マリア文庫への寄稿

「マリア文庫」とは、「目の見えない方々」へ録音テープを通して奉仕活動をしている団体です。概要については、マリア文庫紹介をご覧ください。

2008年5月 6月 7月 8月
9月 10月 11月 12月

2008年5月

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●こんにちは。中田神父です。先月お話ししたガン患者の続きです。1月に最終段階のガンだと告知され、3ヶ月の抗ガン剤点滴治療を受けて、手術の可能性を探っておりました。5月7日の診察結果は、「ガンは思ったほど縮小してなかった。新たな転移も発見され、手術できないらしい」とのことでした。
●状況はますます深刻になってきています。ガンは、腎臓の上にある副腎などに転移するとさまざまな毒をまき散らします。体に抵抗力があるあいだは、毒に対抗することができますが、抵抗力が弱ってくると、あっという間に全身がむしばまれてしまいます。今は、その瀬戸際、ギリギリの所まで来ているようです。
●カトリック教会では、病気その他で日曜日のミサに参加できない状態になると、司祭にお願いしてミサの時に受ける聖体(「聖なる体」と書きます)を運んでもらい、それを受けることができます。また、重篤な患者の場合は、病人のための特別の式をしてもらいます。私はこのガン患者は、今こそ聖体を受け、病人のための特別の式を受けて、この苦難に向き合う力を願う時だと思いました。
●本人にこれから受けてもらう式のことを告げ、規定通りの進め方で式を施しました。私はこれまでの司祭生活の中で何十回となくこの式を執り行ってきたのですが、式中何度か声が詰まりました。病気と必死に向き合っている本人の気持ちが伝わり、ふだん以上に感情が入ったのです。感情的にならないようにと努力しましたが、なかなかできませんでした。
●今このガン患者は、何を思っているでしょうか。残りの人生を、まだまだあるとはとても思っていないと思います。限られた時間の中で、少なくともこれだけは済ませておきたい、これだけは残しておきたい、この人たちには最期に会いたい。そういうことをあれこれ考えているのでしょうか。
●前回お見舞いに行った時、この方は「信仰の面である司祭に徹底的に鍛えられた」ということをしきりに話していました。信仰も、肉体と同様に、鍛えることができるのだなとあらためて思いました。そう言えば、信仰は精神に関わる部分ですから、「精神を鍛える」という言い方もありますし、あとで考えてみると納得できます。
●どのような鍛錬を受けたのか、そこまで話は進みませんでしたが、彼にとっては当時の司祭との出会いで信仰を鍛えられたことが、よほど記憶に残ったのでしょう。1ヶ月ぶりの見舞いなのですから何を話すか、自由に選べる中で、「信仰の鍛錬」について話してくれたことは、心に留めておきたいと思います。
●また、このようなことも話しておられました。「この前、11時と1時を間違えて、看護師から注意された。時間を間違えるなんてなかったのに」。そんなに気にすることかなぁと思ったのですが、彼にとってはちょっとした間違いでも、自分が許せないのだなと思いました。きっと、礼儀正しく、もしかしたらがまん強くて、痛みがあっても痛いと言わずにがまんしたりしているのかも知れません。
●残りの人生が少なくなっているなという実感を持っているこの病人は、今何を土台に据えて生きているのでしょうか。記憶も曖昧になり、曜日も数えられなくなるほど自分の感覚に信頼が持てなくなって、今を生きるための支えは、何なのでしょうか。結論から言うと、彼の心にある信仰なのだと思います。
●もはや、医学も薬も、金銭も頼れなくなっています。そんな究極の状態でも、人は今日一日を、明日への一日を、何とかして生きていかなければなりません。自分自身さえ頼れなくなっている時に、人は何を頼って生きるのでしょうか。ここまで追い詰められると、多くの人は最後の頼みの綱を探し始めるのです。
●絶望して、投げ出してしまう人は別として、自分自身も他人も、物も金も頼りにならなくなった今、そこには人間以外の、物でもない金でもない、それらでは置き換えられない方に自分を委ねるのでしょう。それが、信仰なのだと思います。
●これほどせっぱ詰まった時でも、信仰は人間に生きる力を与えてくれます。最後の頼みの綱、そう考えさせる価値ある信仰ですが、多くの人はその価値を顧みません。ある人にとっては、信仰は弱い人がすがるものだと本気で思っています。弱い立場にある人が、最後にたどり着くのが信仰だというのです。
●果たしてそうでしょうか。先月と今月話している人は、決して人間的に弱い人ではないと思います。病室に見舞いに来る人を、かえって喜ばせたり笑わせたりすることもありました。ある日家族の人が見舞いに来た時、「ネコのイチローは連れて来なかったのか」と言ったそうです。「家族よりも、ネコに見舞いに来てもらいたい病人なんて、ほかにいるかしら」と家族の人は面白がって話してくれました。
●彼は病室にいる誰よりも明るく、時には巡回してきた看護師を笑わせたりもしていたのです。彼は決して弱気の人間ではないと思います。自分に自信がなく、信頼できる人もなく、これからの人生を生きるだけの経済的見通しがないのでもなく、それらがあったにしても失ってからでも、彼は生きていける人なのです。こんな人が、心の弱い人だと言えるでしょうか。
●その彼が、私に無言のメッセージを届けてくれます。信仰に土台を置いて生きることが、最優先の生き方だ。信仰があって初めて、人間は恐れずに生きていくことができる。そう教えてくれているのだと思います。
●私は、カトリックの司祭ですが、果たして彼ほどに信仰について理解しているのでしょうか。信仰が生きる価値を与えてくれるのだと、彼のように曇りなく理解しているのでしょうか。ベッドに横になって私と話をしたり天上をぼんやり眺めているこの人は、誰しも弱気になりそうな時に自分のことではなく鍛錬された人の信仰はすばらしいと、信仰のことを話しているのです。むしろ私のほうが信仰の話を持ちかけるべきなのかも知れませんが、私は彼の話を黙って聞くばかりでした。
●何もかも失われても、私には信仰がある。そう言い切ることができる人は、決して自分に自信のない人ではありません。自信がなければ、そんな大胆なことが言えるでしょうか。何もかも失われて、何が残っているかと聞かれた時、私たちはきっぱり答えられるものを持っているでしょうか。
●新約聖書の書簡でヨハネの手紙というものがありますが、その中に次のような言葉があります。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(1ヨハネ4・18)。
●ここで言う「愛」とは、「神への愛」つまり信仰と取ることもできます。「信仰には恐れがない。完全な信仰は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には信仰が全うされていないからです」と言い直しても立派に通じます。私も、彼のように信仰に土台を置いて、何を失っても恐れずに生きていける、そんな人になりたいと思います。そして最後の場面で、今目の前にいる彼のように、恐れずに与えられた日々を送りたい。そう思いました。

