主日の説教    1992,06,21

キリストの聖体(Lk 9:11b-18)

 

今日は私たちの命の糧としてとどまってくださったイエス様をお祝いする祝日です。キリストによって生かされ、キリストに養われる生き方を、今日の福音から黙想することにいたしましょう。

はじめに、今日の福音の背景を考えてみましょう。イエス様と弟子たちとのやりとりは、一つのことを念頭において考える必要があります。弟子は今どんな気持ちでイエス様の前にいただろうか、ということです。

おそらく、弟子たちは、イエス様のどんな命令だって果たすことができる、そういった確信に満ちていたことでしょう。というのは、今ここに集まっている弟子たちは、ついさきほどまで近くに派遣され、いたるところで福音を告げ知らせ、病気をいやしていたからです。自信にみなぎり、誇らしげに派遣の成果を報告したいくらいだったことでしょう。

ところが、弟子たちの気持ちは、早くも揺らぎ始めます。イエス様に派遣されて出かけていったときの勇気はどこへいったのか、大群衆を前にしてイエス様に語りかける言葉はなんとも心細い限りです。「群衆を解散させてください。私たちはこんな人里離れたところにいるのです。」イエス様はそれでも、弟子たちを再び群衆に遣わそうとします。「あなたたちが彼らに食べ物を与えなさい。」

きっと弟子たちは、「そんな殺生な」とぼやきたかったことでしょう。泣き出したい気持ちをこらえて、次のように言うのが精いっぱいです。「私たちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、私たちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

イエス様は、何を考えておられたのでしょうか。ルカはここで、「弟子を教育するイエス様」を描いて、イエス様がご自分の弟子をさらに鍛えようとしている、と言おうとしています。さきほどまで有頂天になっていた弟子たちが自信を失いかけているその時を使って、弟子としてよりいっそうしっかりした者にしようとするのです。

ルカはしばしば、弟子たちを教育する場面を書き残しています。それも具体的、実際的に教育します。今日の箇所で言えば、群衆に食べるものがないという、実際の困難の中で、弟子たちが教育されていきます。人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせる、いったんイエスに預けた食べ物を受けて、それを人々に分ける、残ったものを集める、これら一連の動作は、イエス様がどれほど豊かに人を養ってくださるか、また私たちの協力がどんなに些細なものであっても、ひとたびイエス様に受け入れられると、考えられないくらいの効果を生み出すことを教えてくれます。

のちに神殿で、やもめの献金を高く評価なさるように(Lk 21:2)、弟子たちができることを精いっぱい果たしたときに、イエス様もそれに精いっぱい応えてくださいました。神様が養ってくださる、そして神様だけが私たちの飢えを本当に満たしてくださる。弟子たちはそのことを目の当たりにしたことでしょう。

次に弟子たちに求められていることは、根本的にご自分への絶対的な信頼です。ご自分が神であり、命の与え主であることをはっきりと知ってもらうことでした。また、イエス様が言われた、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という言葉も、よく考えると弟子たちに強く求められていることではないでしょうか。

もちろん、この命令は、これだけでは不可能なことです。実際弟子たちは音をあげました。ですから私たちが与えるのは、やはりイエス様に委せられたもの、イエス様が用意してくださった食べ物です。もっとはっきり言うと、私たちは神様の計り知れない慈しみによって、食べ物となってくださったイエス様をいただくことができるのです。

今祭壇で捧げられようとしているいけにえ、パンとぶどう酒のもとにとどまられるイエス様を、私たちはいただくのです。この食べ物は弟子たちが心配していたような消えてなくなる食べ物ではなく、むしろ「すべての人が食べて満腹する」(v.17参照)食べ物です。

弟子たちが見たパンの奇跡は、のちにイエス様自らがお示しになった十字架上のいけにえの予告でもありました。イエス様は五つのパンと、二匹の魚を、裂いて、弟子たちに渡して、それを配らせました。イエス様ご自身も、裂かれ、渡されて、人々にすべて与え尽くされる食べ物となりました。聖体はその見えるしるし、神が残された最高の食べ物です。

何を食べても、何を飲んでもいやされることのなかった心の深いところでの乾きが、イエス様によっていやされます。どこか別のところに行って満たそうと思っていたところに、「まあ、いいから座りなさい」とおっしゃって、飢えを満たしてくださいます。私たちもこのご聖体に近づこうとしているのです。

一つの、小さな体験ですが、私が聖体奉仕者に任命されて、はじめて聖体拝領のお手伝いをしたときのことです。福岡の大神学校で、聖体奉仕者に選ばれた六名の同級生のうち、当日の式でお手伝いをする人が二名選ばれ、たまたま私ともう一人が選ばれました。前日に言い渡されたときには、正直な話、「いっちょういいところを見せてやろう」、そういう気持ちで布団に潜り込んだのでした。

当日、式は滞りなく進み、聖体拝領の部がやってきまして、いざ皆さんの前に立ってみると、自分でもわかるくらいに手がふるえていました。両親や親戚が、自分のところの神学生からご聖体を受けようと、わんさと押し寄せてきます。私はますます緊張し、うまくできなくなりました。

その時に私は、ようやく一つのことに気づいたのです。「これはキリストの体なのだ。ただのパンのひときれとは違うのだ。」このご聖体は、私たちのために裂かれ、渡され、いま食べ物として配られようとしているキリストなのだと。何気なく拝領してきたことを反省し、私もこのキリストから養われたい、改めて心に言い聞かせたのでした。

今日のこのミサの中で実際に渡され、生け贄となって、私たちを生かそうとされるイエス様を深く礼拝いたしましょう。食べ物となって私たちを養おうとされるご聖体のイエス様を、感謝のうちに拝領いたしましょう。キリストだけがすべての人を完全に満たします。信頼のうちに、この一週間を過ごしましょう。