マリア文庫への寄稿

「マリア文庫」とは、「目の見えない方々」へ録音テープを通して奉仕活動をしている団体です。概要については、マリア文庫紹介をご覧ください。

2010年 11月 12月 2011年1月
2011年 2月 3月 4月

2010年11月

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●こんにちは、中田神父です。わたしは中型のバイクを所有していますが、いわゆる「バイク野郎」というほどのバイク乗りではありませんで、たまに、バイクの運動をさせる程度のライダーです。そのわたしが、この原稿を書いている日の午前中に、バイクで転倒事故を起こしてしまいました。
●事故というものは往々にして、起こるべくして起こるものです。わたしが転倒したのも、下り坂で、泥と砂が路面に塊になっているカーブで、うっかりブレーキをかけたのが原因でした。「あっ、滑る」そう思った時にバイクが横滑りし、転倒してバイクにも、わたしにも擦り傷ができてしまいました。
●バイクに乗るときには、服装にも注意が必要です。それなのにわたしは、バイクを軽く見ていました。上着は、肩あてやひじ当ての入った専用のウエアを着ていたのですが、ズボンは普通のスラックスを履いて出かけました。これが災いして、足を擦り?くことになったのです。よくぞあの程度で済んだと思いました。
●転倒して、わたしはバイクに足を挟まれました。まず考えたのは「骨折したのではないか」ということでした。幸いにも、わたしもバイクも擦り傷で済みまして、救急車のお世話にはなりませんでした。正直、転倒した場所が悪かったので、誰もそばを通らなかったらどうしようか、また携帯電話で連絡しても、誰も駆けつけてくれなかったらどうしようかと、大変心配しました。
●わたしの心配は、どちらも期待外れの形で無駄になりました。わたしが転倒した直後に、後続の車が2台、通過していったのです。ちょっとトラブル発生しているな、そういう様子がありありだったのに、残念ながら車を止めて、どうしたんですかと声をかけてくれる人はいませんでした。
●さらに、軽傷とはいえ事故を起こしたのですから、司祭館に電話をして現在の状況を働いているシスターに知らせようと思ったのです。携帯電話を取り出し、電話をしますが、通話音は聞こえるのに、まったく応答がありません。通話音1回を1コールと言ったりしますが、10コールしても20コールしてもまったく応答してくれないのです。
●あとで聞いた話ですが、朝から食事の際に、石油ヒーターの電源をどこから取るかでずいぶん苦労しまして、「とりあえずここから1つだけコンセントを抜いて、電源を確保しましょう」ということになったのです。その時にシスターが抜いたのが、おそらく電話機のコンセントだったのでしょう。コーヒーメーカーの電源を抜くのではなく、電話機のコンセントを抜くという神経も、今になってみれば恐ろしいと思ったりもしますが。
●まぁそういうことで、いくら電話をかけても電話がつながりません。車は素通りするし、頼みの電話はつながらない。それで自力で目的地に行って、帰って来るしかないと腹を決めまして、バイクが作動するかを確かめました。こんな時、バイクの構造を一から勉強していないわたしは本当に哀れです。エンジンかかってくれよ、その一念でスイッチを入れました。
●幸いに、エンジンは応えてくれまして、何とか目的地までたどり着き、予定していた病人訪問とゆうちょ銀行への入金と、シスターに頼まれていた買い物を済ませ、何とか司祭館に帰りました。シスターに尋ねると電話のコンセントを入れてなかったと言います。これでは怒る気にもなれず、けがをしたことを話すと真っ蒼な顔をして心配してくれました。残念ながら、打ち身の痛みはあるものの、ぴんぴんしておりますので、シスターに介抱してもらうこともありませんでした。
●聖書には、「善いサマリア人」というたとえ話があるんです。まず、内容をつかむために朗読しましょう。

