オリエンス宗教研究所発行「こじか」担当記事のバックナンバー

(聖書の引用は、「日本聖書協会『新共同訳』1988年版」を使用させていただきました)

年間第5主日(2006年2月5日)

イエスは弟子を集めてすぐ活動に入ります

 今年の福音朗読は「マルコ福音書」を意識しておく必要があります。この点は中田神父が担当した待降節第2週のお話で前もって触れました。さらに踏みこんで、「マルコ福音書を意識しておく」ということは、具体的に何を思い描けばよいのでしょうか。
 1つ紹介したいのは「イエスと一緒にいる弟子たち」を思い描くとうまくいくと思います。では、イエスが弟子たちをずっとそばに置くのはなぜでしょう? 2つの理由があると思います。1つは、イエスが弟子たちを教え導くためです。もう1つは、ずっとそばにいる弟子たちを通して、わたしたちにも「イエスのそばにいるように」と教えておられるのです。
 さて、マルコ福音書はどの福音書よりも早く「弟子たちをそばに置いて活動に入るイエス」を取り上げます。今週の朗読もまだ第1章の途中ですが、すでに2つめのいやしの活動について取り上げられています。マルコ福音書にとって、「弟子を育てるイエス」を描くことは最重要課題だったのです。
「そう言えば、マルコ福音書にはイエスの誕生もイエスの系図もないなあ」。そう思われた方もおられるでしょう。心配しないでください。マルコは、自分が書いた福音書の読者には、イエスの系図よりもイエスの活動をすぐに紹介するほうがよいと考えたからです。なぜかというと、マルコ福音書の読者はユダヤ人以外の「異邦人」だったからです。同じ民族だと系図は大切ですが、民族が違えば長い系図はちょっと退屈です(日本人のわたしたちも、そう思いませんか?)。
 イエスはシモンのしゅうとめの病気を取り去ってくださり、またいろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、多くの悪霊を追い出してくださいました。病気から解放してくださるということだけでしたら、弟子たちを大勢連れて出向くこともなかったでしょう。ですが、「弟子を育てる」という見方に立てばそれも説明がつきます。イエスはご自分が人間の悩み苦しみを直接取り除く方だということを、弟子たちを目の前にして教えようとしておられるのです。
 では、わたしについてはどうでしょう? イエスはわたしたちをも、教え導き、育てようと考えておられます。イエスの教育をしっかり受けるためにも、イエスのそばを離れない暮らしを心がけましょう。●マルコ1・29-39

年間第6主日(2006年2月12日)

だれにも、何も話さないように

「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」。イエスはなぜ、目の前でいやされた人に注意したのでしょうか。考えられるのは、「イエスがどなたであるかを理解せずに奇跡を触れ回ると、民衆がイエスを誤解するから」という理由でしょう。
ところでこの人は、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったのですから、イエスがなさった奇跡は神の御心をこの世に示す方法だったということは見当ついたはずです。そうすると、イエスはこの奇跡を体験した人に事情を言って、だから話してはいけないよと注意してあげればよかったと思いませんか? あるいは、「奇跡の意味を人々にわかるように伝えなさい」と勧めてあげてもよかったかもしれません。
ところが実際は「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と注意しました。そこまで慎重にならざるを得ない理由は何でしょうか。それは、「人間がイエスの奇跡の意味を理解するのはそれほど難しい」ということなのだと思います。もう少しことばを補えば、イエスの復活を待たなければ、奇跡が神の御心を示すしるしだということを理解することはできないということです。
「いや、自分だったら理解できる」と皆さんは考えるでしょうか? 一つの苦い体験を紹介して参考にしてもらえたらと思います。まだわたしが司祭になって間もないころ、教会のとある会合で年配の男性と会話をしているときに、こんなことを言ったことがありました。「結婚生活の意味なんて銀婚式を迎えるまでは本当のことはわかりませんよね」。するとその男性が「年端もいかないあなたに、25年の結婚生活のことがわかるのか?」とおっしゃったのです。わたしはことばを失いました。
その日の会合が終わって司祭館に戻ったときのことです。主任司祭がわたしにこう言いました。「あのなあ、60(歳)になるまで言うべきではない発言もあるということを学んでおけよ」。10年以上過ぎた今ならわかります。時が満ちるまでは、理解できない出来事もあるのです。そう考えるとき、イエスが「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」とおっしゃったのは、いちばん適切だったということになります。 ●マルコ1・40-45

年間第7主日(2006年2月19日)

どちらも易しくはないと思いますが、あえて言えば

 病気って、難しいです。ほとんど病気と縁のないわたしは、病気に苦しみ、つらい思いをしている方々のことを本当に理解しているとは言えないと思います。病院に行って何人かの人を見舞い、聖体を授けてきますが、その人の深い悩みまでは感じてあげることはできません。もちろん、聖体のイエスが病人を満たしてはくださるのですが。
中風について、少し調べてみました。「脳出血・脳梗塞により、運動機能障害ことにけいれんや言語機能障害をきたした状態」とあります。当時の医学のレベルでは、手の施しようのない病気だったかもしれません。イエスはこの病人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言いました。
 今週の朗読箇所に関連して、たいへん苦い経験をしたことを告白しなければなりません。個人で聖書の勉強会においでになっていた方と、ちょうど今週の箇所に当たって、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」という箇所がうまく説明できず、「来週までに調べておきます」とその場をやり過ごしたことがありました。
 次の週、「宿題として積み残していた箇所はわかりましたか? 教えてください」と言われたときに、返事ができなかったのです。過ぎた1週間に勉強し直さなかったことが原因なのですが、ある時点で勉強が終わるなどということはないという痛みを伴った教訓となりました。
「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」。その通り、「あなたの罪は赦される」と言うよりも、「起きて、床を担いで歩け」と言うのが易しいのです。易しいと言っても人間にはできませんし、律法学者を困惑させる目的があるという解釈もあって単純に両方を比較しているとも言えないのですが、罪の赦しはいつの時代にも神おひとりにしかできないことなのです。
 今は、今週の箇所に出会うたび、「イエスこそ罪を赦すことのできる唯一の神です」と信仰を新たにしています。●マルコ2・1-12

年間第8主日(2006年2月26日)

受け入れるための信仰も神は準備してくださる

もし、ふだんは軽自動車に乗っている人が、8人乗りのワゴン車を借りたとしたら、初めから自在に運転できるでしょうか? きっと車に慣れるまで最初は戸惑うと思います。それは頭の中に、「大きめの車を運転するイメージ」ができあがっていないからです。
きょうのたとえ話で、新しいものを受け入れるのに古い考えではいけない、考え方もそれに合わせて新しいものを準備する必要があると促します。中田神父はこのことを、かつて自動車の大型免許を取得したときに経験しました。たまたま路上教習で、赴任している教会の周辺、「庭」と言ってもよいほど慣れた道路で左折しようと安易にハンドルを切ったときでした。教官が急ブレーキを踏み、生徒のわたしを怒鳴ったのです。「危ない! このまま左折したら、歩道に乗り上げて歩行者をなぎ倒してしまうじゃないか」。当時は「内輪差(道路を曲がるときの前輪と後輪の差)」などという専門的な知識はなくて、あとでよく考えると車体の長い車を操っているのに、ふだん乗り慣れている軽自動車と同じタイミングでハンドルを切ろうとしていたのですから、確かに大惨事となる可能性があったわけです。大型車の大回りする動きが、まったく把握できてなかったのです。
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」。新しいぶどう酒とは、イエス・キリストであり、またそれは今までとはまったく違う新しい存在です。人間には、受け入れる器も用意できない、まったく新しい存在でした。そこでイエスは、ご自身を「新しいぶどう酒」と示した上で、「新しい革袋」に当たる「受け入れるための信仰」も用意してくださるのです。
 ラインホールド・ニーバーという神学者の残した祈りがあります。この祈りは、新しいぶどう酒を受け入れる器についても主が用意してくださることを考えさせてくれます(皆さんよくご存じかも知れませんね)。

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、
変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

●マルコ2・18-22

受難の主日(2006年4月9日)

