オリエンス宗教研究所発行「こじか」担当記事のバックナンバー

(聖書の引用は、「日本聖書協会『新共同訳』1988年版」を使用させていただきました)

復活節第6主日(2005年5月1日)

内に招かれる

 はじめまして。このコーナーの連載を1か月交替で担当することになりました。現在赴任している小教区は長崎市の伊王島にある「カトリック馬込小教区」です。伊王島の島内に2つの教会、離れた高島に1つの教会、合計3つの教会を抱えた小教区に勤めております。
 さて、5月は聖母月です。マリアさまがいちばん楽しみにしている「聖母マリアへの祈り」をたくさんささげることのできる「ロザリオの祈り」はすぐれた祈りです。家庭で、教会学校で、教会全体で唱えることをお勧めします。また、5月5日は「こどもの日」です。わたしは赴任した教会で口酸っぱく言うのですが、「こどもの日」には、子どものためにいちばん良いことをしてあげるべきだと思います。
 中田神父が考えるいちばん良いこととは、子どものために教会で祝福を受けること、早朝ミサにあずかって、子どもとともに聖体をいただくことです。「こどもの日」のちょっと前にこのメッセージを伝えることができたことを神さまに感謝したいと思います。
 では今週の福音朗読から。イエスさまは父にお願いして、弁護者を遣わしてくださいます。この様子から、弟子たちは「イエス」を意識したでしょうか。「父」でしょうか。「弁護者」でしょうか。弟子たちが意識したのは「弁護者」ではないかなあと思いますが、イエスさまは「父」にお願いしましたから、今週はあえて「父」を意識して朗読を味わってみましょう。
 イエスご自身と御父とはどれほど親密なのでしょうか? それは「わたしが父の内におり」とおっしゃるほどです。ピンと来ないかもしれませんが、それは愛するカップルが離れられないほど親密である、それよりも親密なのです。どんなに愛する男女であっても、その人の中にいるとは言えません。寄り添っていても、中にいるわけではありません。
 それなのにイエスは父の内にいると言い切っています。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(20節)。そばにいるのではなく、「内にいる」のです。
 御父とのこれほどの親しさに、イエスさまはわたしたちを招いています。人と人は「くっついている」というのがいちばん近い距離でしょう。ですがイエスさまは、弟子たちを、そしてイエスさまを信じるわたしたちを、ご自分の内に招いてくださいます。御父との深い深い一致と同じ喜びに、復活したイエスは招くのです。●ヨハネ14・15-21

主の昇天(2005年5月8日)

近寄ってこられる方

 主の昇天、おめでとうございます。さてこのあいさつは、今年の典礼の季節に合わせると、何月何日に交わすあいさつなのでしょうか? 主の昇天は、教会の伝統によると「復活後40日目」に起こった出来事のはずです。ですが、5月8日は42日目なのでは?
 正直に言いましょう。確かにきょうは42日目なのです。けれど日本では40日目、2日前の金曜日にお祝いしても、多くの人が教会に集うことができません。もしもそれをとがめたりするとすれば、教会は「初めから守れない掟で人をしばる」ことになってしまいますね。
 ですから日本では、日曜日に「主の昇天」を振り替えて祝っています。日本の事情を理解した上で、きょう「主の昇天、おめでとうございます」とあいさつを交わすことに何も問題はありません。実は同じことが聖霊降臨にも当てはまります。
 多くのキリスト教国では「主の昇天」「聖霊降臨」は休日なのです。ですから安心して、教会に集まることができます。もしも皆さんがこの時期にヨーロッパを旅行するなら、きっちり40日目、50日目にお祝いしていることにむしろカルチャーショックを受けるかもしれませんね。
 さて、イエスさまは天に昇られたわけですが、どのように昇ったのか、興味があると思います。「せーの」と、かけ声かけてジャンプしたのでしょうか? それはわたしたちには知り得ないことです。そして今週朗読された箇所には、直接天に昇る様子に触れた箇所はありません。もしかしたら、著者の興味も、もっと違うところにあったのではないでしょうか。
 わたしは、次のことばを取り上げてみたいと思います。「イエスは、近寄って来て言われた」(18節)。天に昇るイエスさまが、みずから弟子たちに近寄られたのです。それはつまり、天に昇ることは確かだけれども、だからといってあなたたちから離れるのではない。むしろ、もっと深いところではこれまでよりも近づくことになるということなのでしょう。
イエスが昇天したのち、弟子たちは宣教に出かけていきます。3年間みっちり教育したとは言え、心細い気持ちもあったことでしょう。けれどもイエスは、みずから近寄ってこられた方です。イエスさまが天に昇られたのは、実は、心の内側ではより近くいてくださることになるのです。それは今、聖書を学んでいるわたしたちにとってもです。●マタイ28・16-20

聖霊降臨の主日(2005年5月15日)

