聖週間の福音 1997.3.27

聖木曜日(Jn13:1-15)

主の晩さんの夕べ

 

今日私たちは、「主の晩さんの夕べ」と名付けられた、「聖木曜日」の典礼に与っています。この日、主は最後の晩さんを通して、ご自身パンと葡萄酒のうちに留まり、私たちを養う食物となってくださいました。私たちが今集い、祝っている聖体祭儀です。それで私たちも、この聖なる食事の深さや広がりについて、しばらく考えることにいたしましょう。

私たちが今お捧げしているミサ聖祭は、当時の出来事をよく眺めると、単にイエス様が私たちの食物となってくださっただけに留まらないことに気づきます。確かにイエス様は、最後の晩さんを通してパンを割く式、いけにえの食事をお定めになりましたが、あわせて次のようなお言葉を加えておられます。「わたしの記念としてこのように行いなさい」(Lk22:19b)。

これは、最後の晩さんの出来事が、イエス様と弟子たちの間で終わることなく、弟子たちに受け継がれることで、世の終わりまで繰り返されるということを意味しています。そこには、弟子たちがイエス様の身分と職責を引き継ぐことになるということが、はっきりと含まれているのです。これがすなわち、叙階の秘跡、司祭職の制定です。イエス様はご自分のお言葉を通して、聖体の秘跡そのものと、叙階の秘跡を合わせて用意されたのです。

最後の晩さんに含まれている豊かさは、聖体の秘跡と叙階の秘跡、この二つだけなのでしょうか。もちろんそうではありません。今日朗読された「弟子たちの足を洗う場面」が、そのことを暗示しています。

「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)。また「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(v.14)とあります。イエス様は、聖体と叙階の秘跡、この二つだけをお委ねになったのではなくて、ご自身委ねられたすべての恵みを弟子たちに託し、託されたものを通して、互いに仕え合うことも計画されたのです。

それでは、二つの秘跡のほかに、何を託してくださったのでしょうか。それは、今日祝われる聖香油のミサの中に現されています。聖木曜日の午前中、司祭はこぞって集まり、司教様を囲み、聖香油のミサを祝いました。その中で、三つの油、すなわち病者の塗油の油、洗礼志願者の油、聖香油の油を聖別したのです。

聖木曜日に、三つの油を聖別する。これは、司祭職の制定に合わせて、洗礼・堅信・病者の塗油の秘跡が託されているということのしるしではないでしょうか。つまり、聖木曜日の最後の晩さんの出来事を通して、イエス様は弟子たちに、今日教会に委ねられているほとんどすべての恵みを弟子たちにお委ねになり、互いに仕え合うよう命じられたということを意味しているのです。

ここまで来て、最後の晩さんの出来事の深さ、広さがはっきり現されてきました。この晩さんは、単に聖体の秘跡の制定に留まらず、司祭職の制定、そして、司祭に委ねられるすべての秘跡にまで広がっていく、重要な恵みとなったのです。教会はこのことを、次のように表現しています。「聖体祭儀は、教会活動の中心であり、原点である」(??憲章)と。

今一度、聖体に留まられるイエス様に心を向け直しましょう。全神経を集中し、いっさいの雑念を捨てて、聖体におられるイエス様だけを心に留めましょう。私たちは、聖体のイエス様に呼び集められたのです。最後の晩さんの席に、弟子たちが集められ、イエス様を囲んで過ぎ越しの食事をとられたときと同じように、キリストが私たちを招き、食事を差し出しておられるのです。ここから、教会のすべての恵みが豊に溢れ、私たちみなに及んでいるのです。

あなたは、キリストに呼び集められた者ですか?それとも、自分でやってきた者ですか?招いてくださったキリストから、すべての恵みをいただこうと望んでいますか?それとも、私のためにキリストを追い使い、恵みを強要しようというのでしょうか。

この聖なる祭儀に、イエス様に招待された者として与り、ふさわしく振る舞うことにいたしましょう。神が、造られた私たちに奉仕しておられます。これほどのへりくだりを、私たちには考えられないこと、普通ではあり得ない、「有り難いこと」として受け、感謝しましょう。そして恵みをいただいた者として、心を新たに、日々を送ることにいたしましょう。