マリア文庫への寄稿

「マリア文庫」とは、「目の見えない方々」へ録音テープを通して奉仕活動をしている団体です。概要については、マリア文庫紹介をご覧ください。

2011年 12月 2012年1月 2月
2012年 3月 4月 5月

2011年12月

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「クリスマスのメッセージ」
●こんにちは、マリア文庫の中田輝次神父です。12月の初めころだったと思いますが、有名な物理学者で、宇宙についての研究にも詳しいスティーヴン・ホーキング博士が出演した番組を見ました。番組は、あくまでホーキング博士の個人的意見ですと断っていましたが、番組を見て感じたことを分かち合ってみたいと思います。
●番組では、宇宙の始まりについて取り上げられていました。宇宙の始まりについて、爆発によって巨大なエネルギーが放出され、それが広がって宇宙となったというのが一般に考えられていますが、その最初の出来事はどのように始まったのか、という問いに答えていました。
●宇宙の始まりと言うと、わたしはすぐに、「それは神さまが関わっていて、神さまが宇宙を造ってくれた」と考えます。ところが、ホーキング博士の考えは全く違っていて、「宇宙が始まるのに、神さまは必要ない」と言い切るのです。
●詳しい説明は、わたしもお届けする力がありませんが、爆発によってとてつもなく大きなエネルギーが放出されるわけですが、そのエネルギーはどこから出て来たのか、それは大問題です。わたしなどは、「そら見たことか。それだけの大きなエネルギーは、神さまが用意してあげなければ、用意できるはずがない」と考えます。
●ホーキング博士は、「神が用意しなくても、大きなエネルギーは存在することができる」と言います。それはたとえて言えば、とてつもなく大きな穴を地面に掘って、その時にかきだした土を脇に積み上げれば、掘った深さと同じだけの盛り土が現れます。そして掘った場所と、盛り土とは、合わせるとゼロになると説明するのです。
●そこで、宇宙の始まりに関する爆発の時のエネルギーについても、それとちょうど釣り合うだけのマイナスのエネルギーが存在していて、足し算をしたらゼロになる。そうホーキング博士は説明するのです。宇宙を作りだすだけの爆発的なエネルギーが存在するというのは、同時にそれだけ巨大なマイナスのエネルギーがあって、爆発のためのエネルギーと、マイナスのエネルギーとの和は、ゼロになる、ということなのです。
●宇宙の始まりが、何もないところから始まったとして、その何もないところから宇宙を始めるためには、神が何かを存在させなければ、始まりは造られない。わたしをはじめ、神を信じる人々はそう考えます。けれどもホーキング博士は、「宇宙が何もないところから始まったのは認めましょう。それでも、神は宇宙の始まりに関わる必要はない。なぜなら、宇宙の爆発的なエネルギーと同じだけのマイナスのエネルギーが存在していて、両方を合わせると宇宙はゼロだったのですから、ゼロから宇宙をつくったとしても、神は必要ない」と主張しています。
●ホーキング博士の考えによれば、この世界にはマイナスのエネルギーが存在していて、ゼロから宇宙が始まったことも、科学で説明できるから、神は宇宙の始まりに必要ではないし、もっと単純に、神は存在していないと考えているようです。もちろんあくまでも個人の考え方です。
●さて、12月25日のクリスマスを間近に控えた時期にこの原稿は書いていますが、宇宙の始まりに神は関わっていないというホーキング博士の主張は、皆さまにはどのように聞こえているでしょうか。なるほど、納得できるとお思いでしょうか。わたしは、残念ながら、ホーキング博士の説明では納得できませんでした。
●ホーキング博士が引用した「地面に掘った土と、その土を盛った小山が、足してゼロになる」というたとえは、なぜそれがゼロと言えるのか、しっくり来ませんでした。なぜかというと、もし地面を掘った場所を誰かに見せて、活用しませんかと誘えば、それを活用して何か良いことができるでしょう。
●また、掘ったときに出て来た土を、ほかの誰かに見せて活用しませんかと誘えば、この盛った土でも、何か良いことができるでしょう。両方とも、何かすばらしい活用ができれば、それは果たして足し算ゼロの品物と言えるでしょうか。
●同じように、宇宙が爆発するときの膨大なエネルギーと、それに見合うだけの膨大なマイナスのエネルギーがあって、足してゼロになるから神の関与は必要ないのだと言いますが、両方とも、膨大なエネルギーに変わりはないのではないでしょうか。
●確かに、5と−5は、足し算すればゼロかも知れません。けれども、目の前に5という大きさがあるのに、隣に−5があるからゼロなのだというのは、わたしにはどうも納得がいきません。どちらも、大きさを持っているとしか思えないのです。
●クリスマス。幼子は生まれたあと飼い葉桶に寝かされたと聖書には記されています。幼子は、この宇宙に存在する人類を救うために現れたと言われています。もし、宇宙とそこに存在するすべての生き物が、ゼロから生じ、神の関与もなしに発生したとしたら、神はこの世に神の子を遣わしたでしょうか。人類のために十字架の上で命までささげて救いを完成しようと考えるでしょうか。
●むしろわたしは、神がみずからお造りになったものを愛してくださっているから、神の子イエス・キリストを遣わした。そう考えます。今年、ホーキング博士の考え方に触れて、あまり深くは考えていなかった事柄をあらためて真剣に考えさせられました。博士の考えにわたしの信仰は揺さぶられましたが、それでも、飼い葉桶に眠る幼子を、神の子、神から遣わされた者として受け入れたいという気持ちを確認することができました。
●みなさまも、クリスマスの時期、クリスマスの中心的な出来事であるイエス・キリストの誕生の物語が、どんな意味があるのか、ちょっと考えてみてはいかがでしょうか。特に、この誕生の物語が、わたしにとってどんな意味があるのか、考えてみると良いと思います。ある人にとっては、冬の楽しみの一つとだけ考えていたこの出来事が、もっと大切な意味のある出来事に変わるかも知れません。
●今年も、クリスマスがやってきました。飼い葉桶に、幼子は眠っています。準備されたクリスマスの飾り付けは、何も変わらないかも知れません。けれども、わたしの中で何かが変わっているとしたら、あなたにとっての特別なクリスマスの始まりです。