旧約聖書の裏づけを読み解きましょう

 受難の主日、次のような心構えで迎えてください。それは、「この日は、これから始まる聖なる過越の三日間の典礼を先取りする日曜日だ」ということです。きょうの典礼は主のエルサレム入城の記念から始まりますから、お亡くなりになるまでのすべてが込められている日曜日という意味になります。ですからきょう一日で、今週1週間を駆け足でたどっていることになるのです。
 ここには、教会の一つの配慮が感じられます。聖木曜日、聖金曜日の典礼は、日曜日に参加できる信徒が同じだけ参加してくれるかというと実際そうはいきません。中田神父は受難の主日に「聖木曜日、聖金曜日の典礼にはできるだけ参加してください」と呼びかけながら、心の中では「参加できない人はどうやっても参加できないのになぁ」と考えてしまうのです。
 教会はそこで、きょう受難の主日に、前もって聖なる過越の三日間の典礼の先取りを行い、三日間の典礼に十分参加できない人のために準備をさせようとしているのだと思います。そこで受難の朗読の中から、どうしても理解してほしい箇所を一つ取り上げておきたいと思います。それは、イエスの叫び「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という箇所です。
 この一節を味わうためには、当時の人々が安息日ごとに会堂に集まって聖書を学び、旧約聖書を学んでいたという背景を考える必要があります。イエスは旧約聖書に習熟していましたので、この最後の場面で詩編の22編を用いて叫びを上げたのです。詩編22編はちょうどこのことばから始まります。
 ところで、わたしたちは旧約聖書にそれほど習熟していません。詩編22編を最後まで読んだこともないかもしれません。この詩編の終わりごろにはこう書かれています。「それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます」
 つまりイエスは、大群衆の中で父なる神に賛美をささげ、ご自身を完全な献げ物としてお委ねになったのです。イエスの叫びは、絶望の叫びではあり得ないのです。●マルコ15・1-39

復活の主日(2006年4月16日)

復活の喜びは実感できるものなのです

 主のご復活、おめでとうございます。あまり感心できない話ですが、典礼をリードする司祭の側からすると、「あー、やっとご復活にこぎつけておめでとうございます」といった感じです。聖なる一週間はふだんの一週間の何倍も典礼に神経を使い、無事に終わるだけでもひと苦労(「けしからん」とお叱りを受けそう……)なのです。
 皆さんは(あるいは皆さんの教会は)、ご復活の喜びをどこで実感するのでしょうか? 中田神父は、詰まるところそれは、新しく洗礼のお恵みにあずかった人がいるときに復活祭の喜びを強く感じます。洗礼を受ける人がその教会に与えられたとき、神の民が全員でその方を喜び迎えます。神の家族にとって、新しく洗礼を受ける人はその教会の新生とか再生とか、なかなか自分たちでは呼び覚ますことのできない力を生み出してくれるからです。
 今年、中田神父が赴任している教会で洗礼を受ける方が一人おられます。高齢化・過疎化が現実問題となっている900人を切った小さな島でも、神さまは洗礼の恵みを教会に与えてくださいました。教会の洗礼簿に、また一つ出生届を書き込む喜びを与えてくださったわけです。
 さて、今週の福音朗読は「空(から)の墓」が強調されています。主が墓から取り去られたというマグダラのマリアのことばは、朗読全体を支配しているかのようです。けれども一つのことばが、この不安と失望の闇を切り裂きます。「見て、信じた」。もう一人の弟子(おそらくヨハネでしょう)は、いったい何を見て、信じるに至ったのでしょうか。
 この弟子は、空の墓からは見えないはずのものを見て取ったのです。実際の空の墓は、希望や喜びが一切感じられないのですが、主がこの墓に閉じこめられていないというそのことが、見えない真実に目を向けさせたのです。「主は、死に打ち勝って復活された」という真実です。
 小さな島の教会で、それでも確実に洗礼の恵みが与えられるとき、主は生きて、今も働いておられるという見えない真実に気づかされます。人間的には期待できない場面で、復活した主は神の偉大なみ業を示してくださるのです。●ヨハネ20・1-9

復活節第2主日(2006年4月23日)

ゆるぎない平和を見いだしましょう

 きょう復活節第2主日は、故ヨハネ・パウロ2世教皇によって「神のいつくしみの主日」と定められました。使徒トマスについての説教も話題が尽きてしまっていたところにこの日を制定してくださったことは、まさにいつくしみ深い神さまの働きであったと感謝しています。
 今週の福音朗読で、あらためて味わいたい箇所は、「あなたがたに平和があるように」という一節です。「平和って何ですか」と言われるとウウッと詰まってしまいますが、結局のところは、神がそばにいてくださるという実感が、真の平和なのではないでしょうか。たとえば戦渦の中にある子どもたちは、昼も夜も爆弾が炸裂する中で暮らしています。その中でも子どもたちは夜眠るのです。幸いにもそこに母親がいる子どもは、たとえ爆弾が破裂する中でも母親に寄り添っていれば眠ることができるのです。
 これが、「平和」を考えさせる原点ではないでしょうか。この世界は罪ある人間が織りなす社会です。争いも憎しみもない世界を期待しますが、どんな小さな集まりの中でも小さな争い、ちょっとした憎しみが絶えません。「それでも平和は得られるか?」と問われたら、わたしたちはきっぱりと「神がともにいてくだされば、平和がそこにとどまる」と言うことができます。
 トマスがそこにいなかったとき、イエスは「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、弟子たちに息を吹きかけました。イエスがそこにいてくださるから、主を置き去りにして逃げ去った弟子たちの集まりにも平和がもたらされたのです。さらにトマスが一緒にいたとき、あらためて主はそこにおいでくださり、「あなたがたに平和があるように」と仰せになりました。
 主と出会った弟子たちを前にして、自分は置き去りにされたと感じたかもしれません。主はわたしを見放されたと感じたかもしれません。それほどの悲しみに突き落とされた人にも、主は何度でもおいでになり、「平和があるように」と呼びかけてくださるのです。振り返ってわたしたちは、「主がともにいてくださる」という平和を保ち続けているでしょうか。●ヨハネ20・19−31

復活節第3主日(2006年4月30日)

主は今もここにいて、働かれる

 中田神父は長崎県五島列島の生まれです。小さいころからおとなの人たちが家に遊びに来たときなど「なんもなかばってん(何もありませんが)食べていかんね(食べていってください)」という会話を聞いて育ちました。幼いわたしは「どうして何もないのに、お魚があるのだろうか、刺身が出るのだろうか」と不思議に思っていました。
 あの挨拶は、「特に珍しいものは何もありませんが」ということだったのだろうと今は思っています。現在赴任している教会でも、何もなくても今朝捕れたばかりの魚はあります。たまには、「これしかない」と言いながら伊勢エビやサザエ、アワビをいただくことがあります。毎日目にしているものなので主任司祭に分けてあげるには気が引けるということのようです。
 復活したイエスが弟子たちに現れ、「ここに何か食べ物があるか」とおっしゃいます。「焼いた魚一切れ」は確かにごちそうではなかったでしょう。けれどもこの魚の一切れは、「何もない中でのすべて」だったのかもしれません。そしてこの魚を弟子たちが差し出し、イエスがそれを食べたことで、弟子たちと復活したイエスとの間に、何のわだかまりもなくなったのでしょう。
 ルカ福音記者はイエスと弟子たちのやりとりを具体的に描きます。細かな部分にもこだわるのは、わたしたちが日常生活の中で体験する小さな出来事のなかに、イエスとの出会いがあり、復活した主がともにいてくださることを経験できるのだと教えたいのかもしれません。
 復活した主との出会いは、当時の弟子たちが「手や足を見なさい……触ってよく見なさい」とイエスに言われたときのように直接的で具体的です。2000年たった現在でも、それは変わりません。医学的には命を長らえるはずのない病人が、病者の塗油の秘跡を受けて何か月も、ある場合は何年も命を長らえます。10年間成人の洗礼式がなかった教会でその後、成人の洗礼志願者が現れます。
 イエスはこれらの出来事を通して、「触ってよく見なさい。わたしが今も働いているのがわかるはずだ」とおっしゃっているかのようです。●ルカ24・35-48

復活節第5主日(2006年5月14日)