ルカによる福音書10章25節から37節
ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

●このたとえ話の筋から行くと、先に2人通りかかるのですが、彼らは素通りしていきました。3人目は追い剥ぎに遭った人を憐れに思い、助けてくれることになっています。わたしも、転倒して痛い目に遭ったのですが、確かに車2台は素通りしていったのですが、3台目がやって来ないのです。
●バイクをやっとの思いで起こし、エンジンがかかるか試しているうちにも、その場所を誰も通りませんでした。わたしは転倒してしまった時点ですぐに、聖書の「善いサマリア人のたとえ」を思い出していたのですが、誰もそこを通りませんで、3番目の登場人物は現れませんでした。3番目の登場人物は、いったいどこへ消えてしまったのでしょうか。
●まだ、原稿を書いている時点で左半身に痛みがあり、パソコンのキーボードを打ちながらも左胸はズキズキ痛んでいます。出血もないし、転倒した際に頭も打ちませんでしたので、病院にも行きませんでしたが、何だか誰にも話さずに終わるのは癪に障るので、月刊アヴェマリアで同情を買おうと思って話しているわけです。もしかしたら、3番目の登場人物は、この話を聞いてくれている会員の皆さんかもしれません。
●病院送りになってないので、笑い話で済みますが、考えてみるとよく助かったなぁと思います。いのちを粗末にしたつもりはありませんが、いのちを握っているのは、人間自身ではなく、神なのだなぁと今回つくづく思い知らされました。
●今日スリップして転倒した場所は、二輪車では確かに危険な場所です。痛い思いをしたので、しばらくはあの場所を通らないで、少し遠回りして行こうと思います。ただし、バイクをやめるつもりはまだありませんので、もう少し、月刊アヴェマリアを聞いてくださる皆様には、ご心配をかけることがあるかもしれません。わたしも、今回のことを大いに反省して、より慎重な運転を心掛けたいと思います。

