マリア文庫への寄稿
「マリア文庫」とは、「目の見えない方々」へ録音テープを通して奉仕活動をしている団体です。概要については、マリア文庫紹介をご覧ください。
2011年 | 5月 | 6月 | 7月 |
2011年 | 9月 | 10月 | 11月 |
2011年5月
●こんにちは、マリア文庫の中田輝次神父です。5月半ばに、ある人とばったり会いました。わたしと同じ長崎のカトリック司祭ですが、昨年末に末期の肺がんと診断され、現在治療に専念されている先輩です。その方と、長崎駅ビルにある回転寿司店で会ったのです。
●その日わたしは、五島から長崎に仕事で来ていて、夜は奮発してお寿司を食べようと考えていました。持ち帰りの特上寿司を一人前注文しますと、10分ほど待ってくださいと言われました。それなら、駅ビルの書店に行って時間を潰してきますと伝え、店を出ました。その時点で、先輩はカウンターに座っていたそうですが、わたしがすぐに店を出たので、声を掛けなかったそうです。
●わたしは適当に時間をつかい、寿司を受け取るために店に戻りました。今度は、わたしが先輩を見つけ、あまりの偶然に驚きながら声を掛けたのです。その時、君が注文している様子に先にわたしは気付いていたが、声を掛ける暇がなかったのだと打ち明けてくれました。
●他愛のない会話をしばらくしました。末期の肺がんを患っているとはとても思えない、快活な様子でした。3週間ぶりに病院の外に出たそうですが、この日は調子が良かったので、外食しに来たところだったそうです。会話が進むうちに、わたしはあることが気になりはじめました。先輩はいつ容態が急変してもおかしくない状態です。ということはつまり、「次は会えないかもしれない」ということです。
●「次は会えないかも知れない」と思ったら、もっと中身の詰まった話をしたほうがよいのではないだろうかと、気が焦りました。最後の会話が、他愛のない話では後悔するのではないか。ところがこちらの心配を知ってか知らずか、いつでも話せるような話題の連続でした。
●先輩は車の運転を禁止されていました。たまたまわたしが車で来ていましたので、入院中のホスピス病棟まで送り届けました。別れ際に、「今日は楽しかった。中田君も頑張ってね」と声を掛けられたのですが、わたしはそれをとても重く受け止めました。3週間ぶりに外出して、偶然も偶然、会って話をしたのです。一言一言が、すべて思い出になるかもしれない。そういう予感がしました。
●あまり、過大な期待のできない先輩にとって、今日を生きるというのはどんな意味があるのでしょう。きっと、一日が千年にも思える価値があるのではないでしょうか。同じ気持ちで、あなたも一日を千年のつもりで過ごしてみなさいと言われても、わたしには荷が重すぎます。わたしだったら、悲しい顔しか作れず、先輩のように笑顔ではいられないでしょう。
●わたしと先輩との違いは何だろうと、考えてみました。先輩は、今のありのままで今日を過ごして、悔やむこともなく、笑顔で一日を終えることができる。わたしが同じ立場だったら、相手に、「君とはもう会えないかもしれないんだ。今日を特別な日にしたいんだ」とか言って、ものすごく力んでしまうことでしょう。
●やはり、心の持ち方に違いがあるのだと思います。どのような心の持ち方をしているのだろうかと考えてみました。先輩もカトリック司祭ですから、次の聖書の箇所がぴったりくるかもしれません。マタイによる福音書の第6章25節から34節です。まず、該当の部分を朗読してみたいと思います。
6:25 (イエスは弟子たちに言われた)「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
●「明日のことまで思い悩むな。」この聖書の言葉を、非常に高い段階で生きているのでしょう。他愛のない会話、とりとめのない会話かもしれない。そして、それが、最後の会話かもしれない。それでも、明日のことを思い悩まない。イエスが弟子たちに語られた言葉を、頭で理解するだけでなく、いのちを削りながら、実践していると言えるかもしれません。
●もしかしたら、内心は穏やかではないのかもしれません。わたしだったらまねができないと言った、その心境にいて、それでも頭では、「明日のことまで思い悩むな。」という思いがあって、戦っているのかもしれません。もし葛藤の中にあるとしたら、先輩が「明日のことまで思い悩むな。」という境地に達するに違いないと、信じたいと思います。
●わたし自身はと言うと、やはり、明日のことは心配してしまいます。今現在、45歳ですが、おそらく現役のカトリック司祭として働くことができるのは長く見積もってもあと30年、75歳までだと思っています。75歳、あと30年かぁ、最近ふっと、そんなことを思うようになったのです。明日どころか、巡ってくるかどうかも分からない30年先のことまで思い悩んでしまいます。