2008年6月

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●こんにちは。中田神父です。これまで数ヶ月、ずっと名前を控えてきましたが、今年1月に肺ガンの告知を受けた父・中田輝明が5月31日に亡くなりました。今月は、私事で大変申し訳ありませんが、父の葬儀の時に私が追悼説教をしましたので、それをお届けしたいと思います。
●追悼ミサは、故郷長崎県の五島列島で行いました。説教の途中で方言を何度か使っています。その部分だけ、前もって説明を加えます。その後、できるだけ当時の説教に忠実に録音したものをお届けしようと思います。
●まず、「まちっと、信仰の話ばせろよ」という言葉について。「まちっと」は、「もうちょっと」です。「お前、もうちょっと信仰の話をしろよ」と理解してください。
●次に、父が回想録を書いてくれた、その最後の部分に、「その時からわたしはお祈りを切らしませんでした」という言葉があります。ここで「切らしませんでした」と言っているのは、「お祈りを欠かすことはなかった」という意味です。
●次の言葉がいちばん難しいと思います。「何のそーん、輝あんちの息子の神父にならうっとっちかよ」。「何のそーん」は、「どうしてそんなことが起こりうるだろうか」という意味で、「輝あんちの息子の」は「輝明さんのところの息子が」という意味です。そして「神父にならうっとっちかよ」は、「神父になれるだろうか?なれるはずがない」となります。つなげると、「どうして輝明さんの息子が、神父になれるだろうか?なれるはずがないだろう」という大変厳しい非難の言葉です。
●あとは、説明をしなくてもいいかもしれませんが、「何もなかばってー」は「特に変わったことはないけれども」「何もないけれども」です。「やぐらっさよ」は「あー面倒くさいなぁ」といった意味合い、「手ぶらでや?」は「お土産もなしに手ぶらできたのですか?」となります。これらの方言を押さえて以下の葬儀の時の説教をお聞きになると、雰囲気が伝わってくると思います。
●私は亡くなった父・輝明の長男息子です。ご覧の通りカトリックの神父になり、通夜と今日の葬儀ミサを務めております。私はテレビドラマの1シーンのような、母と子どもたちに最後の言葉を残して去っていく姿を想像していましたが、実際にはこれといった遺言も残してもらえませんでした。
●金曜日は、「イエスのみ心の祭日」でした。父は、ミサをささげながら、もうすぐそこに近づいていた「イエスのみ心」を受け入れました。翌日のミサは、「聖母の訪問の祝日」でした。マリアさまが父を迎えに訪ねてきてくれたと思います。そして今日から始まる6月は「イエスのみ心の月」です。いよいよ、イエスのみ心を受け入れて、旅立ったのかなと思いました。
●昨晩の通夜の儀では、ずいぶん自由気ままに説教をさせてもらいました。横たえられている父から「まちっと、信仰の話ばせろよ」と言われているような気がしています。1つの思い出を拾って、説教に入りたいと思います。
●5月の連休に入る前、4月23日、まだ有川病院に入院していなかった父を実家に見舞いに行った時、何か家族に思い出を残してもらいたいと思いまして、自分の歴史、「自分史」を書くノート(アルフォンス・デーケン神父著「あなたの人生を愛するノート」)を渡して、人生の節目節目の事を書いてもらうことにしました。私は「もし書く気があれば・・」という気持ちで預けて帰ったのですが、長男息子から頼まれたという責任を感じたのか、真剣に思うところを書きつけておりました。その中に、私が神父になったときのことが書かれていました。
●「わたしはこれから自分の生活を極める者として、悔いのない、より高い信仰生活に没頭するつもりで毎日のミサに行っていれば神父さまの良い教えが神学校の子どもにも、養護学校の子どものためにもあると信じていました。
●それから神父さまは説教で自由意志という言葉を使うようになりました。それはイエスさまの生き方を自由に、のびのびと生きていることかなと受け止めました。また、組集会のときにも、自我を捨てることなど大切なことを教えてもらいました。(中略)
