主日の説教 1991,05,26

三位一体の主日

 

今日は三位一体の主日です。神様が私たちに垣間みさせて下さったこの最も奥深い神秘を思い起こし、三位一体の神様と日々どのように出会っていくのかについてしばらく考えてみることにいたしましょう。

マタイは今日の福音で、当時すでに定まっていた洗礼のための言葉をイエズス様の口を通して語らせ、私たちが、具体的に三位一体の神の子なんだということを教えようとしています。三位一体の神様って、いったいどんな神様なのでしょうか。たとえを引きながら、この何とも不思議な神様について考えてみましょう。

あるところに、腕白盛りの兄弟がいました。お兄ちゃんの名前は啓一郎君、弟はコージ君といいました。ごミサが終わって、二人で次のような話をしています。「啓一郎兄ちゃん、イエズス様は前の前の日曜日、天国に昇っちゃったんだよね」「へー、よく覚えてるねぇ!」「ちょっぴり寂しくなっちゃったね」「バカだなー、この前の日曜日、聖霊という神様を送ってくれたじゃないか」

「でも、イエズス様でなきゃ、いやだ」「どうして?」「だってぼく、教会学校でやさしいイエズス様をかいて、うまいうまいって、ほめられるんだよ・・・・・・。イエズス様はいいけど、やさしい聖霊って、どう書くのさ?」「どうでもいいだろ」「よくないよ。啓一郎兄ちゃん、一回書いてみてよ」「いやだ」「書けないんでしょー」「こいつ、生意気だぞ」・・・・・・。そう言っているうちにつかみ合いになり、とうとう二人とも泣き出してしまいました。

そこへ、ちょうど神父様が声をかけました。「おやおや、また喧嘩かい」「啓一郎兄ちゃんが、絵を書いてくれないんだもん。えーん」「何だかさっぱりわかんないなー、最初から話してごらん」。そこで兄の啓一郎君が、ことの起こりを説明し、最後にこう言いました。「神父様、もっと神様のことを教えてよ。本当は、絵を書いてあげたいんだ」「偉いなー啓一郎君。よし、ヒントをあげよう」

そこで神父様は、次のように話しだしました。「神様は何でもできて、誰よりも偉いから、一人しかいない。これはわかるね」「うん」「うん」「この神様には、おん父と、おん子と、聖霊という三つの姿があって、深く一致してるんだ。」「そうなの」「そうなの」「この三つの姿が、ぼくたちにとってとても大事なんだ」「どういうこと?」

「神様はね、この三つの姿を、私たちといつも一緒にいて下さるために現して下さったんだ。神様はアブラハムを選んで、そこから一つの民を集めたよね」「イスラエルだ」「そう。そしてエジプトを出るときも、砂漠の中でも、神様は一緒にいて守って下さった。それから神様は、もっとみんなの近くにいたいと思って、私たちと同じ人間になることを考えたんだ」「お兄ちゃん、ぼくの大好きなイエズス様だね」「そう。イエズス様はとってもやさしくて、まわりからきらわれている人や、貧しい人、かわいそうな人を慰めたり、病気を治したりして、『神様はいつもみんなと一緒にいますよ』って教えてくれたんだ」

「啓一郎君、これからが大事なんだよ」「お兄ちゃん、大事なんだって」「調子のいい奴」「啓一郎君は、イエズス様を見たことあるかい」「・・・・・・。ない」「イエズス様が地上にいたとき、みんな神様を見ることができたのかな?」「近くの人は見たと思うけど・・・・・・」「そうだよね。でも神様はそれに満足しなかった。地球にいるすべての人に、神様はいつも一緒にいてくれるんだよって、教えたかったんだ」「わかった!それが聖霊だね」「その通り」「お兄ちゃん頭いい」「へへー」「聖霊という神様が私たちに降って、これですべての人が確かに気づくことができる。『神様はいつも一緒にいてくださるんだ』って」

こうして神父様のアドバイスを受けて、啓一郎君は弟のコージ君に絵を書きました。「お兄ちゃんとぼくが喜んでいる絵だねぇ・・・・・。でも、神様がいないよ」「よく見てごらんよ」「あれー。ぼくもお兄ちゃんも、心の中にちっちゃい火がついてる」。神父様がそれを見て、「コージ君、神様が、こうしていつも一緒にいてくれるから、にこにこしていられるんだよ」「そっか、それを絵にしてくれたんだね。啓一郎兄ちゃん、ありがとう」

長い長いたとえ話でしたが、三位一体の神様の姿が、これで少しお分かりいただけたでしょうか。唯一の神でありながら、三位でおられる。それは第一に、決して分かつことのできない一致を保っておられることを意味します。それはまた、言い方は不十分ですが、三位が常に「共にいる」ということでもあります。イエズス様の洗礼を思い出して下さい。霊がくだり、天から声が聞こえたとあります。三位はいつも共におられるのです。

この神様は、私たちに対しても同じ気持ちを抱いているのです。「共にいたい。一つになりたい」。洗礼によって私たちに新しい命を与えて下さった三位一体の神様は、「共にいたい」神様なのです。み言葉を通して共にいたい。ご聖体を通して一つになりたい。世界の創造の初めから、共にいることだけを願っていた神様、そう言っては言い過ぎでしょうか。

今一度、福音に戻りましょう。イエズス様は使徒たちに二つの使命を授けます。すべての人を弟子にすること、そして信じる人には「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けることです。こうしてイエズス様は、ご自分がすべての人と共にいる神であることを教えようとしておられます。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」とは、今日のヒントを参考にすれば、「いつも共にいたいあの三位一体の神様の子になる」ということなのです。

私たちはこの神様の願いを、どう受けとめたらよいのでしょうか。たとえ話に登場したお兄ちゃんは、神様といつも共にいてうれしいということを、絵に表現しました。現実の私たちは、神様がいつも共にいることを、態度で表したらいかがでしょうか。教会に来たときだけ神様と共にいる、そんなことが可能でしょうか。「いつも共にいる」神様を頂いているのではなかったでしょうか。「困ったときだけの神様」とは、どちらにいらっしゃる神様なのでしょうか。

「いつも共にいる神様」を心に留めましょう。生活のすべてを、安心して神様に委ねましょう。うれしいときも、悲しいときも、神様はいつも共にいて下さいます。イエズス様のみ言葉がこれを保証しておられます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(Mt 28:20)。この言葉こそ真実なのです。