●きっとまだ、未熟なのでしょう。今日を精一杯、生きていないのでしょう。明日がないと思って生きてはいないのでしょう。他愛のない会話、結果にあまり結びつかない働きぶり、そんなことでくよくよして、本当に大切なこと、結果が出ても出なくても、今日を精一杯生きること。これができていないから、心が揺れるのだと思います。結果を恐れず、今を精一杯生きること。出会った人と、一期一会の気持ちで心から会話を楽しむこと。いろんな大切な姿勢を、今回先輩とのひとときの中で学ばせていただきました。
2011年6月
●こんにちは、マリア文庫の中田輝次神父です。まず、わたしたちマリア文庫の最大の恩人であるシスター野崎は、今病院に入院しています。直接お見舞いに行ってないのですが、お見舞いくださった方からの報告では、長崎リハビリテーション病院にて、2〜3ヶ月のリハビリが必要なのだそうです。
●お見舞いに行くことについて、少しためらいがあります。最近は、お見舞いすることで入院されている方の負担になることがあるという意見を聞くことがあるからです。少なくとも、寝たきりではないので、リハビリを見守りたいと思います。それにしても、責任者を降りて、これまでの張り詰めていた状態から解放され、病気やけがに見舞われているような気がします。お祈りも必要と感じます。
●月刊アヴェマリアの宗教コーナー、おかげさまで9年くらい続けております。慎重に、同じ話にならないように考えてはいますが、もしかしたら同じ話があるかもしれません。まったく同じ話はないかもしれませんが、同じ材料を使っていることはあるかもしれません。おゆるし願いたいと思います。
●今週は聖書の1節から入りたいと思います。マタイによる福音書第12章17節から21節です。イエス・キリストの人柄について、聖書、その中でも特に福音書はいろんなイエスの姿を描いてくれていますが、わたしが気に入っているイエスの人柄を示すのが、今週紹介している箇所です。
●次のように書かれています。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」
●実はこの引用は、マタイが自分でこのように言ったのではなく、イエス・キリストが登場する以前にまとめられた書物、旧約聖書のイザヤ書という書物からの引用です。イザヤは預言者、神の言葉を預かって語る者と言われていて、後においでになる救い主についても、神の言葉を預かって語ったとされています。
●わたしが心惹かれる理由は、イエスの人柄をマタイが表そうとするときに、力強さとか、威厳とか、迫力とか、そういったものを前に押し出すのではなく、弱い人、苦しむ人に寄り添う姿を取り上げている点です。その中でも特に、「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」という部分は、わたしなどは非常に心を打たれます。
●葦というのは、わたしの記憶では、沼地などにたくさん生えていて、たくさんあるわけですからその中には倒れてしまっているもの、折れて枯れようとしているものも当然あって、それでもたくさんあることで葦としての役割を立派に果たしている。そんな印象を持っています。
●ところが、イエス・キリストは「傷ついた葦」1本1本に目を留め、折れそうになっているものを寄り添って見守る方なのです。同じように、くすぶって、あと少し風が吹けば消えてしまいそうな灯を、消えないように見守ってくれる方だというのです。この細やかな配慮に、本当に頭が下がります。
●この態度に、中田神父は模範をいただきたいといつも思っています。「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」実践を求められていることにいろいろ思い当たります。たとえばですが、日曜日の礼拝にミサというものがありますが、このミサの中で、司祭がイエス・キリストの体であるパンを信者に授ける場面があります。多くの教会で、司祭の前に2列になって進み、そのパンをいただきます。
●当然高齢者の方や体の不自由な方もやってきます。その時に、高齢者の方々は前に進むことも大変だったりするわけです。一歩ずつ歩を進める、その時間は支障のない人の何倍もかかったりします。司祭はその人がやって来るのを待つこともあります。また、歩みに時間のかかっている高齢者の後ろを歩いている人は、もしかしたら、「遅いなぁ」と思っているかもしれません。
●こんなときに、司祭はどんな心の持ち方が必要だろうかと考えます。「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」そのためには、時間がかかってもそれを待つ心が大切です。列に並び、キリストのパンをいただく人の中に、傷ついた葦の人がおられるのです。力強い葦だけでなく、青々として活力に漲った葦だけでなく、今にも倒れそうな、今そこで折れてしまいそうな葦もいるということを、司祭は気付いてあげる必要があります。