●こんなことをしている間に、新司祭を私の家に迎えることになりました。夢のようでした。それまでにスータンをいただくことから始まって、その1年後には聖書をいただく式にあずかったり、またその1年後には聖体を配るようになり、それから長崎の浦上教会で助祭式にあずかり、1年後に司祭の恵みをいただきました。
●貧しさの中にもうれしくてうれしくてたまりませんでした。これが神さまのお恵みであると確信しました。その時からわたしはお祈りを切らしませんでした」。
●長男である私のことを引き合いに出してみましたが、父は最終的にはカトリックの信仰の中で、家族それぞれが人生を全うすることを強く願っていたんだと、父が命を削って書いてくれた「自分史」を読み返しながら思いが伝わってきました。
●その思いに家族一人一人がどれだけ応えているか、今さらのように反省させられます。父からすれば、なかなか、期待通りの息子に育つことができず、多少心残りだったかもしれません。結婚式も兄弟姉妹5人いて1回しか見せてあげられませんでした。
●「何のそーん、輝あんちの息子の神父にならうっとっちかよ」と言われた私も、まだまだ神父らしい神父にはなっていません。「任せたぞ」と言えるような状態で旅立たせることができなかったことは、申し訳なく思っております。
●父の霊名は聖フランシスコです。聖フランシスコというのは、「アシジの聖フランシスコ」のことを言うのだと思います。この聖人はすべてを神にささげる前は裕福な家に生まれ、馬に乗って街中を闊歩していた身分の人でした。けれどもある日回心し、自分のマントを路上生活の人に与え、馬から降りて、財産も放棄し、神と人々に仕える身となった人でした。
●考えてみると父の生活も、ある日ある時回心して、自分の霊名のフランシスコのように、自然にいだかれ、牛と語り合って後半の人生を送ったのだと思います。毎日欠かさずミサに行き、寝ぼすけの私をたたき起して、ミサを拝んで生た人でした。
●鯛之浦教会は平日のミサで、中学生が聖書朗読の当番を受け持っています。この習慣は長崎教区の中でもおそらく2つとない素晴らしいもので、誇ることのできる伝統です。このきっかけを作ってくれたのは、当時典礼部長をしていた父だと聞いています。ぜひ可能な限り中学生の聖書朗読は続けてほしいと思います。
●また、父はいろんな人の葬式が出るたびに、典礼を信者がしないで業者に委託するのを改めるようにと繰り返し言っておりました。信者の手で、死者を神さまのもとに送るべきだと言っておりました。今日の葬儀は、できるだけ父の意向に沿って準備を進めました。
●今振り返ると、父の病気に私は何回も気付いてあげるチャンスがあったと思っています。帰省するとこちらが怖いなぁと思うほどの咳を数年前から繰り返していましたし、今の馬込教会になってからしょっちゅう「何もなかばってー」と言いながら電話をかけてきました。その時は「やぐらっさよ、何もなかとに電話ばすんな」と思っていたのですが、今になってみれば、何かの不調があってのことだったのかもしれません。
●1月の肺がん告知から4ヶ月、その間3度の抗がん剤治療にも耐え、有川病院での入院中もよく辛抱しました。神さまの前に立つ時、私たちは捧げものが必要です。捧げものがなければ、神さまからきっと「手ぶらでや?」と言われるはずです。父は病苦を捧げました。神様への手土産には十分だと思います。席はどの辺かわかりませんが、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(ヨハネ14・2)とありますので、何とか用意してもらえるのではないかと思います。
●あとは、天国までの交通手段ですが、ジェットフォイルのような高速船で天国に直行するのは無理でしょうから、せめてフェリーの2等客室に乗せてもらえれば幸いです。残された母、私も含めて5人の子どもたちにも、皆さまの暖かいお心、言葉をかけていただければと思います。

