主日の福音 1993,03,28
四旬節第五主日
(JN 11:3-7,20-27,33b-45)
キリストはあなたを愛しておられる
今日は、「泣くイエス様」を思い描きながら、イエス様のあとを慕って参りましょう。「イエスは涙を流された」(11:35)。この福音書を書き残したヨハネにとって、神様が人となられたことを、これ以上適切に言い表すことはできなかったのではないでしょうか。このイエス様を通してヨハネが伝えようとしていることは一つ、「イエス様がわたしたちをこの上なく愛しておられる」ということです。ゆっくり考えてみましょう。
最初に、はっきり知っておかなければならないことがあります。それは、ラザロとイエス様についての一連の出来事は、ヨハネ福音書をのぞいて、他の福音書のどこにも見られない、ということです。ルカは金持ちとラザロについて書いていますが(ルカ 16:19-31)、今日のラザロとは別人だと考えたいと思います。
ヨハネは、福音書の中で、自分のことを「イエスの愛しておられた弟子」(Jn 13:23参照)と言っておられます。それと合わせて考えると、ラザロに向けられた愛は、「愛されている」という深い確信を持つ者だけが描くことのできる情景なのかも知れません。ですからヨハネは、イエス様が人を愛するときは、中途半端に愛することはない、徹底的に愛するのだということを、伝えたかったのではないでしょうか。この愛は、最終的にわたしたちにも向けられています。
さて、人をやって兄弟ラザロの容態をイエス様に知らせるマルタの言葉も、見落としてはならないところです。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」わたしたちは、自分の身内や親戚が大病を患ったとき、同じ言葉でイエス様に語りかけることができるでしょうか。難しいように思います。ただたんに、ありのままの姿を述べて終わるというのは、かえって深い信仰がなければできないことだからです。
「何とかしてください」とか、「治してください」というような祈りであれば、わたしたちにもできそうな気がします。けれども、「今、こうこうです」「今日、こんなことがありました」とだけ祈るためには、あとのことを完全にイエス様に委ねる気持ちがなければ、さまにならないのです。言い換えれば、自分は神様から愛されていると言い切れる人でなければ、こんな祈りは無理なのです。
「神様に愛されている」という確信は、自信とか、自惚れとか、そういうものとは違うと思います。わたしに、愛される理由があれば、自信を持つかも知れません。どこかで、イエス様に貸しをつくったというのであれば、「自分は愛されて当然だ」と自惚れるかも知れません。けれどもそんな人はどこにもいません。もともと、そんなことなどありもしないし、できっこないのです。かえって、わたしは多くの借りがイエス様にあり、かけた迷惑の大きさでも、頭が上がらないはずなのです。
そんな、お世辞にもイエス様からの寵愛を語れないわたしに、イエス様は目をかけてくださいます。ラザロの場合は、「死」という、人間ではどうしようもない出来事、原罪の結果わが身に降りかかった苦しみに、イエス様が目をかけてくださったのです。イエス様に愛されなければ、生きていても死んだのと同じということを知っているからこそ、「あなたが愛しておられる者が病気です」「あなたに愛されなければ、はかなさに服してしまう一人の人間を見舞ってください」と、確信をもって願うことができたのではないでしょうか。
愛されているという確信は、ここでは、悔い改めと、自分に頼らない心から出ています。わたしに頼っても、何も出てこない。そうしてキリストに心を向けるとき、そこに、初めからわたしを愛し、たち帰るのを待っていたイエス様に出会うのです。
今わたしのところには、結婚を前にして、カトリックの教えを学びにきている、ある青年がいます。週に一回、来ていたのですが、病気で入院することになり、来れなくなりました。見舞いに行こうと思って、病院を尋ねたら、神父さんが来てくれるとは思わなかったと言って、とても喜んでくれました。
最初は、とりとめもない話や、冗談を交わしていたのですが、本当に言いたいことがほかにあったらしくて、「神父様だから話しますけど」といいながら、今まで誰にも言えなかったことを全部話して、あとは声にならなくなりました。何と声をかけてよいかも分からず、黙っているしかなかったのですが、自分で何とか切り抜けられる、何とかなると思っていたことが、そうならなかったことに、心を痛めていたのでした。
洗礼を受けていない方でしたから、わたしもこれといったお世話はできなかったのですが、その方はきっと、神様がいなければ、今のわたしは立ち直れない、いや、神様がいるから自分は今からでも立ち直れると確信したと思います。これが、神様に愛されているという確信ではないでしょうか。わたしたちの生活に起こる出来事、うれしいこと、悲しいこと、それらが神様がいて初めて意味がある、神様に愛され、見守られている中でこそ価値があると悟ることが、「愛されている」という確信になっていくのではないでしょうか。
イエス様はラザロに「出て来なさい」と大声で叫ばれます。わざわざ「大声で」と書いてあるのは、イエス様のありったけの思いを、ラザロに向けようとしたあらわれです。病を得た一人の人に、心を震わせ、興奮し、涙を流し、大声で呼びかけるイエス様が、わたしたちにも「出て来なさい」と呼びかけています。
イエス様は、わたしたち一人ひとりを愛そうと、ありったけの声で呼んでいます。心を開き、キリストに向き直りましょう。後戻りしようとする気持ちに分かれをつげて、自分がイエス様に愛されるためにいることを思い出しましょう。イエス様はもうすぐ、わたしたちのためにすべてをなげうってくださいます。