つながっているってステキなことです

 15年ほど前になるでしょうか。助祭と言って、司祭になる一つ前の叙階の秘跡を受けて、福岡の大神学院最終学年を過ごしていた年のことです。年に一度の「召命の集い」(子どもたちに司祭や修道者への道について考えてみようとの呼びかけをする集い)が開かれ、九州からたくさんの子どもたちが大神学院に招待されました。
 野外ミサが企画され、その年の説教を当時助祭だったわたしが担当しました。季節は別でしたが、ちょうど今週の朗読箇所が選ばれていました。その説教の中で、「かくれんぼ」を例に、福音を思い切って説明しようとしました。
「かくれんぼ」は、みんなが思い思いに隠れて、鬼がそれを探しに行きます。「もーいいかい」「まーだだよ」。探し始めて、鬼が近づいてきたり離れたりする緊張感やスリルを通して、全員がつながっている気持ちになります。ほかの友だちがうっかり同じ場所にやってくると、さらに緊張が増してくるわけです。それはまさに、つながっていることで実を結ぶぶどうの木とその枝に見られる生き生きとした躍動感ではないでしょうか。
 人と人とがつながって生きていると、豊かな体験を積むことができます。木と枝がつながっている場合、枝を揺らせば、幹にもその揺れが伝わります。たとえばバスの中で年配の方が席を見つけることができずに困っている。その年配の方とわたしがつながっているなら、その方の揺れる心は、伝わってわたしの心をちょっぴり揺らすのではないでしょうか。
 復活の出来事は、突き詰めれば「今ここに、わたしはともにいるよ」という喜び・希望がはっきり伝わるという体験だと思います。だれかが昨日泣いていた。だれかの家庭に昨日悲しいことが起こった。それでも、その人は次の日に涙をふいて歩き始め、別の家庭は悲しみを乗り越えて絆(きずな)をさらに深めていく。
 そこには確かに復活したキリストがいて、ぶどうの木と枝のようにつながってくださり、わたしたちの心の揺れを確かに感じ取ってくださるのです。イエスは今この時にも、照らしや解決の糸口を示して、一人ひとりを豊かな実りに結びつけておられます。●ヨハネ15・1-8

復活節第6主日(2006年5月21日)

「友のために命を捨てる」。そんなチャンスってありますか?

 中田神父には教会を転勤しても、相談の電話をかけてきたり助けを求めてきたりする方々がいます。ときには頭の痛いこともあります。しばしば、連絡が入るときは悩み事相談です。それも複雑な問題です。
 本来は当地の主任司祭がいるわけですから、あまり自分が出るべきではないのですが、可能な限り時間を割きます。放っておけないのです。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」(ルカ11・5-6)。自分の気持ちとは別に、いつの間にか力を貸しています。
 イエスがわたしにこう言っているようです。「それは、その人があなたにとって友だからですよ。あなたの気持ちとは別に、放っておけなくなって自分の命を捨てて関わっている。あなたにとってその人が友だから、そこまでできるのですよ」と、おっしゃっているかのようです。
 冷静に考えるとき、「どうしてここまでしなければならないの?」と思うことがあるかもしれません。イエスによれば、「友」とは「わたしが好む人」という意味だけではないのかもしれません。好む人でもないのに、まるで友であるかのようにある人のために骨折っているのはなぜでしょう?
 きっとそれは、イエスがその人をわたしの「友」として選んでくださったからなのでしょうか。こちらは友だなんて思っていないのです。けれどもイエスは「この人の友となれるのはあなたしかいないから、ぜひ友となってあげてね」と、なかば強引に結びつけておられるようです。
「わたしは、これこれの人をあなたの友とします。この人のためにぜひ骨折ってください。できれば命も費やしてください」。気に入った人だけが友であるなら、「友のために命を捨てる(ささげる)」というケースはめったにやってこないでしょう。
 現実は、思いもかけない人を「さあ、この人があなたの友です」とイエスから示され、その人のために多くの骨折りを求められます。わたしたちはイエスのこうした求めを受け入れるとき、本当の意味で「互いに愛し合いなさい」という掟を守ることになるのではないでしょうか。●ヨハネ15・9-17

復活節第6主日(2006年5月21日)

内に招かれる

 はじめまして。このコーナーの連載を1か月交替で担当することになりました。現在赴任している小教区は長崎市の伊王島にある「カトリック馬込小教区」です。伊王島の島内に2つの教会、離れた高島に1つの教会、合計3つの教会を抱えた小教区に勤めております。
 さて、5月は聖母月です。マリアさまがいちばん楽しみにしている「聖母マリアへの祈り」をたくさんささげることのできる「ロザリオの祈り」はすぐれた祈りです。家庭で、教会学校で、教会全体で唱えることをお勧めします。また、5月5日は「こどもの日」です。わたしは赴任した教会で口酸っぱく言うのですが、「こどもの日」には、子どものためにいちばん良いことをしてあげるべきだと思います。
 中田神父が考えるいちばん良いこととは、子どものために教会で祝福を受けること、早朝ミサにあずかって、子どもとともに聖体をいただくことです。「こどもの日」のちょっと前にこのメッセージを伝えることができたことを神さまに感謝したいと思います。
 では今週の福音朗読から。イエスさまは父にお願いして、弁護者を遣わしてくださいます。この様子から、弟子たちは「イエス」を意識したでしょうか。「父」でしょうか。「弁護者」でしょうか。弟子たちが意識したのは「弁護者」ではないかなあと思いますが、イエスさまは「父」にお願いしましたから、今週はあえて「父」を意識して朗読を味わってみましょう。
 イエスご自身と御父とはどれほど親密なのでしょうか? それは「わたしが父の内におり」とおっしゃるほどです。ピンと来ないかもしれませんが、それは愛するカップルが離れられないほど親密である、それよりも親密なのです。どんなに愛する男女であっても、その人の中にいるとは言えません。寄り添っていても、中にいるわけではありません。
 それなのにイエスは父の内にいると言い切っています。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(20節)。そばにいるのではなく、「内にいる」のです。
 御父とのこれほどの親しさに、イエスさまはわたしたちを招いています。人と人は「くっついている」というのがいちばん近い距離でしょう。ですがイエスさまは、弟子たちを、そしてイエスさまを信じるわたしたちを、ご自分の内に招いてくださいます。御父との深い深い一致と同じ喜びに、復活したイエスは招くのです。●ヨハネ14・15-21

主の昇天(2006年5月28日)

天に上げられたからこそ、主は身近になられた

 イエスの死と復活が、日本にいるわたしたちにとっても重要な意味があるという例を一つ紹介したいと思います。中田神父がお世話になっている教会の司祭館には衛星放送用のアンテナが取りつけられています。今月の原稿を書いた2月はトリノ・オリンピック真っ最中で、日本人選手が金メダルを取る様子を見て、涙が出ました。
 さてこの衛星放送のアンテナですが、ある時期、仮の場所に設置されていました。そこは中田神父の考えでは、低い場所でしたので、見晴らしの良い場所に設置したほうがいいのではないかと工事の人に話したのです。担当の人は笑いながらこう言いました。「神父さん。人工衛星から見れば、屋根の上も屋根の下も距離は変わりませんよ」。なるほどその通りです。
 ここまで話すとピンと来る方もいらっしゃると思いますが、イエスがこの世で生活されている間、日本にいるわたしたちにはイエス・キリストの働きはまったく知ることのできない出来事でした。復活し、昇天され、聖霊が使徒たちに降って、すべての民族に向かって宣教活動が開始されて初めて、わたしたちとイエス・キリストとの接点が生まれたわけです。つまり復活し、天に昇られたおかげで、遠い国の出来事だったものが、すべての人に開かれてすべての人のものになったというわけです。
 もう一つ示したいことがあります。それは、「イエスがともにいてくださる」という実感です。イエスが天に上げられたのち、弟子たちは至るところで宣教しました。「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(20節)とあります。この弟子たち、また彼らの後継者として選ばれた弟子たちの宣教のおかげで、主はいつも、どこにでもともにいて働いておられるのです。
 主の昇天は、遠く離れてしまったのではなくて、全人類にとって主が身近な方となられた喜ばしい出来事です。イエスのお役に立てればと、今こうしてお話をまとめているわたしのそばにも、この原稿を読みながら主の昇天に思いをはせる読者の皆さんにも主はともにおられます。●マルコ16・15-20

聖霊降臨の主日(2006年6月4日)

聖霊降臨をイメージできますか?

