主日の福音 1993,06,06

三位一体の主日(JN 3:16-18)

 

今日は三位一体の祝日です。神様の方から示してもらわないと分からないこの神秘を、イエス様はどのように教えてくださったのでしょうか。また三位一体の神様と、どのようにしたら親しくなれるのか、考えてみることにいたしましょう。

 

イエス様は、三位一体の教えについて、たとえば黒板に書いて説明しないといけないような、難しい言い方はしませんでした。かえって出来事の中から、三位一体の神様の姿を描き出せるように導いてくださいました。

 

たとえば、ヨハネの10章30節でイエス様は、ユダヤ人の敵意を間近に感じながら、「私と父とは一つである」と仰いました。いま目の前にいるイエス様が、天におられる御父と一つに一致しておられる。これは、私たちが言う「仲良し」よりももっと深い結びつきです。

 

またフィリポが、「私たちに御父をお示してください。それで満足できます」(ヨハネ14:8)と言ったときにも、回り道になる説明はせずに、はっきりと「わたしを見た者は、父を見たのだ……私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか」(14:9-10参照)と仰います。見て、聞いて、それで分かるような説明を、イエス様は好んでされました。三位一体の神様を受けとめてもらうためにも同じでした。

 

もちろん、イエス様の言葉から、神様の栄光を見極めるほど、私たちの知性は鋭くはないのですが、そんな私たちでも、三位一体の栄光に近づくことができるようにしてくださいました。今日の福音の、ヨハネの解説です。

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)。私たちが愛についてよく考えるなら、そこに愛する人と愛される人、両者の間で育まれた愛があることが分かります。この三つが、神様の愛にも見られるというのです。

 

神様は、計り知れない愛の持ち主です。神様のこの深い愛を受けとめることができるのは、神である御子イエス様お一人です。御父と御子の間で育まれる愛は、父と子から出た残りものではなく、両者の最高の実りです。これが聖霊です。聖霊もまた、神様の最高の現れですから、神様なのです。ひとりの人間ともうひとりの人間が、最高に一致できる姿、愛する姿を見つめるときに、神様のことも少し理解できるように、神様はお世話してくださったのです。

 

4世紀から5世紀に活躍した、アフリカの司教様で、聖アウグスティヌスという方がおられます。この方は三位一体について、すばらしい書物を書き残してくださいました。その中で三位一体を、たとえばそれは三角形のようなものだと仰っています。

 

三角形は、三つの線からできています。三本の線がなければ、三角形はできず、それぞれは同じくらい大切です。三角形は、自分たちのことだけ考えるなら、小さく小さく描くことができますが、その中にたくさんのものを取り込むためには、大きく大きく描かなければなりません。同じ三角形です。けれどもその思いは、まるっきり違ってきます。

 

もちろん神様は、私たちすべてをこの愛の中に招く大きな三角形なのです。特に御子と聖霊が引き延ばされて、私たちを包んでくださいました。その愛の中に私たちがとどまろうと思うなら、神様はいつもご自分の愛を与え続けてくださるのです。

 

アウグスティヌス司教様の説明は、とてもわかりやすい説明ですが、この聖人はそれだけでは満足せず、もっと正確な説明、もっと単純で、神様に喜ばれる説明がほしいと、いつも願っていました。彼について、次の珍しい話が残っています。

 

ある日アウグスティヌス司教様が、三位一体について考えながら、浜辺を歩いていると、ひとりの少年が砂浜で遊んでいました。近くまで行ってみると、その子は砂浜に掘った小さい穴に、貝殻で海の水を汲んでは、それを入れるということを繰り返していました。

 

「坊や、なにをしているの」。アウグスティヌスが尋ねます。「うん、海の水を、この中に全部入れようとしてるんだ」。

 

しばらくその様子を見ていたのですが、ついに彼は少年に声をかけました。「坊や、一生懸命やっているようだけど、そんな小さな器では、海の水を全部入れてしまうことはできないと思うよ」。すると少年はこう言いました。「あなたがいま考えていることも、きっと同じだと思うよ。あなたの器では、神様のことは入りきらないさ」。

 

アウグスティヌスははっとして少年を見ましたが、そのときにはもう少年は見あたりませんでした。そのときからアウグスティヌスは、考えることではなく、三位一体の神秘を味わうこと、近くにいてくださることを楽しむことに心を向けるようにしたそうです。