主日の福音1993,01,03
主の公現(A・B・C年共通 MT 2:01-12)
私たちは今日、主の公現の主日をお祝いしています。「公現」とは、人々の前に姿を現すこと、姿を現して、何かを明らかにするという意味があります。ですから、ご公現のお祝い日は、神のご計画とその愛が、幼子イエス様によって明かされたことを記念し、神に感謝を捧げる日と言っても良いと思います。
さて、福音の中で、具体的に何が人々に知られるようになったのでしょうか。それは、人間を救おうとして働く、目には見えない、神の計画であります。その答えを導く鍵は、学者たちを案内した星にあるようです。占星術の学者たちに倣って、私たちも心の中でその星を思い描いてみましょう。
夜空に輝く星、この星を見、あるいはこの星のことを学者から聞かされた人々に、神様の計画が示されていきます。これに、マタイが常に意識している「神の民イスラエル」という想いを織りまぜて言えば、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、本来のご自分の民と共に留まり、その上さらに、異邦人に対しても王としてすべてを治め導く」という計画です。
人間だれしも、あるしるしが示されると、それに対して一定の反応を示すものです。今日の福音によれば、星によって象徴的に示されている幼子イエス様に対して、対照的な、と言いましょうか、二つの態度が示されています。一つは、東方から来たとされる占星術の学者たちの態度。彼らは明らかに異邦人でしたが、星によって示された幼子を拝みに行きます。彼ら自身証言しているように、幼子は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」なのです。
幼子に対して示されたもう一方の態度があります。それはヘロデを代表とするユダヤ人の態度、すなわち、旧約時代神によって真っ先にご自分の民として選ばれた人々の態度です。彼らは、自分たちの王として生まれた幼子のことを、いわば「よそ者」の口を通して知り、不安になり、おびえるのです。
この出来事から私たちが学び得る事柄として、一つは、神様が私たちをおん子を中心にして一つに集めようと招いておられるという、神の働きかけです。イエス様を象徴的に示す星が、異邦人をもベツレヘムに招き寄せ、「ユダヤ人」と「その他の人々」、すなわちすべての人の前に救い主が紹介されたのです。『すべての人に救い主が示された』。これはよく注意して聞かなければなりません。「すべての人」の中に、私たちも含まれているのです。
私たちは、福音に登場する星を見ることができませんが、少なくとも、ヘロデと同様に、星について細かく聞くことができます。そこで私たちも、星が知らせるメッセージに対して、態度を決めなければなりません。すなわち、星を見て不安になり、おびえるのか、星を見て喜びに溢れるかです。不安になる人は、やはりヘロデのようにイエス様を排除しようとするでしょう。喜ぶ人であれば、占星術の学者のように、真心をもってイエス様を礼拝するでしょう。取るべき態度は明らかですが、いずれを取るかは、各自に任されているのです。
もう一つ教えを汲み取るとすれば、神様の計画の奥深さとでも言いましょうか、その不思議な力を挙げることができます。神様の計画は奥深い。不思議な面があって、また力強い。具体的に、どういうことでしょうか。
神様を前にして、人間の取るべき態度は、前述した礼拝と、賛美、感謝を加えて三つをおもに考えることができます。今日の福音でだれがそれを行うべきかは明らかです。まずは神様に選ばれ、神様に目をかけてもらっているユダヤ人です。(ユダヤ人から見た)異邦人には、その義務も、必要性も、基本的にはありません。
ところですぐお分かりのように、登場するユダヤ人に、礼拝しようという気は微塵もありません。そのかわりに、救いから遠ざけられているとされていた異邦人が、遠くから礼拝に来たのです。ヘロデは、みずからが取るべき態度、すなわちイエス様を礼拝するという務めを、知りながら、拒み、それだけでなく、礼拝すべき相手を消し去ろうとしたのです。
本来受ける礼拝を、本来捧げるべき人々からではなく、別の人からお受けになる。これは不思議なことと言えます。けれども、実際にはこのような形で、礼拝は実現したのでした。おん子を信じ、礼拝するようにとの神様の望み、神の計画は、本来招かれている人々からは抵抗を受けましたが、別の形で成し遂げられていきます。これが先に述べた、神の計画の不思議さと同時に、力強さなのです。
神様の計画は力強い。そして人間のさまざまな抵抗に遭っても、確実に成し遂げられていく。ただぼんやり考えると、「あーそうか」ぐらいにしか思わないかも知れませんが、神様の計画はそのように、ちっぽけな人間の抵抗にしばしば遭い、苦心惨憺の内に実現していくのです。
よく考えてみましょう。神様の計画に抵抗を試みるのは、いったい誰なのでしょうか。現代の異邦人かも知れない、非キリスト者でしょうか。宗教を否定する、無神論者でしょうか。むしろ、教会の集まりでは何も口にしないことで抵抗し、外に出てはちょっとのことで悪口を精一杯口にする私たち一人ひとりが、神様の計画のお荷物になっているのではないでしょうか。本来礼拝を果たすべき信者が、ミサをさぼり、教会から離れて反旗をひるがえし、そこここで神様の計画遂行のための落とし穴に、まんまと落ちているのではないでしょうか。そのような非協力的なわたしでいいのでしょうか。
神様の計画は、抵抗されても必ず実現します。ですが私たちは、わざわざその躓きの石にならなくてもよいと思います。私たちのうちに、そのような要素が一つ、あるいは二つないか、それとも数えきれないくらいあるのか、正直に反省して、心を改めましょう。聖レオ一世教皇様は、今日のご公現のお祝い日の説教の中で次のように言っています。
「親愛なるみなさん、あなたがたはみな、すべての人をキリストのもとに招くお恵みに協力して奉仕し、互いに助け合うように努めなければなりません。そうすれば、あなたがたは正しい信仰と行いによって到達できる神の国で、光の子らとして輝くようになるでしょう」。私たちは、福音を通して星を見ました。ここで態度を決めて、今度は一人ひとりが、神様を知らない多くの人を導く星になれるように、今日のミサの中で祈りましょう。