 みなさんは、聖霊降臨をイメージできますか? 使徒言行録には「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(2章3節)とあります。難しいなあと、率直に思われる方もいるでしょう。そのような方の立場に立って考えてみたいと思います。聖霊降臨の出来事で、形にとらわれないで理解できる部分があるはずです。その点を大切にしましょう。
「炎の舌」に抵抗を感じる人にも、「約束された聖霊が一人一人の上にとどまった」このことは理解できるだろうと思います。なぜなら、聖霊を送る約束はわたしたちの主イエス・キリストがなさった約束だからです。イエスが、起こりもしないことを約束なさるはずがありません。
 あとは、「確かに聖霊はわたしたちにとどまっている。そうとしか思えない」というような体験があれば、当時の聖霊降臨も理解できるし、聖霊を受ける体験は現在も変わらず続いていることも実感できるはずです。実はその「確かな体験」が問題なのですが。
 こんな例はどうでしょうか。みなさんの多くが、「堅信の秘跡」を受けていると思います。堅信の秘跡は、聖霊の7つのたまものを注ぐと言われます。そのたまものとは「知恵と理解・判断と勇気・神さまを知る恵み・神さまを愛し、敬う心」の7つです。
 もう、おわかりでしょう。あなたが、「どうしてこの難問が解決できたのだろう」「どうしてこの困難を乗り越えることができたのだろう」という体験を通っていれば、あなたはもう「聖霊降臨の恵み」を体験している人なのです。自分一人ではとても解決できなかったことが不思議と解決できたのは、聖霊があなたにとどまっていて、7つのたまものをすでに注いでくださっているからなのです。
 最後に今週の朗読福音の一節を紹介します。ここに至る文章がうまく重なることでしょう。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16章13節)。困難を乗り越えたあなたには、確かに「真理の霊」がとどまっているのです。●ヨハネ15・26-27、16・12-15

三位一体の主日(2006年6月11日)

三位一体の教えは神さまの豊かさの教え

「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26章39節)。さあ、説明を求められるといちばん困難な神秘を思い巡らす日曜日が来ました。どうして「父と子と聖霊」が三位でありながら一体なのでしょうか。
「どうして?」と言われても「そうだから」としか言いようがないのですが、最近になって読んだカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿の司牧書簡(日本語訳『開け!EFFATHA』今道瑤子訳、女子パウロ会)のある一節でヒントのようなものをつかみました。
 次のような文章です。「私たちは、神のコミュニケーションの三つの時を、一つの動詞は三つの違った人称で活用するという事実になぞらえてとらえることができます。第三人称(「……である」)では一つの内容、一つの情報の真理を表現します。第二人称(「あなたは……である(であれ)」)では、訴え、励まし、命令を表現します。第一人称(「私は……である」)では、語る人は自己とその神秘を打ち明けるまで自己を表します」
 心を強く打ちました。「その方は神です」(父)と言うだけでしたら、それは事実を述べているだけ。「あなたは神です」(子)と言えば、励ましや命令を含み、「わたしは神です」(聖霊)と言えば、自分自身をすべて打ち明ける決定的なことばとなる。「父」だけでも「子」だけでも「聖霊」だけでもない。わたしたちの信じている神は、そのあまりの豊かさのゆえに「父と子と聖霊」の三位一体の神として提示されたということです。
 豊かさを的確に表現するために、神はみずからを「父と子と聖霊」として示された。この説明がどこまで本質をとらえているか自信はありませんが、今週の朗読箇所でイエスは「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けなさいとおっしゃいます(19節)。「神の名によって」ではなく、「イエスの名によって」でもなく、「父と子と聖霊の名によって」です。それがいちばん洗礼の豊かさを表現していたからに違いありません。●マタイ28・16-20

キリストの聖体(2006年6月18日)

聖体祭儀は、主が準備してくださる祭儀

「すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」(15節)。中田神父はこの一節に心惹かれました。実際弟子たちが都に行ってみると、「イエスが言われたとおりだった」(16節)のです。
 弟子たちはいつものように過越の儀式の準備をしようとしていましたが、今回に限ってはすでに準備が整えられています。今までとは様子が違う。弟子たちは敏感にそのことに気づいたことでしょう。都に行ってみると水がめを運んでいる男に出会い、案内された部屋は用意ずみ。何か、不思議な感じを持ったと思います。
 みなさんも薄々感じていることでしょう。今回の過越の食事、イエスとの最後の晩さんは、どのような方法によってかはわかりませんが、イエスによって準備され、整えられていたのです。弟子たちも少しは準備を手伝うわけですが、全体としては、イエスが準備し、主催する食事であるということです。
 主と弟子たちとの晩さんが進んでいくと、イエスの準備された食事であることがさらにはっきりと打ち出されます。「取りなさい。これはわたしの体である」(22節)、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(24節)。「わたしの体、わたしの血」を提供できるのはその人自身しかいませんから、弟子たちに差し出している食事は、イエスご自身が用意し、お与えになる食物なのです。
 イエスが準備してくださる「過越の食事」は、今も受け継がれています。それはミサ、「聖体祭儀」です。イエスはご自分をお与えになる「聖体」を準備してくださり、わたしたちは主の食卓に連なるのです。ミサの中でわたしたちが奉仕する部分もありますが、本質的な部分では、司祭がイエスの身分においてパンとぶどう酒を主のおん体とおん血に変化させ、用意しています。
 つまり、わたしたちが日曜日ごとに集まる聖体祭儀は、主ご自身に招待され、給仕してもらう恵み深い喜びの席なのです。●マルコ14・12-16、22-26

年間12主日(2006年6月25日)

イエスとともに向こう岸に渡ろう

 みなさんは、「聖書の分かち合い」という取り組みをご存知でしょうか。中田神父は福岡の大神学院時代に毎日曜日「させられて」いました。学生の中に教授が一人参加した小グループを作り、それぞれ感じたことや調べて新たな発見を得たことをグループの中で分かち合うのです。
 神学院時代には、どうしても教授の目を気にして、素直に感じたことがあってもいちおう聖書の解説を読み、「間違っています」と言われるのではないか、そんなプレッシャーのうちに分かち合っていました。今考えると、真剣に祈り、黙想したものであれば、だれかの目を気にすることなどなかったのかもしれません。
 そこで、この場でみなさんと一緒に分かち合いに参加するとしたら、何を話すでしょうか。いくつかの感じたことを分かち合えると思います。たとえば「向こう岸に渡ろう」というイエスの呼びかけですが、それは単にこちらからあちらへ渡るというだけではなく、イエスに導かれて過去から未来へと渡ることにも通じます。もっと言えば、イエスがともにいてくだされば、「古い自分」から「新たにされた自分」へと橋渡ししてもらえるという期待もイエスの呼びかけから響いてくるのです。
 もちろん、学生時代にはこんなことはとても分かち合いできなかったでしょう。聖書の解説書を開いても、おそらくどこにもそのような説明を見つけることができないからです。ただ、聖書学者であっても、画期的な解説を加えるときには、慎重にではあっても、大胆に踏みこんで書いたに違いありません。
 激しい突風、水浸しになるほどの波しぶき。これらは人生の苦難がどれほどのものであるかを表しているのだと読みました。自分を見失うほどの困難の中で、弟子たちはイエスがともにいてくださることをすっかり忘れてしまっています。
 最後にイエスは、風をお叱(しか)りになり、ご自分の存在感を示されました。「まだ信じないのか」(40節)。わたしたちも、どんな困難の中にあってもイエスがともにおられることを固く信じ、希望を持ち続けたいものです。●マルコ4・35-41

年間13主日(2006年7月2日)

イエスはどんなときでも人の心に寄り添ってくださいます

 わたしたちには心というものがあります。一人ひとりに心があるので、相手の気持ちを思いやってあげたり、「こんなとき、ほかの人はどう考えるのだろうか」と前もって自問自答して、相手の気持ちを察してあげることもできます。
 それでも、人の心はわたしのそれと同じではありません。わたしにはどうしても立ち入ることのできない場所もあるのではないでしょうか。あるいは、ほかの人が踏みこめない、
「立ち入り禁止区域」もあるでしょう。そしてしばしば、悩みや悲しみを抱えている心の場所は「立ち入り禁止区域」、人が踏みこめない場所でもあるのです。
 異なった2人の人物が朗読の中に織りこまれていました。12年間も出血の止まらない女性、幼い娘が死にかけているという会堂長ヤイロです。ですが2人の置かれている場所は共通しています。だれにも入りこめない場所、心の奥深くで悩んでいたのです。
 出血の止まらない女性は、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たし」た悩み多い女性です。もはやこの人の心に触れることは不可能のように思えました。彼女は慰めのことばではなく、病気の治癒を求めています。群衆の中に、だれもその望みにこたえることのできる人はいなかったのです。
 会堂長ヤイロは、「長」という役職が示すとおり、身分のある人です。けれども幼い娘が死にかかって、すべてを投げ出してイエスに頼みこみました。さらに娘が亡くなったという報告が入り、周囲は「先生を煩わせる必要はない」と言っています。この会堂長の心に入りこむには相当の覚悟が必要です。
 状況はどんなに困難を極めていても、イエスはそれらに十分にこたえることのできる方でした。ほかのだれも入りこむことができそうにない場面で、一人ひとりの心に触れ、悩みや悲しみを取り去り、安心するように声をかけ、命をお返しになってすべての悲しみをぬぐい去ってくださいます。
 イエスがここで見せてくださったのは、単に病気の治癒とかよみがえりの奇跡ではなくて、だれも入ることのできない心の闇に入ってくださり、心に触れてくださる方であるということだったのです。もちろん、わたしの心にもおいでくださいます。●マルコ5・21-43

