主日の福音 1996,03,171
四旬節第四主日(JN 9:1,6-9,13-17,34-38)
今日は、「変わる」ということについて、福音から黙想してみたいと思います。はじめに、登場人物が変わっていくさまを追いかけましょう。そして終わりには、わたしたちがイエス様から変えられるところまで進むことにいたしましょう。
登場人物のうち、生まれつき目の見えない人とイエス様との出会いは、まったくの偶然に起こったことでした。イエス様は通りすがりに、たまたまこの人を見かけられたのです。けれどもそのような出会いでも、イエス様はそれが行きずりにならないような、生涯忘れられない出会いに変えることができました。わたしたちには到底できないことです。
イエス様は何をなさったのでしょうか。もちろん、生まれつき目の見えない人をいやされたのですが、本当にそれだけでしょうか。そうではないと思います。このいやしがきっかけになって、ほかにも変化が起こりました。当時の知識階級であったファリサイ派の人々の間には分裂が起こりました。弟子たちは、この人がファリサイ派の人から追放されたこと、すなわち、イエス様と出会った人が社会から閉め出されていく、追放される羽目になったのを見たのです。
イエス様が何かに目を留められると、このように広い範囲で変化が起こります。一人の人がイエス様に出会えば、その人が新たにされるだけでなく、その人と関わる人もある意味でイエス様と出会い、変えられるのです。イエスさまを信じない人の態度はますます頑なになり、イエス様について行こうとする人の心はさらに大きく広げられます。イエス様を通して、心にあるものが表に現れるのです。
目の見えない人は、イエス様から癒していただきました。彼は、肉眼が見えるようになったわけですが、それ以上に、心の目が開かれたのだと思います。まわりの人が自分を見て、「本人だ」「いや別の人だ」と大騒ぎしている中で、彼は「わたしがそうなのです」と言い切ります。これは、癒しの感謝だけを言っているのではなく、イエス様に救われたという信仰告白なのです。
目が見えるようになったことで、この人は心も開かれました。体の目が光を取り戻したとき、人間は神の恵みがあって初めて救われるのだということに気付きました。新しい人に変わるよう招きを受けたとき、この人はそれを心から望み、受け入れ、実際に変わったのでした。ただその変化は、イエス様によって変えられることを望まないファリサイ派の人々からは受け入れられなかったのでした。
わたしたちはどうでしょうか。福音の中の出来事を読み味わうとき、わたしたちはどのようにイエス様と関わろうとしているのでしょうか。ありのままの姿で結構ですから、ぜひ登場人物の一人として、物語に参加してほしいと思います。
もしかすると、今のわたしは、イエス様に変えられることは面白くないと感じているかも知れません。自分の過去や、弱さ、惨めさを暴かれたくなくて、イエス様に心を閉ざすかも知れません。反対にある人は、出会いから真実の自分を見せられ、「こんなわたしにも、神様は近づいてくださる。イエス様に心を開こう」と思い立つ人もいるでしょう。イエス様に変えられることは、拒む人には恐れとなり、受け入れる人には、恐れに捕らわれたとしても、最後には深い喜びに変わるのです。
例としてわたしは、秘跡を通しての出会いを取り上げたいと思います。秘跡を通してイエス様に変えられる中で、心を開こうと一生懸命になって、すっかり変えられる人がいます。たとえば病者の塗油を受けて、今までは自分の姿をどうしても受け入れることができず、看病する人につらく当たったりしていた人が、秘跡を受けて、病の中でも神は自分を離れず、共にいて下さったことを知り、感謝する気持ちになる方がいらっしゃいます。
また赦しの秘跡はもっと頻繁に、イエス様に心を開くか、閉ざすか、その葛藤を伝えてくれる秘跡です。赦しの秘跡について教えて下さった神父様が、「人によっては、罪を告白するとき、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで向かっていることを覚えておいて下さい」と仰いました。そして実際に、そのような告白に立ち会うとき、神様の赦しは本当にすばらしいと思うし、そこに立ち会っていることを、深く神に感謝するわけです。
ありったけの勇気をもって、赦しの秘跡に近づき、罪を告白しています。たいてい、わたしは言い聞かせをするのですが、神様がどれほどあなたを心配していたかを、その人に応じてお話しします。そのような中で、神様に変えられようとしているこの人が、はじめには恐れ、落胆、後悔といった気持ちに沈みかけますが、最後には深い感謝、これまで以上の信頼、希望を、神様によせる決心をして帰っていくのです。
「自分にも、こんないい告白ができるんだ」初めてそのことに気付いて、感激する人もいます。それにつられて、わたしも心を打たれることがたまにあります。どこか、心を閉ざしていた人も、秘跡の終わり頃にはすっかり心を開く覚悟ができて、「あ、この人はほんとうにイエス様に変えられようとしているんだな」と感じるときがあります。帰り際に、安心したのか、深く息をついて帰る人もいます。そんなときは、わたしもほほえましいなぁと感じます。
今日は「変わる、変えられる」ということを考えてみました。実際、イエス様に変えられることは、大きな賭です。自分の思ったようには変わらないのですから、イエス様に自分を合わせるという寛大な心が求められます。イエス様に合わせようとするとき、社会からはそれが受け入れられず、苦労することも覚悟しなければなりません。目の見えない人は、ユダヤ社会から追放されたのでした。
それでも、イエス様から変えられることはすばらしいことです。心の目で確かにイエスさまを見、出会っているからです。そうして、イエス様の次の言葉がわたしのものとなっていきます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(JN 9:37)。