ゆるす力の源 

 聖霊降臨の祝日を迎えました。1週間が7日間、今週の日曜日で単純計算では49日目ですが、明日ではなくきょうお祝いするわけは、もうわかりますよね。中田神父は、メールマガジンで日曜日の説教を配っていますが、それをオランダで受け取っている方から、「おかしいわ。聖霊降臨はきょうではなくて、明日の月曜日でしょ?」と聞かれたことがあります。今でもその方とは交流を持っています。
 もしかすると聖霊降臨は昇天よりももっと不思議かもしれません。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2章3節)とあるのですから。そのような「何か」が肉眼で見えたのでしょうか? 炎であれば、髪の毛は焦げたりしなかったのでしょうか? すでに薄い中田神父は、これ以上焦げて失いたくないなあと胸を痛めます。
 結論はどうなのでしょう? 見えたのかもしれません。わたしたちのふだんの会話でも、「張り切っているねぇ。燃えているねぇ」と言ったりしますから、ただならぬ雰囲気というものは感じることができるものなのではないでしょうか。
 仮に見えなかったとしても心配いりません。これまでたくさんの堅信式に立ち会い、また叙階式に出席しましたが、炎のような舌を見たことなど一度もありません。ただし恵みを受けた人がすっかり変えられる様子は、「聖霊を受けたのだなあ」としか言えない迫力があります。あんなに頼りなかったのに、あそこまで堂々と奉仕をしている。それは聖霊がその人を変えたとしか言いようがありません。
今週の朗読から、聖霊はわたしたちに注がれて、何を変えてくださるのでしょうか。弟子たちに注がれた聖霊は、罪をゆるす力の源となりました。聖霊が注がれることで、わたしたちにも同じことが起こるのではないでしょうか。わたしたちにきょう注がれる聖霊もまた、人をゆるす力の源となるのではないでしょうか。
 人間にはとてもできないような力と業のことを「神業」と言ったりします。「ゆるせない。あの人だけは絶対にゆるせない」。もしもだれかに対してそう感じたなら、人間としては確かにゆるせないのでしょう。ですが、聖霊が注がれ、わたしの中で炎が燃え上がるとき、できないはずのことができるようになるのかもしれません。ゆるせなかった人を、とうとうゆるすことができるようになるかもしれません。そこではもう神業が、行われているのではないでしょうか。●ヨハネ20・19-23

三位一体の主日(2005年5月22日)

一つでいられるように

 少しこみ入った話になるかもしれませんが、「おはようございます」とあいさつをするとき、そこには最低でも「わたし」と、呼びかけをした「あなた」がいるはずです。そして、「わたしとあなた」の間で「おはようございます」という声が響いたのです。これが、三位一体の神さまを考えるときの中田神父の基本姿勢です。
 やはり、こみ入っていてわかりづらいでしょうか。人間の世界では、「わたし」と「あなた」の間には距離があり、「おはようございます」という声が響いて届くのですが、「御父」「御子」の間には何もないのです。わずかでも距離があればそれは二者ですが、「御父」と「御子」の間には何もないのですから、「御父と御子は一つ」なのです。
 そこに声が響きます。「声」と言いましたが、それは「聖霊」です。御父の思いは御子に向かいます。御子の思いは御父に向かいます。その間が「聖霊」なのですが、人間同士のような距離は何もないのですから、「御父・御子・聖霊」はまったく一つなのです。
「わかりやすいでしょ?」とは決して言いません。かつて聖アウグスチヌスが三位一体の神をどのように解き明かすことができるか考えていたときに、砂浜で貝殻に海水をすくって小さく掘った穴に注いでいる少年が目に留まったそうです。それはまるで、世界中の海水を砂に掘った小さな穴に収めようとする光景でした。「何をしているの? そんなことをしても無理な話だよ」と少年に語りかけたところ、少年は「あなたが思い巡らしていることも同じことさ。神さまの神秘を知り尽くすことなどできないよ」と言って、姿が見えなくなったと言います。永遠の問題だと思います。
 さて、きょうの福音からも三位一体に結びつくことを発見しましょう。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。「滅び」とは、「生」の状態から切り離されること、「命」からの離別です。滅びがあるところ、そこには「命」と「滅び」の二者が現れることになります。
 イエスはそれを望みませんでした。永遠の命を得て、いつまでも「命」につながって生きてほしい、分裂を引き起こしてはいけないと、命を与えるほどにこの世を愛し抜かれたのです。「裁き」もまた「正邪」という分裂を引き起こします。
 裁かれて「滅び」を生じるのでなく、一人残らず救われるように、神の愛の内にまったく一つでいられるようにと、イエスを通して三位一体の神は今もいつもわたしたちに呼びかけておられるのです。●ヨハネ3・16-18

キリストの聖体(2005年5月29日)

