マリア文庫への寄稿

「マリア文庫」とは、「目の見えない方々」へ録音テープを通して奉仕活動をしている団体です。概要については、マリア文庫紹介をご覧ください。

2009年1月 2月 3月 4月
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2009年1月

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●こんにちは。中田神父です。今年から、私の仕事の中に新しい仲間が加わりました。それは、与えられた聖書の箇所から400字詰めの原稿用紙4枚半の内容で読み解いて聞かせるというものです。毎月、2つの担当箇所についての解説を用意しなければならないようです。
●ただし、今回依頼された仕事に限っては、嫌だなぁとか辛いなぁとか思っていません。というのは、私に依頼してきた方は、私が日曜日のミサの説教のためにいつもヒントをいただいている解説書を書いた神父様だからです。畏れ多くもこの神父様から、解説の一部分を引き受けてもらえませんかと打診を受けたわけです。
●ここだけの話ですが、天にも昇るような嬉しさでした。けれどもそのことはぐっと押し殺して、「本当にわたしでいいんですか」と聞いたところ、「ええ、神父様がずっと書き続けている説教のブログを読んで、お願いしたいなぁと決めたのですから」そのようなことを言われました。嬉しくてたまりませんでした。
●さて、今月のお話を一つの言葉で括ると、「向き・不向き」ということになると思います。「向き・不向き」というのは、たとえば、自分の才能のこととか、生き方のこととかに当てはめて使う言い方ですね。「自分はその仕事に向いている」「自分はその仕事には向いてない」「あなたには今の生き方が向いている」「あなたにはその生き方は向いてないのではないか」というようなことです。
●おそらく、今言ったような会話は、どこかできいたことがあるでしょうし、お互いにそのような会話をしたことがあるかも知れません。自分に向いていることについては、積極的に取り入れ、活用した方がいいでしょうし、自分に不向きなことは、できるだけ避けたほうがよいに決まっています。
●ただし、向き不向きがあるからと言って、必ずしもそれを自分の思い通りに選べるとは限りません。自分に向いていると思うことでもさせてもらえないこともあるでしょうし、自分には向いていないと思っているのにやらされるということもあるでしょう。さらに言うと、向き不向きなどといった悠長なことを言っていられないこともあると思います。
●早起きは苦手だから、昼から出勤できる職場を選びたいとこちらが望んでも、そんな都合のいい会社は簡単には見つからないでしょう。新聞配達の仕事など、こちらがどんなに朝が苦手だと言ったって、日の出までに配り終えないと仕事にならないわけです。
●自分にとっての向き・不向きにうまく合わせることができる物事について、今回話すつもりはありません。自分自身の向き・不向きに関係なくしなければならないこと、しかも強制的に、嫌でも何でも有無を言わせず、要求されることについて、1つの例を挙げて今月お話しし、いっしょに考えてみたいと思います。
●実は中田神父にとって、締め切りの付いたたいていの仕事は、向き・不向きにかかわらず、強制的にこなさなければならない仕事です。このアヴェ・マリアの15分のお話がそうでしょうし、今年から始まる聖書の解説もそうでしょう。また、ほかにもいろいろと締め切りが設定されている仕事があります。その中で、中田神父にとっていちばん早く締め切りがやってくるものを例に、向き・不向きを越えてどのようにその務めを果たしているのかを紹介します。
●私にとって、いちばん早く締め切りのやって来る仕事、それは日曜日のミサの中での説教です。日曜日ごとに与えられた聖書の箇所があり、その聖書の箇所に適した内容のお話を準備し、ミサの礼拝の中で話しています。そしてこの務めは7日経つとすぐにまたやって来ます。ある場合は、2週間の中で5回、違った説教を準備しなければならないことも出てきます。
●こうなってくると、私は説教師としては向いていないとか何とか言っておられなくなるわけです。そんな中で、頭を抱えつつ説教の内容を準備していますが、これまでの自分を振り返り、今になって考えると興味深い行動を取っていることに気がつきました。ほとんど例外なく、私は説教を机に向かって下書きしているのですが、私の頭の中は、必ずしも机に向かって、パソコンの画面と向き合っているわけではないということに気がついたのです。
●どういうことかと言いますと、何かの原稿の準備をしている時、たとえばこのアヴェ・マリアの原稿を準備している時、初めはいろんなことが頭の中で巡っていて、どこから手を付けてよいか、どこに着目してまとめればよいのか、まったく見当も付かないわけです。それが、何かの光のようなものに照らされ、1つの道筋が見えてきた時、そこに向かって話がまとまっていくのが分かります。その、話がまとまっていく方向というか、路線というのが、必ずしもパソコンに向かって正対しているわけではないということに気がついたのです。
●もう少し具体的に言いましょう。「あ、何か書けそうな気がする」そう感じてから私はアヴェ・マリアの原稿を書き、最終的に録音をします。原稿を書くためにはどうしてもパソコンの前に向かうわけですが、それまでに私は椅子にしばらく座ったり、椅子から離れたり、時には海を眺めたり海に背を向けたり、あるいは空を見上げたり天井を眺めたりと、ありとあらゆる方向に自分を向けているのです。
●さらに驚きの発見もありました。私は体をいろんな方向に向けているだけではなく、精神面でも、いろんな方向に心を向けて、何かをつかもう、何かを見いだそうとしていることが分かったのです。そして、ある方向を向いた時、「あ、これでかける。これで今月の務めを果たすことができる」という気持ちになり、一気に原稿を書いて録音し、みなさんにお届けしています。
●この、体の向きと心の向きがどこか一定の方向に向かった時に何かがひらめくわけですが、それはおそらく、私の信じている神さまと向き合う方向なのではないかと思うようになりました。毎週、あるいは毎月、大量の原稿をまとめて記事にしたり録音したりしています。本当に幸いなことに、「今月は何も浮かばないから提出できません」というような事態には陥っていません。
●それはおそらく、私の信じる神さまが、「君が今月書きたいお話は、こっちを向けば気がつくよ。そっちじゃないよ、こっちだよ」と、私に声をかけて教えてくださっているのではないかと思いました。その、「こっちだよ」という神さまの声に私がなんとか気がつき、その方向を向いた時、ようやく私にとっての解放の時がやってくるわけです。「あーこれで、今月の務めが果たせる」。そしてその瞬間私が向いている方向は、おそらくですが、神さまの指し示している方向を向いているのではないかと思います。
●人間には「向き・不向き」というものがあると思います。それは確かです。そうなのですが、時にはその人間的な向き・不向きを乗り越えて前に進まなければなりません。自分が向いてないと思えば、きっとどんなに努力しても向いていないわけですが、その不可能を可能にしてくれるたった1つの道は、神さまの示してくれる向きに向き直るということなのかも知れません。私たち本来の「向き・不向き」を超越して、前に進ませてくださる神からの「向き」に、私たちは素直に向き直るようにしたいものです。

