子どもは神様からの授かりものです。大切に育てましょう。

太田尾教会  中田こうじ神父

家庭で、母親が十字架を引き受けてほしい。

日本ではほとんど考えられないことですが、イタリアでは、子どもを一人授かると、その日から、両親はアフリカの貧しい子ども一人のために、節約をするそうです。アフリカの一人の子どもと言っても、直接会うことはなくて、そういうつもりで、節約して、その節約した分を、実際にアフリカの子供たちのために活動している団体に送金するのだそうです。それは二人目、三人目と、同じように続いていきます。
また、親は子供が物心ついた頃には、自分たちがしてきたこと、つまり、わが子が生まれたその時から、少しのお金を節約して、アフリカの名も知らない子どものために送金していることを話すといいます。こうして、親子で、人は生きるにあたって自分一人で生きているのではなく、ましてや自分のためだけに生きているのでもないことを互いに学ぶと言います。
こうした家庭で生まれ育った子どもは、当然自分以外の誰かのことをいつも心に留める優しい子どもに育ちます。いつもアイスをねだっていたのが、ある時、「アイスを買うお金は、今日は○○ちゃん(アフリカに送金している子どもの仮の名前)のために貯金して!」と言うようになるそうです。
こうした素晴らしい家庭がイタリアにどれくらいあるのかと尋ねましたら、イタリアではどんな経済状態の家庭でも、そうしたことは当然のこととして行っている、ということだそうです。恐れ入りました。
ここで考えて欲しいことは、誰もが、自分以外の誰かのことを思いやるなら、今私たちの身の回りで起こっているような事件や事故は、ほとんど起こったりしないのではないか、ということなんです。少し、自分の重荷でないものを背負ってあげる。こうした家庭が増えれば、このような家庭で育つ子供が増えれば、日本の学校問題もずいぶん解消されるのではないでしょうか。
ただし、子供たちは、最初から他人様の荷物を背負うことなどできません。最初は、自分の分さえも背負うことができないのではないでしょうか。欲求不満などがそうです。子どもは、ちょっとした欲求不満などを、母親に背負ってもらいながら、あとで自分が引き受けることができるようになる。それまでのあいだは、母親が十字架を引き受けてあげてください。子どもは、親がしてきた通り、してきたことをそのまま、あとでするようになるのではないでしょうか。

人生の選択の岐路に立たされたとき、神の前にひれ伏して、神の導きを求めることです。

ご存じかと思いますが、中田神父は日曜日のミサには、決まってお説教をします。お説教には原稿がありまして、今年も1月1日から原稿をひたすら書き続けて、これだけの枚数になりました。
これは1年間でこれだけということでして、曲がりなりにも私は8年目を歩いておりますから、実際はこの8倍の分量があるわけです。我ながら感心、と思う反面、確かに言えることは、これだけのものが私の頭から心から溢れ出てきたのかと言いますと、決してそうではありません。私自身のアイディアで話し続けるなら、きっと3年くらいでネタは尽きてしまうでしょう。
8年間、ここまで同じ話を繰り返さないでこれたのは、聖書という大変な書物を前にして、正直にひれ伏したからだと思います。「神様、申し訳ないけど、わたしはもうネタは尽きました。このままだと日曜日にお説教するものが何もありません。どうか、あなたのほうから、この聖書に書かれていることを通して、教えを授けてください」。ま、こんな感じの祈りを通して、お説教が泉のように湧いてきているわけですね。
同じことを、皆さんにもお勧めしたいと思います。人生の岐路に立たされたとき、子どものことで、あれかこれかを決めなければならない。そんなとき、すべて私が決めてあげることができる。そんな思い上がりはなさらない方がよろしいと思います。私ひとりの力ですべて解決できるのでしたら、今ごろ育児講座に来て話を聞いたりはしていないことでしょう。子育てのことで頭を悩ませたり、誰かに相談したりはしないはずです。
ですが実際は、子育ては悩ましい。子供が何人かいれば、一人ひとり育て方が違ってきます。そうした中で、判断に迷うこと、決めかねることがあるなら、謙虚に、神にひれ伏して導きを求める。こういう態度が必要なのではないでしょうか。

