主日の説教 1991,06,02

キリストの聖体

 

今日は、秘跡の中の秘跡であるご聖体をお祝いしています。聖書朗読で示された神様の愛を悟り、心に一つの確信をつくることにいたしましょう。また、ご聖体に養われているわたしたちに、神様が何を期待しておられるかについても、少し考えることにいたしましょう。

 

今日朗読された三つの箇所は、いずれも契約という言葉が鍵になっています。聖書の中で、神と民との契約は、しばしば、神が民を選んで、一方的にお恵みを与えるというかたちを取ります。契約はつねに神からの愛のしるしであり、この契約があってはじめて、わたしたちは神様を呼び求めることができるのです。

中には、「わたしは自分で神様を見つけましたよ」そうおっしゃる方もおられると思います。本当にそうでしょうか。そのような方は、「見つけましたよ、神様。今日から、わたしの神様になってくださいね」そう言っているようなものです。実際はむしろ、契約を通して神様が先に愛してくださったおかげで、わたしたちは神を呼び求めることができるのではないでしょうか。

福音で聖マルコは、契約の中でも最高の契約について明らかにします。最後の晩餐の席で、イエズス様が全人類のために交わされた契約、これが、私達にとっての最高の契約なのです。それはまた、愛が最高に示された瞬間でもあります。

こうしてイエズス様は、信じるすべての人に、自らをご聖体として与えることを約束されます。ご自分が愛の絆となって、私達を神と決定的に結んだのです。

お恵みについて考えるとき、子供たちに意地悪な質問をしたりします。「神様はもっているものは何でも与えたくて、最後にはとっておきの宝物、イエズス様も与えてくださいました。そこで質問。ほんとはね、神様はイエズス様より大事なものを隠してたんですねぇ。何だと思いますか?」

もともと答えられない質問なんですが、それでも子どもを煽り立てます。「思い出せないかなぁ、ほら、あれだよ、あれ」。こうなると子供たちも真剣です。「・・・・・・何だったっけ?」このとき間髪を入れずに、「イエズス様より大事なものは あ・り・ま・せ・ん!」と言って、しっかり焼き付けることにしています。

 

ご聖体の主日を機会に、ご聖体について、一つの確信を持ってください。神様は、「これを与えたら、何も残らない」、そんな気持ちで、愛のかたみを残されたのです。みなさんにも、それぞれの立場で、同じような宝があるのではないでしょうか。「ここまではあげてもいいけど、これだけはあげられん」。

どんなにお世話になっている人でも、その人がたとえ頭を下げてきても、絶対に譲れないものが誰でも一つや二つはあるものです。おん父にとって、それはイエズス様でした。おん父はそれさえ、わたしたちのために手放されます。造り主が造られたものにすべてを与えてしまう。これまた、はかりがたい神秘です。

この愛のかたみを前にして、わたしたちはどのような態度を取るべきでしょうか。もちろん、感謝の思いを心と行いで表す必要があります。ご聖体はわたしたちが神様と出会い、一つになるために、神様がくださった切り札です。神様はご聖体を通して最高の愛を示してくださいました。聖体拝領をするわたしは、そのたびに、思いを新たにする必要があるでしょう

わたしたちの取るべき態度について、わたしたちの先輩がすばらしいお手本を残していますので、紹介いたします。西暦の三百年頃、教会が始まって間もない、迫害の時代の出来事です。

 

当時は信仰をおおやけにすれば、誰でも危険な目に遭うという世の中でした。あるとき一人のキリスト者が病にたおれ、最後の聖体拝領をしたいと望みました。けれども、ご聖体を運ぶのは至難の業です。信仰者のいのちをねらう人がうようよしていたからです。神父様は困り果てました。「どうしたらいいだろう」。

そこへ、一人の少年がその務めを手伝いたいと申し出ました。少年の名前はタルチジウスといいました。神父様は言いました。「おお、タルチジウスか。でもおまえでは若すぎよう」。少年はこう答えました。「神父様、幼いからこそ、この務めにふさわしいと思います。イエズス様を信じない人たちも、わたしならこのようなとうとい務めを任されているとは思わないでしょう」。そう言ってうやうやしくひざまづきましたので、神父様もこの少年にすべてを託すことにしました。

タルチジウス少年がご聖体を運んでいる途中、あまり仲の良くない友だちに出会いました。「タルチジウス、遊ぼうぜ」。「ごめん。今急いでるんだ。すぐに戻ってくるからね」。その中でリーダー格の少年が、彼の様子に気づいて言います。「やい、その手にあるものは何だ」。少年たちはキリスト教徒ではありませんでした。「・・・・・・これは見せられないよ」。そう言って急ごうとする彼を、少年たちは通そうとしません。「見せろ、そしたら通してやる」。タルチジウスが嫌がるので、少年たちは面白がって、乱暴を働きはじめました。タルチジウス少年はご聖体を守るため、どんなに乱暴されても我慢しました。けれどもあまりの激しさに、とうとう倒れてしまいました。そこへ、この少年を知っている兵士が通りかかり、少年を助けました。「タルチジウス君、大丈夫か!」兵士は心配そうにタルチジウスを見つめています。「大丈夫です。それより、ご聖体を守れたことが、ぼくはとてもうれしい」。少年はその言葉を最後に、天国へ旅立って行きました。

 

聖体の聖人といわれるこのタルチジウス少年は、病人のもとへご聖体を運ぶことで、イエズス様への愛を示しました。私達は、自分の心にご聖体をいただき、すべての人のもとに、このお恵みを運んで行く者です。私達も、いただいた愛を人々に分かち合う、そのような気持ちでご聖体を拝領してみてはいかがでしょうか。

もう一度、イエズス様の愛に応える決意を新たにいたしましょう。愛は呼びかけに応えることで本物になります。イエズス様の深い愛はまた、人々に伝えるためにも与えられています。この一週間、聖体拝領でいただいた神の愛を、それぞれに与えられた機会を通してまわりの人々に分かち合うことができるように、そのための恵みを祈ってまいりましょう。