●もっと深刻な人々もいるかもしれません。ミサのときに行列に加わることのできる人はまだしも、行列に加わる力もないという方もおられるかもしれません。そういう方々も、イエス・キリストが「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」という思いを持っておられるのだから、そのあとに従う中田神父は、なんとかイエスの思いを実現しようと望むのが弟子の姿だと思います。
●そこで、廊下を歩いて司祭のところまで来るのも難しい人々のために、司祭が近づいていってパンを授けるようにするとか、そうした細やかな配慮はこれからますます必要になって来るのだと思います。
●集まり(集会)の中では、しばしば意見交換の場が出てきます。けれども、その意見交換の中で意見を言えない人もいると思います。こうした方々にまず気付き、その方々がどうやったら意見を出すことができるだろうか。きっとそうしたサービスは、これからもっと重要になって来ると思います。どんな小さな意見にも耳を傾ける態度は、どちらかと言うと「くすぶる灯心を消さない」こちらの態度に似ているかもしれ眼ません。」
●この点については、小学生の時から積極的に手を挙げて考えを先生に伝えようとしていたわたしには、なかなか気付かない点かもしれません。すぐに「はい」と手を挙げる子は、手を挙げることができずにいる友達のことに、気がつかないかもしれません。長年の習慣が、見えなくしていることもあると思います。よく注意して、周りに気配りを忘れないようにしたいものです。
●日本は今、歴史を振り返っても経験したことのないような大きな災害に見舞われています。こうした中で、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」との思いで、被災者に目を注いでおられる方がいるかもしれません。できればそうした人々と協力し合って、心が折れそうになっている人々を1人でも多く見出してあげたいものです。
●1人でも多くの人が、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」そういう考えに立って行動するなら、多くの難問は解決するのではないかと思います。今わたしは、政治に携わる人に特に言いたいです。「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。こんな思いで政治に携わってください」と。今は、なかなか行動できない理由を並べている時ではないはずです。
2011年7月
●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。この原稿を書いている時点で、学生たちは夏休みに入っています。夏休みは、子供たちにとっては行事が目白押しです。それらたくさんの行事の隙間をぬって、上五島の11のカトリック教会が集まって「小学生ドッヂボール大会」を計画しています。
●去年は、上五島ではこの行事はありませんでしたが、わたしたち浜串教会の子供たちは、もう一つの教会と合同で、佐世保というところに遠征してドッヂボール大会に参加しました。試合があれば当然練習も必要になってきます。練習は、去年の内容を思い出しながら、子供たちを指導しました。
●小さなことですが、去年も参加した子供たちは、確実に成長していると感じます。去年はもやしのように線の細かった子供たちが、まあ、たとえるとゴボウのように芯のしっかりした体になっています。
●ボールを互いに投げて受けるキャッチボールでも、しばしば飛んできたボールを受け取ることができずにこぼしていた子供が、今年はしっかりキャッチできるようになっています。わたしたちのアドバイスも、いくら伝えても理解できなかった子供たちが、ああ、そういうことかと理解するようになった子供もいます。
●目には見えないような変化ですが、子供たちは確実に成長していると感じます。一方で、指導するわたしたちは、どうしても衰えを感じます。去年、子供たちと練習前の準備体操、短い距離の全力疾走など、子供たちに笑われるようなことはなかったのですが、今年はほんの少しですが体は柔軟性が失われ、ダッシュをしても子供たちのようにはいかず、日に日に、衰えるなぁと思いました。
●それでも、試合は子供たちと指導する大人たちとが力を合わせてするものです。試合の結果、勝敗も、子供たちと指導した大人とで、一緒に分け合うものです。ここに、もう一つの要素が必要だと思います。子供たちは、力を出し切ろうとしますし、大人たちは、精一杯指導します。そこに、あと一つ必要なことがあるのです。それは、努力したあとに、信頼しようという気持ちです。
●何を信頼しようとするかというと、2つあります。1つは、自分たちを信頼することです。練習をしっかりしたこと、指導をきちんと受けたこと。自分たち子供は、やるだけのことはやった。そう自分に言い聞かせ、自分たちを信頼することです。これは大人の人たちにも同じことが言えます。
