(聖書の引用は、「日本聖書協会『新共同訳』1988年版」を使用させていただきました)
ボランティアの心について
今日5月15日のいちばんの話題は、宇宙からの電磁波で人類が滅びるという話題です。それで今日は白い集団に対抗して、肌着はグレーのものを身につけてきました。たぶん私みたいなものが真っ先に滅びて、あの白い集団は生き残るのでしょうか。興味深いと思います。
先に、私自身のことについて少し話してみたいと思います。私は、カトリック教会の神父です。中田輝次と言います。カトリック教会は、ローマ教皇を最高の指導者としてつながっています。神父という言い方と、司祭という言い方とあると思います。どちらも変わらないです。
このカトリック教会の司祭は、通常独身を守り、教会の奉仕職を行います。奉仕職と言いましたが、おもにミサと呼ばれる礼拝を行い、人々のために祈り、病人を見舞い、信徒の信仰生活に役立つ勉強会や集会を持ち、キリストを知らない人には、キリストの教えを伝える、こういったことが私の守備範囲・奉仕の務めということになります。
自分のことを取り出したのは、別に宣伝するためではなくて、幸いに自分が置かれている働きは、みなさんがこれから学んでいこうとするボランティアの「心の部分」で通じるものがあるかなあ、と思ったので話してみたわけです。
幸いに、と言いましたが、本当に幸いなことに、中田神父が求められていることは、ボランティアの精神を考えさせてくれます。独身生活を守る、これは与えられている仕事をよりよく果たすため、そして地上での生活をしながら、天上での生活を考えてもらうための生き方と言われています。
聖書の中では、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マタイ22:29-30)。めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだと言われていまして、その姿の先取りと言われています。つまり、自分の必要からと言うよりも、奉仕の務めが求めているということです。
ミサの礼拝の中では、説教を行います。プロテスタント教会(ルターの時代から、たもとを分かった兄弟たち)の中で奉仕しておられる「牧師」と呼ばれる方々とは、説教に対する取り組みは少し違うかも知れません。カトリック教会では礼拝の中での説教は半分くらいの分担ですが、プロテスタント教会では礼拝のほぼすべてと言えるかも知れません。
カトリックの司祭の説教はたとえば私であればだいたい10分といったところですが、牧師さんたちは最低でも30分とか40分は行っていると思います。この説教は準備は自分のためになるかも知れませんが、話すことは自分のためではなくてそれはすべて信徒のみなさんのためです。
司祭は祈りの時間も人のためです。人々のことを心に留めて、人の喜びや悲しみ、苦しみを神に取り次ぐつもりで祈りをします。もちろん自分の悩みや苦しみも祈りの中に含まれるわけですが、祈る姿のお手本は、人々のために祈られたキリストです。
幸いに、どれをとっても自分の務めは「人々のため、教会の信徒のため」といった性格のものです。ボランティアに含まれる働きも、おおよそこのような性格をもっているのではないでしょうか。
「人々のために」から出発。
「人々のために」という気持ちをできるだけ純粋に保つと、より良いボランティア・奉仕ができるのではないかなあと思います。私自身の生活の中で言いますと、病人の見舞いでしばしば体験することです。
次の病人のところに何時頃に行きたいという頭がある
午前中の病人訪問が少し早く終わるなら、午前中のうちにこれも済ませたいというのが頭をよぎる
午後の病人見舞いが終われば、夕方には中学生の勉強会の準備がある
そうしたことがあまりにもちらつくと、決して病人にとってすばらしい時間とは言えないと思います。奉仕であるなら、できる限り、その人のために時間と労力をお捧げする、そのことに心を砕かないといけないと思うのです。
ただ、「その人のために」という気持ちではいても、それも限界があるかも知れません。全く関係のない内輪の話を延々聞かされたりすると、これはその人のために時間を費やすのは苦痛になってくるかも知れません。
どこかで、自分の奉仕に限界を感じるときには、いったん立ち止まって何かを考えてみる必要があると思います。たとえば、もっと違うことを私の目標、心構えにしたらどうだろうか?ということです。
その人のために、という気持ちでは限界が来るかも知れませんが、私の奉仕職の例で言うと、その人の中におられるキリストに奉仕するという意味では、限度を乗り越えられるのではないかなと思います。その人のために時間を費やすのは、ある場合耐え難いかも知れません。けれども、その人の中にとどまっておられるキリストに奉仕すると思うことで、いろんな問題を乗り越えていけるのではないかと、私自身は考えています。