2009年2月

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●こんにちは。中田神父です。今月は、キリスト教の歴史の中でひときわ大きな存在であるパウロという人物のエピソードについて触れたいと思います。話の参考にさせてもらうのは、イタリアのミラノという場所で教会の責任者をしておられたことのある大司教、現在は枢機卿であるカルロ・マリア・マルティーニの著書です。
●まず、パウロという人のおおまかな紹介をしましょう。彼は、まずイエス・キリストを信じる人がぼつぼつ現れた頃に、キリストを信じる人々を迫害する人物の仲間として聖書の中に登場します。ステファノという熱心なキリスト者を憎み、殺害してしまった一味の仲間として、パウロは登場しました。
●彼は始めに登場する時点では、サウロという名前で登場します。このサウロは、キリストを信じる人々を捕らえて牢屋に投げ込み、それで全く正しいことをしていると信じて疑っていませんでした。ところがある時サウロは、はっきりとイエスを感じる体験をしました。サウロがキリスト者を迫害して勢いづいていた頃、当然イエスは死と復活を経ていましたから、12使徒のような直接の出会いはあり得なかったのです。
●ところが彼は、イエスと出会ったとしか言えない強烈な体験をして、それがきっかけでイエスの弟子になったのです。サウロはイエスと出会っただけでなく、今まで取っていた行動、つまりイエスを信じる者を迫害していたことが全くの誤りであったことを一瞬にして知らされ、イエスを信じるアナニアという人物から洗礼を受け、サウロ自身もキリスト者になるのでした。
●サウロがイエスと出会ったという体験が、使徒言行録という書物の中に3度紹介されています。それによると、サウロは馬に乗り、ダマスコという土地に向かっている途中でイエスに出会います。イエスはすでに死んで復活した方ですから、どのように出会ったのかは説明不可能です。けれども、彼はイエスに出会い、こうイエスに言われるのです。
●「サウロサウロ。なぜわたしを迫害するのか」「あなたはどなたですか」と尋ねると「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えが返ってきました。イエスは、サウロをアナニアのもとに向かわせ、アナニアがサウロを導きます。この間、サウロは目が見えなくなり、一緒にいた仲間に手を引かれて行ったとされています。イエスとの出会いがどれほど強烈なものであったかを物語る1つのしるしなのでしょう。
●彼はこの出来事以後、自分のことをサウロではなくパウロと呼ぶようになり、これまで徹底的に弾圧し、迫害してきたキリスト教を大胆に宣べ伝える人に変わります。ですが人々は「かつてあれほど迫害していた教えを、今は堂々と告げ知らせている」と言って、驚きと疑いの目で見られたのでした。どこへ行ってもパウロを受け入れてくれる人はいませんでした。それはそうでしょう。迫害者がそんなに簡単に、手の裏を返したように宣教する人に変われるとは誰も思わないからです。
●だれも相手をしてくれない中で、バルナバという人がパウロをイエスの最初の弟子である12使徒に引き合わせてくれます。12使徒も疑いの目でパウロを見ていました。バルナバはだれからも信頼を得ている人物だったので、彼が紹介するのであれば、信じることができるだろうと言ってパウロを受け入れたのです。バルナバはこのあとも、ことある毎にパウロの味方になってくれました。
●パウロは、尻込みせずにイエスこそ救い主であると人々の前で証言しますが、だれも、彼の話に耳を傾けませんでした。それどころか、彼が現れる場所ではひんぱんに騒動が起こり、暴動になったり命を狙われたり、大変な騒ぎになります。パウロがその地を去ると、平和が訪れるといった有様でした。ある場所でパウロは雨あられのように石を投げつけられ、地面に倒れ伏して動けなくなります。この時もバルナバだけはパウロを見捨てずに面倒を見てくれたのです。
●ところが、パウロとバルナバの仲は、いつまでも良好な状態を保つことができませんでした。すでに人々の大きな信頼を勝ち得ていたバルナバに対し、最近洗礼を受けたばかりのパウロが、活動が進むにつれて目立つようになり、宣教活動の方針を立てる中で対立するようになります。ある時、宣教に出かけるにあたりだれを協力者として連れていくかという問題で意見がぶつかり、2人の仲に亀裂が生じ、もはや修復できないまでになってしまったのです。
●私事ですが、自分自身も同じような体験をしたことがあります。高校を卒業し、福岡の学校に進学した時、頼れる人が誰もいない中で、1人の同級生がわたしの仲間になってくれました。彼は上級生からの人気もあり、わたしが上級生に受け入れてもらえるようにいろいろと協力してくれたのです。
●ところが、わたしは友人となってくれた彼を悲しませるようなことをして、それから何年間も彼と口を利かなくなってしまったのです。彼とわたしは考え方で協調できなくなり、最終的に彼は福岡の神学校を去ることになりましたが、その時も一言も口を利かずに別れてしまったのです。
●今も、彼とどこかで仲直りをしておけばよかったと後悔しています。初めて暮らす福岡で、だれも力になってくれなかった時に助けてくれたのに、その彼とあんなふうにして別々の道を歩むようになってしまった。本当に申し訳なかったなぁと思っています。
●同じ思いだったかは分かりませんが、パウロとバルナバが縁を切ってしまったことを、パウロが新約聖書に残した手紙を読みながら思うのです。新約聖書の中でバルナバはキプロス島に身を引き、その後はもう2度と表舞台に出ることはありませんでした。気性の激しいパウロと、パウロを警戒して仲間に加えるのをためらっている最初からのキリストの弟子たちの間に立って、調整役をしてくれたバルナバ。宣教活動に行っても、だれもパウロを信用してくれない中で、パウロのそばに付き添って支えてくれたバルナバ。ずっとパウロの右腕となってくれたのに、2度と修復できないほどの溝を作ってしまい、それぞれの一生を終えていったのでした。
●わたしは、自分に当てはめて思います。カトリックの司祭となったわたしですが、学生時代に恩人であるはずの友人を失った傷は、一生抱えて生きていかなければなりません。同じ経験をしたことのある人が、このアヴェ・マリアの会員の中にもいるかも知れません。それは、のどに小さな棘が刺さったような痛みです。ときどき忘れることもありますが、何かのきっかけで思い出します。決して消えてなくなることはないのです。
●この傷、または小さな棘は、わたしは、神さまと触れ合う1つのきっかけになると思います。小さな棘なのに、一生苦しむのです。小さな痛みですが、一生消えないのです。その傷を、大きな愛で包んでもらいたい。人間はどこかで、そんな安心感を求めています。一生苦しまなければならないので、一生その苦しみを包んでくれる存在が必要なのです。その方を求め続けるなら、きっと出会えると思います。一生消えない傷を包むその方こそ、まことの神なのではないでしょうか。
●バルナバとパウロ。わたしたちの身近にも、そういう関係にある人がいるかも知れません。もし、気に掛かっている人がいるとしたら、その人を通して、神さまはわたしたちに声をかけようとしているのではないでしょうか。