年間第14主日(2006年7月9日)

イエスが入りたいと望んでも拒まれることもあります

「こじか」で毎週取り扱われている聖書の箇所はカトリック教会の暦に沿って、日曜日の福音朗読が選ばれています。ただ、今回のような朗読は、正直に告白しますと「弱ったなあ」と感じてしまいます。「人々の不信仰に驚かれた」で朗読が終わってしまうと、どうやって積極的な話をすればいいのかなあと思ってしまうからです。
「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)。実際そのようなことがあったのでしょうが、ここから考えるとイエスが手を差し伸べたくても手を出せない場面があるということかもしれません。
 わたしたちには自分で何かを選んだり決めたりする「意志」があります。何かを受け入れたり、拒んだりすることもできます。この「意志」によって、わたしたちがイエスを拒んだとしたらどうなるのでしょうか。実生活の中では「ちょっと席を外してもらえますか」と言ったりしますが、その程度ではなくて、「立ち入らないでください」「一切お断りです」とイエスを拒んだとしたら、どうなるのでしょうか。
 おそらく、強い意志でイエスを拒んだとしたら、イエスはその人の心に入れなくなるのかもしれません。先週は、「立ち入り禁止区域」にもお入りになると言いましたが、それはだれかふさわしい人には入ってほしいと願っていた場合です。今週の「故郷の人々」のようにイエスにつまずき、イエスを拒むなら、どれほど奇跡を行う力を持ち合わせていてもその人の心を入れ替えることはできないということです。
 イエスは人の心に巣くっている「汚れた霊」を追い出したことがありましたが(マルコ1章25節)、それは「外から入ってきたもの」を追い出したのであって、人間の「意志」を追い出したわけではありません。たとえイエスが追い出す力を持っていても、人間その人の「意志」を追い出すことはできないのです。その人の意志が悪いものであってもです。
 心に触れたい、心に寄り添いたいとどれだけイエスが思っていても、その人が拒んで入れないとしたら、どんなにイエスは悲しいことでしょう。●マルコ6・1-6

年間第15主日(2006年7月16日)

イエスの権能は、物質的なものを補ってあまりあるのです

 現代はものがあふれている時代です。金曜日の教会学校に来た子どもが帰りがけに忘れ物をしていきました。見るとゲーム機でした。中田神父の時代だったら、必ず戻ってきて受け取りに来たことでしょう。ゲーム機も、さびしかっただろうなぁ。
 これほどものがあふれている時代です。イエスが2人ずつ組にして遣わすときに言われた「旅には杖(つえ)一本のほかは何も持つな」という命令は、なかなか理解できないのではないでしょうか。何かを手に持っていなければ、落ち着かない現代。その手に持ったものさえ忘れてきて、またほかのものを手にする時代です。イエスの命令は、現代に何を呼びかけているのでしょうか。
 よくよく考えると、ものは持つなと命じましたが、イエスはご自分の権能を弟子たちに授けて出発させました。「汚れた霊に対する権能」です。もしかすると、この権能があれば、ほかのものはその場その場で間に合うということかもしれません。ですが、そのためにはどうしてもクリアしなければならないことがあります。
 それは、「イエスからの権能は、ほかのすべてのものを補ってあまりある」という確信です。そのことを、せっかく教会学校の子どもが登場したので同じ子どもたちの体験から紹介しておきます。初聖体のために、ゆるしの秘跡を練習させていたときのことです。
 ゆるしの秘跡が一通り終わると、司祭は秘跡を受ける人に「安心しなさい」と声をかけます。リハーサルでいつもの通り「安心しなさい」と言ったところ、ゆるしを受けている子どもが「安心しなさい」と返してきました。思わず「安心できるか」と言い返してしまいました。
 あとで考えたことです。人間が「安心しなさい」と言っただけでは、確かに罪を犯した人が安心できるはずがありません。それなのに実際のゆるしの秘跡では、安心し、平和を取り戻して帰っていきます。つまり、イエスの権能が安心の源になっているのです。イエスが授けた権能は、すべてを超えるほど力に満ちているのです。●マルコ6・7-13

年間第16主日(2006年7月23日)

イエスがともにいてくださるとは何と心強いことでしょう

 夏休みに入りますね。年間テーマについて、もう一度思い出す機会を持ちたいと思います。中田神父がこのB年の暦で意識したいことは「イエスといつもともに」ということでした。これはマルコ福音書が「弟子たちを教え育てる福音書」という理解から出てきたものです。イエスは弟子たちを宣教者として教え導くために、いつもそばにいてくださるのです。
 ですから中田神父担当のページに関しては、「いつもともに」ということばをあからさまに使っていなくても、そのつもりで読み返していただくと、基本線みたいなものが見えてくると思います。今週の、大勢の群衆に教える様子にも、「いつもともにいてくださるイエス」が浮かび上がります。
 大勢の群衆にいろいろと教え始めたきっかけにマルコは触れています。「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(34節)教えられたのです。「深く憐れみ」という表現は、「恵んであげよう」という表面的な同情心ではなく、心が揺り動かされて行動したということです。
 さらに考えを進めると、「深く憐れみ」とあるのですが、このような場面が何度も訪れた場合、弱いわたしたちであれば「またやってきたの? まいったなあ」とか「もういい加減にしてよ」とこぼしたくなるのではないでしょうか。イエスは、同じ場面に何度出くわしてもいろいろと教えてくださるのでしょうか。
 きっと、何度でも深い憐れみを示してくださり、いろいろと教えてくださることでしょう。このイエスの行動力の源は何でしょうか。わたしたちはがまんすることでその場をしのぐということがありますが、人間のがまんには限界があります。がまんできなくなれば、それまでのような親切な応対はできなくなるでしょう。
 今週の学びとして、どんな動機があればイエスの模範に倣っていけるでしょうか。やはりそれはイエスの生き方を心に焼きつけることだと思います。そして常に、「イエスがそばにいてくださるから、きっとできる」、そう心に言い聞かせることではないでしょうか。●マルコ6・30-34

聖母の被昇天(2006年8月15日)

マリアはこの世にあるときから、天に上げられるのにふさわしい方でした

 1950年、教皇ピオ12世は「恵みあふれる神」という文書(厳密には「使徒憲章」)の中で、マリアが体も魂も天に上げられたことを正式に宣言しました。あらためてこの文書を読み返すとき、カトリック教会がマリアの被昇天を固く信じていたことが読み取れます。何よりも、教父と呼ばれる古代の教会指導者が残した説教には圧倒されます。ここで使徒憲章「恵みあふれる神」にも引用されているダマスコの聖ヨハネ(675-749ごろ)の説教を紹介したいと思います。
「出産に際して、処女を無傷に守ったマリアの体が、死後もあらゆる腐敗から守られるのは当然であった。創造主を子どもとして体内に宿したマリアが、神の幕屋に滞在するのは当然であった。御父によってご自分の花嫁に定められたマリアが、天の家に住まうのは当然であった。十字架上のわが子を眺めて、出産のときには免れた悲しみの剣を胸に受けたマリアが、父の右に座すわが子を観照(かんしょう)するのは当然であった。神の母が、子がもっておられるものをもち、すべての人から神の母、神のはしためとして敬愛されるのは当然であった」
 古代の説教師の力強い語りかけに、ただただ脱帽するばかりです。ダマスコの聖ヨハネのような語りかけはとてもできませんが、聖人の説教を紹介する中で一つの点に目が留まりました。「観照する」ということばです。「本質をとらえる」というような意味合いだと思いますが、きょうの福音朗読の中に、すでにその姿が描かれているのではないかと考えました。
 それは「マリアの賛歌」と呼ばれる1章46節以下です。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と続くマリアの賛美は、あえて言えば神である主を目の前に見て、主と向き合って喜びを表現しているかのようです。マリアの賛美は、この世に生きておられるうちから、神の本質をとらえていた、神を「観照していた」のではないでしょうか。
 判断を誤ることもあるこの世に生きているときから、神の本質をとらえることのできたマリアです。そのまま体も魂も天に上げられたと教会が宣言するのはごく自然な流れです。●ルカ1・39-56

