主日の福音 1993,03,14

四旬節第三主日(JN 4:5-15;19b-26,39a,40-42)

霊的な渇き

主よ、心の渇きをいやして下さい

 

今日は、心の渇きについて考えてみたいと思います。わたしたちは喉が渇くように、心も渇くことがあります。喉は、お水を探して、それを飲むと渇きが止まります。心が渇いたら、どんなふうにして渇きを止めるのでしょうか。

 

女の人が井戸に水を汲みにきました。自然の水を汲むためには、バケツとか洗面器とか、水を汲むための道具が必要です。多分、今日の女の人は、水汲みの道具を持っていたと思います。

同じ井戸の側には、イエス様も座っていました。よくみると、イエス様は「旅に疲れて、井戸の側に座っていた」と書いています。疲れを取るために、お水をグイーッと飲んだら、きっと疲れも飛んでいくことでしょう。けれども、どうもイエス様は、バケツや洗面器を持っていないようです。

 

女の人は、用意してきた道具で、水を汲もうとしています。するとイエス様がその女の人に、「水を飲ませて下さい」と話しかけました。イエス様も、「渇いていた」のです。それは、喉が渇いていただけでなくて、心も渇いていました。そしてイエス様は、お水を汲む道具を持っていなかったけれども、心の渇きを止める道具は、ちゃんともっていました。

だからサマリアの女の人から、喉の渇きを止めるお水をもらえれば、あとは、心の渇きは自分で止めることが出来ました。やってきた女の人はどうだったでしょうか。実は、この女の人は、水を汲む道具は持っていましたが、心の渇きを止める道具を持っていなかったのです。それで長いこと、心は渇ききっていました。イエス様はそれを知っていたので、サマリアの女の人から、お水をいただくことをきっかけにして、女の人の心の渇きをいやしてあげようと考えていたのです。

心の渇きということを言いました。心って、喉みたいに渇いたりするんでしょうか。少し考えてみましょう。

本を読むことを考えてみましょう。読みたい本があって、それを読み始めたとします。ほかのことがあいだにはいって、例えばお遣いを頼まれたとか、宿題をしなさいと言われたとか、それで本読みをとちゅうでやめないといけなくなりました。お願いされたことをしているあいだでも、読みたい本のことが頭に浮かびます。「あの本、とちゅうまでだったけど、最後まで読みたい」「読みたい読みたい読みたーい」。考えれば考えるほど、心は落ち着きません。

そんなとき、どうすればほっとするのでしょうか。ジュースを飲むと、落ち着くのでしょうか。テレビを見ると、本のことを忘れることが出来るでしょうか。きっと、「読みたい」と思っていた本を読み終わるまで、心は落ち着かないと思います。

実は、「読みたい、読みたい」と思ったその気持ちが、心の渇きということです。心が、こんなふうになると、他のことをしても落ち着きません。渇いた心に、心の水を上げないと、いつまでも渇きは止まりません。だから、誰でも心が渇くことがあるし、それを止める道具をちゃんともっていないといけないと思います。

 

福音に登場した女の人も、喉が渇いていただけではなくて、長い間心も渇いていました。どんなふうに渇いていたかというと、形は結婚生活を続けていても、何か心が一杯にならない、という感じでした。それでみんながお祈りをする山に言って、お祈りをしていましたが、それでも心の渇きは止まりませんでした。本を読みたい心は、読むまで落ち着きません。神様と会いたいと思っている人も、本当に神様に会うまで、きっと心は渇いたまんまだと思います。

イエス様は、この人が神様に会いたくて、心が渇いていることをよく知っていました。そしてその心に水を与えることのできる人でした。イエス様は神の子だからです。イエス様だけが、神様に会いたいと思っている人に、神様を見せることが出来るからです。

神様にやっと会えた。そんなすばらしい出来事は、一度おこったらその人の中でどんどん大きくふくらみます。心の中で広がり、一杯にしてくれるのです。でも案外、わたしたちは神様からの水を汲む道具を持っていないのです。持っていないのに自分でその水を汲もうとして、いつまでも落ち着かないことがあります。

昔、神様のことをどこまでも考えて、三位一体の神様を自分で理解したいなーと、いつもいつも考えていた人が今した。アウグスチヌスという人です。そのアウグスチヌスが、神様のことを考えながら砂浜を歩いていたとき、一人の子供に出会いました。砂浜に掘った小さな穴に、小さな器で海の水を何度も何度も汲んでいました。

「坊や、何をしてるの?」と尋ねると、少年は答えました。「海の水を全部この穴に入れてしまうの」「そりゃあ、無理だよ、穴は小さいし、汲む道具も小さいじゃないか」すると少年はこう言いました。

「あなたの考えていることも同じさ、神様を入れてしまうのにあなたの心は小さすぎるし、神様を汲もうとしている頭も、器にしては小さすぎるよ」。アウグスチヌスははっとしましたが、もうその人は見えませんでした。きっと神様の使いか、イエス様そのものだったのでしょう。その時から、アウグスチヌスは悩むことをしなくなったそうです。悩むのではなくて、神様を愛するようにしました。

 

わたしたちも、たぶん同じだと思います。神様のことを知りたいと思うし、心を一杯にしたい。けれども自分の持っている道具は、神様を捕まえるには小さいのです。イエス様が自分で心の水を与えてくれたら、今までの分は全部取り戻すし、それよりも増えると思います。ですから、イエス様に心の渇きを止めてもらえるように願いましょう。

イエス様のことを、イエス様にお世話してもらえるなら、こんなにすてきなことはないと思います。