2009年3月

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●こんにちは。中田神父です。先月、パウロのエピソードを紹介しました。今月もパウロについて紹介したいと思います。3月の中旬から下旬にかけて、パウロについての連続講演をする機会があり、わたしにとっても大変収穫のある時間を過ごすことができました。その中でもやもやとしていたものが少し整理できて、お話しできるくらいになりましたので、紹介したいと思います。
●パウロは、キリストを信じる人を迫害する側に最初はいました。自分が置かれていたユダヤ教の伝統を脅かす新しい動きを、徹底的にたたきつぶそうとしていました。そのためにパウロはダマスコという土地に向かっていましたが、そこへ向かう途中でキリストと出会ったとされています。それは、強烈な光に打たれたと考えるほどの、偉大で奥深い体験でした。
●さて、彼はイエスとの衝撃的な出会いの直後、目が見えなくなって、3日間飲みも食べもしなかったとされています。この暗闇の体験を、今月の話題としたいと思います。パウロは暗闇の中で、何を感じ、何を学んだのでしょうか。
●パウロが経験した暗闇は、イエスに出会った後に生じた暗闇です。イエスと出会うと、なぜ暗闇に直面するのか、ここから考えてみましょう。大きく2つの理由が考えられます。1つは、イエス・キリストがパウロにとってはあまりに輝かしい存在であったため、強烈な輝きのために視力を失ったような体験だったかも知れません。他の出来事で体験すると、急に立ち上がったために立ちくらみをしたとか、急激な出来事に出くわしたことで起こる体験です。
●ただし、身体的な出来事は時間が経てば薄れていきます。パウロが3日間も目が見えない状態だったというのは、時間が経てば薄れていく身体的な体験としては十分説明が付かないかも知れません。そこで2つ目の推理ですが、精神的にも、肉体的にも、パウロがイエスの圧倒的な輝きに触れたという考えです。
●パウロが、精神の奥底にも、イエスとの強烈な出会いが刻まれたとすれば、おそらくショックのために肉体の視力も失われるということは考えられます。人間の体は心とつながっていますので、肉体的には視力に問題が無くても、ショックのために見えなくなるということは考えられるわけです。パウロはそのような状態だったのかも知れません。
●では、パウロがイエスと出会ったことで受けたショックはどのようなものだったのでしょうか。それをわたしは、人間に潜む3つの暗闇として表してみたいと思います。
●1つは、個々人が陥ってしまう暗闇です。例えば、妬みや争いなど、個人が個人に対して犯す過ちのために、人は暗闇を体験するという理解です。どうしてあんなことをしたのだろう。あの時しなければよかった。そんな後悔を含むような個々人の過ちはあると思います。過ちは取り返すことはできません。その過ちを振り返る時、自分の心の中に暗闇を感じるのです。しなくてよかったことを、人に対してしてしまった。その責任感とか後悔の念で、心を暗くしてしまうのです。
●2つ目は、人間全体に潜む過ちの根っこのようなものです。人の失敗を知ると、思わず「それ見たことか」とか「いい気味だ」と思ってしまうことが1度や2度はあるのではないでしょうか。その瞬間は、気持ちがすっとするかも知れませんが、後になって「自分は何と意地悪な人間なのだろう。自分のどこに、こんな性格が潜んでいるのだろうか」と驚きます。この、隠れた性質が人間に影を落とします。その闇は、隠れた心の醜さと言ってもよいかもしれません。
●心の中から突然顔を出す「心の醜さ」は、わたしが育てたものではないと思います。ふだんは穏やかな心でいられるのに、思いがけず顔をのぞかせた意地悪な部分。これはきっと、だれにでも隠れているもので、過ちを犯すその根っこのようなものです。滅多に気づくこともありませんが、反対にそれを退治することも困難に感じるのです。心の醜さが、わたしに鎖をかけ、縛っているのです。
●3つ目は、その人が置かれている生活や、育った環境に縛られて犯してしまう過ちです。日本に生まれたとか、ある土地柄に生まれたとか、そのような条件の中で体に染みついている考え方や価値観の中に、実は人間の心、人間の目を暗くする原因が潜んでいることがあるのです。
●3つ目の社会的な環境が産み出す暗闇について例を挙げてみましょう。悲しい記憶ですが、わたしが小学生だった今から30年以上前は、住んでいる地域によって差別が確かにありました。その中で、ある一定の地域は、差別を受けている地域と考えられていて、その土地の人を見下すようなことを、大まじめに言っていたのです。
●そして大人たちの言う話が子供たちの中にも入り込み、差別を受けている地域の同級生について、何も根拠がないのに差別をしていたのです。そして残念ながら、わたしも同じ考えでその同級生を見、判断していたのでした。同級生なのに、偏見によって悲しい思いをさせてしまったことがあったのです。
●パウロは、自分がユダヤ教徒の家庭で育ち、厳しい教育を受けたことがある時災いして、キリストを信じる人々を迫害するまでになりました。キリストを信じる人々は懲らしめを与えて当然だと思っていたのです。知らずにおこなっていたとは言え、人間が置かれている環境やさまざまな条件は、人に過ちを犯させることがあります。パウロはその過ちに気づいた時、社会の構造やかたよった価値観が、どれだけ人を闇に陥れるかが分かったのです。
●人間の心に闇を作る3つのおもな原因を、暗闇の体験を通ったパウロは思い巡らしました。3日間、彼は目が見えず、食べ物見もしませんでした。その時間が、人間の心の闇と、その闇を解き放つものは何かに気づかせたのです。パウロにとってそれは、イエス・キリストとの出会いでした。
●パウロは、人間に潜む心の闇を明らかにして、この闇は闇で終わらないことも示してくれました。人間の闇を創り出している3つの要素は、実は1つの共通した姿勢に貫かれています。人間が、自分自身を真ん中に据えて生きているという姿勢です。個々人が犯す過ちは、「これくらいなら大丈夫」とか「見つからなければそれでいい」などの利己的な態度から産み出されます。
●人間全体をむしばんでいる「悪の根」「心の醜さ」は、自分がだれよりもかわいい、自分さえ助かればひとまずそれでいいといった自己中心的な態度に根ざしています。そして社会の仕組みの中で知らずに犯す過ちも、他人を自分よりも低く考える心から生まれてくるものです。どれも、自分自身を真ん中に据えた生き方が産み出している結果と言うことができます。
●パウロは、闇を打ち砕き、闇の鎖を解いてくれる方はイエスであるという結論にたどり着きました。もちろんこれはパウロの結論ですから、世界中のすべての人が同じ結論にたどり着くわけではないのですが、わたしもカトリックの司祭として同じ考えを持っています。つまり、中心に据えるべきはイエス・キリストなのだということです。
●自分を中心に据えて生きる限り、いわゆる「自己中心的な生き方」から抜け出すことはできません。「自己中心的な生き方以外の生き方」それがわたしたちに求められています。どんな生き方を描くかは人によって違いがあるでしょう。信仰を持っている人は、それぞれの信仰に当てはめて考えてほしいし、信仰を持っていない人はその人なりに、「自己中心的な生き方以外の生き方」を探してほしいと思います。そこにこそ、闇を打ち砕き、闇の鎖から自由になって生きる生き方があると考えています。

