命について考える(純心大学講義原稿)

命について考える
カトリック馬込教会 中田輝次

@命に関する素朴な疑問

●皆さん初めまして。「命について」というテーマで講義を一コマ持つことになりました中田輝次(ナカダコウジ)神父です。四月に、伊王島でオリエンテーションが行われたと思います。その、伊王島にある馬込教会で勤めています。
●今回も初めに準備したときの資料で話を進めます。「命について」というテーマで講義を進めるわけですが、素朴な疑問として、「命」の大切さが分かっていて、「生きる」ということも理解できていれば、テーマとしてあえて取り上げる必要はないのではないかと思うのです。例えば、「この世界のすべてに命がある」と考え、「わたしたちはこの命を傷つけないように、お互いに協力し、いたわり合って生きてゆきましょう」そのように行動するなら、今日のテーマについて考えようとするのはすでに身に付いていることの繰り返しになってしまいます。
●では今この21世紀に、小学生にとって「この世界のすべてに命がある」ということは疑いのないものなのでしょうか。同じく中学生にとって、高校生・大学生にとって、すべてのものに命があり、助け合い、いたわり合って生きてゆきましょうという考え方は、説明の必要がないと言えるでしょうか。むしろ、この世のすべてのものが生きるためにこそ存在していることを、誰かが説明し、いっしょに考える必要性が高まってきているのではないでしょうか。

A少し前まで、「命」に触れる環境が豊富にありました

●私は約30年前、小学生時代を過ごしました。25年前、中学生でした。20年前、大学生でした。生まれた場所は五島列島の田舎、現在の新上五島町鯛ノ浦郷中野で、長崎よりも当然田舎の環境に育ちました。山の中を駆け回り、磯に出て釣りをし、真っ黒になって遊んだものです。ポケットに入るようなコンピューターゲームなど存在しない時代でしたが、不自由を感じることはありませんでした。
●当時の遊びの一例を挙げましょう。山に入ると、狭い山道ではクモが巣を張って待ちかまえています。子どもたちはそのことを知っていましたから、枝を用意してそのクモを巻き付けるのです。もう一人同じようにしてクモを捕まえてきて、何をさせるか。2匹のクモを近づけてケンカをさせます。あるいはバッタを捕まえてきて、バッタがどこまで飛ぶかを競ったり、自然の中にいて日が暮れるまで遊ぶことができました。
●生き物が死んでしまうのをこの目で見ることもたくさんありました。多くの昆虫がその寿命を終えて、アリが巣の中に運び込むのを眺めたことがあります。実家では鶏を飼っていましたが、時には野犬に襲われたり、外敵に襲われたりした鶏が命を落とし、土に穴を掘って埋めたこともありました。放置したり、ゴミのように扱ったりすることはありませんでした。
●ところが今はどうでしょう?小さな命が息絶えたとき、子どもたちはその命をどのように扱うのでしょうか?「あーこれで終わった」「おしまい」と放置したり、ゴミ箱に捨てたりするのではないでしょうか。どう扱っていいのか分からない子どもたちが実際にいるのです。現代のすべての子どもたちがそうだとは言いませんが、小さな命が最後は土に帰っていく様を、子どもたちは考えたことがないのではないでしょうか。一つの命が息絶えて、次の命に受け継がれていくことを、子どもたちに知ってもらう必要があります。今は日常生活の中で自然に命の躍動を学ぶということは難しくなってきているからです。