あふれる愛

 大勢の教会学校生徒に囲まれていた時代がありました。小学生の教会学校の生徒が250人とか、そんな時代がありました。子どもたちが一堂に会する中で、わたしは一つの「実験」を試みたのです。
 それは、洗面器のようなガラスの器に前もって八分目ほど水を入れたものを用意し、そこへさらに水を差していくというものです。当然、水は縁までいっぱいになり、ついにはあふれそうになりました。子どもたちは心配顔です。それでもかまわず水を注ぎ、とうとう水はあふれ出てしまいました。
「あ〜あ〜」。子どもたちのため息が聞こえます。実は器を囲むように大きなたらいを用意していたので、まわりをぬらすことはなかったのですが、子どもたちには水があふれてこぼれたことは目に焼きつきました。
 そこでおもむろにわたしは問いかけたのです。「こぼれちゃったねぇ。もっともっと水を入れると、どうなるかなあ?」「外に流れていくに決まっているでしょ」。強い口調で、上級生が答えました。そうです、あふれる水は、外へ向かっていくのです。むしろ「あふれなければ、外へは向かわない」と言ってもよいでしょうか。
 きょうの朗読でイエスは信じようとしないユダヤ人たちに次のように言いました。「は
っきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)。肉も血も、人間の内側にあるものです。それを他人が食べ、飲むということは、その肉と血はあふれ出たものに違いありません。あふれ出るからには、食べ物として与えるそのお方が、あふれるほどの愛でご自分の肉と血を差し出す以外に、その出来事は起こらないのではないでしょうか。
 聖体の主日を迎えています。神がご自分を食べ物として与えてくださったことを思い起こします。食べ物となってくださった。それは間違いなく、イエスさまのあふれる愛によって、ご自分をわたしたちに差し出してくださったということです。聖体はイエスのあふれる愛です。あふれなければ届かなかったはずのものなのです。
 教会に集まって聖体をいただきます。あふれる愛にわたしたちが触れているのだという実感があるでしょうか。あふれる愛のしるしである聖体に養われたわたしたちは、生活に戻ってから今度はわたしの愛をあふれさせて、あの人に、この人に、わたしの家族に、届けようと決意しているでしょうか。あふれる愛の形見、聖体は、わたしたちにそこまで伸びていくように促しています。●ヨハネ6・51-58

年間第14主日(2005年7月3日)

少し補って福音朗読を味わう

 文章をよく読もうとするとき、ことばを補うとよい場合があります。目の前の文章が、読む人にそれ以外の何かを前置きにしていることがあるからです。きょうの福音朗読が、ちょうどそのことを考えるよい例になります。
 イエスは言われました。「……これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(25節)。もちろん目の前にある文章の意味もおろそかにしてはいけませんが、文章には表れない「これらのこと」を、ちょっと押さえておくとよいでしょう。
 いろいろ意見はあるのかもしれませんが、ここでイエスが指し示しているのは少し前に12人の弟子を送り出すにあたって言われた「励ましと報い」(マタイ10章16-42節)だと思われます。イエスが約束する「励ましと報い」は、自分たちこそ指導者であり先生であると威張っていたファリサイ派の人々や律法学者たちには与えられず、日が暮れるまで汗を流して働く労働者や、弱い立場に常に置かれていた女性と子どもたちに与えられたのです。
 選ばれて宣教に派遣されていく弟子たちも、1日漁に出てもわずかしか収入のない漁師であり、人々に嫌われた職業であったり、「小さくされた者・幼子のような者」だったのです。また同じように、イエス・キリストを伝えるために遣わされていく現代のわたしたちも、福音のメッセージそのものよりもむしろ、「あなたはどこの大学を出たのですか、最終学歴はどこですか」ということに関心を持たれるかもしれません。
 キャリアについていろいろ言う人はたくさんいます。けれども、恐れずに福音を告げ知らせましょう。任せられている子どもたちにも、わたしはイエスさまにこの務めを託されたのだからと何度も自分に言い聞かせて、話してあげましょう。出かけていってはさまざまな困難に打ちひしがれて帰ってくる「たくさんの弟子たち」に、イエスは「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)と言ってくださるのです。
 イエスは休ませてくださいます。どんなに疲れていても。何度も挫折を味わい、打ちひしがれて帰ってきても、「やあ、疲れたね。ゆっくりおやすみ」と声をかけてくださいます。さあもう一度、元気をいただいて一人でも多くの人に信じていることを語り続けましょう。●マタイ11・25-30

年間第15主日(2005年7月10日)

たとえのその向こうが大切です

 イエスが語られるたとえ話には、「天の国を知る鍵」が隠されています。この鍵は天の国のことを知りたい人、心を開いてイエスの語られることに耳を傾ける人に授けられます。イエスに心を閉ざす人には鍵のありかは教えてもらえません。たとえ話は、心を開く人と心を閉ざす人とをより分ける「試金石」のようなものです。
 一つ注意点があります。イエスは、「たとえを聞かせたくてたとえを話しているのではない」ということです。イエスのたとえ話には必ず「たとえを通して伝えたいこと(天の国のこと)」が含まれています。たとえの真意を伝えることにより時間を割くべきです。
 この点は、たとえ話を使って勉強しようというときに十分気をつける必要があります。「あー、きょうはたとえ話を話すだけで終わってしまった」。本当に時間が足りないこともありますが、「このたとえでイエスはこんなことを伝えたかったのよ」というひと言だけでもいいから必ず添えてほしいなと思います。昔話のように語り、語り終わったところで「はい、おしまい」。これだけはぜひ避けたいものです。
 さて「種を蒔く人のたとえ」ですが、みことばを聞いて悟る人は、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶと言っています。わたしは日本のお米のことを当てはめて考えるのですが、よくあんなに穂をつけ実るものだなあと感心します。今では寒さや塩害、土の状態に応じてさまざまに品種改良され、一定の面積あたりの収穫量まで予想できるのだそうです。
 日本人は、お米のことを知っています。今週のたとえ話を聞くとき、期待に胸を膨らませてわたしたちの福音の種蒔きを受けとめましょう。ある人はきっと、わたしたちの蒔いた種がきっかけでたくさんの実をつけるに違いありません。日本にも、まだまだたくさんの「聞いて悟る」人々がいるはずです。
 折りが良くても悪くても、種を蒔き続けましょう。成長させるのは神なのです。ちなみにわたしは、日曜日の説教をまとめたメルマガ(メールマガジン=電子メールで配信する雑誌)を3年ほど出し続けてきました。現在、オランダ、イギリス、台湾などでメルマガを購読してくださっている人がいます。予想もできなかった実りです。●マタイ13・1-23