2009年4月

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●こんにちは。中田神父です。朝のニュースで、心温まる話を聞きました。このニュースから、今月の話題を作りたいと思います。ある年配のご夫婦の話でした。ご主人は農業に従事していて、働き盛りの頃、一大決心をして事業を拡張することにしました。
●これまでの何倍もの規模で効率よく経営するために、銀行からお金を借りて大型機械を導入し、さあこれまでよりも大きな収入を得ようという矢先、奥さんが糖尿病を発病し、それがもとで目が見えなくなってしまいました。
●ご主人は一転、希望に満ちた将来を取り上げられ、奈落の底に突き落とされた気分でした。これからというときに、最愛の妻が病気になり、事業を本格的に進めようという気持ちも吹き飛んでしまいます。導入した機械も動かすことなく、仕事をあきらめることにしました。おまけに、銀行からの大きな負債も抱えてしまいました。
●ご主人は一度絶望の淵を味わったのですが、別のことも考えなければならなくなりました。これから妻と、どうやって生きていこうか。事業のことは何とか精算することができるかも知れないけれども、妻とのこれからの時間をどのように幸せに過ごしていくことができるだろうか。ご主人は大いに悩みました。
●そんな時、ご主人は愛する妻との時間を最優先にして、これからなすべきことを考えたのです。そこで思い付いたのが、妻がこれまで世話していた花壇を、もっと立派にして楽しんでもらおうということでした。
●幸い、ご主人が所有していた農地は広大でしたから、この農地を活用することを思い付きます。季節ごとに花を付ける植物を植え、ていねいに雑草を抜き、見事な庭園を作り上げました。
●問題は、この見事な庭園をどのようにしたら妻が楽しんでくれるだろうか、ということです。妻はすでに、視力をすべて失っていました。目で見る楽しみは奪われていたのです。ご主人は心配しながらも、奥さんを庭園の散歩に連れ出しました。そして、きれいに咲いた広大な農地を説明してあげると、奥さんはその花々を触ってみたい、と言いだしたのです。
●そこでご主人は、芝桜がみごとに裂いている場所へ奥さんを案内して、触ってみるようにと勧めました。奥さんが身をかがめて花壇に手を伸ばすと、最初に手に触れたのは芝桜の芝の部分でした。手に、ちくちくと刺すような感覚が伝わり、思わず「痛い!」と手を引っ込めたのです。
●ご主人が、「大丈夫だよ。もっと触ってごらん」と促すと、奥さんは恐る恐る手を伸ばし、芝桜の芝の感触を確かめました。しばらくすると、今度は芝桜の花びらの部分が手に当たり、柔らかな感触が手に伝わりました。「あっ。花びらだ。柔らかい。」奥さんはその感触をいつまでも記憶にとどめようと、長く花と大地を手で触っていたのです。
●ご主人が用意した庭園はあまりにもりっぱだったので、いつしかそこにはたくさんの人々が訪れるようになりました。そして道行く人が足を止め、立派な庭園を褒めたり、奥さんと親しく会話したりして、たくさんの人が庭園と失明した奥さんの友だちになってくれたのです。
●わたしは、この話を聞きながら、じわっとこみ上げる物を感じました。奥さんは視力を失いました。わたしがこの方の旦那であったなら、何もない外の景色の前で「ほら、今年も立派に芝桜が咲いたよ」と嘘を言っていたかも知れません。目が見えないことを理由に、嘘でその場しのぎをしていたかも知れません。
●実際のご主人はそんなことはしませんでした。見えないのに、庭を真っ赤に染める芝桜を見事な世話で咲き誇らせ、触ってご覧と花の咲いた場所に連れて行ってくれたのです。奥さんは目が見えなくなったかも知れない。けれども花の匂いをかぐことはできるし、手で柔らかさを感じることもできる。
●花を求めて集まった昆虫や小鳥の音に耳を傾けることもできる。だから、奥さんとこれまでとは違った幸せを積み上げていくことができる。どこまでも、奥さんと幸せに生きることを優先して、良いほうを選んだ、良い選択をしたわけです。
●一方でわたしは、人間というのは何とすばらしい生き物であるかと思いました。目が見えていた人が、病気や事故で見えなくなることがありますが、目が見えなくなってもすべてを失ってしまうわけではありません。良くできているなぁと感心します。目が見えないはずなのに、相手のちょっとした変化をだれよりも早く気づいてあげることができる人もいます。人間の作りのすばらしさに驚嘆するわけです。
●また、今月お話ししたご夫婦は、もともとはご主人が働き、奥さんが家事全般を取り仕切るという暮らしを続けていましたが、奥さんの視力が失われてからはご主人が掃除洗濯、料理、家事全般を引き受けるようになりました。もちろん料理も下手、洗濯も汚れを落とすだけの洗濯ですが、それまでいっさい手伝ったことの無かった分野を、笑顔でこなしているのです。
●これは、人間の作りと言うよりは、人間の持っている心が、状況が変わった時に対処しようとする心がけが、どれほど優れているかを物語っていると思うのです。いったい人間は、どこまで広い心を持つことができるのでしょうか。奥さんを愛するご主人が喜んで床の拭き掃除をしているのを見て、最近何年も拭き掃除を手伝ったことのないわたしは、涙の出る思いでした。
●またわたしは、ご夫婦を取り囲む自然環境も、何とすばらしいのだろうと思いました。こじつけと言われればそれまでですが、最初は庭先にほんのわずかの花が咲いていたのかも知れません。その、わずかな花が、ご主人に何かを教えてくれたのではないでしょうか。つまり、「わたしたちも奥さんを喜ばせるお役に立ちたい。協力します」というようなことです。ご主人は自然界のメッセージをみごとに受け取り、愛する妻の前に、協力を惜しまなかった自然の見事さを示してあげたのかなと思いました。
●ここまで話したことを、わたしなりにまとめましょう。人間とは、どうしてこんなにすばらしい生き物なのでしょうか。わたしは、こんなすばらしい生き物として生まれてきたのはなぜだろうかと考えざるを得ません。わたしが偉いのではなく、人間をこんなにすばらしい生き物としてくれたのはいったい何者なのだろうかと思ったのです。
●それをどう表現するかは人それぞれでしょう。ある人は偶然だと言うかも知れません。けれども、偶然でこんなにも人はすばらしい感動を体験できるものでしょうか。そのすばらしい生き方を通して、別のだれかを感動させることが、偶然から生まれたりするのでしょうか。
●とても、わたしはそうは思えません。偶然ではなく、必然として、人間はこのように素晴らしい存在とされているのではないでしょうか。わたしはこのすばらしい人間に関わったのは、やはり人間を越えた素晴らしい存在なのではないかなぁと思いました。わたしたちの目の前で起こっている、涙を誘うような出来事が、より多くの人に、人間をすばらしい物として存在させてくれた方に気づかせてくれるのではないかなぁとあらためて思いました。

