主日の説教   1992,3,22

四旬節第三主日(Lk 13:1-9)

 

皆さまの日頃からのお祈りと励ましに支えられて、三月十七日、無事に浦上教会で司祭に叙階されました。小さかったときから、これまでずっと私を見守ってくださったことに、心より感謝申し上げます。

 

さて、今日の福音では、私たち一人ひとりの回心を、ひたすら待ち続けておられる神様の姿が描かれています。前半部分で、人々にふりかかる予期せぬ災い、不幸が、すべての人の回心を促す引き金となり、私たち一人ひとりの態度を糾そうとされます。人の不幸に対して「それ見たことか」と要らぬ穿鑿をする前に、私自身の回心の必要性を強く感じるようにと求めているのでしょう。

 

福音は回心の必要性と同時に、人間に対する神の忍耐と憐れみの深さも強調しています。神様は私たちが心から立ち帰り、神の望みにかなう生活を始めるよう、辛抱強く待っておられるのです。今日はこの点について、特に考えてみたいと思います。

 

毎日の生活の中で、神の望みにかなう行いを願いながらも、軽はずみな行動、慎重さを欠く会話、人の失敗やよからぬ噂に耳を傾けるなどして、神に反する態度に傾くことが、私たちには多々あります。振り返って考えるときに、「あー悪かったなぁ」と思い当たることはあるのですが、それを機会に神の望みを深く追い求めるということがなかなかできません。

 

どうして態度を決めようとしないのでしょうか。もしかすると、私たちは神様の慈しみに甘えているのかも知れません。「まだ、これといって何も起こらんけん、よかやろう」そういう甘えがあるのかも知れません。神様の忍耐、慈しみの深さを、そのように考える誘惑は誰にでもあるのですが、もう少し福音に示されている姿をよくつかむ必要があるように思います。

 

小作人と主人との会話から、いくつかの言葉を引用してみましょう。主人は次のように言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ている」「切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」主人にしてみれば、もうぎりぎりまで待ったではないか、という気持ちでしょう。

 

小作人は、そのような主人の気持ちを十分に察していますし、当然だとも思っています。それでも、敢えて、主人の怒りを買うかも知れないとの恐れをも省みず、最後の忍耐、最後の慈しみを主人に請い求めます。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木のまわりを掘って、肥やしをやってみます。もし、それでもだめなら、切り倒してください。」

 

どちらが神様の態度かという見方ではなく、この両者のぎりぎりの振る舞いの全部が、神様の生き生きとした忍耐、慈しみの姿です。「まあ、待ってみよう。ダメなら、よかさ。」私たちが忍耐や慈しみを求められれば、たいていこの程度のものでしょうが、神様は最後の最後まで、ぎりぎりまで忍耐し、憐れまれるのです。

 

前に、福岡の友人が遊びにきて、魚釣りをいっしょにしたことがありました。ご存知のように、魚釣りはずいぶんと忍耐が必要です。友人は魚釣りはもちろん素人で、五島というところは魚がうようよ泳いでいて、間違って指でも入れると魚にかまれるくらいにしか考えてなかったようです。まだ釣り始めて半時間もたたないうちに、意外と釣れないのに飽きてしまったのか、遊び始めました。一時間もするとぐずぐずしだして、「もう場所をかわろうよ。ここは釣れないじゃないか。」と言い出しました。好きな人なら、一時間ぐらいは辛抱していられるのでしょうが、彼の場合はそうはいきませんでした。

 

二人で釣りに行ったことを後で思い返して、こんなことを考えてみました。私は魚が釣れなくても、釣れるかも知れないと思って、のんびりと構えていられる。彼にはそれはできなかった。二人の違いはつまり、待つ楽しみ、待つことのすばらしさを知っているかどうかということだろうと思ったのです。

 

すぐにしびれを切らしてほかのことに気を向ける場合と、辛抱して辛抱して、ぎりぎりのところまで待つ。私の方から見切りをつけないで、相手が向き直ってくるのをひたすら待つ。この、相手の立場に立って忍耐と慈しみを示そうとされるのが、神様の姿ではないでしょうか。

 

回心を呼びかけておられる神様の忍耐と慈しみは、「回心せんなら、せんでもいい」というなげやりな態度ではなく、「あなたが向き直るまで待とう」というような、回心する人の立場にいつも立っているのです。私たちは、もう心を入れ替えることを忘れてしまったかも知れない。けれども神は、一人ひとりが思い返し、本当に回心してたちなおるまで、待っておられるのです。

 

この時期、黙想会や聖週間をひかえて、多くの人がこれまでの生活を振り返ることと思います。その時に、神の望みに反対しておこなったあのことこのことを思い出すと同時に、ここまで忍耐して待ち続けておられた神様の慈しみを思い起こし、感謝のうちにこれからの日々を過ごしていってください。

 

最後に、召命のことについてもお願いいたします。神様は私たちの信仰生活の実りを、召命という形でも望んでおられます。「もう何年も待っているのに、さっぱりじゃないか」そうお考えかも知れません。