年間第16主日(2005年7月17日)

福音の種は世界を神の国にします

 イエスは「種を蒔く人のたとえ」に続けて、「天の国」をよく学ぶためのたとえ話を次々と話します。それらを「蒔かれる種」から考えると、邪魔者が入っても確実に実をつけ、どんなに小さく見えても大きくなり、そのものは小さくても全体に影響を与えることがわかります。イエスの弟子が種蒔くその「種」には、だれにも妨げられない「イエスご自身」が留まっていると言ってもよいでしょう。
 聖週間の典礼、聖木曜日の洗足式のことを思い出します。イエスが食事の途中で弟子たちの足を洗われたことにちなんで、聖木曜日の典礼で洗足式を行いました。わたしは典礼係の人に、「男性を12人集めておいてください。その中に、『イスカリオテのユダ』も一人含めてくださいね」とお願いしたのです。「イスカリオテのユダ」とは、この場合「まったく教会に足を運ばない人」を頭に置いていました。
 当日、典礼係の人がわたしに言いました。「神父さま、12人連れて来ましたが、『イスカリオテのユダ』ばかり集まりました」。「聖書に『イスカリオテのユダ』は一人しかいないでしょう。一人でいいって言ったじゃない」。「声をかけたら、『これを機会に教会に足を向けたい』って言うものですから」。当日の洗足式は、実に感動的なものになりました。「イスカリオテのユダ」どころか、全員聖人のようにわたしには見えたのです。
 きっかけは、小さな種蒔きでした。冗談とも本気ともつかない「イスカリオテのユダを一人入れてね」ということばが大きく膨らみ、洗足式全体を魅力的なものにしたのです。種は蒔きましたが、わたしが予想した実りをはるかに超える収穫をいただきました。アメージング・グレース(驚くべき神の恵み)と言ってもよいでしょう。
 イエスの弟子が蒔く「種」は、どんな困難にも妨げられることなく、大きく成長し、全体を膨らませて神のお望みの姿に変えてくださいます。言ってみればこの世を神のものとしてくださいます。何年も、何十年も教会に足を向けなかった人が、ちょっとしたきっかけで皆と同じ席に着き、賛美をささげ、パンをいただくのです。あなたが蒔く「みことば」もまた、いつかは全体を膨らませます。●マタイ13・24-43

聖母の被昇天(2005年8月15日)

聖母と教皇さまとマザーがいっしょかも

 教皇ヨハネ・パウロ2世がお亡くなりになり、新たにベネディクト16世が即位されました。亡くなられたヨハネ・パウロ2世は26年もの間、全世界のカトリック教会の指導的立場にありましたが、もしかするとこの教皇しか知らないという方もたくさんおられるのかもしれません。わたしにとっても、はっきり意識できる教皇と言われたらヨハネ・パウロ2世お一人ということになります。
 人はこの地上の生活が終わると、神によって定められた状態に移されることになります。天国・煉獄・地獄のいずれかであると言われますが、わたしたちは天国のことを一心に見つめてこの地上の生活を過ごしたいものです。神に生かされているわたしたちの国籍は天にあるのですから、御心にかなう生活だけを思い描くべきでしょう
 わたしは個人的な意見として、ヨハネ・パウロ2世もすぐに天国に招かれるものと信じております。きょうお祝いする聖母マリアのように、からだも魂も死の直後に天に上げられるかどうかはわかりませんが、もしかするとマザー・テレサとすぐにお会いして、「やっとお会いできましたね。天国でも忙しくしているのですか」などと談笑しているのではないでしょうか。
 教会は聖母マリアが死の直後にからだも魂も天に上げられたと教えます。それは、神が人間にどれほどのいつくしみを示してくださるかという大きなしるしです。そしてこのいつくしみは、死を迎えた人にのみ向けられるものではありません。当然、生きているわたしたちも、神がいつくしみ深い方であることをマリアを通して固く信じるのです。
 マリアが、天使に告げられた預言の成就を見る前に神をあがめ、喜び称えていることは注目に値します。まだ見ることもない未来のことまで、神のなさることはすべてすばらしいと、ご自身を完全に委ねます。マリアのこのような態度が、神から最上のプレゼントをいただいた「受賞の理由」なのでしょう。
「憐れみをお忘れになりません」(54節)。「アブラハムとその子孫に対してとこしえに」(55節)。アブラハムは神を固く信じた旧約時代の義人です。神を固く信じる者は、アブラハムの子孫です。わたしたちにも、神の憐れみはたえず注がれます。●ルカ1・39-56