2009年5月

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●こんにちは。中田神父です。今回録音が遅れに遅れまして、担当の方にはご迷惑をおかけしました。申し訳ありません。この原稿は、郷里の五島列島、新上五島町鯛の浦の実家で書いています。なぜ今実家にいるかというと、一年前の5月31日、私の父が亡くなって、年忌のために帰省しているところです。
●まずは、家にたどり着くまでの話をさせてください。朝一番の午前8時の船に乗って五島に向かいました。到着予定は9時40分なのですが、海上は荒れていて、予定よりも時間がかかり、9時50分くらいに到着しました。多少の時間は仕方のないことですが、長い時間海の上で辛い目に遭うのは勘弁してほしいなぁと思いました。
●私は、船に乗って移動することが特別に多い人間です。長崎本土と伊王島を、年間通して50回くらいは行き来しています。高島にも教会があって、毎週日曜日にはミサをささげに行っています。ですから置かれている環境で、少々船が揺れてもなんともないのですが、今回はかなり参りました。
●船で困ることは一般に2つあります。1つは、当然のことですが「揺れ」です。今回五島行きを決めた日は、海上の波が2.5m以上ありました。この2.5mの波の状態というのは、人が、立っている状態からしゃがんだ状態になるのをずっと繰り返している感覚と思っていただくと、大体当てはまると思います。
●もう一つの問題は、騒音です。船に乗っていて、騒音があるのかしらと思うかもしれませんが、船にはエンジンがあり、船の大きさによっては、出発から到着まで、ずっとこのエンジン音を聞いていなければなりません。不幸にして私が五島に行く時に利用する船がそのような船で、けたたましいエンジン音を100分間ずっと聞かされることになります。皆さんを困らせるつもりではありませんが、私が乗った船のエンジン音を録音して帰りましたので、1分間聞いてください。
(「ありかわ8号」のエンジン音が1分間流れる)
●この2つの悪条件に100分間耐えて、ようやく五島に到着しました。もちろん、この日のように海上が荒れるのは年間を通して何日かしかありませんので、五島に行ってみたいなぁと思っている人は、おびえないで大丈夫です。たいていは、のんびりと船旅を楽しめる天気です。ぜひこのようなときにおいでください。
●さて、この2つの悪条件が重なる中、船に乗ったお客さんはどんなふうに100分間を過ごすのでしょうか。ほかの人のことはよくわかりませんが、私は、このような状況になるとほぼ間違いなく「寝る」ことに決めています。この方法が、いちばん安全に、確実に時間を消費できるからです。ただし問題もあります。
●その問題というのは、ジェットコースターのように揺れる船の中で、はたして眠気がやってきて、確実に眠れるだろうかということと、すでに朝目が覚めてから船に乗っている状態で、もう一度眠ることができるだろうかということです。
●実際には、そのどちらも問題ではありません。船がジャンプしたりダイブしたりしても、結構寝ることはできるものです。それに、基本的に私は夜更かしすることが多いので、朝二度寝をすることになっても、問題なく眠れます。むしろ私は、同じ船に乗っているほかのお客さんはどうやってこの時間を過ごしているのだろうかと思うのです。同情すら覚えます。
●おそらく、ほかのお客さんも、眠ろうとしているのではないかなぁと思います。エンジンの音は会話できるレベルではありませんし、100分間もあるのだから何か仕事をしようと思うかもしれませんが、山の中を四輪駆動で疾走しているような状態では、本を読むことも、ましてやノートを開いて何かを書くことなどできるはずもありません。
●それではということで、パソコンや携帯電話で文字を入力しようとしても、小さな文字に集中しているとすぐに船酔いが襲ってきます。今回私も、いくつかの場所に連絡のメールを入れようとしましたが、4通メールを送信するつもりが、1通目を作成した時点で気分が悪くなり、結局残りは自宅に帰ってからでした。
●もう一つ、できることがあるかもしれません。それは、「神様助けてください」「神様早く、そして無事にたどり着かせてください」と祈ることです。もしかしたら、この「助けて」という祈りを唱えることが、眠ることもできない、本を読むこともかなわない、文字を書いたりメールも打てない厳しい状況では、いちばんふさわしい活動かもしれません。
●今回に限っては、私の心の中にも「祈り」が思い浮かびました。「助けてください」というような祈りではありません。1年以上前、父の肺がんが見つかり、まったく同じ船で治療のために五島から長崎に来た時のことを思い出したのです。「こうじ。船に酔ったよ。海は荒れてたよ」と、長崎に来るたびに父はこぼしていました。それを私は、「何言ってるんだい。治療のためじゃないか。弱音を吐いたらだめだよ」と激励していたのでした。
●今になって考えると、父が無理して長崎までやってくるのを、頑張れ頑張れなどと言っていたのは、ちょっと厳しすぎたかなぁと思ったのです。私が今回経験したような辛い思いをして来ていたとしたら、それは申し訳なかったなぁ、そんなことを思い出して、父のために祈りました。
●ところが、人間とは弱い悲しい生き物で、父に悪いことしたなぁと思ったのはほんの10分ほどで、あとは大波に揺られてぐっすり眠り込んでしまっていました。父のことを思っていたのは確かですが、結局は自分が体を休めたいという誘惑が勝ってしまって、船の中ではずっと眠りこけていたのです。お恥ずかしい話です。
●人間は、恐怖心を覚えるとたいていの人は何かにすがろうとします。ほとんどの場合、「神様、仏様」という言葉にそれは現れます。私も、体験からそれは自然なことだと思います。8人乗りのセスナ機に40分ほど乗る機会が3回ありましたが、離陸直後に機体が大きく沈んだ時は、思わず「神様助けて!」と心の中で思ったのです。そのことからすると、普段意識していないような信仰心の人でも、信仰があるということはありがたいものだなと思うのです。全く信仰のない人、何かにすがろうと感じたことのない人は、身に降りかかる危険を、どのように回避しようとしているのでしょうか。私は信仰をもっていてよかったと思っているので、信仰をもっていない人の取る態度に、大いに興味があります。