2008年7月

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●こんにちは。中田神父です。夏になりました。個人的には夏になると教会学校の子供たちが早朝6時半のミサに礼拝に来て、ミサの後にラジオ体操をする光景が思い浮かびます。単に思い浮かぶだけでなく、私は実際にラジオ体操に出て、体操のお兄さんをしなければなりませんので、「あー、また朝から運動させられて、大変だなぁ」と頭が先に考えてしまいます。
●気持ちは少し嫌だなぁと思いつつも、体操が始まると子供たちの顔を眺めることができて、まぁ悪い気はしません。人間という生き物は複雑な感情を持っている生き物ですね。
●もう1つ、この夏休みのミサとラジオ体操から派生して出てくるものが、「子供遠足」とか「子供黙想会」です。「子供黙想会」は、最近では子供たちを教会に1泊あるいは2泊させて集中的に信仰教育を施す機会です。もう1つの、「子供遠足」は、言ってみれば夏休みに子供たちがよく頑張ったので、その褒美にどこかに連れて行くという意味合いの遠足です。
●私は、ある年の遠足のことが今も深く心に刻まれています。その年は、マイクロバスを借りて熊本県の三井グリーンランドに出かけました。当時は子供たちもたくさんいた教会に赴任していましたので、にぎやかな遠足でした。
●三井グリーンランドは、たくさんの遊具があって一日あっても回れないほどの広さなのですが、たまたま1つのジェットコースターに、乗りたいという子供たちが順番に乗ることになったのです。2人1組で順番を待ったのですが、1人小さい子供が、2人組になれずに残ってしまいました。そこで私が一緒に乗り合わせることになりまして、いざそのジェットコースターに乗ったのです。
●はじめは、ジェットコースターに勢いを付けるために、そのコースで一番高い場所まで機会で引き上げられていきます。徐々に高い場所に到達するのですが、その時私と2人組になった小さな子供が、私の手を握ってきたのです。
●私はビックリしました。いろんなことを考えました。たとえば、「この子とわたしは何の血のつながりもないのに、この子はわたしの手を握っているんだなぁ。よほど怖いと感じているんだろうなぁ」とか、「この子は思わず手を握ったのだろうけれど、どんなことを思ったのだのだろうか。教会の神父とはいえ、大人の手を握っていれば、何とか安心してコースターに乗っていられる。そんなことを感じたのだろうか」など、私の頭の中ではいろんな思いがぐるぐる回っていたのです。
●いろんな思いの中で今でも忘れない感情があります。それは、私の手をギュッと握ってきたその子供を通して、私は「わが子」というものを初めて意識したということです。「わが子」というのはつまり、結婚した夫婦が産み育てる子供ということです。もちろん養子でも同じなのですが、自分たちが愛情を持って育てる子供を、初めて自分の中で意識をしたのでした。
●「わが子」という意識が一瞬芽生えた時、私は隣にいる小さな子供に対してこんなことを考えました。「このジェットコースターを降りるまで、無事に守ってあげなくちゃいけない」。不思議だなぁと思ったのですが、「わが子」という意識が芽生えた時、自分の命に代えてでも目の前の子供を守らなくちゃいけないと、はっきり意識したのです。
●中田神父はカトリックの司祭ですから、もちろん生涯独身生活です。結婚をすることはありません。当然、子供を産み育てることもありません。そんな中で、瞬間的であるにせよ、「わが子」の存在を意識するような体験をしたのは、大げさかも知れませんが、私にとっては衝撃的なことでした。「守ってあげたい。守らなければ」とその時は真剣に思ったのですから、人間に与えられた本能というものはすばらしいなぁと思ったのです。
●今、「人間に与えられた本能」と言いましたが、私の本心を言わせてもらうと、「神さまが人間に与えてくださった本能はすばらしいなぁ」と言いたいと思っています。私は、人間の本能は生物学的に発生するものではなく、誰かによって与えられたものだと考えるからです。
●この年の遠足で体験したことを思い出しているうちに、次のことに思い至りました。私たち人間は、自分で産み育てている子供に愛情を感じ、守ってあげたいと思うことはもちろんとして、ある場合には、自分の子供でなくとも、血のつながりも、法律上のつながりがなくても、命を大切にはぐくむ思いが芽生えてくる。人間がそうであるならば、まして神は、人間のことを同じように考えているのではないかなぁ、と思ったのです。
●もう少し説明しましょう。キリスト教では、神は天地万物を創られた方と考えています。キリスト教以外にも、この世界は、また人間は、神によって創られたということを自然のこととして受け入れている宗教もあると思います。また、特定の宗教を持たなくても、世界と人間は、神によって創られたということを素直に受け入れている人々もいることでしょう。
●その神は、人間のことを愛してくださっています。まるで神が1人1人の人間を産み育てたかのように、私たちすべてを「わが子」と思い、守ってあげたい、守ってあげなければと心にかけておられるのです。少なくとも、そう考えておられるに違いないと思ったのです。
●キリスト教の教えるところからこの考えを説明してくれるのは、イエス・キリストそのお方です。神は、人間がこの世界で繰り返し過ちを犯しながらも決して見捨てることなく、人間の救いのためにイエス・キリストを遣わしました。イエスが、当時の人々に対して希望を語り続けたこと、人々に見捨てられ、じゃまもの扱いされている人々の友となってくださったことは、神が人間を「わが子」として見ておられ、愛し、人間のためには命をかけることもいとわないと思っていたことを証明しています。
●人間にさえ、血のつながりもない、法律上の絆もない子供から手を握られると愛情を感じ、守ってあげたいと思う心が芽生えます。欲望が心に渦巻き、都合が悪くなれば逃げてしまう人間さえ、愛情を感じた相手には最大限の配慮を示すのです。まして神は、人間の存在に決定的な関わりを持っています。人間をこの世に存在させてくださったとすれば、私たち以上に愛情を持ってくださり、守ってくださるのではないでしょうか。
●私はその年の遠足のことを思い出し、ジェットコースターで手を握られた時にこの子を守ってあげたいと感じたことを、神はすべての人間に対して持っておられるに違いないと、確信するようになったのです。すべての命に対して、愛情深く接しておられ、もしも手を握ってくるような危険に人間がさらされれば、すぐ飛んでいって助けてくださる。そんな神さまが私たちを存在させてくださっているのだと、今まで以上に神さまを身近に感じたのでした。