B命のバランスと人間の過剰な欲求

●海の生き物についても考えてみましょう。海ではより分かりやすく命の循環が見られます。プランクトンが発生し、それをエビやカニや貝が食べ、それらを小魚が補食し、さらに大型の魚が獲物にしています。自然の中ですばらしい循環のメカニズムが備わっているのですが、残念ながら人間はこの循環のメカニズムに割って入り、バランスを壊してしまうのです。バランスを壊さない程度にお世話になっていた時代もありましたが、大型の機械を持ち込み、大きな魚も小さな魚も根こそぎ引き揚げ、いらなくなれば捨ててしまって、環境を壊しています。
●私たちには責任がないと思うかも知れませんが、いつでも新鮮な魚が食品コーナーに並んでいるだけでも、人間は自然環境に無理をさせているのです。世界の果てまで魚を追いかけて、いつでも鮮魚コーナーに魚が並ぶようにしているわけですから、広く考えれば人間の欲求が、小さな命に無理をさせてしまっているのです。
●人間がお世話になっている命は何でもそうですが、いつでも求めれば手に入るというのは本来はあり得ないことなのです。人間の欲求が大量生産や大量捕獲を要求しているのであって、それはつまり、人間のために多くの命が過酷な運命にさらされているということなのです。魚屋のご主人が「今日はイワシは置いてません、今日はこれこれの種類は切らしています」と言っている。それが、本来あるべき姿なのです。いつも切らさないようにしようと、人間は自然環境に無理をさせてきました。
●こうした事情を、あらためて考える機会が必要な時代に入りました。人間が、自然環境に無理をさせてきた時代を反省して、もっとそれぞれの命をいたわってあげること、人間が多くの命に支えられて生きていることに感謝すること。そして学んだことを実行する時代に来ていると思います。特に、人間同士の命の大切さを、自然環境の命から学び、当てはめていく知恵を学ぶ必要があります。

C人間は無機質なものに命を吹き込むことができる

●ここまで生き物、動植物について考えてみたわけですが、それら以外のものに命はあるのでしょうか。地球そのものが命であると考えれば、石炭や石油を果てしなく掘り続け、ダイヤモンドやその他の宝石、金属を採掘し続ける人間は、地球という命を傷つけていると言っても良いかも知れません。ですがここではひとまず、無機質なもの・命を持たないものとして考えます。
●たとえ、鉄とか石が命を持たないとしても、人間は命のないものに命を吹き込むことができます。こんな芸当ができるのは、人間だけと言って良いでしょう。何千何万という部品を組み合わせて、人間はロボットを作り出しました。特殊な素材でロボットを覆って、これが本当にロボットだろうかと思わせるような皮膚をまとったロボットまで登場しています。
●ほかにも、流れ着いた流木に彫刻を施し、作品に仕上げるとか、切り出した石を加工して仏を彫り上げるとか、命の感じられないものに手を加えて命を吹き込み、ぬくもりを感じる、生気のあるものに作り替えることもできます。これはどこまで科学が進んでも、人間だけにできる専売特許ではないでしょうか。

D私たちも命を吹き込む体験をしてみよう

●この、「命を吹き込む」という働きについて、あとで形を変えながら繰り返し返し取り上げるつもりですが、この教室でも意味のないものに意味を与えるという作業に取り組んでみましょう。今手元に、26年前に爆発的なブームとなった「ルービックキューブ」があります。机に置いてあるキューブは、前もって完成させたものですが、いったん壊して、それから六面完成させることにしましょう。
●少しだけ、私が手を入れますから、誰か一分くらい続けて手を加えて、あきらからに壊しているという状況を作ってください。それから、誰かに完成させてもらいたいのですが、時間がかかると困るので、中田神父が完成させてみたいと思います。制限時間は3分ということにしましょう。
●では、完成させたいと思います。ストップウォッチ機能の付いた時計を持っている人がいたら、時間を計っておいてください。皆さんの許しがあれば、六面完成した後にもデザインを施して楽しんでみたいと思います。

E人間は人間をこの世に送り出す素晴らしい存在です

●ただルービックキューブをいじって遊んでいたわけではありません。見た目には壊れているように見える状態に人間が手を加えることで命が吹き込まれる、人間は無意味な配列に手を加えて、意味のある配列に作り替えることができるということが伝えたかったわけです。命を持たないものに命を吹き込むこと。これは人間にしかできないわざということです。
●命を吹き込む働きについて、二つ考えておきましょう。一つは、人間が石や何かの部品の塊に命を吹き込むのであって、決して石が人間に命を吹き込んだり、ロボットが人間に命を吹き込んだりするのではないということです。人間は、命のないものには決してたどり着けない優れた部分を持っているということになります。
●もう一つは、人間は同じ人間の命を、この世に送り出すことができる、ということです。私という人間は、一組の男女のカップルからこの世に送り出された命です。一組の夫婦から、命を吹き込まれた。それも、何もないところから送り出された命なのです。掘り出されたものでも形をつけられたものでもなく、まったく形のないところからこの世に送り出された命です。
●同じ命を送り出すという意味では、魚や陸上の動物など、人間以外の生き物も同じ命を送り出しますが、良くも悪くもほかの生物に影響を与えたり、DNAや遺伝子の研究など命の謎を解明しようとしたりするのは人間以外にありません。その点でも、人間は他のすべてにまさっています。
●他のすべてに優れていながら、人間はすべてのものに配慮することをしばしば怠ります。人間の活動が災いして絶滅した動物・植物はどれほどの数に上ることでしょう。星の数ほどと言って良いかも知れません。ほかの動植物だけでなく、人間は人間の命にさえも災いをもたらすことがあるのです。目の前にいる人間を憎いと思い、凶器を用いて排除しようとします。この人間がいなくなれば都合がよいと考えて、子が親を、親が子を、兄弟が兄弟を、隣人が隣人を、手にかけることがあるのです。