2009年6月

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●こんにちは。中田神父です。今回の宗教コーナーをどのようにお感じになるか、ちょっと心配しながら準備しています。まず、最近耳にした残念なニュースから話が始まります。悪質な霊感商法の被害のニュースです。東京・渋谷にある印鑑販売会社の社長らが逮捕されました。「先祖が地獄で苦しんでいる」などと迫って高額の印鑑契約を結ばせていたということです。
●さらに、印鑑販売会社の関係先から、印鑑の購入者を新興宗教に入信させるまでの手順を示した資料を、警視庁公安部は押収しています。今回の宗教コーナーの録音に当たっては、会社の名前、新興宗教の名前は伏せていますが、霊感商法で世の中を騒がせていると聞いただけで、「あー、あれか」とピンと来る人もいると思います。印鑑の販売会社と名乗っていますが、実はその会社は霊感商法でさんざん評判を落としているある新興宗教の隠れ蓑(みの)で、ずいぶん前から、印鑑、壺を高額で売りつけて被害者がたくさん出ているのです。
●わたしは、今回印鑑販売会社の社長が逮捕され、またもある決まった新興宗教の企みだったと聞いて、憤りを感じました。残念だなぁと思ったのは、まずこの手の訪問販売はずいぶん前から知られていて、印鑑を「先祖が地獄で苦しんでいる」などと迫って高額で売りつけるのはいつものパターンです。どうして、いつものパターンなのに、誘われてしまうのかなぁというのがまず最初の感想でした。
●今回わたしが目にしたニュースでは、被害者は女性の会社員で、何と939万円もの大金を要求されていました。3本組みの印鑑セットを150万円で売りつけたという話も聞いています。どんな印鑑なら、3本で150万円もするのでしょうか。純金製でしょうか?ちなみにわたしの文庫本の形の説教集は、3冊で2300円ですが、それでもある人は高いと言って、2000円にまけてくれと言われたことがあるくらいです。まず、印鑑が150万円だと言われた時点で相手にすべきではないと思うのです。
●なかでもゆるせないなぁと思ったのは、「先祖が地獄で苦しんでいる」と迫ったという部分です。なぜ、確かめることもできないことを作り上げて、言いがかりを付けるのでしょうか。本当に腹が立ちました。人はどうして、「先祖が地獄で苦しんでいる」と言われると、それに動揺してしまうのでしょうか。このあたりを今月考えてみたいと思います。
●まず、この霊感商法に繰り返し出てくる「先祖が地獄で苦しんでいる」という言い方ですが、落ち着いて考えれば相手にする必要など無いことが分かります。なぜかと言うと、印鑑を売りつける見ず知らずのその人が、どうして自分の先祖のことを知ることができるでしょうか。わたしなら、「おや、訪問販売のあなたの先祖も地獄で苦しんでいますね」と言い返してやりたいです。
●人は地獄のことをどのように教えられているのでしょうか。宗教によって違いがあるかも知れません。ここでも冷静さが必要ですが、地獄は、言ってみれば悪人の最終の行き着く場所です。そうであれば、地獄に行った人が苦しんでいるとしても、別に不思議なことではないと思います。苦しくない地獄を教えている宗教があるとしたら、その教え方に問題があると思います。地獄は苦しい場所のはずです。誰か地獄に行く人もいるかも知れません。その人は、確かに地獄で苦しい思いをするのです。ですから、「そりゃあ地獄に行った人は苦しいでしょう。当たり前です」と言ってやればよいのです。
●ちなみに、キリスト教の教えにも地獄は存在します。そして、キリスト教で言う地獄ははっきり説明ができます。つまり、救いから完全に遠ざけられた人が行く場所で、神のあわれみによって地獄にいる人が助け出されたり救い出されたりすることはないのです。キリスト教で言う地獄は、白黒はっきりしています。決して救われることのない場所なのです。
●もし、キリスト教で言う地獄が、本来の地獄の姿であるとするなら、そこに行った人はもう助かりません。「先祖が地獄で苦しんでいる」と脅したかも知れませんが、地獄にいる人にもはや手は差し伸べることができないのです。印鑑を150万円で買えば地獄にいる先祖が救われるかというと、そんなことは起こりません。だから、地獄にいる先祖を心配して高額な印鑑を買っても、助けることなど最初からできないのです。冷静に考えるべきです。
●もし仮に、供養をすればその人が救われると言うのなら、その亡くなった先祖は地獄にはいません。基本的に、地獄にいる人に手を差し伸べることはできないのですから。供養で救ってあげることのできる先祖がいるとすれば、それは地獄以外のどこかにいるのでしょう。印鑑を売りつけた人が「先祖が地獄で苦しんでいる」と言った以上、言い直しはききません。その人は決定的な間違いを犯しているのです。地獄にいる人のためにお金を費やしても無駄なのですから。
●まとめると、「先祖が地獄で苦しんでいる」というのは言いがかりですから、相手にする必要はありません。見ず知らずの人が、自分の先祖の居場所を知っているはずがありません。先祖の子孫である自分すら居場所を断言できないのに、見知らぬ人からどう言われようが、相手にする必要はありません。
●また、「地獄で苦しんでいる」と言いますが、地獄は悪人が行く決定的な場所で、苦しむのが当たり前の場所なのです。わざわざ説明を受けなくても分かりきっています。もし地獄がそんなに苦しい場所でないと言うなら、それは地獄の説明の仕方が間違っているのです。
●地獄にいる人を供養して助けてあげることができると言うなら、その場所はまだ望みのある場所、救いの希望のある場所のはずです。そんな場所を地獄とは言いません。少なくともキリスト教では、地獄は決して救われる望みがない場所とされています。多くの宗教で、地獄はあるでしょうし、説明の仕方もいろいろあるでしょうが、曖昧さの残るような説明をすべきではないと思うのです。地獄を旅行して楽しんできたとか、「地獄で待ってるぞ」とか、そんないい加減なことを言うべきではないと思います。曖昧な理解をしているので、霊感商法でお金を狙っている人の餌食になるのではないでしょうか。
●結論。地獄に仏はいません。イエス・キリストも地獄にはいません。地獄に行った人がいつかまた救われると言うのであれば、そこは地獄ではありません。地獄は決して救われない場所だと、わたしは思っています。ですから、「先祖が地獄で苦しんでいる。お金を出しなさい」という誘いには、根拠がないのです。