2012年1月

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「長く歩みを共にする」
●こんにちは、マリア文庫の中田輝次神父です。12月1日から、毎年1月末に行われる司祭マラソン大会の準備のため、走り込みを始めました。走るというのは、歩くことと並んで、いちばん取り組みやすい運動だと思います。自分に合ったシューズが1つあれば、すぐに始めることができます。
●そう思って、目標を立てて走り始めました。大きな目標は、1キロを6分でカバーすることです。当日のマラソンコースはおよそ10キロですので、60分でゴールすることが、今年のわたしの目標ということになります。
●なぜ今年のマラソン大会に、1キロを6分で走るという目標を立てたのかですが、実は去年のマラソン大会から話は始まっています。去年、12年ぶりにマラソン大会に出場したのですが、10キロコースを67分かかってゴールしました。14人中13番目でした。
●過去のことを言っても仕方ないのですが、わたしが司祭になりたての頃、4年連続で2位になった実績があり、今さら昔の記録を望むのは無茶な話ですが、それでもあまりにもふがいない成績に、自分自身腹を立てていました。
●成績発表の時、「13位。中田神父さま。感想を一言」と言われました。その時わたしは、腹立ち紛れにこう言ったのです。「来年はしっかり準備して来ます。1時間前後で走った人たちは、来年はわたしのケツを拝みながら走ることになるでしょう」と、大口をたたいてしまったのです。
●引くに引けない状況を自分で作ってしまいましたので、2ヶ月間という短い期間ですが、練習を積んで大会に臨もうと思い、今も練習をしている次第です。もしかしたら、今回の月刊アヴェマリアが届くころには、大会も終了し、結果も出ているかもしれませんね。どうなっているのでしょうか。
●マラソンの練習を初めて、たくさんの変化が現れて来ました。まず、自分でもわかるくらい体に変化が起こりました。これまで履いていたズボンが、両手がすっぽり入るくらい緩くなっています。体重も、一時期は7キロ減りました。
●練習が始まった当初は、走るとすぐに息が上がり、思ったようにタイムが伸びなかったのですが、体が絞れて来たせいか、タイムも伸び、1キロ6分で走るという目標も、ほぼクリアできそうなところまで来ています。あとは沿道の応援を受けることで、きっと納得のいく走りができるはずです。
●心境の変化も現れて来ました。これまでは辛抱強く続けるというのができていませんでした。必要に迫られてではありますが、1時間続けて走るようになって、だれに対しても辛抱強くなりました。また話を聞いたり、手伝ったりすることにも、辛抱強くなったと思います。
●心の変化は、新しいことへの気づき、発見にもつながっています。あるところに依頼されている原稿を準備しているとき、聖書のある部分についてこれまでとは違った読み方、理解の仕方があることに気付きました。その個所とはマタイによる福音書第18章の「『仲間を赦さない家来』のたとえ」についてでした。どのような話かを知ってもらうために、まず朗読してみます。

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。c5123456t234 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

