主日の説教   1992,3,29

四旬節第四主日(Lk 15:1-3,11-32)

 

今日の福音は、私たちに神の愛の深さ、神の恵みを意識して生きることの幸せについて、見事としかいいようのないたとえをもって語りかけてきます。イエス様自身が語られるたとえに耳を傾けながら、私たち自身の心を、神の愛に向けて開くことにいたしましょう。

 

今日選ばれた箇所は、大きく二つに分けることができます。前半の弟の物語と、後半の兄の物語です。そしてよく見ると、どちらも、全く同じ父の言葉で締めくくられています。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」。どうやら、この父の言葉が物語を解きあかす鍵となっているようです。

ここで「いなくなる」とされている言葉は、「本来あるべきところから離れて力を発揮できずに滅びへ向かう」といった意味合いがあります。「いなくなった」とだけ記されていますが、それは単に姿が見えなくなったというのではなく、滅びに向かう転落をも意味に含んでいます。本来の生き方を見失い、迷子になった弟は、霊的に死んでいたのでした。

 

ところで、この弟の態度には、注目すべき点があります。それは彼が、最後のよりどころとして父の家を忘れず、わが身の取り扱いを完全に父に委ねていたという点です。悔い改めて、立ち帰ったあとは、すべてを父の判断に委ねたのです。

「運を天にまかせる」という言葉があります。自分でやるべきことをすべて果たした上で、結果は神に託してしまうというものです。これは、誰にでもできるというものではなく、神に対する全面的な信頼、神に委ねきる決意がなければできないものです。物語に登場する弟は、父に対してすべてを委ねる用意ができていました。

 

私たちは、信仰生活の中で、自分の意志を神に委ねる用意ができているでしょうか。神に最後の判断を委ねる生活をしているでしょうか。自分の判断を信仰生活の基準にしていないでしょうか。自らの判断が信仰生活の基準になっている人は、本来の生き方からそれており、それでは、進歩は望めないのです。

物語の弟は、自分の判断を生活の基準としてきた結末が、財産の浪費、飢えとして示された「霊的な乏しさ」につながっていったことを悟りました。そして回心し、これからの生活の基準を、父の姿で現された神におく決心をしたのです。物語の父はこの態度を心から喜ばれ、祝宴を開いて喜び合ったのでした。

 

さて、兄の方はどうでしょうか。私は、兄もまた、父の愛から迷い出ていたと考えます。弟は見える形で父の愛から離れましたが、兄は目に見えない形で、父の愛から遠ざかっていました。兄の言葉のはしばしから、そのことを知ることができます。

「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」兄にとって、自分が父の愛に留まっているという判断の基準は、自分の中にあり、父のおかげであるとは思っていないようです。これもまた、霊的な意味で、迷子の状態にあり、進歩は望めません。弟の回心を受けとめるに当たっても、判断の基準が兄の心の中にあるため、父よりも厳しい、したがって神よりも厳しい裁きを下してしまうのです。残念なことだと言えます。

 

神に判断の基準をおくかどうかは、日々の生活を回心に向けることとも密接なつながりがあります。一つの例を紹介いたしましょう。

私が、ある病人を訪問したときのことです。その方は日頃からよく祈りをされる方でしたが、病気のあいだの無力さを次のように話してくれました。「神父様、私は今、ロザリオをしたくても、手に力が入らんのです。十字架の印をしたいけれども、腕を上げる力がなかとです。こんなにはがゆいことはありません。」

 

私は、この方のつらさ、悲しさに同情しながらも、もう一歩、霊的進歩をとげてほしい気持ちから、次のような言い聞かせをしました。

「神様は、あなたの心を神様に委ねきってほしいので、しばらくのあいだ、信心するためのロザリオと、十字架のしるしをする力を取り上げました。なによりもまず、あなたの心を神様に捧げきってください。そうでなければ、『信心があるから、私は神様につながっている』と考える誘惑に負けるかもしれません。

そうではありませんよ。『私の信心』が判断の基準になっているうちは、どんな苦しみ、病気の体験も、十分な恵みの場にはなりません。これほどの大きな病気、これほどの恵みの場をいただいたのですから、信心ができないと嘆かずに、あなたの意志を、神様に捧げてください。信心でなく信仰を見せてください。」

 

この方が、今後、病とどのような闘いを続けておられるのか、私には分かりません。けれども私は、この方の信仰にかけてみたいと思いました。この人から信心が奪われても、心を神に捧げきる信仰は奪われることがない、そんな思いがしたからです。神様が用意してくださった霊的な飢えだから、人間の信心によって癒されるはずはない。きっと神ご自身がこの人の信仰を見て癒してくださる。今日の福音を黙想しながら、つくづくそう感じたのです。

 

この病人の生き方を、私たちも倣いたいものです。実際の生活は、弱さのために、罪に陥り、神様を悲しませる毎日かもしれません。けれども、最後のよりどころ、判断の基準を、神におき、私の信心にだけ頼ることなく、神に与えられた信仰に生きるよう、心がけましょう。毎日が神に向き直る回心の場となり、主と共にあることを喜ぶことができるよう、生き方を整えてまいりましょう。そのための恵みを、主に祈ってまいりましょう。