2009年7月

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●こんにちは。中田神父です。身近な所で、とても嬉しいことが起きました。わたしが住んでいる島は、900人前後しかいない小さな島です。ほとんどの島民について、見たことがあると思います。さらに、島民の方も、お寺の住職さんが袈裟を着るように、カトリックの司祭が着るスータンを着た姿を見たことのある人がほとんどだと思います。
●そんな小さな島の中で、1人のご婦人から声をかけてもらいました。その方のご主人は、カトリックの教会に宗教上所属しています。ですから、話し掛けてきたご婦人のことも、ある程度は承知していました。伊王島の島民は島と長崎本土を船で行ったり来たりしますので、船に乗る時や船の中では、みんなと顔を合わせます。わたしは、そのご婦人と顔が合うと、会釈をしてあいさつしていました。あいさつはしていましたが、特別に話し掛けたりすることはなかったのです。
●そんなある日、ご婦人のほうからわたしに声をかけてくれました。話の内容はごくありきたりのことでしたが、わたしは会話を終えて別れたあとに思ったのです。「あー、あのご婦人はよく思いきって声をかけてくれたなぁ。」
●なぜそう思ったかと言うと、島の中でわたしのことを知らない人はほとんどいないと言いましたが、だからといってみんながわたしに話し掛けてくるかというとそうとは限らないわけです。たとえば、地域の人はみんな交番のお巡りさんを知っています。けれども、それだからと言って地域の人が全員お巡りさんと会話するかというと、そうでもないわけです。
●今のたとえのように、わたしは地域の人にとってお巡りさんのような存在です。地域にいてくれているなと知ってはいますが、何か困ったことが起こったり、話し掛けられたりすることがなければ、自分から積極的に話してみようかなぁとは思わない。そういう存在が、この小さな島にいるカトリック教会の司祭の立場なのだと思います。そういう意味では、お寺の住職さんも同じような立場に置かれているかも知れません。
●ところが、今月紹介しているご婦人は、思い切ってわたしに声をかけてきてくれました。ご本人はカトリック教会に籍を置いているわけではありませんから、日曜日のミサとか、カトリック教会の行事に顔を出すわけでもありません。ご主人からカトリック教会の様子や中田神父の人柄を聞くことがあるかも知れませんが、それでも、積極的に話し掛けてみようとまでは思わないのではないでしょうか。
●わたしは心の底から、このご婦人に声をかけてもらったことを喜びました。そして、あとで思い返し、なぜ思い切って声をかける気になったのだろうかと思ったのです。相談事があったのでしょうか。何か困っているのでしょうか。それとも、とっても社交的なだけだったのでしょうか。
●いろいろ理由は考えられるかも知れませんが、今話したようなこととはまったく違う理由に思い当たりました。それは、「わたしに、声をかける隙があった」ということかも知れないということです。このことで以前似たような経験をしました。参考になるか分かりませんが、ついでに話しておきたいと思います。
●これも船の中での出来事でした。わたしが座った席の前に、やんちゃそうな子供のいる家族が座りました。やんちゃ坊主は、船が走り出してもじっとしていません。後ろを振り向いてわたしの方も向いたりしています。こんな時、他人であるわたしがまったく相手にしなければ、その子にわたしの存在はまったく気にならないはずです。
●けれども、わたしも暇を持て余していたので、後ろを振り向く度にその子の目を見るようにし、やんちゃ坊主がわたしに気づくとわたしは目を背ける、ということを3・4回繰り返して遊んであげたのです。カメラ付き携帯電話もやんちゃ坊主を撮影するために、その子の顔の正面に近づけては、その子が気づくと背けたりしてからかっていました。
●すると、事件が起こります。このやんちゃ坊主は、わたしの挑発にとうとうがまんができなくなり、手元に無造作に置いた携帯電話に手を伸ばし、それをお母さんに渡したのです。わたしから子供がからかわれていることなど知るよしもないお母さんは、てっきり理由もなく携帯電話を取ったのだと思い、きつく叱られ、携帯電話を返しながら平謝りに謝っていました。
●わたしは、「いえ、気にしなくていいんですよ」と言いましたが、子どもに状況が説明できるならきっとこう言ったでしょう。「ちがうよ。このおじさんが先にからかったんだよ。」この子にとって、遊んでくれたわたしは、自分が身を乗り出し、入り込むだけの隙があるおじさんとして映ったのだと思います。
●つまり、この子が入り込むだけの隙がわたしになかったら、事件は起こらなかったのです。「このおじさん怖そうだな」とか「このおじさん自分に興味ないな」と分かっていたら、その子は近づいては来ないわけです。同じように、わたしに隙があったから、ご婦人は気を許して話し掛けてきたのではないでしょうか。わたしが、寄せ付けないような厳しい雰囲気を醸し出していたら、話し掛けてこなかったのではないかと思うのです。
●わたしはこの体験から、自分がつながっている信仰上の絆について考えてみました。わたしは、カトリック教会の信仰につながっていますが、その信仰の中でイエス・キリストに祈ることが日常生活の一部となっています。わたしが祈りをささげるイエス・キリストの姿と言えば、まずは十字架に掛けられた姿ということになります。
●ミサの礼拝の中で、そのほかの信心行の中で、またふだんの祈りの中で、わたしが目にするイエス・キリストの具体的な姿は、十字架に掛けられた姿です。ところでこの十字架に掛けられたイエス・キリストの姿は、あえて言えば、だれも人を寄せ付けないような厳しい雰囲気を表しているのでしょうか。わたしは、そうではないと思います。むしろ、十字架に掛けられたイエス・キリストは、弱々しい、隙だらけの姿だったのではないでしょうか。
●つまり、わたしたちにとって心を許せる相手というのは、油断も隙もない相手ではなくて、どちらかというと隙のある人、ちょっと弱い面が見える人のほうが、近づこうという気持ちになるのではないだろうか、ということです。中田神父の信仰の対象について話を進めましたが、それぞれの信じる対象について当てはめて考えてみるとよいと思います。
●もしかしたら、わたしが信じている相手、祈りをささげている相手は、わたしたちに弱さを、どこかに隙を作って、わたしたちが触れることができるようにしてくださっているのではないでしょうか。わたしに話し掛けてくれたご婦人は、わたしのどこかに隙があって、その隙間に安心感を持ったので、話し掛けてくれたのではないかと思うのです。
●イエス・キリストの話で最後を結びたいと思います。彼はご自分の最後の偉大な出来事として、十字架に掛けられたあとに復活して弟子たちと人々に現れたと言われています。最初の出現に、ある1人の弟子は同席していませんでした。彼はずいぶんそのことを悔しがっていたことでしょう。そんな彼に、復活したイエスはもう一度現れ、十字架に掛けられた時に受けたわき腹の傷を見せたのでした。
●隙がなければ、入り込む余地もありません。だれかに、信仰のすばらしさを体験してもらうためには、もしかしたらわたしたちの側に興味を持ってもらうためのちょっとした隙が、隙間がなければいけないのかも知れないなあと思いました。