F命の始まりから大切に守ってあげて下さい。

●ある場合は、命の芽生えを排除してしまうこともあります。2005年の10月1日、NHK総合で、「”いのち”の対話〜妊娠中絶・医師2人の模索〜」という番組が放送されていました。中山産婦人科クリニックの副院長鮫島浩二医師はクリニックを訪れるすべての人の面接を引き受け、できれば妊娠中絶をしないようにとあらゆる面から女性を導こうとしていました。番組の中で鮫島医師は、胎児がすでに10週目で動いていることを女性に見せて、思いとどまるようにと勧めていました。
●お腹の新しい命のために、体を張って女性と向き合ってくれる医師がいることを、知ってほしいなあと思います。もちろん、女性の立場や言い分もあるでしょう。男性の私には十分理解できていないかも知れません。ですが、鮫島先生が相談に来た女性に話していた、生まれてくる子供が2歳、3歳になったときのかわいさは、言葉では言い尽くせないほどだということは分かります。
●乳幼児が思わず見せる笑顔に、喜びを感じない人間はどこにもいないと思います。これほどの喜びを与えてくれる命を、妊娠した当時の事情や、都合や、パートナーの無理解に失望して、お腹の中から排除してしまうことは、何としても避けて欲しいわけです。鮫島先生は、どうしてもお腹に宿った赤ちゃんを望まないのであれば、養子縁組を紹介してその子を手放して、新しい運命・新しい出会いを与えてあげるようにということまでお世話しています。
●現在は、独立開業して自分の信念に基づいた病院を始めているということです。またこの先生は、「母親学級」として幼い子を抱える母親のために命の大切さを説く講座を設けています。番組の中では、鮫島先生が本として出した「わたしがあなたを選びました」という詩を朗読して、命について考えさせていました(プリント)。決して命に手をかけない、どんな命もこの世に送り出してあげる産婦人科医院。こうした取り組みがこれからも続いて欲しいと思います。
●今お腹に宿している命に手をかけてしまえば、決してその命と再び巡り会うことはありません。仮に新しい命を宿しても、同じ命がもう一度宿るわけではないのです。ですから、パートナーも含めて、人間は自分と同じ命をこの世に送り出すかけがえのない生き物だということをよく考えて欲しいのです。同じ命をお腹に宿していながら、その命に手をかけるということは、私たちが目の前にいるパートナーや、家族や、兄弟姉妹に手をかけることと変わらないことを、よくよく考えるべきだと思います。

G私の命は「わたしの持ち物」なのでしょうか?

●命の芽生えについて少し時間を取って考えてみましたが、私自身の命についてもう少し突っ込んで考えてみましょう。私は一組の男女のカップルからこの世界に送り出されたわけですが、私の命は、厳密には私の手の中にあるものなのでしょうか、あるいは別の捉え方が考えられるでしょうか。
●なぜこんな問いかけをするかというと、命を投げ出す、命を手放す人があまりにも多いからです(URL)。
●私の手の中にあるものなら、手放すこともあるでしょう。あれかこれかという選択肢が私の手の中にあって、どちらかを選ばなければならないとき、私たちは一方を手放します。ですがそれは、あくまでも私の手の中にあるものであって、「わたしそのものを手放すか手放さないか」という意味ではありません。手の中にあるものを手放すことと、私という存在そのものをなくしてしまうこととは、全く別の話です。手の中にあるものをあきらめたとしても、私そのものをなくしてしまうわけではないからです。
●そう考えてみると、命というものは私の手の中にあるものではないと、きっぱり言いたいと思います。ほかのものを手放しても命は残りますが、命を絶ってしまえば私の存在もなくなってしまうのです。人間は心と体があってこそこの世界に存在するわけですから、自殺してしまっては取り返しがつかないと思うのです。本人の思いとしては、自由になるためにとか、楽になりたいからとか、そういった願いに向かっての行動かも知れませんが、思い詰めたその行動は、肉体を滅ぼしてしまうことになるのです。それは、何かを手放すということとは明らかに違います。