2010年12月

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●新年明けましておめでとうございます。マリア文庫の中田輝次神父です。これから、2回にわたって、クリスマス、その中心となるイエスの誕生物語をお伝えしたいと思います。物語の裏に隠されている内容を聞き取ってくださり、役立てていただければ幸いです。
(1)「聖書には、2つの誕生物語」
●クリスマスは、イエスの誕生を祝うというのが中心的な出来事です。もしかして、サンタクロースがプレゼントを配ることがクリスマスの中心とお考えでしたら、サンタクロースがクリスマスと結びついていくのは、ずっと後になってからのことですので、ここではっきりさせておきたいと思います。
●さて、聖書の中のイエスの誕生物語は、2通りの言い伝えが残っています。イエスは、婚約していたヨセフとマリアから生まれますが、2通りの言い伝えを簡単に言うと、ヨセフとマリアのどちらに光を当てて伝えるか、というものです。マタイ福音書は、ヨセフに光を当てて物語を書きつづっています。ルカ福音書は、マリアに光を当てて物語を書きつづっています。両方の物語を少し読み比べてみましょう。
【マタイ福音書が伝えるイエス・キリストの誕生】
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(中略)ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
【ルカ福音書が伝えるイエス・キリストの誕生】
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(中略)そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。(中略)人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
●こうしてイエスと名付けられた幼子が生まれました。ここで、イエスが生まれた場所に少し注目したいと思います。先ほどのルカ福音書から考えて、「ユダヤのベツレヘム」という町だったことは確かです。
(2)生まれた場所に、こだわってみる
●ベツレヘムでの誕生は、偶然ではなかったようで、イエスの誕生以前にまとめられている旧約聖書の預言の書物が、ベツレヘムのことをこのように書き残し、未来について告げました。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」(ミカ書5章1節)
●ベツレヘムに間違いはないのですが、もう少し場所を掘り下げたいのですが、聖書は何かを語ってくれるでしょうか。ルカによるイエスの誕生物語にそのヒントがあります。いくつか拾ってみましょう。
●まず、誕生の瞬間を描く次の言葉です。「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(2・6-7)宿屋には、マリアとヨセフの泊まる場所がなかったと書かれています。
●ベツレヘムにやってきましたが、泊まるところがないとすれば、野宿をする以外にありませんが、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」という部分からすると、やはり家畜小屋か、あるいは家畜をかくまっておく洞窟のような場所だっただろうと推測できるわけです。ベツレヘムで生まれましたが、ベツレヘムの中でも出産には全く適さない場所で生まれたのです。
●このことを、夜通し羊の番をしていた羊飼いに天使が告げた言葉も裏付けます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(2・10-12)
●一説によると、暖かい部屋を用意できなかったマリアとヨセフ、そして生まれた幼子は、動物の吐く息で温めてもらわなければ、夜を過ごせなかったと言われています。わたしもイスラエルに夏の2週間滞在したことがありますが、昼とは正反対に夜はぐっと温度が下がる経験をしました。こんな場所で生まれるという運命には、一体どんな意味があるのでしょうか。どんなメッセージが込められているのでしょうか。
(3)「貧しく生まれたことの意味」
●日本で、新しい命が誕生する場面を例に引いてみましょう。日本には皇室があります。皇太子に子供が生まれたからと言って、わたしたちが「まあかわいい」と、生まれたばかりのお子さまをそば近くで眺めることは、まず許されないだろうと思います。門番がわたしたちの侵入を阻止し、場合によってはわたしたちは拘束されるかもしれません。
●そこまで身分のある人でなくても、一般の産婦人科医院で、新生児が母親と眠っている場所でも、見ず知らずの人が訪ねてくるのを歓迎しないでしょう。本来は、皇室のお子さまなどは国民のためのお子さまなのでしょうから、みんなが訪ねて行って、お祝いの言葉を言いに行ってもいいはずですが、実際にそんなことを実行しようとしても、一歩も近づくことはできないでしょう。
●ここまでのお話で、何となく言いたいことがわかった方もおられるとと思います。イエスが家畜小屋で生まれ、布にくるまって飼い葉桶に寝かされているのは、その貧しさのおかげで、誰でも近づくことができることを望まれたからです。どんな人でも、馬小屋で生まれた幼子を近くに寄って眺めるために、あえて貧しい姿でお生まれになったということです。
●誰でも近づくことができる場所ですが、一体どんな人が近づくことができるのでしょうか。まずは、聖書の物語の中で登場した2通りの人々がいます。1つは、羊飼いたちです。羊飼いたちと聞いて、わたしたちは特別良い印象も悪い印象も持たないかもしれませんが、当時としては住むところを持っていない人、野宿をする人として、あまりよい印象を持たれていなかった人たちです。ところが、彼らは真っ先に、救い主誕生を知らされ、その様子を見に行った人たちでした。
●もう1つの訪問者として聖書は、占星術の学者たちを取り上げています。俗に「三人の博士たち」と呼ばれていますが、そのわけは、占星術の学者たちの贈り物が、「黄金・乳香・没薬」の3つだったからです。彼らは、外国人でしたが、学者と呼ばれる身分の高い人々でした。
●彼らも、布にくるまって飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を探し当て、贈り物をささげます。彼らは自分たちの身分を全く気にせず、貧しく生まれた救い主を王として疑うことなく受け入れました。彼らは、イエスよりも自分を低くする謙虚さを持ち合わせていました。
●ここから考えると、次のように言うことができます。クリスマスの物語で中心となっているイエスの誕生は、すべての人が近づくことのできる、壁のない姿を教えているということです。そして、壁のない状態で生まれた幼子を訪ねることができるのは、自分自身に壁を置かず、心を開いて出来事を受け止めようとする人たちです。
●わたしたちも、信仰心をもって、あるいは日本に定着した習慣として、クリスマスをお祝いする人がたくさんいることでしょう。せっかくの機会です。クリスマスに生まれた幼子イエスは、壁を置かない姿で生まれてきました。その姿は、どんな人にも、壁を置かないで接する人になってほしいというメッセージです。これから、1人でも多くの人に、壁を置かないで接していただきたいと思います。これは、クリスマスを理解する1つのすばらしい形だと思います。

