主日の福音 1997,05,11

主の昇天(Mk16:15-20)

 

今日は、主の昇天の祝日です。今回は、弟子たちの行動を取り上げながら、私たちも何かを学び取ることにいたしましょう。

イエス様が天に昇られたときの様子を、私たちは二つの朗読から聞きました。第一朗読の「使徒たちの宣教」と、マルコ福音書です。あとでゆっくり読み比べていただきたいのですが、これら二つの朗読では、弟子たちのとった態度は明らかに違っています。

第一朗読では、白い服を着た二人の人が、弟子たちに次のように言っています。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(Acts1:11)。そして福音書では、「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した」(Mk16:20)となっています。かたや、天を見上げてぼんやりと立っている弟子たち、かたや早速宣教に出かけて行った弟子たち。いったいこの違いはどこから出てくるのでしょうか。

私は、それぞれの書物を書いた人の気持ちが、このような違いになっていると考えます。ご存じの方もおられると思いますが、「使徒たちの宣教」を書き残したといわれるルカも、今日の福音書のマルコも、実際は12人の弟子のメンバーではありませんでした。彼らは直接の弟子ではなくて、使徒たちのそのまた弟子だったのです。

そうすると、イエス様が天に昇られたときの使徒たちの様子は、どのように話を聞かされたかでずいぶん違ってくることでしょう。おそらく、二人とも忠実に聞いたのでしょうが、ルカはそれをじかに書き記し、マルコは聞いたことをふまえて、手を加えたのだと思います。つまり、事実は、ぼんやりと天を見上げていただろう、ということです。

それではなぜ、マルコ福音記者は、弟子たちがさっそうと宣教に出かけたかのように書いたのでしょうか。それは、この福音書が、新しく信仰の道に入った人を教育するために書かれていたという考え方から来ています。マルコは、新しく信者になった人たちが、あなたたちも同じようにしなさいと勧めるために、早速宣教に出かけて行ったという形にまとめたのです。

もちろん、使徒たちの宣教にあるように、ぼんやりと眺めていたことは推測できます。たとえば、愛する配偶者を失ったときや、両親を失った子供たちが、「さあ亡くなった人を惜しんでも帰ってこないから、次にどうしたらよいか考えましょう」と、すぐに次の行動に移れないのと同じです。最終的にはそうするのですが、それにはある程度の時間が必要なのです。マルコは、そのことを踏まえて、出かけて宣教したと書いたと思われます。

このようなことを考えた上で、弟子たちの姿から何かを学ばなければなりません。イエス様は予定通り、ご自分が元いたところへ帰って行かれました。それは弟子たちと別れるためではなくて、弟子たちが自分の足で歩いて行って、イエス様のみわざを続けていくためです。三年間見守ってきたのだから、あとは私に信頼をおいて行って来いと、堂々と弟子たちを送り出してくださったのです。

もし弟子たちが、三年間の教育と、あとでお遣わしになる聖霊の働きで十分に満たされないとしたら、イエス様はまだしばらく残ってくださったことでしょう。もう弟子たちは、自分で出かけて行くことができると、イエス様が判断してくださったので、イエス様は天の父のもとへ戻られたのです。

私たちはどうでしょうか。学校教育を終え、社会に飛び込み、結婚生活の一歩を踏み出し、教会でもそれぞれの役を持ったりします。「さあ、あなたの出番だよ」と言われているのに、ぽかんとしていることはないでしょうか。役職をいただいたのはいいけれど、ただぼんやりとして時を過ごしていることはないでしょうか。「なぜ天を見上げて立っているのか」と、注意されはしないでしょうか。

あしたは、信徒総会が開かれます。取り組む課題がいくつか示されると思いますが、「それは私たちでは無理だ。もう少しあとに延ばして欲しい」「私ではなくて、ほかの人にお願いして欲しい」と、理由だけを並べないで欲しいと思います。もう、私たちが取り組むべき時が来ているのです。私たちが取り組むまでに、前任者たちが大変な準備と時間をかけてくださっているのです。

「滑石の人たち、なぜ上を見上げて立っているのか」と、指をさされることがないように、一致して信徒総会を盛り上げていきましょう。そのための恵みを、ミサの中でお祈りいたしましょう。