H命を「与えられたもの」と考えてみてはいかがでしょう

●そうすると、この命はどう捉える方が適切なのでしょうか。私は、命は与えられたものだと考えるのが適切なのではないかと思います。与えられたものであり、お返しすべきものだと考えると、違った見方ができるようになり、もしかしたら命を絶った人のうち1人とか2人は、思いとどまることもできたのではないかと考えるのです。
●もちろん、追いつめられた状況では、本人に何を言っても効果がないかも知れませんが、命は与えられたものだとどこかで話を聞いていたら、誰かといっしょに考える機会があれば、状況は少し違ったのかも知れません。そして、この考え方は、残念ながら学校教育では触れることのできない部分でもあると思います。すぐあとに触れますが、命が与えられたものだという考え方は、宗教的な意味合いを含む部分だからです。
●先ほどまで、命を吹き込むということで二つの点を考えましたが、ここでもう一度思い出してください。私に命を与える方がいるとすれば、人間より劣った存在ではありません。同じ人間であるか、それ以上の存在でなければなりません。またその方は、私に命を与えてくださっただけではなく、私の両親にも、祖父母にも、先祖にも、つまりは人間すべてに命を与えた方に違いありません。そう考えると、答えはほぼ決まってきます。人間に命を与えた方、それは「神」ということになるのではないでしょうか。
●ですから、ほかの生き物を危険にさらしたり虐待したり、環境を破壊したり、自分の命を絶つことまで含めて、すべて神が命を与えたということを否定する態度ではないでしょうか。「わたしの命はわたしのものです。わたしの決断でどうにでもなります」というような思いが、自らを死に追いやることになっていくのではないでしょうか。もちろんここで「神」という言葉を使いましたが、カトリックの司祭の立場でそう言ったのであって、「より高い力」と考えても良いでしょうし、ある人にとってはまた違った呼び方になるのかも知れません。
●少なくとも、私に命を与える方は、私の両親にも、祖父母にも、先祖にも命を与える方であるはずです。人間よりも劣った動物から直接命を与えられるということは、中田神父には考えられません。命が神から与えられたのであれば、命を与えてくださった神を悲しませるような生き方はすべきではありませんし、与えてもらった命を、いつかはお返しするといった考えにも発展していくわけです。自殺した人たちが、与えてもらった命として自分の命を捉え、お返しすべきものであることを少しでも考えていたなら、状況は変わっていたのではないかと、大変悔やまれるわけです。

I講義前半のまとめ

●ひとまず講義の前半をおさらいしておきましょう。「命」についての、素朴な疑問から入りました。本来は誰もが命の大切さを理解しているはずなのですが、今あらためて命の大切さを問い直す時代になっているということです。また、少し前まで、「命」に触れる環境は身近な場所に豊富にありました。今は、多くの人が命の営みから遠ざけられて生きています。さらに人間は、みずからの欲求のために、本来バランスが保たれている命のつながりに割って入り、バランスを壊してしまっている現実があります。
●もちろん人間はこの世界に迷惑ばかりかけているわけではなくて、命のないものに命を吹き込む独創的な面を持ち合わせています。さらに、一組の男女はこの世に新しい人間を送り出すことだってできるのです。これほどの高度な命の営みができるのですから、その命の始まりから大切に守ってあげて欲しい。決して命の芽生えを排除しないで欲しいと思います。妊娠して十週目で手足を活発に動かし、心臓の音もはっきり聞くことができるのですから。
●そして人間の命は、自分の持ち物だと考えてしまうと過ちに陥ってしまいます。自分の持ち物ではなく、与えられたもの、授けられたものと理解するとき、本当の意味で大切に扱うことができるようになるわけです。借り物だとしたら、よい状態でお返ししなければなりません。それが、「よく生きる」ということにつながっていくわけです。(休憩)