2011年1月

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●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。今回はクリスマスの出来事、イエス・キリストの誕生の物語についてのお話の2回目です。
●皆さんは、家庭で何か動物を飼っていらっしゃるでしょうか。ペットを飼う方の理由は、ほとんどが、命のあるものをそばに置いておきたいということではないでしょうか。もちろん、特別に、何かをしてほしいために、飼っている人もいるかもしれません。自分を慰めてほしいとか、自分を元気づけてほしいとかです。
●何かをほしがっている人の場合、慰めてもらえなくなったら、元気づけてもらえなくなったら、落胆し、それまで大切に飼っていたペットであっても、興味を失ってしまうかもしれません。あまり大きな期待を掛けない方がよいと思います。
●命あるものをそばに置きたいという意味では、いろんなペットが役に立ってくれると思います。水槽で飼育する熱帯魚。魚は、えさを与えた人にしっぽを振るわけでもないし、猫なで声を出すわけでもありません。けれども、適切に飼育すれば、いつまでも自分のそばにいてくれます。ペットがいちいち反応してくれなくてもよい。けれども命あるものをそばに置いておきたい。そんな人もいるでしょう。
●まとめると、ストレスの多い社会の中で生きていかなければならない現代人は、どこかで、自分のためにそばにいてくれる命あるものを必要としているのです。人間関係が嫌いなわけではありませんが、自分の希望通りの人間関係ばかりとは言い切れませんので、心の中では、希望の叶う空間、時間をほしがっているのではないでしょうか。
●さて、イエス・キリストが幼子として生まれ、この世界に現れたことは、命あるものをそばに置きたいという人間の思いへの、最高の答えなのではないかと思います。生後間もない赤ちゃんは、両親がそばにいてくれなければ、生きることができません。誰かが、そばにいてくれることで、幼子の命は守られています。
●イエスについて、幼子の姿から歴史に書き記されているということ。それは、「人は皆、誰かが、その人のそばにいてあげることが必要なんだよ」という人間の心の奥底の願いを、見える形にするためのものだったと思うのです。
●月刊アヴェマリアをお聞きになっている皆さんには、ここまでの話を2つの見方で受け止めてもらいたいと思っています。皆さんお1人1人に、そばにいてくれる人が必要です。どんな人も入れない心の奥底で、そばにいてくれる人を必要としているかもしれません。その必要を満たしてくれるのは、人となってくれたイエス・キリストではないかと思います。
●もう1つの視点は、あなたに、そばにいてほしいと思っている人がどこかにいるかもしれません。あなたを都合よくそばに置きたいという人ではなく、心の底から、あなたがそばにいてくれることを必要としている人がいるかもしれません。
●月刊アヴェマリアのテープや、音訳された書物を通してつながっている人とか、日常の出会いの中で関わりの深い方など、今日のあなたが生き生きと暮らしていることで、ありがとうと感謝している人が、きっといると思うのです。
●あなたがそばにいてくれて、本当に嬉しい。あなたがそばにいてくれると感じることができて嬉しい。そう思ってくれる人のために、生きるというのは、とってもすばらしいことだと思います。このような生き方をすてきだと思っていただければ幸いです。
●今回の話の結びには、歌を歌いたいと思います。その前に、歌に込めたい思いを話します。「この星は」というタイトルの歌で、地球のすべての命を慈しむことと、その思いをすべての人が理解するにはイエス・キリストを知ることが近道ですよ、というメッセージが込められているかなと思います。
●この地上で、最高の知恵を備えているのは疑いもなく人間です。未だ解明されていない謎を解いて、真理を明らかにできるのは人間しかいません。それでも、人間ほど愚かなことをする生き物もこの地上にはいないのです。最高の働きをする一方で、家庭崩壊、環境汚染、貧富の格差拡大など、最悪の行動も取る人間。この落差を、どう理解したらよいのでしょうか。
●この、矛盾に満ちた人間ですが、足りない点を反省し、良い点をもっと伸ばすことができるなら、この地球に対して、未来に続く歴史に対して、すばらしい貢献をするはずです。
●わたしは、その導き手として、イエス・キリストの誕生は大きな役割を果たしていると思っています。歴史のある一時代に、パレスチナの片田舎で生まれ、生涯を終えたイエス・キリストの生きざまが、実はすべての人に大きな影響を与えていると考えています。
●わたしたちは多くの矛盾について、事実矛盾していることも、解決策も、知っていると言うこともできます。人は人を助けることができますが、一方で人を傷つけることがあります。人は人を愛することができますが、一方で誰かを憎んだり恨んだりします。その解決策は、人を傷つけないことだし、人を憎んだり恨んだりしないことです。
●けれども、解決策を知っていながら、解決できないというこの人間の弱さは、本当に悲しいことです。そこには、やはり人間の弱さとか、人間の限界というものがあるのかもしれません。この弱さ、限界を、誰が救ってくれるのでしょうか。わたしはこの問題の救いのために、神が働く場所があるのだと思っています。
●神は、独り子を、マリアという女性を通して、この世に送ってくださいました。イエスという名で、この世界に1人の幼子として生まれてきました。解決策まで知っていながら解決できない人間を救ってくださるために、神の子が命をかけてくださったのです。
●終わりに、イエス・キリストの使命を、本当にわかりやすく歌にしている賛美歌を歌いたいと思います。年明け、母のいる実家に帰ったときに気を緩めてしまい、風邪声ではありますが、どうぞ最後まで耳を傾けてください。