●もう一つは、自分たち以外の何かを信じる気持ちです。わたしたちが体験する出来事とその結果は、必ずしも、わたしたちの努力と対等なものとは限りません。わたしたちの努力以上の結果がもたらされることもありますし、わたしたちの努力に見合わないと感じる結果に終わることもあります。どちらにしても、その結果を受け入れなければなりませんが、自分たちの努力と釣り合う結果でないものを受け入れるには、何か自分以上のものへの信頼が必要なことがあるのです。
●自分たちの努力をはるかに超える結果がもたらされたとしましょう。それは予想外の喜ばしいことですから、初めのうちは何も苦労を感じないことでしょう。けれども、自分たちの予想をはるかに超える結果は、次第に重荷になることがあります。周囲はわたしたちを褒めちぎり、わたしたちはうっかりすると得意になってしまいます。
●ところが、もう一度期待以上の結果を期待されて、そのときに残念ながら期待に応えられなかったりすると、周囲の人はわたしたちを見捨ててしまうのです。「なんだ。せっかく期待したのに」と、冷たい態度を取る人がたくさん現れます。もしわたしたちが周囲の反応に対応しきれなかったら、きっとわたしたちは苦しむことになるでしょう。
●一方で、自分たちの努力を下回る結果に終わることもあります。ある程度の結果が見込めるだけの努力をしました。子供たちの力を伸ばせるように、指導もしました。けれども、結果がさんざんなものだった。そういうことは十分起こりえます。
●結果が、努力に見合わないとき、たいていの人は惨めな思いをするものです。今までの努力は何だったのだろうかと考えるでしょうし、責任は誰にあるのかと追求することもあります。けれども、自分たちの努力を信頼できる場合に、結果があまりにも期待はずれだと、どのように受け止めたらよいのか分からなくなるのです。
●わたしは、こういう場合に、「自分以外の誰かを信頼しようという気持ち」が、どうしても必要になると思います。それは、「自分以上のお方」と言ってもよいでしょうし、「神」と言ってもよいでしょう。その方が、自分たちの努力に釣り合わない結果、努力以上かもしれないし、努力以下かもしれない、その結果を与えたのだと、信頼することです。
●「神に信頼する」ということで話を進めましょう。わたしたちは、自分たちの努力を信頼した上で、神に信頼をします。もし、努力に見合う結果であれば問題ありませんが、努力をはるかに超える結果、たとえば浜串教会の子供たちが、3回の練習しかしていないのに15チーム出場するドッヂボール大会で優勝してしまったら、それは決して努力に見合う結果ではありません。
●ほかのチームは、週に2回3回練習して、試合に臨む教会もあります。ですから、3回しか練習しなかったチームが優勝してしまうなら、神に信頼をすることが必要です。何か、教えてくれるために、何か、考えさせるために、わたしたちにこの優勝が与えられたのだと。優勝は努力の結果だと、決して鼻にかけてはいけないと思います。
●またもし、15チームの中で最下位の15位だったとしましょう。確かに練習は3回だけでしたが、15位にはならないと監督・コーチは思っています。ですから、もし15位になるとしたなら、本当に惨めな思い、悔しさを味わうことになります。
●ですがそれでも、結果は受け入れなければなりません。そのときに考えることは、「神は、この結果を通して、何かを教えようとしているのだ」という信頼が、必要なのではないでしょうか。
●わたしたちの世の中は、いつも努力に見合う結果ばかりではないのです。そのときに、結果をどのように受け入れるのか。これは大切なことだと思います。結果を鼻にかけたり、結果に惨めな思いをしたりしないために、わたしたちは自分たちの努力だけではなく、もう一つのもの、自分を越える方に信頼を置くことが必要だと思っています。
●さて、今年のドッヂボールの結果は、どんな結果が待っているのでしょうか。
2011年9月
「神に頼るという生き方もある」
●こんにちは、マリア文庫の中田輝次神父です。わたしは自分の必要と思うものを自分で持っていないと心配な性質です。室内競技、たとえばバスケットのボールを持っているとすると、空気入れも時々必要になりますが、わたしは空気入れも自分で買おうと考える性格です。毎日使うわけではありません。ほんとうに、たまにしか使わないのだけれども、そういう品物も買いそろえてしまう性質なのです。
●カトリックの司祭の立場で考えると、聖書をよく学ぶために参考書や辞書が助けになりますが、自分にとって必要だなと思う参考書や辞書は、気前よく買い揃えていきます。「参考書、辞書は高くても仕方がない。そういうものなのだから」そう思っていますので、買いそろえるのに必要な経費も気にしていません。