命について考える
カトリック馬込教会 中田輝次

J命は、与えられたものです

●ここからは講義の後半に入っていきます。講義の前半で「命」ということをとことん考えてみたわけですが、後半ではこの命を「生きる」ということを徹底して考えてみましょう。まずはそのつなぎとなる点を話しておきましょう。与えられた命は、お返しする命にも通じるということに触れたのですが、私たちは何かを友達から借りたら、少なくとも借りたときの状態を保ってお返ししようと考えるのではないでしょうか。
●本を借りたとき、あちこち本の耳を折り曲げて返すとか、汚してしまうとか、もっとひどい場合頁を破ってしまうとか、そんなことをして借りた本を返す人はどこにもいないと思います。できるだけ借りたときの状態を保って返すはずです。あるいはもう少し感謝の気持ちを表すために、何かを添えてお返しする人もいるのではないでしょうか。たとえば、本のカバーをつけて、よかったら使ってねと言葉を添えてお返しすると、貸した方も気持ちよく受け取ることができるからです。
●命が、(神から)与えられたものであれば、私たちの経験が教えるように、命の価値を下げてお返しすべきではないと思います。わざわざボロボロの状態にして返す必要はありません。むしろ、与えてもらったときの状態、生き生きとした状態でお返ししようと考えるはずです。さらにそれ以上のことを望むなら、与えられたときの状態をより美しく、より完成された状態で、神にお返ししようと心がけるのではないでしょうか。
●これが、中田神父の考える「生き方の理想」です。この講義で皆さんといっしょに考え、学んでいる「命の時代を生きる」というテーマの重要な柱は、「与えられた命を美しく飾り、よりよい状態で与えてくださった方(神)にお返しする生き方」です。命は(神から)与えられたもので、与えてくださった方(神)によりよい状態でお返ししようと心がける。あなたは人生を、どのように生きますか。この21世紀を、どのように生きますかと聞かれたら、私はこのように答えたいと思います。

K命の価値を高める生き方

●どのように生きていきますかと尋ねられたとき、もう一つの答え方を示しておきましょう。それは、「命の価値を高めるような生き方を目指す」ということです。今学んでいる皆さんの多くは、大学を卒業するといずれかの職業に就き、学んだことを社会の中で試してみたい、あるいは社会に貢献したいと考えていると思います。
●学問の場は、限られた空間の中ですから、どのように生きるかを問われることはほとんどありませんが、社会に出ると一人ひとりが、どのように生きるのかをいきなり問われることになります。どのように生きるのか?一つの答えは、「命の価値を高めるような生き方を目指す」ということでしょう。
●なぜ一生懸命働くのか、なぜさらに上を目指すのか、なぜ良き理解者を捜し求め、満足できる暮らしを得ようとするのか。それは、あなたが得ようとしているもので、自分の命の価値を高めたいからです。自身の生涯を価値あるものにしたいので、努力を惜しまないわけです。
●ただ、どのような生き方が命の価値を高めるのか、信念を持つべきだと思います。信念と言いましたが、具体的には判断の基準を持つということです。この社会は、ほとんどすべてのことが、何かの基準に照らし合わせて判断されています。身近なところでは、あなたが大学側から見て良い学生かそうでないか、いくつかの判断基準に照らして計られているわけです。
●授業に積極的に参加するか、あるいはサボってばかりか。単位を確実に履修しているか、あるいは単位を落としてばかりいるのか。大学としては一定の基準を設けて、学生を判断しているわけです。私が大学関係者なら、やはり授業に一度も参加しない学生よりは、積極的に参加する学生を、「ああ、この学生は自分を高めようとしているのだな」と判断するだろうと思います。

