主日の説教   1992,4,05

四旬節第五主日(Jn 15:1-3,11-32)

 

四旬節も大詰めを迎え、教会の典礼は、回心することのすばらしさを、姦通の女性の赦しを通して私たちに教えようとしています。私たちが今日この日に、ヨハネ福音書の8章を読み、味わうことの意味合いをも含めて、福音が私たちに伝えようとするキリストのメッセージを読み取ることにいたしましょう。

 

ミサのなかで、年間を通して読まれる朗読には、一定の流れがあって、私たちはその流れのなかで福音の教えを汲み取ることもできます。先週私たちは、「放蕩息子のたとえ話」を聞き、神の慈しみ深さを考えたことでしょう。イエス様はそのとき、たとえをもって教えられましたが、今週は、ご自分が、罪の女性を救うことで、神の慈しみ、赦しのすばらしさを解き明かされます。たとえを使っての教育から、体験による学習へと、さらに神の愛の深さを身近にしてくださるのです。姦通の女性の赦しを読む意義が、ここに一つ示されます。

典礼は、もう一つの意義をここに織り込みます。それは、神の愛と慈しみは、実際にはイエス・キリストを通して私たちに示された、見えるものとなったということです。慈しみと、赦しのすばらしさを体験させてくださる方は、どこか遠くにいるぼんやりした神ではなく、人となられたこの神の子、イエス・キリスト以外にないということです。このような前置きをちょっと心に留めながら、今日の福音の教えに分け入ることにしましょう。

 

さて律法学者やファリサイ派の人々によって、「罪あり」とされた一人の女性が連れて来られました。イエス様が最後に「これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃっていることからも、確かにこの女性は罪の中にいたのでしょう。けれども、人々が彼女を罪ありとした理由と、イエス様のそれとは、随分かけ離れていたように思われます。人々はモーセの律法に照らして考えましたが、イエス様は罪の本質に照らして判断されたのでした。罪とは、一体何でしょうか。

ヨハネ福音書が教える罪とは、根本的に「神の望みを無視し、拒む態度」と言うことができます。イエス様がこの女性に罪をお認めになったのは、神から離れ、神の望まれる生活に背を向けていることを指していました。律法学者やファリサイ派の人々が考えるように、掟に反するからとか、ましてや私の目に罪と映るからとか、そういうことではなかったのです。

 

このような、掟に縛られ、罪の本質が分からなくなっている人を、解放し、救うために、イエス様は人々に次のように言われます。「あなたたちのなかで罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい(8:7)。」イエス様は暗に、神の望みを無視した生活を、一度たりともしたことのない者がここにいるのか、と問いかけて、私たちが犯す罪について反省を促すのです。

私たちが罪の本質に気付くとき、回心のあり方も問われることになります。今日の福音で、イエス様のするどい答えを聞いた人々は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまったとあります(8:9)。彼らは、初めて回心したのです。神の望みに合わない生活をしていた罪人の私を悔い、神の望みに合うよう生活を立て直すこと。これが回心であると、初めて知ったのです。

 

私たちは、これまで本当に、回心のわざに励んできたでしょうか。もっとはっきり言えば、私は、これまでに、回心したことがあったのでしょうか。

 

回心が、イエス様と正面向き合って初めて可能であることが、罪の女との対話でもっと明らかにされます。このときすでに、彼女を責めたてた人々は誰も登場しません。むしろ、私たちを始めとするすべての人が、まことの回心をとげていく彼女を見守っています。

イエス様は、この女性にも招きの言葉を述べます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか(8:10)。」婦人は、神ご自身であるイエス様を真正面に見据えて、回心の証しを立てます。「主よ、だれも(8:11)。」まことの回心をとげたこの女性を、イエス様は喜んでお赦しになりました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない(8:11)。」

 

自らの罪な生活を悔い、それを認め、神に向き直って、これからを神の望みに合うよう整える。私たち一人ひとりが、彼女の誠実な回心に倣うとき、天の国では大きな喜びがあることでしょう。この女性が、率先して模範を示しているように、罪を認めるとは、これまで神の望みをしばしば無視した生活をしてきたことを悔いることであり、回心は、神と向き合って、神に照らされて生きる決心をすることなのです。

「私は悪かことをしたけんで罪を犯した。私はこれからその悪かことをやめるけん、りっぱに回心しとる。」このような罪の捉え方、回心のしかたに甘んじている人は、相手なしに罪を働き、相手なしに回心し、どこまでも相手のいない信仰生活をしているのです。神との対話のなかで信仰生活を続けるためにも、私たちは、神様を中心に据えて、生活しましょう。いつもイエス様に真っ向勝負を挑む信仰者となりましょう。

 

聖パウロが今日の第二朗読で言い表した信仰告白が、この教会にも響いています。「皆さん、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」

皆さん、神と真っ向勝負の信仰をしましょう。弱さのために罪に陥り、神から離れるとしても、まことの回心によって神に立ち帰り、神と共に暮らすことのすばらしさを繰り返し体験しましょう。そのための恵みを、神に祈りましょう。