●まずタラントンというお金の単位が出て来ました。1タラントンは6千デナリオンに当たり、おおまか、日雇いの労働者が20年間働いて手に入れる額のお金です。多額のお金であることには違いありません。また、デナリオンという単位は、日雇い労働者が1日で得る賃金です。
●このたとえは、仲間をどこまでも憐み深く赦してあげなさいというイエスの勧めを理解させるためのものです。弟子のペトロが、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねた時、イエスはこう答えたのでした。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
●わたしはこれまで、「ペトロよ。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」というイエスの勧めなのだと理解していたのです。けれども、たとえ話とのつながりをよくよく考えると、もう少し考える必要があるのではないかということに気が付きました。
●もし、たとえ話の中の主人公が多額の借金をした人だとしたら、ペトロへのゆるしの勧めという理解でも構わないでしょう。けれども、たとえ話の主人公が、家来ではなくて王であるとしたら、ペトロへの勧めは、イエスが「七回どころか七の七十倍までも赦しているわたし自身に倣いなさい」と言っておられる話だということです。
●そうなると、この話から得られる学びも、少し違ったものになります。「あなたはこれまで以上に赦してあげなさい」と勧めているというよりも、むしろ、「あなたはこれからも、七の七十倍までも赦しているわたし自身に倣いなさい」という勧めだということになります。この違いは、小さいようで大きなものです。
●イエスはこの出来事を通して、だれかの「仲間」になることを求めているのです。何か、飛びぬけて赦す才能を持った人ではなく、だれかを赦して、一緒に歩いてくれる人になるよう、求めているのです。
●先ほどの朗読に僕の仲間が登場しますが、仲間と訳されたギリシャ語は「僕」ドゥーロスに「一緒に」という接頭辞シュンを付けたシュンドゥーロスです。イエスはわたしに、「飛び抜けた僕」になりなさいと仰るのではなく、「一緒に僕」シュンドゥーロスになりなさいと願っています。
●人がとても一人では担えない重荷、それをあなたが理解してあげて、「仲間」となって担ってくれるように。「主よ、何回赦すべきでしょうか」と苦しんでいる人に、七回どころか、七の七十倍までも赦しに関わってくださるイエスに倣うように。もう赦せないと感じている人に寄り添ってあげるように。そういう生き方を求めているのだと思います。
●「飛びぬけてすぐれた人」になるのは難しいでしょう。けれども、長くある人のそばに寄り添ってあげることは、可能かもしれません。長い距離を走る訓練を始めたことで、わたしもだれかに長く寄り添うこと、辛抱強くその人の立ち直りを見守ること、そういう粘りのようなものが身についてきたような気がします。