L判断の基準について

●判断の基準は非常に大事です。物差しが間違っていれば、物事を秤にかけるとき間違いが起こります。「生きていても仕方がない」とか、「もう生きていけない」と嘆く人は、自分の命がどれほど尊いものかを見失っているのです。本来命は尊いものですが、そのことを実感できるかどうかはその人の判断に大きく影響します。
●もしも誤った判断で自分の命の価値を計ってしまい、もう生きるに値しないと結論を出してしまえば、周りが何を言ってもなかなか受け入れてはくれないでしょう。命を絶ってしまう方々は、どこかで、自分の命はこの世に存在する価値がないと判断したのかも知れません。あるいは、このような生き方が命の価値を高めるという判断の基準が、どこか誤っていたのかも知れません。
●では判断基準をどこに求めたらよいのでしょうか?どんな判断基準であれば、尊い命を尊いものとして捉え、最後まで生きることをあきらめずに命の価値を高めることができるのでしょうか。これから三つのケースを考えていきましょう。第一は、人物とは関わりなく、価値を高めてくれるような言葉や文章、第二は、その生き方が参考になる人物、第三は生き方も、残した言葉もすべて吸収したい人物です。
●第一の「人物とは関わりなく参考になる言葉」ですが、例えばそれは「沈黙は金」といったことわざは、誰が言ったかということはあまり重要ではなくて、その言葉を自分が経験していったときに納得するものです。そして、もし自分にとって人生をよりよく生きる判断基準になると思えば、取り入れるということになるでしょう。
●第二の、生き方を参考にしたい人物ですが、いろんな人を挙げることができるでしょう。ノーベル平和賞を受賞した人物であれば、1979年のマザー・テレサ(インド)、最近では2004年のワンガリ・マータイ女史(ケニア、「mottainai」で有名になりました)などたくさんの方がいらっしゃいます。
●平和のために力を尽くした方々ですが、主義・主張はさまざまですし、私の生き方の基準にどの人も合うかというと、そうでもないと思います。
●第三、言葉においても、生き方においても私の人生の道しるべになる人物を考えてみましょう。こんな人物こそ、私たちが親しみを持ち、よく知っておくべき人物・判断の基準となるのではないかと思います。歴史の中に偉大な人物は数多く現れましたが、そのうち、本当に信頼を寄せて自己の判断基準として受け入れることのできる人物は果たしているでしょうか。


M確かな基準は果たして見いだせるでしょうか

●私にとって、中田神父にとって、判断基準となる「言葉においても生き方においても狂いのない物差し」となる人物は決まっています。それは、「イエス・キリスト」です。そして、イエス・キリストに判断の基準を置いて生きている人は例外なく、私にとっては人生を歩いていく上での道しるべということになります。
●この授業は、イエス・キリストについて話す授業ではありませんので、必要なことだけ触れたいと思います。なぜ、イエス・キリストが私にとって人生を歩いていく上での判断基準であるかというと、これからのこりの時間で話そうと思っている「人に何かを与える生き方」を貫いた方だからです。いつどんなときでも、たとえ何も与えるものがないと思われるときでも、イエス・キリストは与えるものをもっておられました。
●人に何かを与える生き方、つねに与えながら生きるということ。これが、授業後半の柱です。人は、命を与えられた生き物です。与えられた命をよく学ぶとき、与える方の思いを知りますし、与えるという生き方も知ります。そして、与えることのすばらしさを発見し、自分自身が与える者として生きるようになるのです。「命の時代を生きる」というテーマに、「どう生きるか」という面から答えるならば、「人に何かを与えながら生きていく」と答えたいと思います。
●ではキリストは何を与えたのでしょうか。かいつまんでお話しすると、キリストはあなたに永遠の命を与えてくれる、ということです。だからこそ私は、イエス・キリストの生き方にならい、その言葉を受け入れて生きていこうと心に決めました。イエス・キリストの言葉と態度に見習って生きるわけですから、イエス・キリストを判断基準として生きていくのでなければなりません。生きていくことを放棄すれば、見習うこともできなくなるからです。

