばせば届く所にいましたが、とっさにわたしの頭を支えることも、腕を掴むこともできませんでした。
●ですから、わたしが頭も打たず、脊髄を傷つけることもなかったのは、少なくともその場にいた人たちのおかげではないはずです。おそらく、瞬間的なことなので、そこに何人いても、わたしを助けることはできなかったでしょう。つまり、今回わたしが助けられたのは、だれか人間のおかげではなかったことになります。
●ずっと、この宗教コーナーをお聞きになっているかたでしたら、もうすでに中田神父が言いたいことはお分かりだと思いますが、わたしは、やはり今回神さまに守ってもらったのだと思います。何が何でも神さまと言わなくても、わたしや、周囲の人をはるかに超える力ある方に、守ってもらったと言えるのではないでしょうか。
●もう1つ思ったのは、怖い思いをしたこの体験を通して、「助けられた」「守られた」と感じたのは、特殊な人が考える答えではない、むしろ自然な答えだったということです。何かとっさに、「ここは『助けられた』と言ったほうが、カトリックの聖職者にふさわしいから、そう言っておこう」などと考えて、「あー助けられた」と言っているわけではないということです。だいたい、そんなことを瞬時に考えられるはずがありません。
●今回のことを、お一人お一人に当てはめて考えてみましょう。みなさんが生活の中で何か失敗をしたとしましょう。失敗はたしかにしたのですが、でも結果的にその失敗が他の人に何も迷惑をかけなかったとしましょう。そんな時皆さんは、「助かったぁ」と思うでしょうか。
●「助けられた」ではなく、「助かったぁ」です。この場合「助かったぁ」というのは、偶然の結果ということもあります。偶然であれば、失敗が周囲の人に影響するかどうかには何の関係もないことになります。ですが本当に、だれかの失敗が他の人に迷惑をかけなかったことを、「偶然」と言い切れるでしょうか。
●わたしは、出来事が他の人に与える影響を、偶然で片付けることはとてもできません。みなさんの多くもそう感じているでしょう。何か失敗した時、わたしが人に迷惑をかけなかったのは、単なる偶然とは言い切れないのです。むしろ、「あなたが助けられたから」迷惑がかからなかったということではないでしょうか。実際に、だれか具体的なあの人この人が、見えない所で立ち回ってくれたから迷惑がかからなかったという場合もあるかもしれません。
●ただし、もし迷惑がかからないように立ち回ってくれた人にだれも思い当たる人がいなかったとしたら、だれがあなたを助けてくれたのでしょうか。だれがあなたを守ってくれたのでしょうか。だれか分かりませんが、「助けられた」「守られた」としか説明のしようがない場面があると思います。
●参考ですが、聖書の箇所を1つ朗読して終わりたいと思います。ヨハネ福音書の第4章46節から54節、「役人の息子をいやす」という場面です。この物語で、役人はだれに助けられたかを最後にはっきり知ることになります。

4:46 さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。
4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
4:48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
4:49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。
4:50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。
4:53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。
4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

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