2008年9月

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●こんにちは。中田神父です。アヴェマリアのための8月の録音はお休みなので、しばらく間が空くなぁと思っていたのが嘘のようで、もう締め切りを過ぎてから10日が経過しました。締め切りを守らない、いつも迷惑かけているスタッフでゴメンなさい。
●今月は、聖書の物語を1つ朗読してから、その中に登場するザアカイという徴税人とイエスとの出会いから学びを得たいと思っています。それでは、徴税人ザアカイの物語を朗読します。
◆徴税人ザアカイ
19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
●まず、ザアカイの姿を具体的にするために、いくつかの点を押さえておきましょう。ザアカイは「徴税人の頭で、金持ちであった」(19・2)と記録されています。当時ユダヤを支配していたのはローマで、ローマは支配している地域から税金を集めていました。取り立てはそこにいる土地の人に任せて、指示した額に、自分たちの取り分を上乗せすることも認めていました。中には非常にあくどい取り立てをして、自分の懐を肥やしていた人もいたのです。彼らは、支配者にしっぽを振る犬、またあくどい取り立てをしている罪人として全体的に嫌われていました。
●ザアカイは背が低かったようです。群衆に遮られて、イエスの姿が見えなかったとあります。多少の背の低さであれば、背伸びすれば見ることもできたでしょう。見ることができなかったというのですから、相当に背が低かったのだと推理できます。金持ちだったので威勢は良かったかも知れませんが、周りの人から見下ろされる生活で気分は良くなかったでしょう。だからなおさら、お金儲けに走ったのかも知れません。
●そのザアカイに、イエスは声をかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(19・5)。イエスという人がどんな人か見てみたいと思っていましたが、まさか声をかけられるとは思ってなかったでしょう。木の上に登ったので、イエスの目に付いたかも知れませんが、「ぜひあなたの家に泊まりたい」と、そこまで親しく声をかけてもらえるとは思ってなかったはずです。ザアカイの心の中で、特別な変化が起こったとしても不思議ではありません。
●「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(19・6)飛び上がるほど嬉しかったことは、急いで降りて来た様子からよく伝わります。ところがザアカイとイエスに周囲の人々の反応は冷ややかです。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(19・7)。それもそうでしょう。今まで先生と呼ばれるような立場の人が、当時罪人扱いされていた人々の輪の中に入るということは考えられなかったからです。日本の諺にもありますように、「朱に交われば赤くなる」わけで、罪人の仲間入りをすればその人も罪にまみれるというのが一般的な考えでした。
●イエスはこの時何を考えていたのでしょうか。ザアカイが周囲の人々の反応に惑わされずに表明した決意から、イエスの思いが伝わってきます。ザアカイの決意表明は、イエスがあらゆる人に深い愛を理解していたことが読み取れます。ザアカイは言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19・8)。
●ザアカイのこの言葉は何を意味しているのでしょうか。私は長いこと、ザアカイのこの言葉が、彼の勇敢さ、力強さを表しているのだと考えていました。つまり、ザアカイが偉大な人物なので、あのような財産の放棄と貧しい人々への寛大な奉仕ができるのだと考えていたのです。
●ところが最近、これまでの考えでは十分に説明できていないのではないかと思うようになりました。彼自身が勇敢で、偉大な人間であることを証明するには、ことさらイエスの前で決意を表明しなくてもよいはずなのです。実際に思ったことを実行するだけで、人々がザアカイを称賛し、これ以上ない人物として尊敬を受けることができたはずなのです。ところが、彼はイエスに、自分の決意を知ってもらいたかったのです。人々に自分の思いを実行しますが、それをイエスに話さなければならない理由があったのです。
●ザアカイが自分の決意をイエスに語った理由は、私たちがイエスの側に立って出来事を考えると分かってきます。彼は、イエスに声をかけられたことが嬉しくて、財産を放棄する決心をしたのです。イエスから、「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたことが、彼の決断を引き出したのです。
●もう少し言葉を付け加えましょう。ザアカイは、今までの暮らしの中で、自分をちやほやしてくれる人には出会ったかも知れません。けれども、「わたしとあなた」という関係になれる人とは、今まで出会ってなかったのではないでしょうか。「ザアカイ、急いで降りて来なさい」「わたしは、ぜひあなたの家に泊まりたい」。これらの言葉は、イエスがザアカイのことを「わたしとあなた」という関係で見ておられたことを表しています。ザアカイは、イエスが自分のことを1人の人間として、親しい友として見てくれたことが、ものすごく嬉しかったのではないでしょうか。
●イエスは、全人類の救いのためにこの世においでになったと言われています。けれども、1人1人の人間にとっては、「全人類」という呼び方は少し距離があると感じるのではないでしょうか。「あなたを、救いに来ました」「あなたのそばに来ました」こういった呼びかけのほうが、何倍も親しみを感じるのではないでしょうか。イエスが自分のことを「わたしとあなた」という関係で見てくれた。ザアカイにとってはもうそれで十分だったのです。イエスから自分は、「わたしとあなた」という関係に招いてもらった。だからもう財産なんてどうでもよくなった。それが、ザアカイのあの決意表明になったのではないでしょうか。
●私たちも、じつはどこかで「わたしとあなた」という関係を求めているのだと思います。人間を救ってくれる方がある時ある場所に現れた。そんな漠然とした招きではなくて、私はあなたを救いに来ました。私はあなたのことをいつも心に留めています。私はいつも、あなたのそばにいます。そんな、「わたしとあなた」という関係を、きっと求めているのではないでしょうか。そして、そんな期待に応えてくれる宗教や、信仰を心の底で望んでいるのだと思います。
●私が望みをかけている方は、どんなかたでしょうか。人間をひとまとめに取り扱う方でしょうか。それとも、1人1人をかけがえのない「あなた」として、関わってくださる方でしょうか。この違いは決して小さくはないと思います。私が信頼を寄せる方が、「わたしとあなた」という関係に完全に応えることのできる方であることを、中田神父も願いたいと思います。