年間第27主日(2005年10月2日)

神は辛抱強く収穫を待っておられます 

 初めに、お詫びと訂正を。「主の昇天」「聖霊降臨祭」の祝い方について、5月8日号で取り上げた内容を訂正いたします。話題に取り上げましたオランダ在住の方にもう一度問い合わせたところ、「主の復活(今年は3月27日)をいれてそこから40日目を数えるので、主の昇天は金曜日でなく、必ず木曜日になります」。同じく「主の復活当日をいれてそこから50日目が聖霊降臨祭です。ですから必ず日曜日になります」という返事でした。
 ごていねいに、「日本とオランダでは時差があるので、電子メールを受け取った時間が夜の12時を過ぎていたので勘違いなさったのでしょう」といたわりのことばまでいただきました。ということですので、起算の日を誤ってしまったために、誤解を招いてしまいました。申し訳ありません。
 さて、今週は「ぶどう園と農夫」のたとえですが、収穫にまつわるたとえは、イエスさまにとって大切なたとえの一つになっていると思います。「種まく人のたとえ」もそうです。収穫に関わる作業は、おおむね1年を区切りとして行われるわけですから、のちの教会の暦が1年を周期にしていること、日常の生活が1年を区切りにしていることにも深く関わっていると言えます。
 1年ごとに、神はわたしたちにぶどう園の収穫を期待しておられます。「要求」なのではなく、「期待」です。放蕩息子が帰ってくるのを待つ父親のように、首を長くして待っておられる。それも、収穫を得るために必要な環境はすべて神ご自身が整えた上でのことです。
 そうであるにもかかわらず、わたしたちは収穫をお返しすることが何と遅いことでしょう。教会学校のカテキスタとして自分を見るとき、キリストの生涯を典礼暦に沿って子どもたちに教えます。こうしてカテキスタとしては、与えられたチャンスの中で神にお返しをするわけですが、実際にわたしは典礼暦の流れ(待降節から始まって、王であるキリストで終わる暦)を理解するまでに長い時間を要しました。年間第27主日と言えば、「ああ、もう少しすると今年の教会暦も終わりだなあ」とか、体で感じられるようになるまでには、さらに時間が必要でした。
 それでも、神は辛抱して収穫を待ってくださいます。たとえにあるように、罪を犯してひとり子の命を奪って初めて、自分たちが収穫をお返しすべき立場にあったと気づいたとしても、それでもゆるし、待ってくださる愛深い神なのです。●マタイ21・33-43

年間第28主日(2005年10月9日)

礼服さえも用意する神の思いを忘れずに

 わたしたちは神さまのやさしさはよく理解するけれども、神さまの厳しさはあまり理解しようとしないかもしれません。きょうのたとえで拾ってみると、「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」(7節)などの表現は、父である神を表そうとしている王にしては残酷だと思うに違いありません。
 本当のところは謎ですが、読み続けると町の大通りに行って見かけた人すべてを招待するように家来たちに命じていますので、現代の戦争で考えられるような「全滅」ではないのかもしれません。そうであれば、王の怒りの一つの表現と取ることもできるでしょう。
 そうは言っても、王として登場する父なる神の中には、人間から期待をことごとく無にされた場合の「聖なる怒り」があるだろうということは、考えておくべきでしょう。今週の朗読の最後には、「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ」(13節)というような表現もあり、神がお怒りになるとすれば、それなりの理由があると考えるべきです。イエスも神殿で鞭を振るい、ささげものの動物を追い散らし、両替の金をまき散らしたことが記録されています。
 神さまの厳しさに理由があるということについて、一つ例を挙げておきましょう。王はあらためて婚宴を開くために、大通りに出て見かけた人はだれでも婚宴に連れて来るように家来に命じます。その中に礼服を着ていない者が一人いたとあります。この様子から考えてみましょう。
 イエスさまのおられた地方では、身分のある人が婚宴をもよおすとき、招待した客が他の客から失礼だと思われないように、必要であれば礼服も用意して客を招待する習慣があったのだそうです。ですから、ここに招かれた人々は、主人が用意した礼服を着けることが十分可能だったわけです。もしかしたらほかにも、そのようにして礼服をお借りした人がいたかもしれません。
 そのような事情を踏まえた上で考えると、礼服を着けなかったというその人は、用意されていた礼服すらも断って、あえて失礼な態度をみずから承知の上で取ったということになります。そこまでして、主人の好意に傷をつけたのですから、これは、主人の怒りを買っても仕方のないところです。つまり、神にとっても、怒りを表すまでにはそれなりの事情があるということですね。●マタイ22・1-14

年間第29主日(2005年10月16日)

