主日の説教   1992,6,14
三位一体の主日(Jn 16:12-15)

 今日は、三位一体の主日です。私たちが信じ、このみ名によって祈る三位一体の神について、福音を頼りにしばらく黙想いたしましょう。
 イエス様は弟子たちを前にして、「言っておきたいことは、まだまだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない」(Jn 16:12)とおっしゃいます。イエス様が言われたこの「今」という言い方は、聖霊が与えられていない時代、その当時の限られた「今」と言うことができます。私たちにとっての「今」とは事情が違うわけです。それでは、私たちにとっての「今」とは、どのような今なのでしょうか。
 イエス様がこのあとすぐにおっしゃった言葉に注意しましょう。「その方、すなわち、真理の霊がくると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)。イエス様の言葉は、ご自分が予告なさった聖霊降臨、ご降臨以後のすべての時代に、当てはまっているのではないでしょうか。具体的に言うと、私たちが生きているこの現代は、聖霊が与えられ、聖霊が私たちを導いている、そういう時代なのです。ここに、三位一体の神に心を向けるきっかけが見いだせます。
 神が唯一であるという信仰は、私たちにとって受け入れやすい真理です。「これ以上のお方はいない」と考えれば、そのようなお方を二人も三人も想像することはできそうにないからです。ところで、その神に、三つの位格、ペルソナがあるということは、なかなか受け入れ難いようです。三つのペルソナがありながら、唯一の神であるということを、どのように受けとめたらよいのでしょうか。
 私は、神様がご自分のことを、救いの歴史の中でじょじょにお示しになった、この点から考えると分かるかも知れないと思っています。あくまで、「かも知れない」ということでして、そのことはあとで説明いたします。
 神が人類を救おうとされるご計画を眺めてみると、初めはイスラエルの民を選び、次におん子を遣わしてすべての人々に救いが告げ知らされ、最後には聖霊が弟子たちを動かして全世界に救いの訪れを運ぶという、一連の広がりがあることに気付きます。この救われるべき民の広がりは、神がご自分をじょじょに示された事実と重なっています。初めに父なる神、次いでおん子キリスト、最後に聖霊が示されて、神の全体像も広がりを見せました。これが唯一の神の全体像、ただお一人でありながら、三つの面がある神様の全体像なのです。
 神の全体像が歴史を通して広がっていく。これはもっと単純に言えば、神の愛がどんなにすばらしいか、歴史の中でじょじょにそれが示されていったのだと言うこともできます。神の愛は、初めに選ばれた民への忠実によって示されましたが、最後にはおん子を通してすべての人を救うという、これ以上ないという愛の姿が明らかにされていくのです。その想いは聖霊によって世の終わりまで引き継がれていきます。つまり、唯一の神の三つの面をそれぞれ活かすことで、神の愛はここまで広げられているんですよと教えているのではないでしょうか。
 唯一の神に三つの面があるということは、ご自分の愛を極みまで与えるためにも、ぜひ示される必要がありました。おん父の姿しか私たちに教えられていなければ、子に対する親の愛という形でしか神の愛を理解することができなかったでしょう。けれどもおん子が示されて、神の愛は、私たちを兄弟姉妹として愛することにも開かれていると分かりました。また聖霊が示されなければ、私たちの体を聖霊の神殿としてくださるという愛の形に気付くことはなかったでしょう。このようにして、神様は歴史を通じて、その愛の深さを示そうとして、ご自分が三位一体の神であることをじょじょに示されたのです。
 以上はあくまでも一つの参考でして、これで万事うまく説明がつくと言うわけでもありません。あくまでも「分かるかも知れない」という程度です。この点について、興味深い二つの例を紹介したいと思います。
 一つは、身近に聞いた話ですが、ある神父様が三位一体の祝日に説教をしましたところ、ミサ後に年輩のご老人が近寄ってきて、こうおっしゃったそうです。「神父様、私はこれまで三位一体の神様のことが分からずにいたのですが、今日は分かりました。はじめて三位一体の神について、『なるほどなー』と思ったとですよ。」するとその神父様は驚いたように言ったそうです。「おじさん、どんなふうに分かったとですか?私にも教えてください!」おそらくこのご老人には、聖霊が神の愛の深さを悟らせるために働いて、「真理をことごとく悟らせてくださる」(16:13)という体験に与ったのではないかと思われます。
 もう一つは、聖アウグスチヌスが体験したとされる物語です。アウグスチヌスは神への決定的な回心をした後、神様を深く知ろうと思って、三位一体の神について思索し、書物まで著すまでに至りました。彼が書き残した『三位一体論』はあまりにも有名です。
 ところでこのアウグスチヌスが三位一体の神について考え考え、浜辺を歩いていたときのことです。難しい真理だけれども、いつかきっと分かるはずだ、そうつぶやきながら、歩いていました。彼が思索を続けながら歩いていると、一人の少年が砂浜に掘った小さい穴に、海水を何度も何度も入れていました。「坊や、何をしているの?」そう尋ねますと、少年は実に当然といった様子で言いました。「僕はね、海の水を全部この穴の中にいれようとしているんだ。」
 アウグスチヌスはほほえみながら言います。「でもね。こんなに小さい穴では、いくら汲んできても入りきらないでしょう。それは無理なことだよ。」少年は目を輝かせて答えました。「おじさんがずっと考えていることもおんなじだよ、全部わかろうなんて、無理な話さ。」これを聞いてアウグスチヌスははっと我にかえり、少年を捜しましたが、そこには少年はいませんでした。ただ掘ってあった小さい穴に、染み込んだ海水が少しばかり残っていただけでした。
 私たちにも、同じことは当てはまるでしょう。けれども、三位一体の神が示されて、神様がどんなに私たちを愛しておられるかは分かるようになりました。このことに信頼し、希望をおいて、これからも三位一体の神に祈りましょう。父と子と聖霊。私たちは十字架の印をするたびに、三位一体の神を呼び求めています。栄光が父と子と聖霊にありますように、ミサの中で続けて祈って参りましょう。