参考ですが、聖書の中でイエスのたとえ話に次のようなものがあります。人々にお世話した人が、実は人々の中におられるキリストにお世話していたのだという内容のものです。
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
もちろん私と参加しておられるみなさんとでは信じているものが違うかも知れませんので、おひとりおひとりでうまく当てはめていただけたらと思います。自分が奉仕する相手は、目の前のあの人この人から出発しているのだけれども、それだけでは奉仕にも限度があるかも知れません。そういうときに、その奥にある方、その向こうにおられる方に奉仕していることが分かってくれば、「人々のために」という気持ちを、より純粋に保つことにつながるのではないでしょうか。
次に、私の考えるところ、ボランティアは祈りに通じるのではないかなあ、と思うことがあります。みなさんの考える祈りはどのようなものか分かりませんが、私が思い描くのは「手を合わせている」という姿です。
この「手を合わせる」ということなのですが、基本的に人間は活動するというとき、両手を使い、両手を開いて活動するものです。手がふさがっていては、何もできない、というのが一般的です。
ただし、一つだけ、手を閉じて、手を合わせて行う活動があります。いったいそれは何でしょう?ってみんなもう分かっていると思いますが、「祈り」だけは、手を閉じて、手を合わせて行う活動です。それは、一つの姿を現すのですが、つまり、自分のためには何もしないで、神様のために活動するという姿を表すものです。
もう少し言いますと、祈りは、自分のための活動をいったん止めて、神様に心をあげ、神様のために時間を使います。手を閉じているというのは、自分のためには働きません、という気持ちが形に現れたものです。自分のための活動には手を使いませんという意思表示なのです。
ボランティアも、ある意味そのような面が見られるのではないでしょうか。手を閉じて、手を合わせてボランティアするという意味ではなくて、自分のためには手を使いません時間を使いません。むしろ、人々のためにのみ自分の手を使い、時間を使いますということです。このような意味で、ボランティアは祈りに通じるのではないかなあ、と思うわけです。
それは同時に、祈る心にも通じるものであれば、もっと意味合いは深まるだろうと思います。つまり、自分のために手を閉ざして働くだけでなく、祈りは神に向かう働きですから、ボランティアを通して神に心が向かうようになれば、深まりのあるボランティアになるのではないでしょうか。
三つ目の考え方として、次の聖書のたとえ話からヒントを得たいと思います。イエス・キリストが羊と羊飼いを例に、人間への深い愛を示されたものです。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。この言葉がとても印象的です。キリストは、自分の持ち物を捨てるというのではなくて、持ち物を捨てても普通は捨てられない、ご自分の命を任せられた羊のために捨てると仰います。
命を投げ出すには、それなりの事情が必要です。それは、相手の中に、自分にとっての命が見つかってはじめて成り立つのではないでしょうか。
私がこの人のために命を投げ出せば、この人は私によって生きるから。この人の中に私が生き続けるから。しばしばそれは、親と子の間で成り立つことがあり得ます。命を削っても、命を注いでも、この子が生きるなら、それでいい。そういう気持ちになれることもあるでしょうし、そのようなドラマを見たことがある人もいるかも知れません。
ボランティアは、どこかそのような面を含んでいるのではないでしょうか。命を削ったり、命を注いだりして任せられた奉仕をまっとうします。祈りのところで話したことと繋がるのですが、ボランティアのあいだに私のためには何もできません。それは、自分の時間を寛大に手放すこと、乱暴な言い方かも知れませんが、ボランティアを受ける方々のために、自分の時間に死ぬことだと思うのです。「私は、羊のために命を捨てる」あの精神です。
もしかしたら、何も返ってこないかも知れません。けれども、私が命を削ってまで費やした時間と労力は、きっとその作品の中で実を結ぶし、もしも信仰をお持ちであれば、その信じている神の中で、私の奉仕は生き続けるのではないかと思います。神はすべてをご存じであり、一つとして忘れることがありませんから、私が命を削ったこと、命を注いだことを、一つ一つ覚えていてくださると思うのです。
今後、いろんな技術指導を受けて、立派な奉仕者に育っていくことと思います。その中で、見える何かにすべての意味を見いだすのではなくて、見えない部分に価値を見いだせる人となれればすばらしい。隠された意味、人生の中でボランティアに携わったことで、目には見えないこんな意味にたどり着けたのだというような体験ができたら良いなあと思います。