2011年2月

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●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。1月には、日盲社協の情報サービス部会総会と第2回研修会に参加してきました。研修会に参加してみて、マリア文庫が全国的な組織とどのように関わっているのかとか、マリア文庫の現状が全国的な流れについて行くことができている部分と、追いついていない部分とがあるのだなという感触を得てきました。全国的に広がり始めている「サピエ」というサービスについて、マリア文庫はもっと学んでいく必要があるなぁと考えています。
●今回の研修会には、マリア文庫の代表として出席してきました。こうしてマリア文庫にさらに深くかかわるようになって、さまざまなチャンスがあったにもかかわらず、いかにわたしが障害のある方々とすれ違いの生活をしていたか、ということが分かってきました。
●たとえば、視覚障害を抱えている人が街中を歩く時の道しるべとして点字ブロックがあります。わたしはこれまで、点字ブロックの存在は知っていましたが、なぜ目の不自由な人が点字ブロックを頼りに移動して回れるのか、真剣に考えたことはありませんでした。
●つまり、点字ブロックの道は、永遠に続く直線ではなくて、右に曲がったり左に曲がったり、横断歩道の前ではいったん止まったりしなければなりません。わたしも点字ブロックの上を歩いてみたことがありますが、右に曲がっていることをブロックから本当に読み取ることができるのか、ある場所では止まらなければなりませんが、本当に「止まれ」の合図をブロックから読み取ることができるのか、そこまで確かめようとしたことがなかったのです。
●似たようなことですが、最近、長崎市内を移動していて、「ピュー」という音が聞こえる歩行者用信号機があることに気付きました。「ピュー」という音以外の、音楽が鳴っているとか、そういう場所は以前から気付いていましたが、「ピュー」という音が聞こえる信号機には、最近気付いたのです。
●遅すぎると、お叱りを受けるかもしれません。けれども、これが事実なのです。哀れと思われるかもしれませんが、「へぇ、この信号機ではこんな音がずっと流れていたんだな」と、今頃気づいたのです。恐らく、ずっと昔から音は鳴っていたのでしょう。それなのに、全く耳に入ってきてなかったということになります。
●さらに、この「ピュー」の音ですが、わたしが行動する範囲で1ヶ所、一方からは「ピュー」と聞こえ、もう一方からは「ピューピュー」と聞こえる信号機があることが分かりました。この、「ピュー」「ピューピュー」と鳴っている歩行者用信号機、きっと、視覚障害者が進行方向を知るために音が区別されているのだと思いますが、では「ピュー」が鳴る方向は何で、「ピューピュー」が鳴る方向は何なのかと聞かれると、答えることができないのです。
●あの、「ピュー」「ピューピュー」信号機は、何を区別しているのでしょうか。東西南北の方角なのでしょうか、それとも、何か一定の法則にしたがって、違うものを表現しているのでしょうか。「かわいそうに、そんなことも知らないのか」と同情してくださる方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えていただきたいと思います。
●こんなこともありました。現在の便利な時代ですから、わたしもATMを頻繁に利用します。ATMには点字のサインが必ず付けてあります。これまでは、「点字のサインがあるなぁ」と思うだけでしたが、最近は、「これは、何と書いてあるのだろう?」と思うようになったのです。
●もちろん、墨字で書いていることを点字で同じように書いているのだと思いますが、今は「同じことを書いているのだろうなぁ」では納得できなくなりました。せっかく、ここに点字と触れあうチャンスがあるのに、「たぶん同じことを書いている」で終わるのと、「あ、確かにフリコミと書いてあるぞ」と理解できるのとでは、全く世界が違うと思うのです。
●あらためて、生活の場を見渡してみると、こんなにたくさんの場所に点字が併記されているのだなぁと驚きます。それと同時に、わたしは現時点では、1文字も、点字が読めないのだというショックを覚えているのです。ATMに書かれているであろう「ニューキン」「ヒキダシ」「ツーチョーキニュー」こういったことすら、読み取れないのです。
●それは、誰もが住みやすい街づくりを目指している今の社会にあって、本当に不幸なことだと思います。今すぐそこに、点字のサインがあるのに、全く読めない。それは、ある人が10年も20年も英語を勉強したのに、英語が全く理解できないということと変わらないと思うのです。
●そこで、社会で日常的に使用されている点字、たとえばATMの操作を教える点字や、その他いろんな機械の操作を説明している点字、まずはこれらの点字が理解できるように、五十音くらいは何とか覚えてみたいと思います。もちろん、本を読むところまでは急には上達しないと思いますが、単語を読むのにも五十音を理解していなければなりませんので、取り組みたいと思います。
●マリア文庫と、これまで以上のかかわりを持つようになって、世界はぐんと広がったと思っています。何しろ、日常生活にたくさん入り込んでいる点字を、これまで四十数年間、関心を持っていなかったのです。それが今は、あー、こんなところにも点字がある。あー、墨字をそのまま点字に直しているんだなと、感動できることが身近なところにたくさんあるのだと思います。
●もし点字の読み取りが上達したら、いろいろ読んでみたい分野があります。それは、演説、講話、研究発表の分野です。先月大阪での1泊2日の研修会が終わった後、難波グランド花月に行って、お笑い芸人のプロの話術を聞かせてもらいましたが、わたしもミサの礼拝の中で話をします。その参考になればと思い、5千円ちょっとの料金を払って話を聞きました。きっと、点字で訳された演説、講話、研究発表も、わたしにとって大きな刺激になると思うのです。
●点字で訳された演説の魅力は、わたしにとってもう1つの大きな魅力があります。それは、聴衆を前にして、顔をスピーチ原稿に向けないで、話ができると言うことです。これは点字の本来の目的とはかけ離れていますが、もし、聴衆の顔を見ながら、原稿に目を落とさずに話ができるとしたら、わたしにとっては魅力的です。いつか、そのような姿で人前に出て話ができればと、今は夢見ています。