2012年2月

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「神さまはわたしを全面的に待ってくださっている」
●こんにちは、マリア文庫の中田輝次神父です。10キロマラソン大会の話を先月したので、結果がどうなったか気になる人もいらっしゃると思います。みごとに5位に入賞しました。大躍進と言ってよいでしょう。調子よく走ることができて、何だかスイッチが入った感じです。
●直前の4位の人はわたしの先輩でしたが、あと8秒差でした。3位になると、1分くらいの差があったので、さすがに3位はすぐ目標にはできませんが、4位は射程距離に入っています。来年も、トレーニングを積んで、レースが楽しみなくらいに調整して臨みたいです。
●今月用意している話は、本当に苦しみました。15日をいちおう締め切りとして言い渡されていて、せめて20日には提出して欲しいと念を押されているのですが、乾いたタオルのように、どれだけ捻っても何も出て来ません。
●わたしが毎月用意している話も、あるときは話す内容がフッと舞い降りてきて、さっと書くことができるのですが、今回のようにもがいて苦しんで、ようやく義務を果たすということもあります。どちらかというとさっと書けるときのほうが多いようですが、今回は苦しみました。
●苦しんでも、別にそれは悲しいことではありません。苦しんだことが、形になって、聞いてくださるかたのところへ届いていくのですから、どれだけ苦しくても、努力の甲斐があります。それでも今回は苦しかった。
●今年の4月から、とある場所に「何かを待つ」ということをテーマに11回原稿を準備することになっています。わたしは原稿を書く立場が多いものですから、しばしば「待たせる」側なのです。けれども、今回は否応なく、「待つ」立場に立たされました。
●それというのも、今月のための話の材料が、どうしても出てこなかったからです。この原稿を準備する前日は、夜中の2時まで粘りましたが、何も思い付きませんでした。それでも、月間テープ編集のために待っている方がいらっしゃる。そんな中で、自分で自分を待つ羽目になったわけです。
●「原稿やって来てください。話の材料、やって来てください。」そんな思いで夜中の2時に布団に滑り込んでから待ちました。待つこと3時間、起きたときに何となく、何かがやって来た感じがしました。何かが降ってきた。そんな感じがしました。
●待った甲斐があったということでしょうか。具体的内容まで降ってきたわけではありませんが、今回分かち合おうと思っていることは、「きっとだれかが、あなたのことを待ってくれている」ということです。
●わたしの場合は、この原稿を準備して、録音したものを待っている人がいます。それはわたししか準備できないことなので、わたしがどんな状態で取りかかっていても、信じて待つしかありません。
●ときには、時間を無駄にしながら締め切りを過ぎても録音した音源を渡さないときもあります。あるときは、真剣に考えているけれども、どうにも思い浮かばず、迷惑をかけている場合もあります。どんな場合であれ、待ってくれている。それをよくよく考えてみなさい。そんなことを今月思い巡らしました。
●わたしの場合のような、何かの提出を待たれているというだけが待たれている状況なのではありません。実は生きていることそれ自体が、だれかに待たれているのではないかなと思っています。
●わたしの今日1日を始めるのは、ほかのだれでもなくこのわたしです。わたしが1日を始めるのを拒んで、午前中を何もせずに過ごしたとしましょう。だれも責めたりはしませんが、午前中の内に自分の1日を始めようとしなかった、その原因や責任は、自分自身にあります。
●今日1日を、わたしは始める。もしわたしがそう心に決めたなら、だれにも強制されず、自分で決めた通りに今日1日を始めることができます。わたしたちが今日1日を自分で切り開いていく。その心構えを、だれかが待ち望んでいるのではないでしょうか。
●例えばそれは、子どもが今日1日を始めるのを、親が待ち望んでいるとか、職場にいる同僚や上司が、あなたが今日1日の仕事を始めることを喜んでくれているとか、学校でもいいし、部活動でも、同じような場面があるのだと思います。それぞれの場面で、あなたにしか始めることのできない、今日1日の始まりを、待ち望んでくれているのではないでしょうか。
●もしも、完全に孤立しているとしましょう。ひとりぼっちで、だれにも期待されていない、だれにもわたしが今日1日を始めることを待たれてはいない。そう感じている人ももしかしたらいるかも知れません。
●そんな人でも、あなたがあなたの1日を始めてくれることを待ち望んでいる方がいます。それは、中田神父の知っていることばで言えば、「神さま」です。神さまは、わたしがわたしの1日を始めるのを待ってくれています。
●神さまはとても忍耐強い方なので、わたしがどんなに遅くわたしの1日を始めたとしても、それを待ってくれていて、喜んで下さいます。なぜかというと、神さまはわたしたちを、その人生の始まりから終わりまで、待ち続けて下さっている方だからです。
●わたしが今日1日をどんな形で、どんな時間に始めたとしても、わたしが生まれたときから待ち続けておられた神さまは、1日が始まったことを喜んでくれます。ほかの人であれば、こんなに遅く動き出して、それまでの時間どれだけ迷惑がかかっているのか分かっているのかと怒鳴っているかも知れません。
●神さまは心配いりません。わたしの取りかかりがどんなに遅くても、わたしが悪意から、1日を遅く始めたり遅く取りかかったとしても、神さまは決して不平不満を持たず、わたしのことをすべて受け止めて、喜んで下さいます。神さまはわたしの人生の始まりから、待ち続けておられる方だからです。今日の取りかかりがどんなに遅くても、神さまはまったく気にしていません。
●そんな方が、わたしを待って、わたしを喜んで受け入れてくださる。そう思うと、わざわざ1日の取りかかりを遅らせる必要もありませんし、何が何でも神さまをガッカリさせるんだと余計な力を注ぐ必要もありません。自然体で、自分が始めようとしたことを、始めようと思ったときから始める。それで十分です。
●もしそれに、もう少し欲張って、あの人の1日の始まりに合わせてあげようか。そんな気持ちが起こるなら、もっとすばらしいことです。周りの人に縛られているわけではなくて、少し力が蓄えられて、周りの人に合わせることができるようになったら、合わせてあげればよいのです。それだけです。
●わたしの録音原稿を、待ってくれている人がいます。それ以前に、わたしが今日1日を動き出すことを心待ちにしているお方がいます。わたしは、だれかから待たれている。そういう価値のある人間です。価値のある人間ですから、あなたが思った通りに、今日1日を始めて下さい。あなたが望んで始めた1日を、もしだれも理解してくれなかったとしても、少なくとも神さまは、すべて受け入れて、喜んで下さいます。