●ではたくさんの辞書や参考書、関連する書籍を買い揃えて、それらがうまく活用されているかというと、活用されていないことが多いように思います。確かに、買い揃えた本は「あると助かる、あると便利」という本ですが、「なければ途方に暮れる」というものではありません。先ほどの空気入れと同様で、毎日必ず使うものではないのですが、いざ調べ物をしたり、人に説明してあげるときに、それがどのような本に書かれていたものかを示したりするわけです。
●ところで、わたしとはまったく違った生き方をしている司祭たちもいます。本をあまり買わない司祭たちです。自分で買い揃えるのは、必要最小限の書物にとどめ、あとは近くの教会の司祭に貸してもらったり、カトリックの学校、たとえばカトリック高校や大学に訪ねて行ったりして済ませているそうです。
●最近、たくさんの本を買わないで暮らす先輩司祭、後輩司祭の姿を見て、こういう生き方もあるのではないか、と思うようになりました。以前は、本をあんまり買いそろえない司祭たちに対して、それはどうかなぁと疑問に思っていたのです。ふだん調べ物をするとき困らないのだろうか、そもそも、調べたりするのだろうかと余計なことまで考えていたのですが、持たないで暮らす理由があるに違いないと思い巡らすうちに、わたしが見落としていたことがあると気づいたのです。
●それは、「誰かに頼る」という生き方です。人に頼らず、自分で解決しようという気持ちと、ある部分は人に頼って生きて行こうとする気持ちは、両方とも必要なのではないか。最近そう思うようになったのです。
●勘違いしてほしくないのですが、すべてを人任せにすると言っているのではありません。自分で努力し、責任を果たす中で、わたしなどはだれにも迷惑をかけまいと、これまでだれにも頼らないで突き進んで来たわけです。けれども、そのように一人で突っ走っていくことが、必ずしも正しいとは言えないのではないか、そう思うようになったのです。
●だれかに頼り、相談し、声を聞いて、自分の中で消化する。そして何かの決断をする。これは立派な態度で、むしろこういう態度を失ってはいけないと思います。
●月間アヴェ・マリアをお聞きの皆さんも、1人1人置かれた生き方があると思います。ある人は、だれにも迷惑をかけまいと、けんめいになって自分で何でもしようと努力しているかもしれません。それは立派なことですが、一方で誰かの力をお借りしてみるというのも、いろいろ学ぶことがあるなぁと思います。
●9月の中旬に、中田神父が赴任している教会の信徒がこの世を去って旅立っていきました。このお父さんは福見教会でずっと司祭がミサをささげるときに横にいて手伝いをする「侍者」という手伝いをしていました。お亡くなりになったので、まずは教会の信徒台帳を調べたのですが、驚いたことに信徒台帳のほとんどの項目が空欄のままにしてあったのです。
●もちろん、すべての台帳を目を皿のようにして調べました。本人が実は福見以外で生まれていて、違う教会で洗礼を受けていないか、そういう可能性も探りました。それでも、見つけたい資料が見つからないのです。
●困り果てまして、わたしの力ではどうにもならないと思い、遺族の方に事情を説明して話を聞きました。何とこの亡くなった方は、20歳の時に養子に行って、現在の名前になっているのだそうです。これでは、調べても名前が出てこないわけです。新たな情報のもと、調べ直しましたら、確かに養子になる前の姓で、名は同じ人が見つかりまして、無事に台帳の記録は解決しました。
●遺族の方に根掘り葉掘り聞くのは、できれば避けたいというのが中田神父の本音です。遺族にとっては、亡くなった家族のことが教会の記録では不明になっているとなれば、教会とあれだけ関わって来たのに、何だったのだろうと勘違いされる危険もあります。ですからご遺族に尋ねずに、自分ひとりで解決するのが理想です。
●けれども、正直に事情を話したことで、ご遺族しか知らない情報を得ることができました。ご遺族の方とも個人的な親しみを感じることができました。今回、家族の皆さんに助けられましたが、それは、家族の方に頼ったことで得られた結果でした。人に頼るというのはみっともないことではなくて、頼った人との深い人間関係を築くきっかけにもなり、とても素晴らしいことだと思いました。
●わたしたちはしばしば、「自分のことは自分でしよう」と考えています。それは正しいことなのですが、人に頼ることで、頼ってもらった人が喜ぶこともあります。頼りにしたことがきっかけで、絆を結ぶこともあります。わたしは、自分の努力でどうにもならないことは、大いに人に頼ってよいのではないかと思いました
●もう1つ考えたことがあります。これまで、「人に頼る」ということを話しましたが、人間同士で協力し合っても乗り越えられないことも、この世界にはあるのではないでしょうか。それはつまり、「人を超える方の働き」また「神の働き」のことです。人間の努力だけでどうにもできない時、その時人は「人間を超える方に頼る」「神に頼る」ということが必要なのではないでしょうか。