2009年9月

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●こんにちは。中田神父です。最近ある場所で10分程度の話をしまして、その話に自分で感心したものですから、今月の話題としたいと思います。それは、「人は完成に向かって人生を歩んでいる」というものです。
●生まれてくる赤ちゃんから、話を始めましょう。命の芽生えが女性に感じられると、女性は母となり、母の胎内で新しい命のドラマが始まります。まだ、社会との関わりはありませんが、自分自身の体を、目を見張るような早さで成長させていきます。今回の話に合わせて言い換えると、母親の胎内で、自分の体の完成に向かって進んでいくのです。
●次に、この世に生まれ落ちると、今度は人としての完成に向かって前進します。人生が始まり、教育を受け、しつけを覚えて、基礎を固めてもらいます。基礎が固まったら、今度は仕事に就いて、自分で生活の糧を得るようになります。こうして、人生の完成の中でも、かなり長い時間を占める社会人生活が始まります。
●ある人はそれから結婚生活を選びます。ある人は研究に専念したり、芸術活動に没頭したりします。社会に貢献するためのさまざまな分野に入っていきます。また、今話した例は本当にごく一部で、すべての人が、与えられた命で生きていくこの人生を、完成に向かって歩を進めていくのです。中田神父は、結婚もしませんし、これといった就職もしませんでした。そういう中で、いろんな教会に赴任しながら、わたしの人生の完成のために前進しています。
●さて、完成に向かっていくこの人生の歩みの中で、わたしに影響を与えるものがいろいろあることに気付きます。わたしがこの世に生まれたのは両親のおかげです。両親から受ける影響はとても大きいと思います。両親はしばしば、わたしのものの考え方を大きく左右することになります。何が大切なことか、何が正しくて、何がいけないことか。ものの善悪や、価値を判断する基準は、おそらく両親から受け継いだものが基本になっているはずです。
●また、わたしたちは両親以外のたくさんの人と人生の中で出会います。近所の人や、友だちや、学校の先生、また職場や生活を置いた場所で出会う人など、多くの人と出会い、その中には大きな影響を受ける人も現れることでしょう。歴史に名を残すような人も、しばしば影響を受ける特別な人との出会いがあります。
●すぐに思い付く人で言うと、ヘレン・ケラーなどはその最たる人でしょう。彼女のことを知らない人はいないくらいですが、実は、ヘレン・ケラーを導いてくれたアン・サリバンという家庭教師と出会わなかったら、まったく違った人生になっていたと思います。ヘレン・ケラーとアン・サリバンとは、最初の出会いから実に50年もの長きにわたって、関わり続けたのだそうです。
●こうして、わたしたちは自分の人生の歩みの中で、人生の完成に大きな影響を与える人との出会いを得ることになります。影響を与える人と言っても、同じ時代、同じ場所に生きている人だけが影響しているのではありません。本を通してとか、人から伝え聞いてとか、そのような形でも、強く影響を受ける人との出会いはあるかも知れません。
●さて、完成に向かって進む一人一人の人生に影響を与えるのは、人間だけでしょうか。もっと言うと、人は自分自身の努力や決断、また出会った人からの影響があれば、自分の人生を完成できるものなのでしょうか。
●わたしは、その問いに次のように答えたいのです。自分の人生を完成させるのは、自分自身と出会う人からの影響だけではないということです。わたしたちの身の回りのもの、世界中のあらゆるものも、わたしたちの人生の完成に影響を与えている1つだと思います。まずはその点から話を続けましょう。
●昆虫の世界を探検してみましょう。クモを例に挙げたいと思います。クモの巣を張って、エサになる昆虫がクモの巣に引っかかると捕らえて食料にする、そういった生き方をしています。このクモは、いつも自分のクモの巣の中心に待機して、エサがかかるのを待っています。
●では、どうしていつも、自分の巣の中心に居続けることができるのでしょうか。たとえば何かが巣に引っかかった時、近づいて確認したりもするでしょう。もしエサであればそれを捕らえて、仕事が終わればまた巣の中心に戻ります。クモは、どうやって巣の中心を目指して戻ることができるのでしょうか。
●研究によると、クモには足先に揺れを感じる部分があって、揺れの違いを判断して、自分が今巣のどの辺にいるのかを理解しているのだそうです。同じようにして、クモは自分の巣に何かが引っかかった時、揺れ方を判断して、エサとなる昆虫が引っかかったのか、それとも単に落ち葉が引っかかったのか、ちゃんと区別しているそうです。
●驚きました。生活のために備わった知恵と言えばそれまでですが、1円玉何枚分ほどしかない重さの生き物が、これほどの繊細な行動を取っているわけです。ではこのクモは、自分でこうした知恵を身につけたのでしょうか。人間の見方から考えると、クモが自分で学んで身につけたというよりも、誰かが、クモにそれだけの本能を授けて、この世界に置いてくださったのではないでしょうか。
●では、クモにそれだけの本能を授けて置いてくださったのはいったい誰なのでしょうか。人間のうちの誰か、でしょうか。わたしはそうは思いません。やはり人間を超える誰かが、クモに限らず、すべてのものに生きていくためのものを備えさせてくださったのだと思うのです。
●わたしたちは世界のあらゆるもの、もしかしたら宇宙さえも対象にして、研究により驚くべき発見をし、それを人々に知らせることができます。ところが、それらのすべてはどれも「発見」であって、世界のすべてのものに法則や生き方を与えるものではないのです。わたしの考えでは「発明」と言われるものさえも、何かと何かの組み合わせであって、まったくこの世界にないものを産み出す活動ではないと思っています。
●そこから考えられるのは、「わたしたちが自分の人生を完成させるためには、自分と世界を知り尽くしたとしても十分ではなくて、自分を超える方の働きかけがあることを知り、受け入れてはじめて完成させることができる」ということです。この人生を最高のものにしようとするなら、わたしを超える方の助けを受ける必要があるということです。
●わたしを超える方、それを中田神父は「神」と呼びたいと思います。神が、わたしの人生の完成の歩みの中で、実は決定的な役割を持っているということです。そのことについて最後に話して、今回の結びとしたいと思います。
●わたしが人生を完成させようとして進んでいることは理解できても、ときどきわたしの人生の完成とは何の関係もないような出来事がわたしに起きていると感じることがあります。
●最近わたしは老眼が始まりまして、遠近両用のメガネを掛けることになりました。老眼の始まりは、わたしの人生の完成と何の関係もないように思えます。初めはむしろ、迷惑なもの、わたしの人生の歩みを妨げるもののように思えました。
●わたしの今の心境はそうなのですが、この現実も、神がわたしの人生の完成の歩みの中で置いてくれたものであるとしたら、何かの意味があるに違いありません。わたしに今は分からなくても、あとでその意味が分かるようになるのだろうと考えることにしました。
●これはわたしに起こった小さな例ですが、人によっては大きな負担を強いられる出来事もあるでしょう。人間的な判断に従えば、その事実はわたしの人生の完成にとって大きな妨げと感じるかも知れません。けれども、あらゆることに神は計画を持っておられます。わたしの置かれた環境は、神があなたの人生を完成させるために、あえて置いているのかも知れません。
●このように考える時、わたしの人生の完成の歩みに、わたし自身とこの世界とが関わっていることはいずれ理解できるようになりますが、神が、わたしの人生の完成に関わっているかもしれないと気付くのはいつ頃からなのでしょうか。わたしは、少しでも早く、神とわたしたちとの関係に気付いてくれたらいいなぁと思っています。
●わたしの人生の完成に、神が関わっていた。ある人は人生の晩年に気付くかも知れません。それでも、気付いた時に、これまでの人生を振り返って、あの場面でも、この場面でも、神が関わってわたしの人生の完成に手を貸してくれていたのだなぁと思うなら、それはすばらしいことだと思います。
●迷惑に思える出来事、悲しみをもってしか受け入れられない出来事、どう考えても喜べない出来事。自分にとって不利であったこれらのことが、人生の完成のために意味を与えているのだよと教えてくれるのは、神だけではないでしょうか。

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