2012年3月

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「発信とは何か考える」
●こんにちは、マリア文庫の中田輝次神父です。今回は「発信する」ということについて、考えたことを話してみたいと思います。現在、わたしが抱えている主要な仕事は、浜串教会での司祭としての務めが土台にあって、マリア文庫の代表者と、長崎の教会全体で読まれている広報誌の編集の務め、あとはいくつかの場所に依頼されている原稿を書くことです。
●これらの仕事は、それぞれ違った仕事ではありますが、意外と一本の線でつながっていると思うときがあります。それは、「発信する仕事」と表すことができます。浜串教会では、カトリックの信仰をもとにして生きることを、わたしの生活そのものを通して発信しています。マリア文庫の中では、読書に不自由を感じている方々に、マリア文庫を通して声の情報を発信します。
●長崎教区の広報誌「よきおとずれ」は、長崎の教会を導いていく長崎大司教の思いと、教区の基本線を決める教区本部の動き、また各教会の動きを長崎と、日本全体に発信します。最後に毎月依頼されている記事を提出する中で、わたしが考えていること、わたしが伝えたいことを発信しています。
●わたしはどれも、「発信する」という共通の働きがあるので、一本の線でつながっているのではないかなぁと感じました。一本の線でつながっているものは、一つの才能に恵まれていたり、その一つの才能を磨く努力をすれば、全く別の才能を持ち合わせていなくても、仕事をこなしていくことができます。わたしはそういう意味では、良い仕事に恵まれているのだと思います。
●月刊アヴェ・マリアの宗教コーナーは、いろんな体験を通して、中田神父の信じていることが少し伝わるように、想いを発信する場所だと考えています。最近面白い本を読んでいます。この本についても、今回発信させてください。読んでいるのは「働かないアリに意義がある」という本です。著者は進化生物学者の長谷川英祐(はせがわ・えいすけ)先生です。
●読み始めて、これはふだんわたしたちが知っているアリの習性を、もっと深く学ぶことのできる面白い本だなぁと分かりました。アリとかハチは、社会性を備えた生物で、「真社会性生物」という研究対象になっているそうです。その中でもアリは、ハチのように遠くに飛んでいかないので、巣ごとまるまる実験室で観察したりして、研究が進んでいるということでした。
●わたしたちの一般的な知識として、アリは役割分担をして、それぞれが立派に務めを果たしてとてもよく働いているのだと考えていると思います。つまり、アリは働き者だ、という一般的な理解です。ところが、研究によると、集団を形づくっているアリの、7割ほどは巣の中で仕事をしていないのだそうです。
●もちろんあるとき7割が働いていないということで、一生涯7割のアリが働かないわけではありません。さらにその中で、生まれてから死ぬまでほとんど働かないアリもいるそうです。一方働くアリを観察していると、アリは生まれてから若いうちは巣の中の仕事に就き、老いると外回りの仕事に就く傾向があると言います。
●これは、若いアリは長く働いてもらうために割合安全な巣の中の仕事に配分され、歳を取って命が短くなると、危険が多い外回りの仕事になり、いつ死んでも集団全体の損害が少なくなるように自然とそうなっているそうです。余命の短いものに、危険労働を割り振るなんて、人間の世界ではちょっと考えたくない話ですね。
●アリの研究者が最も興味を持つのは、アリの群れが、集団としてどうやってうまく生活し続けていくのかという問題です。そこには、意外に思えるかもしれませんが、すべてのアリが同じような働き方をしていないことが鍵になっているそうです。
●もっと簡単に言うと、アリの群れの中に「すぐに働きはじめるアリ」や、「遅れて働きはじめるアリ」、「いよいよになってからようやく働くアリ」と、さまざまな個性のアリがいて、全体として成り立っていくのだそうです。