私はつねづね思うのですが、子どもは神様からの授かりものだと思っています。それは、気持ちの問題だけではなくて、本当にそうだと思うんです。簡単に言うと、結婚したからと言って、じゃあ明日子供が産まれるかと言ったら、そうとも限りません。ある家庭は、子どもが欲しいと願って、十年目に初めて授かったというケースもあります。
こうしてみると、男と女がいても、だから必ず子供が産まれるという公式はないわけです。やっぱり、子どもは神様からの授かりものなんですね。
そうしてみると、神様が子どもを授けてくださるというなら、神様は無計画に(無秩序にと言うのでしょうか)、子どもを授けるとは思えません。何らかの計画があって、あるいは、何かの青写真があって、その夫婦に子どもを授けてくださるのではないでしょうか。
この点は大事なことでして、両親にも当然この子にかける期待とか、青写真があるわけですが、神様のほうにもこの子の青写真、計画があるとしたら、子どものことで何かを決めるとき、迷ったり、不安になったりするときは、神様はこの子にどんな計画を持っておられるのだろうか、ということをちらっと考えて欲しいわけです。これが、神様の前に謙虚にひれ伏すと言うことですね。あなたの導きをください。私たちは、難しい選択に迫られて、迷っております。こういった、自分の頭をこの世で最高のコンピューターだと思い込まないで、もっと高いもの、尊いものに委ねる。そうした気持ちが、子どものための選択に、もっと深みを与えてくださるのではないでしょうか。