2011年3月

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●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。東北関東大震災で亡くなられた方々に、心より哀悼の意を表します。被災された方々にも、お見舞い申し上げます。映像で地震の後にやって来た大津波が押し寄せる様子を見たとき、こんなことが本当に起こるのだろうかと疑うほど凄惨な場面でした。
●マリア文庫の会員の方にも、被災した方々がいらっしゃるかもしれません。今回の大震災で、お亡くなりになった方はいらっしゃるのでしょうか。また、ご家族や親戚、友人で、まだ確認できていない人がいらっしゃるでしょうか。本当に心配です。
●地震の後の大津波は車や船を押し流し、家をこなごなにし、そして大津波が引くときに、すべてを奪い去ってしまいました。すべてがなくなり、荒れ野のようになってしまいました。たくさんの人も亡くなりました。身元が確認できている人もいますが、今も分からない人もいます。
●深い悲しみの中で、希望をなくしてしまいそうです。希望はどこに行ってしまったのでしょうか。希望は、なくなってしまったのでしょうか。
●希望は、決してなくなっていませんでした。生きのびた人々は、みんな力を合わせて今日一日を生き始めました。だれかが、だれかに寄り添って、一人では乗り越えることのできない悲しみ・恐怖・失望を、寄り添って助けています。何もないところから、再出発を図ろうと、光を求めて努力しています。わたしは、そうした勇気ある被災者に、必ず神がそばにいて、支えてくださると信じます。
●中田神父が信じる神は、何もないところから天地をおつくりになったと教えられています。今、大津波に飲み込まれてすべてなくなったいくつもの地域が見られます。神が、何もないところから天地をおつくりになったのであれば、今、何もないこれらいくつもの地域に、もう一度町並みと人々の暮らしを作りだしてくださる。そう信じたいと思います。
●震災からの復興は、これから何か月かかるかもしれないし、もしかしたら何年もかかるかもしれません。その間ずっと、何もないところから天地を作られた神が、そばで支えてくださり、廃墟となってしまった町並みを、復興させてくださるに違いありません。多くの専門家が、阪神大震災後の復興に活かされた工夫と知恵を、今回の東北関東大震災でもいかんなく発揮してくださるよう、心からお願いしたいと思います。
●今、報道を見ていると、災害を耳にした日本全国の人々に、「何ができるか」を考えさせるような報道が流れていると感じます。例えば、東京では計画停電が行われていますし、慌ててガソリンや物を買い占めることのないように、冷静な行動を取りましょうと呼びかけています。
●その他にも、節電に心がけることも呼び掛けられていました。ある沖縄の視聴者が、「沖縄で節電して、それが被災者にどんな役に立つのですか」と質問が来たそうです。その番組に登場している解説者の一人が、「直接は役に立たないかもしれない。けれども、節電した分を救援募金に回すことは可能ですし、そもそもできることをやろうと心に決めたことが、被災者を勇気づけることになります」と答えていました。
●わたしはこの解説者は、立派な答えをしたなぁと思いました。今、わたしたちにできることの中に、被災者を勇気づけることは確かに含まれていると思います。被災した方々は、自分たちが孤立していないと感じることで、大いに勇気づけられると思うのです。わたしたちが普段の生活で心に留めていることを伝えられるなら、きっと力になれると思います。
●そこで、中田神父の立場から、被災者のことを心に留めていると実感するための2つの考えを示して、今月の話を終わりたいと思います。1つは、聖書の中のイエスの言葉です。もう1つは、カトリック信者が親しみを持っているマリアに対する祈りの言葉です。
●まず聖書の中のイエスの言葉ですが、イエスは弟子たちとの地上の生活を終えるにあたって、次のように言いました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20)もちろん直接には、弟子たちに残した遺言ですが、イエスの言葉を自分に向けられたものと受け止めてもよいわけです。
●「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」これは、どんな場面でも、どんなに時代が進み、変わっても、変わらないイエスの励ましだと思います。いつも共にいてくださると言うのですから、不安を抱え、避難しているその時も、避難所で泣いている人がいて、思わず自分も泣きたくなるような時でも、イエスはいつも共にいてくださる。そう考えたいと思うのです。
●肉親の身寄りが、1人もいなくなった人もいるかもしれません。本当に痛ましいことですが、そんな、希望を持てない場面でも、イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と、声をかけて希望を失いかけている人を探し回っているのではないでしょうか。
●もう1つは、マリアを称えるためにカトリック信者が親しみを持っている祈りです。最近、「アヴェマリアの祈り」として、改訂されたものを紹介します。