●わたしたち人間の体験を例にしましょう。部屋が散らかっているとします。何人かの人がそこにいれば、そこにいる人すべてが、すぐに片付けを始めるわけではありません。ある人はほんの少し散らかってもがまんできずに片付けようとするでしょう。ある人は、ほんの少し散らかっていても気にならないので、もう少ししてからにしようと考えます。ある人は、本当にもうこれ以上散らかったら、足の踏み場もない。そうなったら片付けようかなと考えるでしょう。
●すると、ふだんは少し散らかっている程度が続くわけですから、「少しでも散らかっているとがまんできない人」だけが片付けをすることになります。けれども、少し散らかっているだけでもがまんできない人ばかりが働いていると疲れてしまいますね。そうなると部屋はもっと散らかってしまいます。もっと散らかってくると、「ある程度散らかったら片付けよう」と思っていた人の出番が来るわけです。今度はこの人たちが部屋を片付けてきれいになります。
●部屋が片付いてきれいになりました。すると、また最初の状態に戻りますから、ほんの少し散らかって、最初の人たちの出番です。もし仮に、ほんの少し散らかっていてもがまんできない人がまだ疲れているなら、さらに部屋が散らかって、次の段階の人の出番です。でも、次の段階の人も疲れていたらどうでしょう。部屋の散らかりようはさらに進み、足の踏み場もなくなります。すると、最後の人の出番がやっと回ってくるのです。こうして、違った個性の人が集まっていると、だれかがうまく働いて、部屋の状態はいつもきれいになるわけです。
●アリの社会も同じ事が起こっていると言います。アリにもいろんな個性のアリがいて、話の始めに働かないアリがいると言いましたが、それは例えるとどこまで部屋が散らかったら掃除しようと思うかに違いがあって、自分が働く必要がある状態になると、出番が来たことを理解し、働きはじめるのだそうです。
●こうやって、ふだんはいちばん過敏なアリが働きはじめ、過敏なアリが疲れ果てたり、死んでしまって数が少なくなると、もう少しおおらかな考えのアリが働きはじめます。そしてこのおおらかなアリも疲れ果てたり数が少なくなると、鈍感なアリが出番になるというわけです。
●もしもここで、すべてのアリが過敏なアリだと、どこかで仕事が回らなくなることが生じてしまいます。そうならないために、いくらかのんびりしたアリ、鈍感なアリ、いろんなタイプのアリで作り上げられている集団が、最終的には生き残り、繁栄するのだそうです。
●皆さまも、何かのグループ、団体や活動に属していることでしょう。それらの集まりの繁栄のためにも、もしかしたらこの話はある程度当てはまるのかもしれません。だれもが過敏で、すぐ行動に移さないと気が済まない人ばかりいたら、疲れ果て、活動は息長く続かないかもしれません。中にはのんびりした人、ほんとに周りが心配するほど時間の掛かる人、ありとあらゆる人がいた方が、活動を長く維持できるのかもしれません。もし皆さまが長い歴史ある活動に属しているとしたら、それはいろんな個性の会員がいて、うまく会が回り、支えられてきたのだと思います。
●ここまで、現在読み続けている本から、興味深い箇所を紹介しました。何かを発信する。それが、わたしの生活のいちばん大きな部分だと思います。そして、この発信する活動は、何でもよいから発信するのではいけないと思います。これは大切なことだと感じた。これは伝える価値があると感じた。これは真理だと思った。自分が、本当に伝える価値があると思ったものを発信するとき、発信する仕事は多くの人に役に立つのだと思います。
●もっと言うと、中田神父が信じていること、きっと役に立つ、きっと興味を持ってくれる、きっとその人の中で宝物になる。中田神父がそう信じていることを発していくことが、「発信」なのではないでしょうか。中田神父が自分で信じて、いろいろ発する、その中でも特に力をもっているのは、わたしの中のイエス・キリストを発することです。なぜなら、わたしはたくさんのものが信用に値すると思う中で、イエス・キリストが最も信用に値すると思っているからです。
●これからも、第一に信じて発していくもの、その次に信じて発していくもの、途切れることなく外に向かって発し続けていきたいと思います。