真実の愛とは、見返りを求めないもの

私、テレビ番組で何よりも興味を持って見ているのは、コマーシャルです。ドラマやその他の番組、あるいは連続テレビ小説も見るには見るんですが、やはり私にとっていちばん面白いなあと思えるのは、10秒とか15秒という短い時間にいのちを吹き込む、コマーシャルですね。
最近のコマーシャルで特に「面白い!」と思ったのは、宝くじのコマーシャルで、中井正広君が出ているコマーシャル2本です。一本は、長男の正広君を囲んでご飯を食べていますが、彼が「醤油は?」と言うと、みんなが「醤油!醤油!」と叫んで、お父さんが「はい!醤油!」と差し出します。「これ面白いねえ」というと、今度は弟、お母さん、お父さんと、いっせいに作り笑いをするでしょ。最後の落ちが、「正広。いくら当たったんだい?」というやつですね。
今ひとつは、雨の降りしきる公園で、中井君の彼女らしき人が、「もう一人にしないから。ゴメンナサイ」と抱きつきますよね。そして、抱きついている向こうで、「この男は一億円を持っている」という声が響くんです。いやあ、いつ見ても面白いです。
まあ一億円でもいいですが、そんな大金どうするの?と思うかも知れませんが、使ってしまおうと思えば、わけない額だと思います。家を新築するでしょ。車を買うでしょ。デパートで見るだけだった、革製品を買って、世界旅行でもすれば、あっという間になくなっちゃいますよ。でもって、その一億円がなくなったら、中井君とあの女の人はどうなっちゃうんでしょうか?
こういうつながり(絆と言ってもいいですが)は、そうそう長続きするものではありません。別にお金でなくてもいいですが、たとえば優しさみたいなものでもいいんですが、その時その時きちんと返ってくると思って、当てにしちゃうと、見事に裏切られるんですね。
たとえばですね。男の子がいるとするでしょ。可愛がって育てて、立派に育った。たいてい、二十歳過ぎて、お酒が飲める頃になると、どれだけ可愛がったとしても、お母さんから離れて、お父さんとお酒を飲む付き合いになるんですよ。そうなると、お母さんは二人に「お酒のつまみを持ってきてくれる人」そんな扱いになる可能性があります。これはあくまでも可能性ですけど。
それから、女の子がいて、お父さんが可愛い可愛いって大切に育てていくでしょ。子どもの頃は、「お父さん大好き」って、いっつもくっついて回るわけですよね。もしかしたらお風呂も、お父さんとじゃなきゃ嫌だって言い続けるかも知れない。
それが、いつの日か、お父さんから離れていく。もう、家族で男性はお父さん一人なんてことになると、どこにも居場所がないかも知れません。タバコは家の外で吸ってよとか、トイレも、男性だけ使い方が違うわけですから、お嬢さんからですね、「お父さん、自分で掃除してよ。もう」としかられるかも知れない。ま、そういう意味では、私は子供がいなくて、あるいは結婚しなくてよかったかなって思ったりします。
そうなると、親子の愛情も、夫婦の愛も、何もかも無駄かというと、そうではない。正しい見方、考え方の上に立って夫婦の愛を育て、子供に愛情を注ぐなら、それは豊かな実を結びます。
では、どんな見方、考え方が必要かというと、「本物の愛は、見返りや報いを当てにしない」ということなんです。子供にこれだけ愛情を注いだ。だから、これくらいは子供に恩返しをしてもらいたい。そういう思いから両親が卒業しないと、親の愛は本当の意味では成熟していないことになるんです。
実は、生後間もない赤ちゃんには、お母さんは報いを当てにせず、十分に子供に愛情を注いでくださっています。夜中に子供が泣いた。私だったら、「やかましかねー」で終わって、そのうちに泣いているのも構わず、ぐーすか寝るかも知れませんが、お母さんたちはそうではありません。子供が泣いている様子で、何が必要なのか分かって、お世話をするわけでしょ。これは、報いを当てにしない立派な愛情表現だと思います。
子供が大きくなって、結婚するような年になったときに、「お父さん、お母さん。私が言葉も話せないとき、たくさんの愛を注いでくれてありがとうございました。あの時私はありがとうも言いませんでしたね」なんてことを言われたら、この子は気が変になったんじゃないかしらって、反対に疑うかも知れません。それほど、報いを期待せずに愛情を注いだことを、当然のこと、当たり前のことと思ってやっていたのです。
最近は、小さな子供に、恩着せる親がいるんだそうです。「まったく世話の焼ける子供だわ。いつまで私に迷惑をかけたら気が済むわけ?」なんてことを、面と向かって言う親がいるんだそうです。最後に話すつもりですが、子供たちはすべてお母さんから聞いたことを理解しているという話です。お腹の中で話しかけたことも、まだ言葉を話せないうちに聞いた言葉も、すべてその子の成長発展に影響するんだそうです。十分気をつけてほしいものです。
さて、乳幼児期に、報いを当てにしないで愛情を注いだ両親も、いつの間にか、子供が少し大きくなってくると、本来の姿を忘れてしまうのか、子供からの報いを当てにするようになります。意識して当てにしている人は少ないのですが、例を挙げると、思い当たる人がいらっしゃるかも知れません。
たとえば、「これだけ一生懸命やって来たのに、どうして分かってくれないんだろうか?」そんなことを心の中で思ったり、つい口走ったりするわけです。子供が非行に走る、反抗期で両親を困らせる、果ては、理解に苦しむような彼氏や彼女を連れてきて、結婚させてくださいと言う。どうして分かってくれないんだろうか。今まで注いだ愛情は何だったんだろうか?そんな思いで心を痛める。だいたいこのあたりで何かに思い当たるのではないでしょうか。
結論から言うと、その子はあなたの子です。たとえ非行に走っても、たとえスゴイ反抗期を過ごしても、紛れもなくあなたの子供ですよね。ですから、子であれば、最後まで、報いを当てにしない愛を注ぐことが大切なんです。子供が大きくなったのに、報われないからと言って、それは親子の愛が変わったのではないんです。
親が子に注ぐ愛は、最初から最後まで、報いを当てにしないのが本来の姿なんです。それなのに、親が失望するとしたら、おそらく、いつの間にか、親が子に報いを期待する、当てにするような育てかたに変わってきている証拠ではないでしょうか。
そうしてみると、最後の最後まで、母親であり続けること、父親であり続けることは、思った以上に大変なのかも知れません。最初に感じていた、報いを当てにしないで注いだ愛情を、最後まで注ぎ続けたときに、私たちは母として、父として、完成されるのではないでしょうか。