年間第22主日(2006年9月3日)

神の掟よりもわたしの決定を優先させてはいけません

 これから話すことは15年以上たっているので、すでに「時効」が成立しているものとして聞いてください。福岡の大神学院時代、カナダ人司祭の教授から「十戒、教会の掟」を詳しく教えてもらっているときに、ある神学生が次のように質問しました。
「断食の務めについて、肉を食べてはいけないということですね」
「ハイ、ケッコウ。ソノトオリデス」
「では、アワビは食べてよいのですか?」
「アワビ? ソレハ、ニクデスカ?」
「いいえ、海の食べ物です」
「モンダイアリマセン」
「ウニは食べてもよいのですか?」「アンコウの肝(きも)は? フカヒレは?」
 こうして延々と、日本ではめったにいただけないごちそうを並べて、実は教授をからかったのです。あとで教授室に呼ばれ、大変な大目玉をもらったのですが、肉を食べないというのは日本人の感覚には完全には合致しないと思います。
 それでも、とにかく肉を食べないことが断食なのだと言い張るならば、それこそ「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。/人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている」(6-7節)ということになるでしょう。日本人には日本人に合った断食の指導が必要ですよと、説明申し上げたつもりでしたが、神経を逆撫(な)でしたようです。
 まさしく、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚す」(15節)のです。肉ではないから、おなかいっぱい食べても大丈夫。こうして教会の掟をかいくぐろうとする人間の悪知恵が、断食をしなさいと促す神を悲しませるのです。
 厳格な菜食主義者が「断食なんてわたしには関係ない」と思うならば、その心、中から出る思いこみが問題なのです。すべての人に神はあるとき断食を求めるのです。神の望みよりも、自分の都合や欲を優先させ、いわば心の思いを神とする態度。これが、21-22節でさまざまに表現されている「罪」です。
 断食を例に挙げましたが、気づかずに、わたしの心は神から遠く離れてしまっていないでしょうか。●マルコ7・1-8、14-15、21-23

年間第23主日(2006年9月10日)

イエスは今でもわたしたちの心に「開け」と呼びかけます

 ある先輩司祭が学生時代に大けがをして、長く入院しているところに見舞いに行ったことがあります。それまではことばで表現すると「筋肉ムキムキ」だったのですが、長い入院生活で、見舞いに行ったわたしたちがことばを失うほど、筋肉が落ちている姿を見ることになりました。幸い無事に復帰することができましたが、そこに至るまでには必死のリハビリがあったに違いありません。
「耳が聞こえず舌の回らない人」がイエスの前に連れてこられました。この人はしばらく会話から遠ざかっていたのですから、きっとリハビリが必要だったことでしょう。「指をその両耳に差し入れ、それから唾(つば)をつけてその舌に触れられた」(33節)。これは、もしかしたらちょっとしたリハビリだったのかもしれません。またこれらの動作は、「あなたは今ここで奇跡の恩恵にあずかるんだよ」という心の準備を促す意味もあったでしょう。
 こうして心と肉体の準備が整った人に、「エッファタ」「開け」と言いました。このときイエスが開いてくださったのはどの部分についてだったのでしょう。「耳と舌」、これだけだと肉体的側面に限られますが、実はもっとたくさんのことを開いてくださったのではないでしょうか。それまで不自由な思いをしていたことで閉ざされていた心も「開け」ということばによって解放してもらったのではないでしょうか。
 大けがやハンディを抱えている人が幸いにして解放される。そこには見た人、経験した人でなければ理解できない「喜び」があるのだと思います。だからこそ、イエスがどんなに口止めをされても目撃した人を沈黙させることはできないのでしょう。
 ところで、イエスは「開け」と大胆に言いましたが、わたしたちはこのことばをだれかに向かって言うことはできるでしょうか。無理かもしれないけど、せめて心の中だけでも言ってみたらと思います。親子、夫婦の間で会話がなくなっていたり、「耳が聞こえず舌の回らない」状態があちこちで見られます。心の中で「開け」と言ってみましょう。きっと、イエスもあなたの心の中で「エッファタ」「開け」と言ってくださると思います。●マルコ7・31-37

年間第24主日(2006年9月17日)

イエスの教育は順序立てて、入念に計画されています

 ジグソーパズルをご存知でしょうか。このパズルを買いに行って、実際に並べて完成させることを考えてみましょう。まずいろいろ展示してある商品の中から、「これなら完成できそうだ」というものを手にとって買い求めると思います。初めから無理だと感じるものには、たぶん手を出さないでしょう。実際に並べて完成させ、また楽しんでみたい、次の作品に挑戦してみたいと感じたら、もう一段難しいものか、または同じ程度のパズルを探すだろうと思います。
 イエスは弟子を教育する中で、いきなりご自分のことをすべて理解しなさいとは期待していなかったと思われます。徐々にご自分のことを打ち明けようと考えていました。弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)とたずねますが、ここでペトロがもしも「わたしも、あなたは預言者の一人だと思います」と答えたなら、先へは進まなかったのではないでしょうか。群衆が口々に言っているような答えをイエスは弟子たちに期待していなかったはずです。
 ペトロの「あなたは、メシアです」(29節)いう答えは、内容を十分把握していなかったとしても、イエスにとって満足できる答えだったに違いありません。それを証明しているかのように、イエスはこのやり取りの後にご自分の死と復活について教え始めました。心の準備もなしに教えたのではなく、段階を踏んで打ち明けたのです。
 イエスは救いの完成のために時間をかけました。いきなり結論を持ってきたりしませんでした。救いの完成の中には、弟子たちの教育も含まれていたことでしょう。弟子たちを教育するに当たっても、段階を踏まれたのです。いつもともにいて、結論を示すこともできたけれども、理解できる段階になるまで、辛抱強く待たれたのです。
 同じことは、現代のわたしたちにも当てはまるかもしれません。わたしたちがイエスの弟子としてどの段階にあったとしても(初歩の段階であるか、上級者であるかにかかわりなく)、イエスはそばにいてくださり、さらに上のステップにたどり着けるように導いてくださいます。人生は、この一歩一歩段階を踏んでいく繰り返しなのかもしれません。●マルコ8・27-35

年間第25主日(2006年9月24日)

教会活動は競争よりも共生を大切にします

 中田神父は最近、普通自動二輪の免許を自動車学校で取得しました。400ccまでのバイクに乗れることになりました。教習課題には、人によって苦手課題とそうでない課題が出てきます。わたしは8の字を通過するのは得意だったのですが、ジグザグ走行(スラローム)がやや苦手でした。そういうとき先生は、得意課題と不得意課題を交互に織り交ぜて集中的に取り組ませてくれました。おかげで自然と不得意も乗り越えることができました。
 先週のパズルの話で言えば、難しいパズルに行き詰まってしまったときは、自分にちょうど良いレベルのものをほかにも試してみると良いと思います。自信がつき、行き詰まっていた部分に新しい光が差しこむかもしれないからです。イエスの教育も、似たようなところがあるかもしれません。「三歩進んで、二歩下がる」といったところでしょうか。
 イエスの死と復活の予告は、ご自分の神秘の中でも特別難しい内容だったことでしょう。弟子たちはこの神秘を理解できず、聞いた直後に「だれがいちばん偉いか」などという見当外れな議論をしていたのです。そこで、「三歩進んで、二歩下がる」という作戦を取ります。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)。このイエスの命令は議論の余地がなく、実行するかしないか、それだけの問題です。ここでじっくりイエスについていける力をつけてもらって、次の段階へ案内しようという作戦です。実際、死と復活の予告には戸惑いを覚えながらも、弟子たちは最後までついていくことができました。
 わたしたちの社会は、「三歩進んで、二歩下がる」を許さない社会かもしれません。試験に失敗すれば取り残されるとか、チャンスは一度だけだぞと不必要なプレッシャーを受けたり、オリンピックのように4年に一度ですべてを評価されるなど、なかなか大変な世の中です。
 せめて、イエスのもとに集うわたしたちだけでも、「うまくいかなかったんだ。でも、もう一度やってみようよ」と、温かく迎え入れる家族でありたいと思います。でも妥協しすぎて「三歩下がって、二歩下がる」にはならないよう気をつけましょうね。●マルコ9・30-37