2012年4月

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「心の支えを求める人たち」
●こんにちは、マリア文庫の中田輝次神父です。最近わたしは、漁師さんの船に乗せてもらって、仕事の様子を見学に行く機会に恵まれました。現在わたしが赴任している教会は、遠洋漁業がおもな産業の集落ですが、もう1つ、定置網という漁法で、近海の魚を捕っています。
●「定置網」とは、文字をなぞるように説明すると、一定の場所に網を置いて、魚が迷い込んだところで網を一杯まで狭めて、魚をすくい取るという漁法です。沖合1キロくらい、陸上からすぐの場所に魚が迷い込む網が仕掛けてありまして、それを、朝7時に毎日引き上げに行くという作業です。漁の期間も設定されていまして、確か3月から6月までの4ヶ月間だったと思います。
●もともと、わたしが赴任してから、2つのことで定置網の仕事に興味関心を持ったのでした。1つは、毎日網を引き上げて得られた漁獲の中から、一部わたしのところにお裾分けが回ってきて、「神父さん。取れたてのアジをどうぞ」とか「今日はイカがたくさん入ったので、食べてください」とか、魚を分けてもらうことがよくありました。「きっと、海の上でたくさんの魚を引き揚げているんだろうなぁ」。しぜんとわたしも興味を持つことになります。
●もう1つは、その定置網の船に乗る漁師さんのうち、2人のお父さんたちが、土曜日にわたしが巡回教会のミサをささげに行く時に、一緒に連れて行ってくださいと頼まれ、赴任したそのときから、6月一杯まで前日に日曜日のためのミサをささげている教会に一緒に出かけていたのです。「この人たちは、日曜日どうしてもミサに参加できないので、前日にミサの務めを済ませているんだなぁ。感心だなぁ」と思っていました。この人たちからも、海の上ではどんな仕事をしているのだろうかと考えが及び、興味をそそられたのです。
●ようやく今年3月、定置網の船に乗る機会が巡ってきました。服装については、前もって話を聞かされていたので、汚れてもよいような格好で乗り込みました。と言っても、洗濯して汚れを落とせばよいと思って運動着を着て行ったのですが、そうではなく、雨合羽を着て乗船してほしかったようです。後で作業が始まったときに、なぜ雨合羽が必要か分かりました。定置網の中にたくさんのイカが入って、それを引き上げるとたくさんのイカが墨を大量に吐きます。その中で仕分けの作業とかをするため、雨合羽が必要だったのです。初めての手伝いのとき、わたしは墨を大量にかぶり、さんざんでした。
●こうして初めての沖合での手伝いを経験して、あらためて漁師さんの仕事は大変だなぁと感じました。危険を覚悟で仕事をするだけでなく、危険を冒しても大漁に恵まれるかどうかはまた別の問題です。そういうさまざまな事情を考えると、漁師のなり手が増えないというのも分かるような気がします。
●さて新約聖書の福音書の中には、イエスが漁師を弟子にする場面があります。夜通し苦労したのに、何も魚が捕れなかった漁師たちに、日が昇って漁に向かない時間にイエスがやってきて、漁をするようにと言います。すると、不思議なことにおびただしい魚がかかったというのです。そこで漁師たちは、網を捨てて、イエスについて行くことにしました。これが、大まかな流れです。まず、出来事がどのように紹介されているか、ルカによる福音書第5章を少し引用します。
◆漁師を弟子にする(ルカによる福音書第5章1節から7節)
5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
●わたしは、この出来事の中でいちばん大切な部分は、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)という部分だと思います。漁師であれば、魚を捕ることに関しては経験も知識も、イエスよりはるかにすぐれているはずです。その漁師が、イエスのことばを信じてみよう、イエスのことばに賭けてみようと考えたのです。
●わたしたちは、非常に難しい判断に迫られたとき最終的に何に頼るかと聞かれると、ほとんどの人が「自分自身」と答えるのではないでしょうか。最終決断を自分の責任でした場合、それは言い訳ができません。しかし、誰かの判断を最終的なよりどころとした場合、どこかでその人の責任にしてしまおうという気持ちがわいてきます。
●さきほどの聖書朗読に登場したシモンは、イエスのことばをよりどころとして網を降ろしました。シモンは、この場面では自分自身に信頼をもつことができませんでした。シモンは、自分に頼らず、イエスに頼る生き方を選んだのです。
●だたし、もし魚が捕れなくても、イエスのせいにしようなどとは思っていなかったでしょう。そうではなく、危険と隣り合わせの仕事、危険を冒しても必ず魚が捕れるとは限らない。そんな命がけの場面で、イエスに信頼して生きる生き方をシモンは選んだのです。
●実は、わたしが乗せてもらった定置網の船の乗組員は、全員がカトリック信者です。そしてこの乗組員のうち、機関長と船長は、毎日6時の早朝のミサに参加しています。定置網の船が漁港を出発するのは朝7時です。ミサに参加すれば、慌てて食事をして船に乗り込まなければならなくなります。
●ゆっくり準備することを優先するなら、早朝のミサなど行っても無駄なことです。朝の貴重な時間を小一時間奪われるからです。それでも船長と機関長の2人は、出航前に自分たちが入念に準備することよりも、毎日の漁の善し悪しや航海安全を、ミサの祈りの中でイエス・キリストに求めているのです。
●2人は、イエスの声を聞いたわけではありません。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」こんな声は現代には響かないでしょう。けれども、2人が毎朝ミサに参加してから出漁する姿には、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」という心が見えるのです。今日一日の収穫を、自分の経験や知識に頼るのではなくイエスの導きにゆだねる。その心をわたしは2人の中に見るのです。
●一緒に定置網の船に乗る仲間たちは、2人が出航前の忙しい時間を割いてミサに参加しているのを知っています。だからこそ、すべての乗組員がこの2人の機関長と船長に全幅の信頼を寄せて仕事ができているのだと思います。
●わたしたちは、何に信頼して働いているでしょうか。自分の経験や、知識でしょうか。運命のようなものでしょうか。それとも、何にも信頼することなく、すべては偶然の組み合わせと考えているでしょうか。
●現代にも、働くよりどころを、自分の信仰に置いている人がいます。たとえば、定置網の漁に出かける人たちが、今もわたしたちと一緒に働いてくださるイエス・キリストに信頼して漁に出かけています。この姿は、わたしたちに何かを教えてくれるのではないでしょうか。
●わたしたちの経験や知識さえも信頼できなくなるような、本当に難しい場面でなお働かなければならないとしたら。その時皆さんは、何を頼りに前に進みますか。何を信頼して、困難を乗り越えていくでしょうか。