2008年10月

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●こんにちは。中田神父です。10月22日、伊王島で興味深い行事に招待されましたので、その時のことを今月の話としたいと思います。伊王島は昭和48年(1973年)まで石炭の採掘をしていました。昭和48年に閉山しましたが、それから今年が35年目に当たります。35年を一つの区切りとして、これまで炭坑に従事して事故で亡くなった方々や、その後に亡くなられた方々のために慰霊祭を行い、当時炭坑に関わった方々で語り合おうという集まりでした。
●この慰霊祭に、仏教側とカトリック側から追悼の祈りを20分ほどそれぞれ行ってもらい、それから親睦会をしたいということで、実行委員の方々が馬込教会に中田神父を訪ねてきました。今回の行事の趣旨の説明を受け、カトリックの神父さまから追悼の祈りを捧げてもらいたいが、実行委員会はどんな準備をすればよいでしょうかという相談でした。
●私は、社会福祉協議会が管理しているカトリック式の祭壇を用意してもらうことだけお願いして、儀式に関してはこちらから提示する追悼の祈りの式文に沿って進めますと答えました。当日はカトリック側から中田神父が先に追悼の祈りを捧げ、続いて島にある禅宗のお寺の住職が祈りを捧げて、両方共に焼香と献花をしました。炭坑の閉山後に行われた記念行事ということもあり、テレビ局や新聞社が取材しに来ていました。ついでの話ですが、この日の夜、私はテレビにアップで映ったのだそうです。
●さて、この慰霊祭で、私は祈りの部分と、慰霊祭の意義についていっしょに考えるお話しの部分を組み合わせて追悼の儀式を行いました。慰霊祭の意義について考える話の要点は2つです。1つは、「信仰を持って捧げる祈りは、すばらしい価値がある」ということ。もう1つは、「だれがだれをお慰めするのでしょうか」という問いかけです。
●まず、「信仰を持って捧げる祈りは、すばらしい価値がある」ということについてですが、私たちは祈りというと、何か特別の機会にすることのように考えがちですが、祈りはもっと身近な場所でたくさん行われていると思います。たとえば、「あの人しばらく会ってないけど、どうしてるかなぁ」と思うことは、広い意味で言えば、その人のために祈っていることだと思うのです。また、「あーあの人は病気したって聞いたけど、治ったんだろうか」と考えることは、病気したその人のために祈っていることだと思います。
●ですから、私たちはふだんの生活の何気ない場面で、繰り返し繰り返し祈っているわけです。だれかのことを思う気持ちは、国を離れていても、時代を隔てていても確実に人と人とを結びます。そうであれば、あらためて信仰心を持って人のために祈るならば、ましてやその祈りは確実に祈った人の元に届くのではないか。そのように祈りの価値を皆さんに示してみました。
●次に、「だれがだれをお慰めするのでしょうか」という問いですが、私たちが追悼しようとしている人々は、鉱山労働に誇りを持って生きた人、炭坑を通して人生のある時間を積み上げてきた人々です。なかには爆発事故の犠牲者もおられるでしょうし、仕事を全うして召されていった人もいるでしょう。いろんな形で炭坑の事業に関わった関係者の方々を、私たちがこうして集まって祈ったことで、お慰めできるものなのだろうか。私はふとそう思ったわけです。
●もしかしたら、私たちは炭坑に関わったすべての人を祈って慰めることはできないのではないか。むしろ、本当の慰めを与えてくださる方はほかにいて、私たちはその方に祈りを届け、そのまことの慰め主を通して関係者の方をお慰めしているのではないでしょうか。まことの慰め主である方は、思いがけず事故に遭われた方にも、炭鉱労働者として人生を全うした方にも、どのような方にも報いと慰めを用意して、今もこれからも関係者の人々を幸せで満たしてくださっていると考えています。このような流れで、2つの点について語りかけました。
●私の印象としては、参加されたどの方々も、私の話にしっかり耳を傾けてくださり、私の話は受け入れてもらえたのではないかと思っています。宗教の異なる方々も大勢いましたが、この日、35年ぶりに集まったすべての炭坑関係者の心に、今日の慰霊祭の意義がいくらかでも明確になったのではないかなぁと思っています。禅宗のお寺「円通寺」の住職の祈りと合わせ、集いの第1部である慰霊祭は、一定の役割を果たすことができたのではないかという感触を持っています。
●ここからの話はついでの話です。この日10月22日に、たくさんの出来事が重なりました。朝、9時に高齢の男性とそのご親戚と思われる修道女が司祭館を訪ねてきました。名前を聞いてビックリ。その方は長崎で10年ほど親しく付き合いのあった神父さまのお父さまだったのです。
●そのお父さまは「教会でお祈りしたい」ということで、私も一緒にしばらくお祈りし、交流のあった息子さんに当たる神父さまのことを楽しく話してお別れしました。その2人を見送った後に電子メールをチェックしていると、話題の主の神父さまからメールが入っていたのです。
●「父は馬込教会にやってきましたか?10月22日、ミサに参加してからあいさつしたいと言っておりましたが」というメールでした。何ということでしょう。この日10月22日は、たまたま早朝のミサを教会の聖堂ではなく、修道院のチャペルで捧げたのです。この日は教会の聖堂でミサはしませんよと何日も前からお知らせしていた、その日に限って親しくしている神父さまのお父さんとおばさんのシスターが訪ねてきていたのです。
●2人は朝9時にやって来た時、朝のミサのことをひとことも口にしませんでした。もしかしたら、早朝、ミサの時間に一度教会の聖堂にやって来ていたかも知れません。そんなこととは知らず、喜んでお祈りだけして帰ったのだと思っていました。お父さまとおばさまのシスターが来ると前日にでも分かっていれば、急きょ修道院のミサの日程を変更して、教会の聖堂でミサをしていたのにと思い、残念でなりませんでした。
●この日はたくさんのことが重なりました。11時、郵便物があれば配達されてくる時間帯ですが、郵便受けを見てみると手紙が、それも見てすぐ女性からと分かる手紙が混じっていました。封を切ると、長野県で保育士をしている方で、以前伊王島の馬込教会を訪ね、その際私の説教集に興味を持ち、できれば送って欲しいという内容の手紙でした。
●またその女性は、今は近くの教会に出かけ、キリスト教の教えを学んでいるのだそうです。近いうちに洗礼を受けるのかも知れません。説教集はすぐに送ってあげようと思いまして、準備をしました。教会での勉強会と合わせ、説教集がお役に立てばいいなと思っています。
●午後に入ってすぐは、炭坑閉山35周年の慰霊祭でしたが、帰ってきて夕食を済ませて一息つこうかという頃に、今度は北九州から電話が掛かりました。とあるカトリック教会の広報委員をしていて、教会新聞に関わる内容の電話でした。
●「わたしは教会の広報委員をしています。実は中田神父さまが教会学校の保護者向けに書いている『こじか』の記事に目が留まりまして、私たちの教会の信者にもぜひ読んでもらいたい内容だと思いました。そこで大変申し上げにくいのですが、この『こじか』の記事を、教会新聞に掲載したいので許可をいただきたいのです。もちろん、『こじか』のいついつの号であるということはちゃんと付け加えます」。
●あー、こんなところでも、私が教会の保護者の方々に呼びかけたメッセージが届いているんだなぁと思いまして、とても嬉しくなりました。その場で申し出を受けまして、電話を置きました。1日の出来事としては、本当に盛りだくさんの、まるで1週間を1日で体験したような日でした。こんなにたくさんの人と、私は関わって今を生きているんだなと思うと、出会いの不思議さ、神さまの計画の奥深さに驚かされるのです。