●わたしはここで、「神頼み」というような意味のことを言いたいのではありません。「神頼み」と聞くと、何だか当てにならないもののような聞こえがします。よりふさわしい言い方をすれば、「神への信頼」を持つということになります。
●わたしたちの生活はなかなか思い通りにならないことが多いと思います。思い通りにならないと、人はいらだちを感じたり、不平不満を持ったりするでしょう。そうではなく、思い通りにならない日々の中でも、落ち着いた気持ち、平和な心を保ち続けること。そのために、神への信頼を持つ、神に頼って生きることは意味があるのではないかと思います。
●最後に、わたしたちは何でも自分1人で果たそうとすると、周りの人は声をかけることができなくなってしまうことがあります。その結果、知らず知らず、壁を作っていることがあります。そうではなく、自分の置かれている生活よりよく果たしていくために、だれかに相談したり、頼ったりして、声をかけてもらう余地を残しておきましょう。
●あえて付け加えるなら、人に対してだけでなく、神に対しても声をかけてもらう余地を残しておきましょう。それが、今日のみなさまの生活をよりよいものにしてくれると思います。
2011年10月
「あなたのささやきが、社会に影響を与えるかも」
●こんにちは、マリア文庫の中田輝次神父です。社会が2千年前の聖書におさめられたイエスの言葉に追いついたというのか、2千年前の聖書が、すでに現代起こっている社会現象を言い当てていたのでしょうか。今月はそういうお話をしたいと思います。
●みなさんは、「噂はあっという間に広まる」そういう気がしませんか?よい噂、悪い噂両方ありますが、あえてどちらと決めなくても、噂というものは本当に広まるのが早いです。
●前任地伊王島での出来事ですが、わたしが船に乗って対岸の長崎市の病院にお見舞いに行こうとしていた時がありました。20分船での時間があり、船を降りるとすれ違いで今度は伊王島に向かう人々が船に乗り込みます。その中の一人の人が「神父さま、どなたをお見舞いに行くのですか?」といきなり聞かれました。
●「ええっ!」と思いました。悪い噂ではないので別にだれかに話が漏れていても問題はありませんが、わたしが船で長崎本土に上陸するよりも、「神父さまは誰かのお見舞いに行っているらしい」という噂の方が先に上陸していたのです。似たようなことはほかにもたくさんありました。
●新約聖書のルカ福音書の中に、次のような言い回しがあります。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカ12・2-3)
●ほんのちょっとしたことを耳元で囁いた。それが、いつの間にか広まって屋根の上で言い広められる話となっていた。これは、決して起こらない出来事ではありません。起こらない出来事ではなく、むしろ起こり得る出来事ではないでしょうか。わたしたちが何気なく囁いたことは、だれかが聞いてみたい話であったり、何気ない話、他愛のない話でも、聞いてほっとする人がいたりするわけです。
●その、囁いた話、つぶやいた話をインターネット上で活用しようと考えた人たちがいます。インターネットの仕組みの名前は、「ツイッター」と言います。ツイッターの仕組みの考えた人は、アメリカ人のエヴァン・ウィリアムズ氏です。だれかがつぶやいたことをインターネット上に流し、そのつぶやきを見た人が感想を述べたり、つぶやきを他の人に伝えたして、1人の人のつぶやきが、たくさんの人に知られていく。おおまか、このような仕組みになっています。
●だれかのつぶやきが、本当に別の人に役に立つことがあるのでしょうか。だれかのささやきが、だれかが聞いてみたいと思うことがあるのでしょうか。わたしも、実は半信半疑だったのですが、今はこのツイッターを楽しんでいる1人です。ただし、今は楽しいと感じていますが、最初からそうだったわけではありません。
●ツイッターの利用を思い立って、登録をしたのがたぶん半年くらい前だったと思います。それから、「ここにつぶやいてください」という部分があって、一言二言書いてみたわけです。何時間たっても、2日たっても3日たっても、何の反応もありませんでした。そこで、わたしは勝手に、「これは何の役にも立たないじゃないか。2日待っても3日待っても何の反応もないなんて!」と怒ってしまい、登録をして1週間もしないうちに使用しなくなりました。3ヶ月くらいは放置していたと思います。
●3ヶ月放置はしていましたが、気にはなっていました。2010年にいちばん話題になったインターネット上の使い方です。そこでこう考えました。自分が使いこなせなかったからと言ってへそを曲げるのではなく、ここはまったくの初心者のつもりで、解説書を買って勉強し直そう。
