主日の説教 1992,5,31
主の昇天(Lk 24:46-53)
今日、私たちは、主の昇天をお祝いしています。イエス様は、今日の出来事をもって、これまでとは違った、さらに霊的なかかわりを私たちに求めようとしておられます。イエス様が私たちに期待しておられることを、しばらく黙想することにいたしましょう。
第一朗読で、使徒言行録が朗読されました。ここでもご昇天についての記録が残されています。その中で特に興味深いのは、イエス様が離れて行かれたときに弟子たちに声をかけた、白い服を来た二人の人の言葉です。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有り様で、またおいでになる」。ここで私たちは一つのことに注意しなければならないと思います。
それは、「なぜ天を見上げて立っているのか」という問いかけです。イエス様が離れ去って行かれたことだけに目をとられ、では自分たちはどうすればよいのか、よく分からなかった弟子たちの注意を呼び覚ますために、神の使いと思われるこの二人の人は声をかけたのです。実際、弟子たちにはイエス様から命じられていたことが待っていました。すなわち、すぐにエルサレムに戻って、約束されている聖霊を待つべきなのです。
「何をぼんやり眺めているのだ」という意味合いを、神の使いの言葉からくみ取れるとすれば、今日の福音書も多少は分かりやすくなるのではないでしょうか。イエス様は弟子たちを祝福し、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられました。弟子たちはイエス様を伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていたとあります(24:51-53)。
ここまでお聞きになっただけで、先ほどの使徒言行録の内容と少し食い違っていることに気付かれると思います。福音の記録に従えば、弟子たちは主が天に上げられたとき、迷わず主を拝み、すぐに次の行動に移ったことになります。おそらく、使徒言行録の記録が、正直にことの次第を残していて、福音書の方はそれを踏まえて、敢えてそれを省略したのではないでしょうか。
私たちはこのような弟子たちの姿を見るときに、私たちも多かれ少なかれ、弟子たちにみられたような戸惑いが、生活を支配していることがあるのではないでしょうか。主が天に上られたので、私たちはどうしてよいか分からない。あるいは、主が取り去られたので、どうしてよいか分からないという体験です。たとえば、それまで病気ひとつしたことのなかった方が、思いがけず病院のお世話になったり、これまで長く付き添ってきた配偶者を失ったりして、途方に暮れるというような場合です。確かに、その次にどう振る舞ったらよいか、分からないかも知れません。
弟子たちはどう振る舞ったでしょうか。彼らは、自分たちが持った不安、動揺にとどまるようなことをせず、むしろイエス様の気持ちに立って行動しようとしました。イエス様だったら、今の私に何を期待するだろうか。彼らにとって確かな答え、信頼できる道しるべは、自分たちの感情ではなく、イエス様の望みだったのです。
私たちも、弟子たちのとった態度を見習うことができます。大きな試練に出会うとき、神様から見放された、そう感じるかも知れませんが、そのようなご自分の感情は、実は当てにならないのです。むしろ信頼すべきなのは、本当にイエス様はそう考えておられるのだろうか、このイエス様のお望みこそが、信頼に値するのです。イエス様の愛は、そんなに簡単に取り去られることはありません。一度イエス様が私たちにくださった愛は、決して奪われることがないからです。そのような愛深い神様が天に上った、私たちから離れて見えなくなったとしても、それはもっと私たちを愛する手だてを考えているからなのです。
次のような体験が、お役に立つかも知れません。私は毎週、何人かの病人訪問をしていますが、何度かご聖体を授けに行くうちに、少しずつご自分の身の上話を聞かせてくださったりします。お話を聞いていると、病人訪問している私も、心を洗われるようなことがしばしばあります。
ある病人さんを見舞ったときのことです。病気と闘っているこの方を見ながら、私も何か励ましの言葉をかけようと思って、「大変ですね」。と何の気なしに声をかけたのです。するとその方の答えは、予想していたこととまるっきり違っていました。
「神父様、私は病気のことはあまり苦にならんとです。病気は病気と、腹を決めればいいんですから。けれども私にも心配はあっとです。私の息子のことです。なかなか連絡をくれんとですが、あいつはちゃんと教会にいっとるやろうか、信心ばしよるやろうかと思うと、気が気でならんとです。今こうなってしまって、様子を見にも行けませんが、あいつのことを思うと、私はじっと横になってもおれません」。
それ以上は、言葉にならない声で、いろいろと話されました。子を思う親の気持ちというのは、こんなに深いものなんだなぁと、私も心を動かされました。
思うにイエス様のご昇天にも、子を思う親の気持ちがあるのではないでしょうか。イエス様は弟子たちをこよなく愛されました。親が子のことを思って落ち着かないように、イエス様も、地上に残る弟子たちのことをよく気遣ってくださるのではないでしょうか。このイエス様の気持ち、イエス様の立場に立って、出来事を受けとめようとするときに、はじめて、不安や、動揺から解放されるように思うのです。
イエス様は私たちと同じく苦しみを経て、それから栄光へと移られました。そのことをよくよく理解しましょう。
「私たちも、信仰、希望、愛をもって主と結ばれ、すでに主とともに天の憩いを味わいながら、地上の苦労を耐えるようにしようではありませんか。」