主日の説教 1997.5.18

聖霊降臨(Jn 14:15-16,23b-26)

 

今日私たちは、聖霊のご降臨をお祝いしています。第一朗読の聖霊降臨の場面は、聖霊によって新たにされた弟子たちの姿が生き生きと描かれています。激しい風が吹いて来るような音がして、その音は家中に響きました(使2:2参照)。また炎のような舌が現れ、一人一人の上にとどまったことも描かれています(3節参照)。その場に居合わせた人は、恐らく固唾を飲んで見守っていたことでしょう。

ある意味で、この聖霊降臨という出来事は、限られた条件での出来事、あのとき、あの場所に居合わせた人だけが体験した、ごく個人的な出来事です。ですから単純に考えれば、私たちは、「聖霊降臨に、もし私たちが立ち会っていたら、私たちもすごい体験をしただろうに」と考えることもできます。ほかの国々の言葉で話しだしたということさえ記録されていますから、その場に居合わせなかったことが残念でならない、そう言って悔しがることさえあるのかも知れません。

確かに一面ではそういう感情もなくはないのですが、もう少しいろいろな証言を集めると、私たちにも迫ってくる事実が見えてくるように思います。

 

例として、出来事に驚いて集まってきたユダヤ人たちの言葉に注目してみましょう。鍵となる言葉は次の言葉です。「どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。・・・・・・彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞くとは」。前後の話からして、ユダヤ人たちが驚いているのは、故郷の言葉を使って、そのうえ神の偉大な業を語っているということのようです。神の偉大な業が、自分たちの故郷の言葉で語られているのです。

確かに、ガリラヤの田舎者たちがいろいろな言葉を操っているのを見れば、びっくりするでしょう。けれどもありえないことではありません。世の中には数えきれないほどの言葉を操る人もいます。大事なことは、神の偉大な業を、自分たちの故郷の言葉で聞いているというこのことです。聖霊が使徒たちに降ったおかげで、集まったすべての人々が、自分たちに分かる言葉で神のみ業を聞いた。人が自分たちに分かる言葉で、神のみ業を知ることができる、これはよくよく考えると、驚くべきことなのではないでしょうか。聖霊が働かなければ、できない芸当ではないでしょうか。

このように聖霊の働きの結果を考えるとき、私たちにも聖霊が降っている、これまでに聖霊体験をしてきていると言わなければなりません。ある人の口を通して、神の偉大な業を聞く、たとえばミサの説教者を通して神の業が語られる、それも自分たちに分かる言葉で語られる。このような体験があり、「なるほどあのことはこういうことだったのか」と納得するようなことがあれば、その時私たちは聖霊の体験をしているのです。集まったすべての人に、神のメッセージが伝わるということは、実際聖霊が働かなければ有り得ないことだからです。

 

一つの話を紹介いたします。ある小教区に二人の助任司祭がいました。一人は弁舌さわやか、説教ともなれば思わず拍手が出るくらいに聴衆を魅了し、聞く人に深い感銘を与える司祭。もう一人は彼とは正反対で、お世辞にもうまいとは言えない語り口で、わざわざこの司祭を選んでミサに与る人など一人もいないといった司祭でした。

あるとき青年の一人がこの名説教をする司祭にいたく感銘を受け、このような話は信者の私たちだけではもったいないと思い、知り合いの学生を誘って、ミサに与らせようと計画しました。心うきうき、内心すでに一人の信者を手にいれたという勝利感に酔いしれながら教会に向かいました。

いざミサが始まってみると、驚いたことにその助任司祭は入堂せず、かわりにもう一人の助任司祭の司式でミサが始まりました。青年は落胆し、「今日の説教では教会に興味を持つことすら期待できまい。かえって煙たがられるかも知れない」と考えたのでした。予想に違わず、もう一人の司祭は引っかかり引っかかり、何度も同じことを繰り言のように話し、説教を終えたのでした。

 

ミサが終わって、青年は友人に申し訳なさそうに、こう言いました。「ごめん。てっきりぼくは当てにしてた司祭の当番のミサだと思って、君を誘ったんだけど。悪いことしたね」。ところがこの友人は彼の予想とは裏腹に、ミサに来て本当によかったと答えました。信じられないといった様子の青年に、友人はその理由を教えてくれました。

「うん。君の言う通り、神父さんの説教は実にまずかった。けれども彼がイエズスという言葉をていねいに、そして確信をもって声に出していたのは分かった。あのへたくそな説教をした司祭は、きっとイエズスという人を知っているに違いない」。聖霊は、お呼びでなかった助任司祭を奮い立たせ、ミサに誘った友人だけに分かる言葉で話したのでした。

 

今日のヨハネ福音書でイエス様は、聖霊について次のように説明してくださっています。「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。

弟子たちはキリストと生活を共にしたとき、たくさんのことを見聞きしました。けれども多くのことが彼らには理解できなかったことでしょう。ところが約束された聖霊を受けて、今までのことがようやく分かるようになり、全世界に行って告げ知らせることができるようになったのです。彼らの宣教活動を、共にいてくださる聖霊が支えてくださいました。そのおかげで、彼らは数えきれないほどの人を神のもとに導いたのです。

私たちに分かるように話してくださる聖霊を、今一度思い起こしましょう。私たちが心を開くとき、私たちと共にいて、イエス様のことを悟らせてくださる聖霊が、私たちにも与えられます。あらためて聖霊の力強い働きかけに信頼し、「聖霊来てください」「聖霊来てください」と祈ることにいたしましょう。