年間第26主日(2006年10月1日)

「命」と「滅び」にはどんな接点もありません

「命」と「滅び」にはどんな接点もありません。命を大切に考える人の心に滅びへのきざしは見られませんし、滅びへの道を歩む人は命のすばらしさが見えなくなります。少しだけ滅びの道を歩きながら命を保とうと考えても、そのような生き方は成り立たないということです。朗読の後半がそのことを具体的に教えてくれます。
「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」(45節)。ここでイエスが不可能なことを命じていると理解するのではなく、厳しい忠告をしているのだと考えましょう。一方で「地獄」に引き寄せられながら、同時に命にあずかるということはあり得ないのだと、厳しい口調で訴えかけているのです。腕を切り捨ててしまえば体とは関わりがなくなってしまいます。つまずきを与える行為は、命にあずかる道とは何の関係もないと言いたいわけです。
 この点を押さえて、あらためて朗読の前半を振り返りましょう。自分たちと行動をともにしない人を受け入れることのできない弟子たちに、イエスは「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(40節)と言いました。命にあずかる努力をしている人たちは、たとえ同一線上にいなくても接点を持つ人たちです。やめさせてしまえば、それこそ接点を持たない人たち、滅びに向かう人たちだと決めつけてしまうことになります。
 わたしたちにも経験があるかもしれません。同じ方法で、同じことをしている人には共感できるのに、目標が同じであっても方法が気に触るとか、伝統に反するとか前例がないとか、受け入れるのに困難を感じるときに相手を拒んでしまう。こうした体験をわたしたちは多少なりとも通ってきていることでしょう。
 ある人の行動を理解できない。または、受け入れられないかもしれません。そうであっても、最低限見守ってあげましょう。イエスは「やめさせてはならない」と言いました。どこかで接点を持っているかもしれないのですから。仮にまったく接点がないとすれば、その人の活動はいつか消滅してしまうことでしょう。●マルコ9・38-43、45、47-48

年間第27主日(2006年10月8日)

結婚の絆は二人で大切に守るべきものです

 夫婦は「絆(きずな)」で結ばれています。夫と妻を結んでいる愛の絆は一方が8割でもう一方が2割という関係ではありません。対等な関係で誓い合うのですから、「妻を離縁する」とか「夫を離縁する」ことがどんなに乱暴な振る舞いであるかは明らかです。「お前なんか出て行け」「あんたのほうが出て行け」とケンカをして、ともに生きるはずのパートナーから追い出された相手は、いったいどこへ行けばよいのでしょうか。
 夫婦の絆は一方が他方に寄りかかっているような関係ではありません。夫と妻、相互に与え合い、愛情を交わし合う中で築かれていくものです。夫婦が絆を解消したら、どちらも傷を負うのです。一方だけが痛みを感じるわけではありません。私は瞬間接着剤をうっかり指に落として親指と中指をくっつけてしまったことがありますが、どんなに力を加減して引き離しても、両方痛みを伴う結果となったのです。
「二人は一体となる」(8節)。二人に主従関係はありません。夫婦である限り心も体も一つになり、結び合わせてくださった神に対してもまた社会に対しても喜びを生み出す泉となり、夫婦の絆が裂かれたとき、神に対しても社会に対しても痛みをもたらすのです。
 おかしな話ですが、わたしは結婚講座においでになるカップルに、「結婚するなんて自分にはとても無理だなぁ」と言うことがあります。一つの家に住み、一つの料理を食べ、一つの姓を共有する。男性と女性、感じ方も価値観も微妙に異なる二人が、すべてのことを共有できるのは、神業(わざ)としか思えません。人間ではとても結び合わせることのできない二人を神は結んでくださっているのですから、夫婦はこの神の業を生涯にわたって思い巡らすべきでしょう。
 イエスは子どもに手を置いて祝福しました。子どもはすべてをありのまま受け入れる純粋なお手本です。イエスにすべてを委ねる子どもには暗闇がありません。神の国とは神の働きが行き渡り、暗闇の世界がどこにもない状態とも言えます。すべてを受け入れ、与え合う一組の夫婦は、暗闇のない世界、つまり神の国の建設を目指す美しい命です。●マルコ10・2-16

年間第28主日(2006年10月15日)

イエスに心を開く人はいつでも再出発できます

 すべてを一からやり直すというのは何ともつらいものです。現代はパソコンが普及し、多くの人が大切な資料を紙ではなくデータとしてパソコンの中に持っています。大きな会社ではさらにその傾向が強まっています。50万人の顧客情報を失ったとか、100万人の顧客情報が盗まれたとか、一瞬で信用も実績も失い、また一からやり直しです。
 比較にはなりませんが、わたしもパソコンが壊れてデータを失うという苦い経験があります。住所録とか、その時点まで勉強してきた資料、説教集、いろんなものが消えてしまったことがあります。「気を落とし、悲しみながら立ち去った」(22節)。この世に属するものをすべて放棄しなさいと言われた金持ちの青年の気持ちも痛いほどわかります。
 ただ、すべてを失っても一からやり直すことはできます。「いや、できない」と思えばそれまでですが、考えてみればわたしがこれまで費やしたことはすべてイエスのためだったわけですから、イエスへの愛と宣教への思いがあればほかのことはすべて挽回(ばんかい)可能です。失ったけれども、イエスへの思いは失っていない。そう思えるようになったとき、わたしにとっての再出発が可能になりました。
 金持ちの青年も、出発点に立ち帰って、すべてを失っても永遠の命を受け継ぐチャンスは失っていないと思うことができたなら、悲しみのうちに立ち去ることもなかったかもしれません。失ったものが大きかったために、永遠の命への道筋も見えなくなってしまったのでした。
 頼みにしていたものを一つずつ取り上げられ、ついに最後の頼みの綱も失ったと感じるとき、人はそれでも信頼と希望を持ち続けることができるのでしょうか。イエスはこの問いを投げかけているようです。ペトロはその答えを得ようと、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)と言いました。
 イエスのために、福音のためにすべてを失うことになっても、労苦は決して無駄にはなりません。なぜなら、失ったはずのすべてのものは、もともと神の手の中にあるものだからです。神の手の中にあることを信頼できるなら、わたしたちはいつでも再出発可能です。●マルコ10・17-30

年間第29主日(2006年10月22日)

皆に仕える道は地味だけれども偉くなれる

 プロバスケットボールの選手の中には、2メートルをゆうに超える選手がいるかと思えば170センチに届かない選手もいるそうです。現代にイエスがいたら低身長の選手が申し出たことでしょう。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」(35節)。「何をしてほしいのか」(36節)。
 ところで、その低身長の選手が一試合に30得点も入れる選手だとしたらどうでしょう。彼はすでに願いをかなえてもらっていると思います。たとえ2メートルの身長を手に入れることができなくても、大男に負けない得点力を与えていただければ、同じコート上で堂々と戦えるからです。
 ヤコブとヨハネはイエスの右と左に座れることを願いましたが、「偉くなりたい」という願いであれば何も右と左に座ることがすべてではありません。イエスはそのことを教えるために、「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」と答えました。なかには、右や左に座る者も現れるでしょう。けれども、どんなに願ってもそれぞれの椅子は1つだけです。定められた人でなければ願うだけ無駄というものです。
 そこでイエスは、もっと別の形で「偉くなる」ことに目を向けさせたのです。イエスの右と左に座ることは、例えるなら2メートルの身長を願うことですが、皆に仕える者になるという願いは30点稼ぐ得点力を願うのにも似た、イエスのほうから見れば値の高い願いなのです。そしてここに示された仕える者の姿は、すべての人にとって挑戦しがいのある願いでありながら、実際は大変困難でもあるのです。
 だれかが、皆に仕える者になると決心して実行し始めたとしましょう。仕えるのが困難な人に何度も巡り会い、その度にすべての人の僕になる心が養われてきました。それでも、別のもう一人に仕えるためには、今まで以上の困難を感じるに違いありません。
 あと一人の人に仕える、さらにもう一人の人に仕える。それはそれは困難な道のりです。ですがこれこそ、だれの目からも「偉い」と認められる生き方ではないでしょうか。●マルコ10・35-45