神から与えられたものは神に返しましょう

 今週の朗読に限らず、ユダヤの国がローマ帝国に支配されていたことを感じさせる表現は、福音書のあちこちに見られます。ユダヤにはヘロデ王がいましたが、エルサレムにはローマの総督府があり、総督ピラトがいました。イエスさまの弟子には、ローマの支配から力ずくで自由をかち取ろうという思想を持った熱心党のシモンがいました。
 今週の「皇帝への税金」も、ローマの支配を苦々しく思っていた人々には耐えられない話だったので、イエスさまに不満をぶつけ、陥れようとしたのでしょう。皇帝への税を認めれば、皇帝を神とあがめたと言いふらすでしょうし、納税を認めなければ、ローマへ逆らう反逆者扱いです。イエスさまはそのような罠を悲しく思いながら、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(21節)とおっしゃいました。
 わたしは、イエスさまがローマ皇帝をまったく恐れていないことを示した時点で、すべてに答えが出たのではないかと思っています。「この世の権力者が税を取ろうとするのなら、取るがよい。むしろ、神が人間に求めるものにこそ注意を払いなさい」。皇帝さえも、神に負っているものは返す必要があると、皇帝が人間に過ぎないことをはっきり示したのだと言えます。
 わたしたちも、神にお返しすべきものを返す準備ができているか、これこそ慎重に考えるべきだと思います。長く生かされている人は、この人生を与えていただいたことを神さまにどのようにお返しすればよいか、つねづね考えておくべきです。たくさんの才能に恵まれた人や、仕事や役割を通して生き生きと暮らしている人も、わたしのいただいたものをどのようにお返しすればよいだろうかと、頭のどこかに感謝の気持ちを忘れないようにしたいものです。
 わたしは神に何もいただいていない。何も誇れるものはないし、かえってたくさんの人のお世話を受けている。神さまにお返ししたくても何もないと。もしも神さまに感謝できるものが見つからない人でも、神さまのもとにはたくさんの場所があり、わたしのためにも場所を用意してくださっていることは、忘れてはいけないと思います。
 たとえ気づかないにしても、わたしたちは与えられて生きているのです。どう考えても、わたしが先に神さまに何かを与えたことはいまだかつて一度もないのですから。●マタイ22・15-21

年間第30主日(2005年10月23日)

掟に縛られては掟のねらいも見えなくなります
 
今週の朗読でファリサイ派の人々が「どの掟が最も重要でしょうか」(36節)と尋ねたわけですが、「どの掟が」と言うからには、もともといったいどれくらいの掟があるのか知っておくのは役に立つかもしれません。いろいろ当たってみると、律法は613の戒めからなるということが見えてきました。
 幼いころわたしは、『公教要理』という本を友だちと一緒に丸暗記した経験があります。300以上の問答形式の本でした。今は残念ながら全部忘れてしまいましたが、当時はどこから尋ねられても答えることができました。ちょっとした律法学者でした。たくさん覚えていましたが、どの掟が最も重要かと言われても、何も答えることができません。すべて大事ですとしか言えませんが、それもよい答えとは言い切れません。
 そこで、過去は過去としていったん精算することにしました。暗記したことがわたしの血と肉になりましたが、300以上の問答を覚えたことを自慢しても「無意味(613ムイミ)」だということです。覚えたことが無意味ということではありません。覚えたことを自慢するのが、律法を暗記していない人をさげすむ学者こそが、「無意味(613)」だと言いたいのです。
 イエスもきっと、幼少のころから旧約聖書に親しみ、律法を教えられて育ったと思います。ですが、そのイエスであっても、「心を尽くして神を愛すること」「隣人を自分のように愛すること」が掟の根幹ですと、新しい見方を示してくださったのでした。掟を通して、神を深く愛し、隣人を深く愛する人に育っていくのでなければ、どれだけ掟に精通する人になっても意味がないということではないでしょうか。
 わたしたちも、生活のすべてが神の掟の中にあると思います。もしこの意味を、「生活のすべてが律法の中にある」と取るなら、あの掟を破った、この掟に触れたとビクビクして暮らさなければならないでしょう。そうではなく、「生活のすべては、神を愛し、隣人を自分のように愛するという掟の中にあるのだ」と取れば、一人ひとりがきょう一日神を愛しただろうか、隣人を自分のように愛しただろうかと、意味のある振り返りをすることができるに違いありません。●マタイ22・34-40

年間第31主日(2005年10月30日)