Nキリストを基準に生きた二人の人物について

●20世紀、イエス・キリストを判断基準として生涯を全うした人物を挙げてくださいと言われたら、私は二人の人物を挙げたいと思います。一人は、マザー・テレサ、もう一人はヨハネ・パウロ2世です。この二人は、すべての判断基準がイエス・キリストでした。何を始めればよいのか、何を避けなければならないのか、何を支援し励まし、何を非難しなければならないのか。これらの判断基準がすべて、イエス・キリストにあったと言っても過言ではないと思います。この二人もまた、私にとっては人生における素晴らしい判断の基準です。生き方にぶれがなかったのです。
●この二人、何を与えて人生を生きていったのでしょうか。2年前でしたが、マザー・テレサの映画が公開されました。彼女は世界でもっとも貧しい人に自分自身のすべてを与え尽くして人生を全うしました。自分の持てる愛を、余すところなく貧しい人びとのために注いだのです。彼女は「のどが渇いているイエス・キリスト」を貧しい人の中にはっきり見たのです。
●マザー・テレサはイエス・キリストのためなら命をすべてささげてよいと思っていましたが、貧しい人の中に確かに「のどが渇いているイエス・キリスト」を見たので、貧しい人のためにすべてをささげる決心をし、その通り生涯を全うしました。どのように生きるか、何をして生きるか、もう迷う必要がなかったのです。そこに、のどが渇いたイエス・キリストがおられ、彼女はお世話する。単純に、ただそれだけの生き方だったのだと思います。
●ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世についても少し話しておきましょう。最近、「ヨハネ・パウロ2世 愛と勇気の言葉」(表紙)という本を読み、あらためて亡くなられた教皇の偉大さを学ぶことができました。超人的なスケジュールの中で、全世界のカトリック教会の舵取りをなさる立場です。その心配と苦労は並大抵のものではなかったと思います。それでも、ヨハネ・パウロ2世の生き方は単純明快であり、「キリストに倣って生きる」この一言に行き着くのだと思います。
●初代ローマ教皇である聖ペトロは、復活したキリストから「わたしの羊のお世話をしなさい」とその使命を託されました。全世界に広がることになるキリスト信者、現在では11億人近くいるそうですが、この人びとのお世話をするとは、とても想像がつきませんが、ヨハネ・パウロ2世はさまざまな困難にもくじけずに、職務を全うしたのでした。
●この教皇は、晩年引退についての噂もありました。けれども、教皇は最後の最後まで、「わたしの羊の世話をしなさい」とのイエスの言葉に従ったのです。「いついつまで、お世話しなさい」と言われたのであれば、引退することも考えたでしょう。ですが教皇は、そのようには受け止めていませんでした。どんなに重い任務であっても、たとえそれが十字架のように感じられても、その十字架から降りようとはしなかったのです。それはつまり、みずからの血の一滴までも、任せられた羊のお世話に与え尽くしたということです。

O判断基準に沿って、あなたはどう生きますか。

●こうした方々は、キリストにすべての判断基準を置いていた方々でした。私にとっても、そのような生き方をされた方々は、そのまま判断基準として受け入れることができます。何を始めればよいのか、何を避けなければならないのか、何を支援し励まし、何を非難しなければならないのか。二人とも、申し分ないお手本だと思います。
●さて、皆さんにとって与えられた大切な命を生きていく上で、どんな「判断基準」が考えられるでしょうか。私はカトリックの司祭として、話しやすい部分から入ったわけですが、皆さんは自分なりの基準を持つべきだと思います。命の価値を高める生き方を選び続けるために、私に必要な判断の基準を早めに見つけておくべきでしょう。
●それは「教訓やことわざ」のようなものでしょうか。自分と共通の目標を持っている人物の生き方でしょうか。それとも、言葉でも生き方でも命の価値を高めて生涯を全うした人物でしょうか。あなたの中で、判断の基準はすでに固まっているでしょうか。そしてその基準はうつろいやすいものではなく、いつどんなときでも確かな物差しとして機能してくれるでしょうか。そして何よりも、あなたが判断基準として選び取ったものは、私を生かす基準、周りの人に何かを与えて周りの人を生き生きとさせることに役立つ基準となっているでしょうか。
●周りの人を生かす生き方、周りの人を生き生きとさせる生き方って、素晴らしいと思います。その、すばらしさの源はもう少ししてから話すとして、実際の体験を交えて話したいと思います。私は現在、長崎市の伊王島町というところに住んでいます。カトリック教会の司祭として、馬込教会・大明寺教会・高島教会の三つの教会でミサをささげています。
●目に見えるいちばん大きなつとめはこのミサをささげるということですが、このミサの中で、与えられた聖書の朗読箇所にそって説教をします。毎週日曜日、15分程度ですが、この説教は、今週一週間教会の礼拝に参加した信者が生き生きと暮らすことができるきっかけを提供しようとするものです。朗読箇所を通して、イエス・キリストを生き生きと示し、イエスはあなたを今週湖のような導きで生かしてくださるのですよと励ます。それが、ミサの説教の根本的な使命だと思っています。