2008年11月

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●こんにちは。中田神父です。11月24日、長崎市のビッグNスタジアムという名前の県営野球場を会場にして、カトリック関係の大きな式典が行われます。「列福式」というものです。実際には皆さまのもとにこの録音が届く頃には式典は終了している頃かも知れません。簡単に言うと、1600年頃の日本でのキリスト教迫害の時代に、キリシタンとして生き、キリシタンとして死んでいった殉教者たちをローマ・カトリック教会が偉大な信仰の持ち主、「福者」と宣言する式典です。「福者」という字は、幸福の「福」に、人を表す「者」と書き表します。
●今回カトリック教会が福者と宣言するのは、188人の日本人です。教会での呼び名は、「ペトロ岐部と187殉教者」という称号が与えられます。その中には、4人の司祭がいますが、残りの184人は一般信徒となっています。しかも、幼い子どもや女性もたくさん含まれています。この方々が、「当時の迫害の時代に勇敢に信仰を表した」ということで今は天国にあって幸いを受けている人々、「福者」と宣言されることになりました。
●この列福式が日本の教会の中でどのような意義を持つのか、私が気付いたことを少しお話ししたいと思います。まず、選ばれた188人のほとんどが一般信徒であるという点です。どんな場合でも、信仰を持って生活している人のほとんどは一般信徒です。99%が一般信徒だと言ってもよいでしょう。その一般信徒が選ばれて称賛に値する人とされたということは、すべての一般信徒にとって喜ばしいこと、そして生き方を教えてくれる模範となります。
●今回の式典で福者と宣言される人々は皆殉教者です。殉教者はもちろんある時点で命をささげた人々ですが、なぜそのような人々が「生き方を教えてくれる模範」となることができるのでしょうか。今回の人々の中には、幼い命もたくさん含まれていますが、それでも、この人々は生き方を教えてくれるのでしょうか。
●今回列福される188人は、私は生き方を教えてくれる人々だと思います。ある人々は幼くしてこの世の生を終えました。考え方によっては、手段を問わず、この世で生きることを選んだほうがよかったかも知れません。けれども、幼い子供たちであっても、毎日を精一杯生きて、譲れないもののためには一歩も引かなかった、そういう生き方をしたのでした。今を生きる私たちにとって、譲れないもののために一歩も引かない生き方がすばらしいと感じるなら、今回紹介している188殉教者の生き方はきっとお手本になると思います。
●次に、彼らが例外なく、受けた信仰の教えに誇りを持ち、胸を張って生きたということ。これが今の私たちにとって意義ある点だと思います。今回の188人は、みずからが受けた信仰の教えを証しするために、いっさいの暴力を用いませんでした。胸を張って生きること、それだけが彼らの持っている武器でした。
●現代では、暴力に訴えて自分の信念を主張し、みずからが用いた暴力で命を落とし、殉教者になろうとしている人々もいますが、カトリック教会が考えている殉教者は自爆テロを起こして命を落とす人々ではありません。いっさいの暴力を用いず、譲れない信仰のためにいのちを無理矢理奪われた人々です。暴力をいっさい用いなかったのですから、みずから命を絶った人々ではないのです。
●武器に訴えて自分の信念を押しつけたり、脅しで自分の主張を通したりする世の中で、暴力をいっさい用いないで生きた188人は、私たちの生き方の模範になります。私は暴力なんか使ったことありませんと思うかも知れません。確かに、危険な武器、人を殺めるような武器を手に持ったことはないかも知れませんが、心の中では、いのちを危険にさらすような言葉を言ったり、思いを持ったことがあるかも知れないのです。
●「どうしてあんな人が生きているのだろうか。あんな人はいなくなればいいのに」「いっそのことこの世から消えてしまえばいいのに」もしも、このような言葉を口にしたり、心の中で思ったとすれば、そのことで私は「目には見えない武器」を持ったことになるのではないでしょうか。もしそういう経験があるとしたら、いっさいの暴力につながる武器を用いずに生きた「ペトロ岐部と187殉教者」は、私たちのお手本になってくれると思います。
●3つめの生き方の手本として、与えられた職務を忠実にまっとうしたという点を挙げたいと思います。188人が殉教した場所は全国に散らばっていますが、その中で雲仙で殉教した峰助太夫ら10人は、その土地で組頭や庄屋という身分でした。彼らは死を命ぜられた上に、領主から財産報告書の提出を求められていました。拷問によって手の指は2本しか残っていませんでしたが、この世での最後の務めを果たし終えてから殉教していきました。
●宗教上の英雄的な行為を果たす人は、この世に対しても忠実に務めを果たすことのできる人のようです。この社会に批判を加え、社会に背を向けて反社会的な行動を起こして世間をあっと言わせる人もいますが、今回列福される人々は社会人としても尊敬できる人々でした。
●また、信仰のゆえにいのちをささげたと聞くと、そのいさぎよさから氷のように冷たい心を持っていたのではないかと思われるかも知れませんが、親子で殉教した橋本太兵衛とその家族の記録は、血も涙もないのではないかとの疑いを完全に晴らしてくれます。京都ではこの親子を含め52人もの人が火あぶりになって殉教しました。
●橋本太兵衛の妻テクラ橋本は、そばで張り付けにされ、炎の中にいる娘が不安の中で「母上、もう何も見えません」と叫んだ時、娘に「大丈夫、間もなく何もかもはっきりと見えて、皆会えるから」と励ましたのです。さらに自分が息絶えた後も、もう一人の娘を抱きしめたままであったと言われています。愛の深さは、その場にいて殉教を見届けた誰よりもすぐれていたかも知れません。私たちが生きていく中で、誰よりも深く人を愛したいなら、テクラ橋本はまさに模範です。