あなたがどういう人か神にこそ知らせて

 だれも、「言うだけで、実行しない人が好きです」という人はいないはずです。ですが、わたしたちは大なり小なり、「言うだけで実行しなかった」悲しい過去を通ってきているに違いありません。わたしはいったい何人の人に「あとで手紙を書きますね」「あとで返事しますね」と言ってそのまま放置したことがあったでしょうか。まったく穴があったら入りたいくらいです。「そのすることは、すべて人に見せるためである」(5節)。これは自分に向けて言われたイエスさまからのキツイお仕置きのことばです。
「聖句の小箱」。日本で言うと山を歩きながら修行をする人たちが、頭に小さな箱を巻き付けていますね。あのようなイメージを思い浮かべてください。律法を重んじていますということを強調する小道具だったのでしょう。
「衣服の房」。この房は、先週の律法の数と関係があって、613の房飾りをつける習慣があったと言われています。これもまた、律法を忠実に守っていますということを強調する小道具だったのでしょう。「能ある鷹は爪を隠す」ということわざの通り、人に見せることに気を取られるくらいなら、もっと掟を通して神の愛を感じられるように、自分の体験を人に分かち合うべきだったかもしれません。
 そこでイエスさまは次のように言うのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(12節)。あなたが果たしているよい行いは、神がご存知ですし、神が知っているだけでよいはずです。通りで人目につく必要はないはずなのです。
 ですが、人は悲しいことにだれかに認めてもらえないと満足しません。だれかに持ち上げてもらうと、初めは遠慮するかもしれませんが、そのうちに慣れてきて、まんざらでもないなあと思うようになります。一度積み上げた功績や結果を取り上げられてもう一度ゼロから積み直してくださいなどと言われようものなら目をつり上げて食ってかかることでしょう。仮に神があなたにもう一度やり直してほしいと言っても、わたしたちは同じ態度に出るのかもしれません。
 こんなもろい人間ですから、繰り返しイエスさまのことばに立ち戻って生活を整えていきたいものです。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。たくさんのよい行いも、一度のおごり高ぶりで無駄になってしまいかねません。きょうも、明日も、高められる日を待ち望んで自分の生活を神の望みに合わせていきましょう。●マタイ23・1-12

待降節第2主日(2005年12月4日)

イエスさまを迎える準備で頭はいっぱい

 待降節の第2週目にどうしても伝えたいことは1つ、この週には洗礼者ヨハネが登場する、ということです。教会学校で教えておられるカテキスタの方々、今週は洗礼者ヨハネの週だと覚えてくだされば、早くから準備に取りかかることができますよ。
 あえてもう1つ付け加えると、今年はマルコ福音書が描く洗礼者ヨハネの姿を取り上げます。では昨年は? 昨年はマタイ福音書から取り上げました。では来年は? 来年はルカ福音書に描かれる洗礼者ヨハネが引用されます。つまり、マタイ(A年)→マルコ(B年)→ルカ(C年)と、3年周期で日曜日の朗読は回っているのです。ついでに申し上げれば、ミサの朗読箇所を決める土台である典礼暦(典礼のこよみ)は待降節から始まります。先週の待降節第1主日から始まった今年はB年にあたり、1年にわたってマルコ福音書を柱にして朗読が選ばれます。もうご存じですよね。
 さて洗礼者ヨハネが登場する週ですから、洗礼者ヨハネがどんな活動をして、どんな声を上げたのか、そういう話になりますが、大きくまとめると「民に悔い改めを促す」ということです。そして、ヨハネの活動のすべてが、「まもなくおいでになる救い主をふさわしく迎える」ということに結びついていました。いつも、どんなときも、「救い主をふさわしく迎える」ことが頭にあったのです。
 ずっと1つのことが頭に引っかかって、1か月、2か月と過ごした体験がおありでしょうか。中田神父は9月から、そのような体験をしました。長崎にあるカトリックの大学で講義を1コマお願いされまして、実際に講義をこなすまで、ずっと講義の準備のことが頭から離れない暮らしでした。
 のんびりできるはずの時間であれ、忙しくしているその最中でも、1か月も先の講義のことが頭にこびりついて、離れなかったのです。かなり、「しんどい」体験でした。慣れていないということもあるでしょうが、1か月の間、頭から離れることは決してありませんでした。
 頭から離れない何かがあれば、その思いは生活全体に影響します。洗礼者ヨハネは、救い主の到来が、手に取るようにはっきり感じられていたので、いつも救い主への準備を欠かすことはありませんでしたし、民衆にも準備を促したのでした。クリスマスまでは、イエスさまのことで頭がいっぱい、そんな経験をしてみたいものですね。●マルコ1・1-8

待降節第3主日(2005年12月11日)

主のためにささげ尽くした人生はすばらしい

 洗礼者ヨハネのもとには、回心の呼びかけに心を打たれて悔い改めの儀式(イエスによる洗礼と区別するために、あえてこう書いてみました)を受ける人々がいましたが、きょうの朗読に登場するように、あまり信じてくれない人々もやってきました。祭司やレビ人たちです。
 彼らは自分たちを遣わした宗教指導者たちに報告するためにやってきました。せっかく来たのに、悔い改めの儀式を受けないなんて、もったいない話です。ヨハネは決して自分の宣伝になるようなことは言わず、ひたすら「後から来られる方」のことだけを証しします。「声」になるのです。
「声」を突き詰めて考えてみましょう。「声」には「声の主」がいなければなりません。「声の主」が発したのでなければ、「声」ではなくただの「音」に過ぎません。「声」はメッセージを発しているでしょうが、それはいつも「声の主」が込めたメッセージであるはずです。
「声」は勝手には何も話しません。「声の主」が語って初めて、「声」は響くのです。洗礼者ヨハネは徹底して、「後から来られる方」の「声」となったのです。自分を消し、まだ見たこともないそのお方を、前もって響かせたのです。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(23節)
 自分を消して、「声の主」を響かせようとする生き方は、皆さんにはどのように映るでしょうか。自主性がない、つまらない生き方に見えるでしょうか。中田神父は、むしろなかなかまねのできない、尊い生き方ではないかなあ、と思っています。
 病院で寝たきりのあるおばあちゃんが、「わたしは自分が所属している教会がいついつまでも栄えますようにと、そのことをずっと祈って生きています」とおっしゃったことがあります。この女性は、見た目には寝たきりの人生です。でも「寝ているだけの人生」ではないと思います。彼女の生き方は、ほかのどんな人にも負けないくらい活動的だと感じました。「声の主」のための「声」という生き方がすばらしいように、「命の与え主」のために生きる「人生」もまた、すばらしいと思いませんか?●ヨハネ1・6-8、19-28