年間第30主日(2006年10月29日)

命にいたる生き方が見えるようになりたい

 今年の春先に、現在わたしが赴任している教会をあるグループが訪ねてきました。その中に一人、白い杖をついた人が参加していました。わたしはそのグループとは面識がありませんでしたが、「どちらからおいでになったのですか」と何気なく尋ねました。
「その声は中田神父さんですね」。真っ先に声を上げたのは白杖を手にした目の不自由な方でした。わたしが自己紹介する前に、声で名前がわかったというのです。驚きました。詳しく話を聞けば、目の不自由な方に情報を届けるボランティア団体から届いているテープをいつも聞いている会員でした。ちなみにわたしはこの活動に参加し、15分枠の宗教コーナーを毎月担当しています。
 人間は顔形が変わっても声は変わりません。実際、声は指紋と同じように一人ひとり固有のものです。つまり、バルティマイの声は、どんなに大勢の群衆の中にいても間違いなく一人を探し出す確かな方法です。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(48節)。彼の悲痛な叫びは、イエスとバルティマイを確実に出会わせる唯一と言ってもよい方法でした。
 また、声は偽ることができないとも言われています。本心で語っているのか本心ではないのか、声には正直に表れるそうです。イエスに声が届いた時点で、バルティマイが何を望んでいるか、またその願いがどれほど真剣なものであったか、すべてお見通しだったことでしょう。それでも、あえて「何をしてほしいのか」(51節)と尋ねるのは、偽ることのできない声のその向こうにある信仰の叫びを聞きたかったからなのでしょう。
「先生、目が見えるようになりたいのです」(51節)。彼は見えるようになるとイエスに従っていきます。イエスは「行きなさい」と言ったのですから、行き先を自由に選ぶことができたはずです。そこにはバルティマイの信仰がうかがえます。彼はただ見えることを願ったのではなく、イエスの生き方に従って自分も歩くべきだということが見えるようになったのです。
 わたしたちは見えると言っています。見えると言いながら、「神の導きのもとに生きる」という命にいたる道がいまだに見えていないのかもしれません。●マルコ10・46-52

年間第31主日(2006年11月5日)

イエスにしか教えることのできない真理があります

「こじか」の記事を考えていると、こんなことも頭において書かなきゃ、とか、みんなに参考になるように書かなきゃ、とか、いろいろ考えているうちに行き詰まってしまいます。そこでたどり着いた切り口が、「今、中田神父に与えられたイエスの招きを素直につづろう」ということでした。今、自分が置かれている中で耳を澄ませて、聞こえてくる声を書きとめようと思っています。
イエスはまず、律法学者の問いかけに『申命記』第6章4節と5節を引用してお答えになったと思います。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。びっくりするほど似通っていますから、十分に意識していたと思います。律法学者は聖書を暗記するほど勉強していたでしょうから、すぐにピンと来たことでしょう。
ところが、暗記するほど学んだはずの聖書なのに、イエスからこの箇所を示されたとき、律法学者はイエスしか示すことのできない真理を聞いたのです。「先生、おっしゃるとおりです」(12・32)とは、律法学者がまったく違う次元で何かを理解した様子がうかがえます。問題は彼が何を受け取ったのか、ということです。
ここで、中田神父は今年、このように思い巡らしてみました。「神は唯一である。ほかに神はない」(12・32)とは、アブラハムを祖と仰ぐ民にとってあたりまえのこと、疑いようのないことです。ところが、王が民の上に立った時代を記録している『列王記』などを読むと、うんざりするほど「主の目に悪とされることを(ことごとく)行った」という表現が出てきます。複数の書物で合計50回以上です。
 当然過ぎるほどの掟でありながら、歴史の中でイスラエルの民は第一の掟を守ってこなかったのです。だからこそ、この掟はどれほど強調しても強調しすぎることはないのです。イエスにしかない迫力をもってこの掟が示されたとき、律法学者は第一の掟の重大さに目覚めたのです。イエスは旧約の歴史を振り返りながら、永遠に変わることのない第一の掟として、全力で神を愛するように命じたのです。●マルコ12・28b-34

年間第32主日(2006年11月12日)

人間は100パーセント創造主である神に依存して生きています

「見せかけの長い祈りをする律法学者」。個人的には大変興味があります。中田神父は見せかけであれ、長い祈りはできそうにありません。祈りではありませんが、たとえば日曜日の礼拝の中での説教は、10分で十分だし、12分で十二分だと思っています。
1997年夏に約2週間のフィリピン体験学習に参加したことがあります。ホームステイを経験して、すばらしい隣人愛の実践に触れて目を丸くしました。4人家族でした。驚いたのは、この家族は自立して生活することのできない別の家族を受け入れて扶養していたのです。日本ではまず考えられないことです。
ホームステイ期間中、フィリピンでも有数の避暑地に案内してもらいました。マニラ最大のショッピングモールにも連れて行ってもらいました。ホームステイしているわたしたちのその場限りのお世話だけでも大変なのに、別の家族を生涯にわたって扶養することは、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12・31)という先週の「第二の掟」を生きている姿です。フィリピンでは普通に見られる習慣だと言われ、さらに驚きました。
研修期間中、わたしたちを受け入れてくれた家庭は、自分たちのためだけにお金や時間を使うことも可能だったでしょう。けれども彼らは、むしろ神の前に豊かである生活を選んだと言えます。今週の朗読に登場したやもめは、確かに社会的には極端に貧しい生活をしていたかもしれません。けれども神の前には、あふれるほどの豊かさを味わっていたのです。生活費を全部献金してもびくともしない固い信仰を持っていたのです。
レプトン銅貨2枚入れた女性が教えてくれたことは、「神さま、わたしたちが今生きているのは、100パーセントあなたのおかげです」という確信でした。わたしたちにとっても同じく当てはまる真理であるはずです。それなのに、わたしたちが神のために手放す時間や持ち物は、全体のうちのいったい何パーセントなのでしょうか。仮に16時間起きて活動している人の場合、そのうちの1パーセントは9分36秒です。すべての時間をとまではいかなくても、毎日の1パーセントくらいは神のためだけに使いたいものです。●マルコ12・38-44

年間第33主日(2006年11月19日)

この世界の「終末」に期待をかけることは可能でしょうか

教会は年間の暦が来週で終わるというタイミングで、この世の終わり、「終末」について考えさせます。朗読は「人の子の到来」についてです。キリストは再びおいでになり、生者と死者を裁くと言われますから、このキリストの再臨の時が「世の終わり」「終末」を意味するわけです。
終末については2通りの方向で考えることができるでしょう。文字通り「終わり」という見方で考える場合と、「完成」という意味を織りこんで考える場合です。「終わり」という面を強調して考えるならば、わたしたちは不安を覚えるかもしれません。もうこれでおしまい、その先の希望が見えないという印象です。
もう一方の「完成」という見方に立って「世の終わり」「終末」を考えるならば、不完全であったものを完成するために人の子が決定的な働きをするという意味になります。「地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(13・27)。四方から呼び集められた人たちは、未完成であった状態から完成された姿に移されることになり、その時を希望に満ちて迎えることでしょう。
2通りの考え方を示しましたが、わたしたちは希望の持てる考え方を土台にして聖書を読むことが許されると思います。常にわたしたちのそばにいて導いておられるイエスが、最終的に「終わり」を宣告するために人生をともにしておられるとすれば、ともにいてくださることは苦痛でしかないでしょう。
 むしろ、イエスは再臨の日にわたしたちを完成してくださいます。わたしは全力を挙げて神である主を愛しましたが、不完全だったことでしょう。けれどもイエスはわたしの不完全な愛を完成してくださいます。人間の努力では完成できなかったものを、イエスは再臨の時にすべて完成するためにおいでになる。このように考えるとき、今この時から、希望に満ちた日々を送ることができるでしょう。
ただし、良いことだけが完成されるとも限りません。悪事も、白日の下にさらされ、その罰も決定的なものとなります。だからこそ、のちに完成される一日一日を誠実に生きることが大切になってきます。●マルコ13・24-32

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