●パソコン関連の解説書など、最近は1冊も買ったことがありませんでした。それでも、「初心者でもわかる●●」みたいなツイッターの解説書を手に取り、書店の人には「初めてツイッターをなさるのですね」みたいな目で見られながら、本の頁をめくりました。どうしても独力ではツイッターの魅力とか利点がわからなかったのですから、仕方がありません。
●初心者向けの解説書を久しぶりに読み、頭の中である程度の整理が付きました。ツイッターは、これまでの活動を少しつぶやくことから始めたらよいかもしれない。そこで、わたしがこの10年くらい続けている日曜日のミサ説教をメールでお届けするメールマガジンの活動のことをつぶやいてみますと、しばらくしてすでに知っているある人から自分のつぶやきを見つけたと言って返事を書いてくれたのです。
●その後も、本当に些細な出来事をつぶやいているうちに、驚くような人と出会うことになりました。わたしにとってはその人は有名人ですが、ここでは名前は伏せておきたいと思います。このびっくりするような人から、「ツイッターを利用されていると聞き、連絡いたしました」と声がかかったのです。わたしが、ツイッターの効力を確信した瞬間でした。
●もしかしたら、このびっくりするような人との出会いは、神さまが、ツイッターの効果をわたしに十分理解させるために与えてくださったまたとないチャンスだったのかもしれません。わたしは、本当にこの「つぶやきの道具」がどんな役に立っているのか懐疑的だったのです。それが今では、「ここにつぶやいたこと、囁いたことが、もしかしたら社会を動かすかもしれない」とまで思うようになりました。
●もちろん、道具という意味では道具は人を超えることはできません。その人に何か人を動かすようなメッセージが備わっていなければ、人は動いてはくれません。反対に、人を動かすようなメッセージが備わっている人であれば、その人の相性に合う何かの道具が見つかって、その人は水を得た魚のようにどんどん自分を発信する人に変わっていくのだと思います。
●ツイッターという道具が社会に知られるようになってから約5年です。140文字しか入力できない小さな道具ですが、わずか5年で、社会を動かすかもしれないという大きな道具に育ちました。わたしたちがこのツイッターで何かをささやく、何かをつぶやくことが、社会に対して変化をもたらす時代がやって来ていると思います。
●パソコンやケータイ、最近はやりのスマートフォンなど、もし、お近くでツイッターを利用できる環境がありましたら、ちょっと身を乗り出し、勇気を出して使ってみてください。きっとあなたの小さなつぶやきを、聞きたがっている人がどこかにいると思います。あなたの感じていることに、「わたしもそう思っていたよ」と声を挙げてくれる人が、きっとどこかにいると思います。ちょっと、ツイッターの世界をのぞいてみてはいかがでしょうか。
●最後にもう一度、ルカ福音書の引用を紹介して終わりたいと思います。2千年も前の出来事を書き記した書物に、今ホットな話題になっていることが前もって書かれている。わたしにはそう思えました。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカ12・2-3)
2011年11月
●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。クリスマスを前に、わたしはこの聖書の言葉を思い出しました。「 暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」これは、新約聖書マタイによる福音書第4章16節の引用です。
●このマタイによる福音書第4章は、実際にはイエス・キリストの宣教活動の始まりの場面でして、かつて神から使命を託されて活動した預言者イザヤが語った言葉を引用する形で用いられています。イエス・キリストが開始した宣教活動は、しいたげられている人、苦しんでいる人に大きな光として受け止められた。そういう引用の仕方です。
●今回のお話を提出する締め切りの頃、わたしは宮城県の仙台市に出張しておりました。目的は、わたしの仕事「教区広報委員会」の全国研修会だったのですが、研修と同時に、被災地の視察も組まれていました。お話を準備し始めた時点では、まだ被災地の視察は行われていませんでしたが、思いは、被災地にいるんだなぁという気持ちで準備を進めていました。
●この被災地も、12月がくればクリスマスの雰囲気を味わうことになると思います。そして12月25日には、クリスマスを祝う方々もいらっしゃることでしょう。そこで、この被災地の方に心を寄せて、今回のお話をまとめようとしています。
●きっと、まだ震災の爪痕が残っている方々もおられて、とてもクリスマスの気分ではない。そんな浮かれた気持ちにはなれないと思っている方もいらっしゃることでしょう。ただ、わたしがここでお話ししたいのは、「イエス・キリストはそうした苦しんでいる人の光となるために、おいでになった」ということなのです。