待降節第4主日(2005年12月18日)

マリアの返事に、神は全力でお答えになります

 いよいよ、準備して待ち続けた救い主にお会いする日も目の前まで近づいてきました。新しい命を迎える1週間前って、いったいどんな過ごし方をするのでしょうか。想像でしかありませんが、そわそわして、落ち着かないというのが正直な気持ちではないでしょうか。国を代表する方や世界的に有名な方を空港で出迎えるときの緊張感が、感じとしては似ているのかも知れません。
「おめでとう、恵まれた方」「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。マリアは天使ガブリエルにこのように告げられました。びっくりしたに違いありません。マリアも、イスラエルの民の一人として、救い主がいつかおいでになることを信じ、待ち望んでいたことでしょう。ですが、「今、あなたからこの出来事が起こります」と言われれば、驚くのも無理はありません。
 ただし、マリアは勇気を出して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。女性の勇気はしばしば男性以上です。中田神父がそう思うのは、復活の出来事のとき、見張りの番兵は失神して気を失いましたが、マグダラのマリアともう一人のマリアは気を失わなかったからです。女性の勇気について、わたしはいつもこの話を引き合いに出します。
「お言葉どおりに成りますように」。マリアのこの言葉は、わたしたちの今週の心構えのすべてです。神さまのご計画が、そのまま実行されて、平和が訪れますように。幼子を通して、救いをこの目で確かめ、喜び合うことができますように。待ち望んだすべてがイエスさまという形ですべて与えられ、その喜びを人々に告げ知らせることができますように。神さまのご計画に「はい」と答えたすべての人によって、たくさんの喜ばしいことがこの世界に実を結びますように。
「お言葉どおりに成りますように」。これは返事としては短い言葉ですが、マリアのこの返事に、神はその御ひとり子をお与えになることで答えてくださいました。一人の女性の「はい」に、神はご自分の愛のすべてである御子イエスで、答えてくださいました。●ルカ1・26-38

主の降誕(日中)(2005年12月25日)

神がご自分の命を与えてくださった日

 世界が、目を見張る出来事って何ですか? 全世界が注目するニュースって、どんなものでしょうか? 一国の王子の結婚式ですか? 大統領選挙ですか? それらも大ニュースに違いありませんが、世界でいちばんのビッグニュースは、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」の誕生です。見た目には、とてもニュースになりそうな華やかさはありませんが、人類すべてに関わりのあるニュースですから。
 今年もわたしたちは、この「大きな喜び」に加わることができました。民全体に与えられる喜び、天の大軍が賛美を響かせる出来事を、今年も無事に見届けました。今年は、「与えられた」ということに注目してみたいと思います。救い主は、民全体に与えられました。
「与える」という言葉を使うとき、「与え主」と「受ける相手」とがいます。救い主の「与え主」は父なる神、「受ける相手」は全人類です。また、「プレゼント」は受け取る相手にとって十分に喜べるもの、不足のないものでなければなりません。御子イエスは、全人類にとって十分に喜べる贈り物、もちろん不足もありません。父なる神がこれほどの贈り物をくださるのは、わたしたちを特別に愛しておられるからです。
 全人類に神の子の命が与えられたきょう、わたしたちも、自分自身の命について考えてみるといいでしょう。実はわたしたちの命も、御子の命が人類に与えられたように、神によってわたしたち一人ひとりに与えられているものではないでしょうか。クリスマスは、命を与えてくださる神に思いを寄せる喜びの日と言ってもいいでしょう。
 ところで、わたしたちはお互いに、贈り物を交換し合う良い習慣があります。神が、御子をこの世にお与えになったことに、わたしたちはお返しができませんが、御子ご自身が、のちに父なる神へのささげものとなって、わたしたちのためにお返しとなってくださいます。では、わたしたち自身の命についてはどうすればいいのでしょうか?
 わたしは、自分の命についても、精いっぱい良い状態でお返しすべきだと思っています。すり減らしてお返しするのではなく、良い状態で、できればより完成された状態で、与えてくださった神さまにお返しすべきでしょう。「飼い葉桶に眠る幼子」を眺めながら、神の命を人類にお与えくださる深い愛に感謝し、またわたしたち自身の命を与えていただいたのですから、人生の最後にお返しすることをあらためて幼子に約束いたしましょう。●ルカ2・1-14

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