アヴェマリア、恵みに満ちた方。
主はあなたと共におられます。
主はあなたを選び、祝福し、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、罪深いわたしたちのために、
今も、死を迎えるときも、祈ってください。アーメン。

●この祈りの前半部分で、マリアがお告げを受けた時に、「主はあなたと共におられます。」と声をかけてもらいました。マリアは自分に起きようとしている大きな出来事の前に、不安を覚えたに違いありません。その不安を乗り越えさせることは、だれにもできないように思えます。
●ただ1人、マリアが信頼を寄せる「主なる神」だけが、この不安を乗り越えさせる存在です。その主が、「あなたと共におられる」というのです。主が共におられる。このことがマリアに知らされた時、マリアは不安を取り除くことができました。何よりも、自分にとって安心できるひと言だったからです。
●皆さんお一人お一人の生活の中で、「主はあなたと共におられる」という言葉に耳を傾けていただければ幸いです。この言葉が自分にとって安心をもたらすようでしたら、その次には被災した方々のことを思い出し、「主はあなたと共におられます」と、心の中で語りかけていただければ幸いです。

2011年4月

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●こんにちは。マリア文庫の中田輝次神父です。キリスト教の暦では、今年は4月24日(日)が復活祭、その前晩が復活徹夜祭の祝日でした。キリストが死者の中から復活したことを祝う、全世界の教会共通の祝日です。大まか、内容を説明して話を進めていきたいと思います。
●教会の暦は、復活祭までの三日間を連続して記念します。木曜日、イエスが弟子たちと最後の夕食を取ったことを記念します。この食事の席でイエスは弟子たちをこの上なく愛し抜かれたことが聖書には記録されていて、木曜日の礼拝の中でも、互いに愛し合う兄弟愛について司祭は話をすることになっています。
●金曜日、イエスは兵士たちに捕えられ、裁判の席に連れて行かれます。宗教指導者によって構成された議会が、イエスに不利な証言を並べてイエスを訴えます。彼らの中には、イエスに対する不正な裁判をやめさせようとする人もいました。本人の言い分も聞かず、また議員の数も足りていない中で、まして夜中の裁判は成立しないと主張しましたが、イエスを亡き者にしようと最初から集まっているわけですから、正しい意見はかき消されてしまいました。
●金曜日は、イエスの逮捕の出来事、不正な裁判、そして十字架を担い、ゴルゴタの丘に連れて行かれ、磔にされてお亡くなりになる。そこまでの出来事を記念した礼拝が行われます。この日は、イエスがお亡くなりになった、そこまでの礼拝で終わります。ですから、伴奏のためのオルガンも用いず、喪に服すことが礼拝の中に盛り込まれています。
●土曜日、日中は一切の礼拝を慎みます。金曜日の午後3時にイエスが亡くなって、金曜日の夜、土曜日の日中までは、イエスの死を思い、教会では一切の礼拝を行わないのです。そして、土曜日の日没になると、場面がガラッと変わり、復活徹夜祭の祝いに入ります。
●教会は、ユダヤ教古来の習慣に従って、日没から一日が始まるものとして礼拝を組み立てます。金曜日の午後3時にイエスがお亡くなりになり、金曜日の日中が一日目、金曜日日没後から土曜日の日中が二日目、そして、土曜日の日没から日曜日の日中までが三日目という計算です。教会は、イエスが三日目に、死者の中から復活されたと信じていますから、三日目にあたる土曜日の日没後から、イエスの復活を祝うのです。