●イエス・キリストがおいでになった場面は、ローマ皇帝の命令で、人口調査が実施されていた最中の出来事でした。人口調査というのは、ローマが必要に応じて労働力を徴収したり、税金がどれくらい入ることになるのかの見込みを立てたりするための目安で実施されていたわけですから、この人口調査はユダヤの人々にとって気持ちの滅入ること、苦しいことだったはずです。
●それでも、支配を受けているローマ皇帝の命令だから、しぶしぶこの人口調査に協力していました。そんな、喜びのない場面で、イエス・キリストの誕生の物語が展開されているのです。今回のお話に引用したマタイ福音書の第4章、イエス・キリストの宣教活動の始まりを待たなくとも、すでにこの時点で、大きな喜びが始まっていたのでした。
●そしてイエス・キリストが実際に宣教活動を始めたとき、人々はかつての預言者の預言を思い出したのです。「 暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」自分たちの先祖が待ち望んだ方が、今目の前におられる。人々はイエス・キリストに自分たちの期待を重ね合わせたのです。
●さて、仙台での研修会の2日目、いよいよ被災地の視察に出発しました。皆さんの中にも、話に聞いていた場所を訪ねるという経験のある人もいらっしゃることでしょう。そして、話に聞いていたその場所は、しばしば、話に聞いていた以上の強い印象を与えたりします。わたしも、被災地の話は、噂には聞いていましたが、これまでとは思わなかった、そういう体験をする結果となりました。
●東北3県の被災地のうち、わたしたち一行は南三陸町、登米市米川、石巻市の3つの活動拠点であるベースキャンプと、その周辺地域を視察しました。その中で、南三陸町と石巻市の視察した地域は、声を失うような光景でした。
●最初にわたしたちは、南三陸町に入ったのですが、最初にわたしたちの目に飛び込んだのは、住宅の基礎のコンクリートだけ残った荒れ果てた土地と、すっかり錆びて鉄くずとなってしまい、うずたかく積み上げられた自動車やがれきの山でした。
●わたしも話ではそうした場所のことを聞いてはいましたが、実際にその場所に入ってみると、特に目にする光景は現実のことだろうかを目を疑うばかりでした。それはたとえるなら、紛争を繰り返している海外の、戦闘機で爆撃を受けた地域のようでした。
●鉄骨だけが残った防災庁舎、3階建てのアパートの屋上に乗り上げたままの壊れた自動車、ひっくり返った海の堤防、あるはずのない場所に折り重なっている船。これが現実だろうかと、実際にその場にいて信じることができなかったのです。
●また、3カ所めに訪ねた石巻市でも、一階部分を津波で突き破られてそのままになっている家が延々と続いているのを目の当たりにしました。バス1台で視察していたのですが、一階部分が空洞になっている家は、海岸地区からいったいどれくらい奥まで広がっているのだろうと思うと、胸が痛くなりました。
●そして石巻でいちばん驚いたのは、日和山公園から眺めた光景でした。この公園は小高い丘の上にあるのですが、海沿いの地区が見渡せる、本来はとても良い景色の場所です。そこから海沿いの地区を眺めたとき、あーこれが、報道で紹介されていた場所なのだと自分で分かりました。
●地震の後の津波が押し寄せたとき、「あー、あそこにまだ人がいる!早く逃げて!」と人々が叫んでいたのは、ここからだったのだとよく分かりました。そして石巻市の海岸地区では、今でも自動車がまとまった場所に積み上げられていますし、がれきも、こんなにたくさんどこから集まったのだろうかと思うくらいの量が、海沿いに積み上げられていました。どうでしょうか、高さは20メートル、長さは100メートル、奥行きも20メートルくらいあったのではないでしょうか。
●わたしは、お話の最初に紹介した福音書のメッセージ、「 暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」このメッセージは被災地にも当てはまると信じています。被災地の方々、本当に苦しみの中から這い上がろうと、毎日を過ごしていることでしょう。その方々をそばで支え、見守るために、イエス・キリストはお生まれになる。わたしはそう信じています。
●被災地の方々ばかりではありません。この「月刊アヴェ・マリア」に携わっている方の中にも、「今年はクリスマスの気分ではない」と思っている方もいらっしゃることでしょう。けれども、イエス・キリストの誕生は、どの時代にも見られる「暗闇に住む人々」のためのものだったのです。
●「わたしはクリスマスを祝う気分になれない。」そう感じている方に、わたしは力を込めて呼びかけたいと思います。イエス・キリストは、そのような落ち込んでいる方々のためにまず生まれてきてくださった。クリスマスは、悲しんでいる人々のために、最も大きな慰めを届ける出来事なのです。ぜひ皆さんも、このメッセージを周りの人に届けていただけたらと思います。