P周りの人を生かす生き方の実例

●人を生き生きとさせる、関わっている集まり(組織)を生き生きとさせる、家族を生き生きとさせる。こうした生き方を取り入れて生きていくことは、とても充実した人生に結びついていきます。人を生かす・組織を生かす仕事って、面白くてたまりません。私は置かれた立場で人を生かすために奉仕をすることができます。こんなに面白くてやりがいのある生き方って素晴らしいと、常々思うのです。
●シニアボランティアの樽美さん。シリアで木工の技術指導をしている。

Qあなたにも、人を生かす生き方は可能です。

●こうして考えると、私に少し、知恵と工夫と余力があれば、人を生き生きとさせることが可能になります。もし、それが自分の人生そのもの、過ごしている時間すべてが人を生かすことに向かっているなら、これほど素晴らしい生き方はないのではないでしょうか。もちろん、この世の中が願っているとおりに必ずなるのであれば、苦労なんてしないのでしょうが、それでも、与えられている時間の大部分とか、一部分でも、人に喜びや希望を与え、人を生かす時間があるなら、私はもっと生き生きと生きていけるのではないでしょうか。
●またもしも、自分の周りに悩みをかかえ、生きることに疲れ果ててしまった人がいるとしたら、あなたはほんの少しその人のために時間を割いて、その人に1つでも2つでもいい、生きるための力を注いで欲しいのです。力を落としている多くの人が、どうやって自分を元気づけたらいいのか分からなくなっているのですから。
●泣いている人がいるなら、一緒に泣いてあげる。それだけでも、私のために時間を割いてくれる人が、少なくともここに1人いるんだなあって思えて、この人がそばにいてくれるなら、もうちょっと生きてみようかなあって、思ってくれるのではないでしょうか。もちろん、もうちょっと生きてみようかなでは、まだまだ十分ではありませんが。
●もし、私自身が、生きる気力をなくしたまま、この講義にあずかっているとしたら。まずそんな弱っている状態では、講義に出席することもままなりませんが、もしあなたが、あなたのレベルで生きる気力をなくしているとしたら、少なくとも中田神父は、あなたに生きて欲しい、あなたが生きるのを私は見守りたい、そういうメッセージをここで伝えたいと思います。
●「命の時代を生きる」という講義を通して、「命」についてと「生きる」ということについてよく考えながら、もう一つ、皆さんを生き生きとさせたい、皆さんが「そうだ。もう一度ねじを巻き直して、前を向いて生きていくぞ」と思ってもらえればいいなあと念じております。

Rこの講義のまとめ

●命は与えられています。与えてくださった方(神)は、自分以外の誰かに与えるということのすばらしさを伝えるために、この命を与えてくださいました。与えられた命を見つめて、与えることのすばらしさを学び、希望や喜び、愛とゆるしを与えるために生きていくことにいたしましょう。私のそばに生きる気力をなくしている人がいれば、「生きるって、結構ステキなものだよ」と、伝えてあげましょう。この講義に参加したすべての人が、誰かを何かを生かすために生きることを目指すなら、何かを与えて生きるすばらしさに気づいてくれるなら、講義を引き受けた甲斐があったと思っています。
●最後に、この講義を準備している間に目に留まった本を紹介しておきます。この手の本を1冊手にとって読んでくだされば、この時代に命の大切さを読み取って、力強く生きる学生になれるのではないかなあと思います。2冊紹介します。1冊は講義の中で触れましたが、中井俊巳著「ヨハネ・パウロ2世 愛と勇気の言葉」です。ヨハネ・パウロ2世の人柄をたいへん読みやすい形にまとめてくださっています。もう1冊は、鮫島浩二著「わたしがあなたを選びました」です。お母さんになるであろう皆さんに、一度はぜひ手にとって読んでもらいたいと思います。命の大切さを考えるきっかけになるでしょう。

●時間になりましたのでこれで終わります。ありがとうございました。