●今回、日曜日の日中に行われた礼拝で読み上げられた聖書を紹介します。イエスが十字架上でお亡くなりになる時に、十字架のもとにいた婦人たちが、イエスを埋葬した墓に出向くところから物語が始まります。
●ヨハネによる福音書 第20章1節から9節
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
●今年の礼拝の中で、イエスは人々を恐れから解放する方である、そういう話をしました。マグダラのマリアが墓に行きました。「朝早く、まだ暗いうちに」(20・1)とありますが、「暗闇」は、実際の時間帯と同時に、マグダラのマリアの心の状態も表していると思います。彼女は、イエスが十字架の上で亡くなったことで、恐れにとらえられていたのです。墓から石が取りのけてありましたが、それを遠くから眺めるだけで、近づく勇気は持てなかったのでしょう。すぐに弟子たちのもとへ報告に戻ります。
●シモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子は、マリアの知らせにすぐに応じて墓へ急ぎました。身をかがめて中をのぞき、亜麻布が置いてあるのを見つけました。それでも、もう一人の弟子は墓に入ろうとはしませんでした。墓に入ることが怖かったのではないでしょうか。墓に入り、遺体を確認すれば、イエスは死んでもういないのだと打ちのめされることになります。また、墓に入る様子を他人に知られたら、自分たちの身も危険にさらされると考えたかもしれません。
●シモン・ペトロは恐れを振り払って、墓の中に入りました。シモン・ペトロとヨハネが思い切って墓の中に入った時、彼らはイエスの復活を信じることができました。恐れのために、墓を遠くからしか眺めなかったマグダラのマリア。墓をのぞいてみたけれども、中には入らなかった弟子。恐れにとらえられていた人間が、ありのままの墓の中を見た時に恐れから解放されたのです。
●恐れを解き放ったのは、そこに残されたただの亜麻布でしょうか。そうではないと思います。亜麻布が横たえられていた、その状態で残してくださった方が布の向こうにおられると考えたのです。横たえられていた亜麻布を通して、復活したイエスが弟子たちの心を解き放ち、イエスは生前、亡くなった後に復活すると話していた、その教えを思い出すことができたのです。
●今年、復活祭までの連続した礼拝を過ごす中で、イエスの復活は、弟子たち、ひいてはイエスの復活に関心を持ってくださるすべての人を、恐れから解放すると考えました。人が、イエスの復活を受け入れることができたとしても、弟子たちにも、わたしたちにも、名誉も権力も財産も何も残してはくれません。
●ただ一つ残してくださったのは、死から逃れられないわたしたち一人一人を、この上なく愛し抜かれ、御自分の復活によって恐れを解き放った、イエスの愛です。この、復活によって示されたイエスの愛は、わたしたちを他の人々へと動かします。見捨てられている人、孤独にある人、ちょっと周りの人から外れている人。だれにでも、イエスが愛してくださったことを知らせに行く。イエスはわたしたちの心を解き放って、証しを立てる人へと変えようとしています。

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