2012年5月

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●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。今1つだけ、わたしに願いをかなえてもらうとしたら、マリア文庫に30数年心血を注いでくれたシスター野崎に、マリア文庫の館内にもう一度来てもらうことです。彼女はこの録音を準備した5月17日時点で、長崎市内の病院で病と闘っておられます。きっと元気になると思いたいですが、今の状態はとても心配な状態です。
●わたしがシスター野崎にマリア文庫の館内に来てほしいと願っている以上に、誰よりも彼女自身が、そのことを願っていることでしょう。そこで月刊アヴェ・マリアの利用者の皆様にも、今月は呼び掛けをしたいと思っています。
●月刊アヴェ・マリアをお聞きの皆様に、2つできることがあるとしたら、1つは自分のため、もう1つは誰かのために何かをするでしょう。2つだけ才能に恵まれていると感じるなら、1つは自分のために使い、もう1つは身近な人のためであるか、自分にとって大切な人のために使うことでしょう。それは当然のことです。
●けれども、才能に恵まれず、1つしか才能が無かったら、それをどう使いますか?あるいは、さまざまな事情で才能を取り上げられ、1つしか残っていないとしたら、どのような使い方をしますか。それは究極の選択となります。皆様は、どう使うかの選択肢が、決まっているでしょうか。
●マリア文庫の創立に関わったシスター野崎が、今病気と闘っています。シスター野崎が、マリア文庫を引っ張ってきたこれまでの30数年を考えると、どれだけの才能がシスターに与えられていただろうかと本当に感謝の気持ちで一杯です。ですが、今は病気のためにたくさんの才能を奪われ、残されたものはそうたくさんはありません。突き詰めて言えば、もはやシスターには、才能は1つしか残されていないのかもしれません。それは、「今を、懸命に生きる」ということです。
●では、その残された「今を、懸命に生きる」という才能を、シスターはどのようにお使いになっているのでしょうか?シスターの気持ちを十分汲んでいるか分かりませんが、わたしの考えは1つです。それは、「マリア文庫のために、今を懸命に生きる。」その一念ではないでしょうか。
●なぜなら、シスターは家族のための心配をしません。すべてを、神さまにおささげしてこの80年の人生を生きてきました。何も失う物は無いので、今、1つだけある才能を活かすとしたら、30年愛情を注いだマリア文庫のためだと思うのです。わたしはそう考えます。
●月刊アヴェ・マリアをテープ、CDで聞いておられる皆様。皆様には今いくつの才能が残されていますか。2つですか。1つだけですか。複数お持ちでしたら、1つは自分のために使ってください。そして、1つは、残された時間をすべてマリア文庫のためにささげているシスター野崎のために、注いでいただけないでしょうか。そうすることで、皆様の思いが届いて、あるいはシスターの置かれている状況が劇的に好転するのではないかと思っています。
●もう1つ、呼び掛けたいのは、皆様にはこれまで通り、マリア文庫からの音訳図書、カセット図書であるかデイジー図書であるか、そういったものの利用をこれまで通り活用していただきたいということです。ここでもシスター野崎のことに関係するのですが、シスター野崎がもし今話しができる状態であれば、何を話すだろうかと考えるのです。
●マリア文庫の奉仕者の方々は、シスターが入院してから、何度もシスターの所に見舞いに行ってくれています。わたしも、遅ればせながら2度ほど見舞いに行きました。シスター野崎は、訪問者に十分応対できていた時は見舞いに来てくれることを喜んでくれたでしょうし、話しにも花が咲いただろうと思います。
●ただし今は、お見舞いも難しい状態です。わたしはこんな中で、シスターは何とおっしゃるだろうかと考えるのです。わたしが同じ場面に置かれたら、たぶん「早くマリア文庫の館内のお仕事にお戻りなさい」と言うのではないかなぁと思っています。つまり、「ふだん通りの仕事を、ふだん通りにしなさい」ということです。
●シスターの心配をしてもしかたないと言っているのではありません。心配ではありますが、たとえばシスターの病状の心配をして、仕事の手が止まるとか、気落ちしてマリア文庫の館内に足が遠のいたとか、そんなことをシスターは望むだろうか、と考えるのです。
●むしろ、いつも通りに、マリア文庫にシスター野崎が元気で通ってきている時のように、スタッフには館内業務をこなしてもらいたいし、利用者にはマリア文庫制作の図書を利用したり、月刊アヴェ・マリアを利用したりしてもらいたい。それが、今のシスター野崎の心からの願いなのではないでしょうか。
●5月は金環日食など、天体観測がとても話題になった月です。「星に願いを」というわけでもないですが、皆様が何か願い事をする時、あわせてシスター野崎の心身の平安のために願ってください。同時に、これまでのように、これまで以上にマリア文庫を愛してくださることをお願いいたします。きっと、シスターの願い事も、マリア文庫をこれからも愛してくださることを願っていると思います。
●わたしたちマリア文庫のスタッフが、まずは心を落ち着けて、マリア文庫の業務に支障を来さないように、力を注ぎたいと思っております。利用者の皆様方も、いつも通りに、このマリア文庫の活動に心を寄せてください。皆様がふだん通りにマリア文庫と関わってくださっていることを、シスター野崎を見舞いに行った時にはご報告したいと思います。
●最後に、お見舞いに行かれたマリア文庫職員から、面会した時の面白いエピソードを紹介します。リハビリを専門とする病院に入院していた時の話しです。リハビリの様子を面会したマリア文庫会員が尋ねたところ、廊下を歩いていると返事してくださったそうです。病室のベッドのそばには、それらしい杖も置かれていました。
●話の途中で、夕食の時間になったのでしょうか、食堂に移動することになりました。そのときシスター野崎が「わたしは歩いて食堂に行くわ。あら、この杖は誰のものかしら。あなたの杖じゃないの?わたしは自分で歩くから要らないわ」と言ったという話しです。
●中田神父はシスターの素の姿をいくつも見てきたわけではありませんが、わたしが知る限り、シスター野崎は天真爛漫な方だと思っています。わたしたちが雲を掴むような話しだと思っていることでも、「それを神さまがお望みだったら、きっと与えてくださいます」と事も無げにおっしゃったこともありました。
●今月はお願いばかりになりましたが、どうかよろしくお願いいたします。

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