神様は私たちに、子供を授けてくださいました

ずいぶん難しいことを言って、落ち込んでいるお母さん方もいらっしゃるかも知れません。「ふーん」くらいで受けとめて、ちょっと見方をもらって帰る、そんな気分で最後まで聞いていただけたらと思います。今日お話ししたことを一日中考えて生きる必要はどこにもないです。そんなことしていたら、息もできなくなるかも知れません。
私は、「午後は○○思いっきりテレビ」を見るときにいつも思うのですが、あそこで言われている健康法とか、あの食べ物が体にいい、今日明らかにされる、何とかパワー、そんな話をいちいち神経質に考えていたら、食べた心地はしないんじゃないかって思うんです。皆さんはどう思われますか?「あれは健康にいいみたいですよ」「これは食べた方がいいですよ」って、余計なお世話です。

そこで最後に、子供が本当に神様からの授かりものだと感じた、ひとつの話をしたいと思います。
生後間もない赤ちゃんをベッドに寝かせて、その一方にお母さんが付いて、反対側に同じくらいの年齢の女性が横に来て、どちらも子供の名前を呼んだとします。すると、子供は必ず、お母さんのほうを向くのだそうです。それを聞いて、皆さんはどうしてだと思われますか?
おそらく、子供は、お腹の中にいるときからお母さんの声を聞いてきましたから、お母さんの声に必ず反応する、そういうことだと思います。決して、お子さんが優秀だからとか、「お母さんば向いとかんばいかんやろうねえ」と思ってのことではありません。私はそれを聞いたときに、親子ってすごいなあと素直に感激しました。
ここで注意したいのは、お母さんの声を聞き分ける素晴らしい耳のことなんです。お腹の中で、繰り返しお母さんの声を聞いたのでしょうが、それにしても素晴らしい耳だと思いませんか?耳に限らず、ものを真っ直ぐに見る目、物をつかむ手、這い回り、立ち上がる足。
どれ一つとっても、私たちが計算して作ろうと思っても作れるものではありません。それなのに、おぎゃあと生まれた瞬間に、それらのものを備えて、新しい命は生まれてくるわけです。
私が、何か素晴らしい準備をしたのでしょうか?私のこのような努力の結果だと、誰か言える人がいるでしょうか?誰も言えないと思います。なのに、これほど見事な道具を備えて生まれ落ちる子供とは、いったい何物なのでしょうか?
私は、ここにすべて、神様からの授かりものという意味が込められていると思います。神は私たちを選んで、いのちを送りだしてくださいました。私たちの才能に関係なく、私たちの経済状態に関係なく、神様がいのちを与え、授けてくださることを教えるために、子宝を授けてくださいます。無償の愛、報いを求めない愛を学び、本当の母、本当の父になる道を、この子を通して用意してくださっているわけです。
結論、子育てを通して、皆さんは素晴らしい生き方に呼ばれたのですから、おおいに育児を楽しんで、神様からの授かりものであるお子さんを大切に育ててください。そして、お子さんが大人になり、また結婚して子を産み育てる頃に、私はこうして母親になった、私はこうして本物の父親になった、そういうことを親から子へ、子から孫へ伝えていければいいのではないかと思います。
そのために、太田尾保育園が、また太田尾教会が、お役に立てれば、幸いなことです。ありがとうございました。

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