2008年12月

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●こんにちは。中田神父です。年の初めは、「ああ勘違い」みたいな話で入りたいと思います。まず私の勘違いです。2つ紹介します。1つは、ペギー葉山さんが歌っていた「学生時代」という歌ですが、この歌を私は歌詞を間違って覚え、間違ったまま長いこと歌っていました。「つたのからまるチャペルで 祈りを捧げた日」という歌い出しですが、私はこれを、「つたのから マルチャペルで 祈りを捧げた日」と歌っていました。
●間違っていることに気付いたのは偶然の一致からでした。長崎市の中心部に近い場所にある駐車場の1つに、「賑橋パーキング」という駐車場があります。ある日私は、そこを待ち合わせ場所に指定されて車で行くことになりました。長崎市出身でない私は土地勘がなく、「よく分からない」と相手に言うと、相手はこう言ったのです。
●「ほら、あの『つたのからまっとる』駐車場たい。分かるやろ」。確かにその説明で場所は分かったのですが、私はその瞬間、別のことにはっきりと気付いたのです。「つたのから マルチャペルで 祈りを捧げた日」というのは間違いで、「つたのからまるチャペルで 祈りを捧げた日」だったのだと。私は恥ずかしくて、顔が茹で蛸のように真っ赤になるのを感じました。それでも救いだったのは、間違ったままカラオケで歌ったり、人に教えたりしなかったことです。
●もう1つ。これは1度別の場面で話したことがあるかも知れません。私が成人式の時に起こったことです。私は出身が長崎県の五島列島で、成人式に参加する頃には福岡で大学生生活を送っていました。日程の関係で私は成人式を2度受けました。故郷の五島でと、学生生活を送っていた福岡とでです。
●福岡では、ものすごい数の新成人の人たちが成人式会場である福岡サンパレスというところに集まっていました。私は午前中にちゃんこ鍋をもう入らないというほど食べ、生ビールを浴びるほど飲んで成人式会場にフラフラになって集合していました。居眠りしながら式典に参加していたのですが、森田公一とキャンディーズが来ていたことだけは記憶しています。
●式典が進み、司会者の人が「それでは新成人の男女に誓いの言葉を述べていただきます」と案内した時に事件は起こりました。「成人の誓い。男子はなかだこうじさんに、女子は○○○○さんにお願いいたします」とマイクで呼び出したのです。これにまず驚いたのは同じ学校の同級生でした。「おい!お前が呼ばれたぞ。準備してるのか?早く行けよ、ほら」と急かされ、訳も分からずあいさつの言葉を考えていたら、知らない男性が壇上に上がって、新成人の誓いを述べているではありませんか。
●私も酔っぱらってフラフラだったにもかかわらず、何とかあいさつの言葉を考えたところでした。偶然というものはあるものですね。その時に私が感じたのは、神さまは、せっぱ詰まった状況になると、必ず、遅れずに助けてくださるんだなぁということでした。人間の力で乗り越えられそうにない場面こそ、神がおおいに働いて、必要とあればその場面を乗り越えさせてくださるという確信を、その時に持ったのです。
●別の方の「勘違い」も1つ紹介します。本で出版されている、あるシスターのクリスマスにまつわる話です。本で出版までされていますので、差し障りはないかなぁと思っていますが、いちおうこの録音が終わった後に、原稿をシスターに送っておこうと思います。本のタイトルは、「修道院からの贈り物 クリスマスを楽しく」(女子パウロ会編[集])です。
●そのシスターは、幼い頃のクリスマスの思い出として、教会を盛大に飾ったことと、馬小屋を立派に飾ったことを詳しく話してくれています。それから、当時のしきたりに従って、真夜中のクリスマスミサに参加して聖歌を歌ったそうです。そこで1つの微笑ましい出来事が起こりました。
●彼女は、この日に備えて聞き覚えで聖歌を練習していました。彼女は、とある聖歌を、「雨ニモツ 地ニモツ 小鳥の声ミチテ」と覚えて、その通りにミサの中で歌ったのだそうです。ところが、彼女が修道院に入り、幼い頃歌った聖歌の正しい歌詞を教えてもらったところ、覚えたものとはずいぶん違ったものだったのでした。正しくは、「天にも、地(つち)にも、ことほぎの歌満ちて」だったそうです。私は、これはおもしろい話だなぁ、と思いまして、ぜひどこかで紹介したいと思ったのです。
●彼女は、間違った聖歌を心を込めて歌いました。間違ってはいましたが、まっすぐな心で歌ったので、神さまがお喜びになり、彼女を修道生活に招き、シスターにしてくださったのではないかと思います。勘違いであっても、神さまはそれを立派に活用してくださり、だれもが思い付かなかったようなすばらしいものに造りかえてくださる。これは、神さまにしかできない業、「神業」だと思います。私たちの世界は数多くの勘違いをしながらも、神さまの「神業」によって、うまく回っているのかも知れませんね。
●今年も、よろしくお付き合いお願いいたします。

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