主日の福音1997,02,23

四旬節第二主日(Mk 9:2-10)

「彼に聞け」―――信仰者が徹底して実践すべき生き方

 

今日は「だまってイエス様について行く」ということを黙想してみたいと思います。おん父はそれをひとことで言い切ります。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。はじめは、ペトロについて行ってみたいと思います。

 

ペトロをはじめとする三人の弟子は、イエス様と高い山に登って行きます。イエス様は何のために山に登ろうとされるのか、ひとことも仰らなかったので、ずいぶん戸惑ったと思います。そのような中で、イエス様の姿が変わります。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばないほど白くなった」。

きっとペトロは、「これこそイエス様の真の姿なんだ」と有頂天になったのではないかと思います。弟子たちにとって、イエス様の姿は華々しいほうがいいに決まっています。山に登る直前には、イエス様はご自分の死と復活について予告をし、弟子たちの心もやや曇りはじめていました。ペトロは、「今こそ、イエス様を世に知らせるときだ」と考えたのではないでしょうか。

 

「仮小屋を三つ建てましょう」。彼にとって、こうすることが、ようやくおもてに現れたイエス様の輝きをとどめておく方法だったのでしょう。ここに、光輝くイエス様がとどまってくだされば、すべての人が彼のもとに来て、彼を拝み、信じることができるはずです。人々にイエス様を知らせる絶好の機会。ペトロでなくても、考えつきそうなことでした。

けれども、そのような華々しい場面は、長くは続きませんでした。かわりに、雲の中から声が聞こえ、顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもおらず、そのイエス様も、もとのイエス、人々から理解されず、一人で十字架を担おうとされるあのイエス様に戻っていたのです。

山で起こったことを、イエス様は言い触らさないよう、厳しく命じます。思わず口が滑りそうになるほど、すばらしい光景を見たのですが、弟子たちはイエス様にだまってついて行かなければなりません。「これを切り出せば、誰でも信じそうなものだが」と考えたくなるのですが、イエス様はそれを望まれないのです。なぜ、「だまってついてくる」ことを求められるのでしょうか。

 

よくわたしたちは物事の裏と表とか、光と影とかという言い方をします。今日のイエス様の姿にも、同じことが言えるようです。山の上で弟子たちが見たのは、イエス様の「光の部分」に過ぎませんでした。実際はその裏に、ご受難、ご死去という「影の部分」が隠されているわけです。そこまでは、考えを及ぼすことができなかったでしょう。そのため、早まったことをしてはいけない、そう仰りたかったのだと思います。ですから、「だまってついてくる」必要があったのです。

「だまってついて行く」と言うと、何だか表向きは簡単なことのように受け取られます。目をつむってでもついて行ける。そう考えたりします。ですが実際に「だまってついて行く」ことは非常に難しいと思います。あれこれと口を挟みたくなるし、「もうついて行けない」とあきらめる危険もあるのです。

 

確かにそうだと思います。学生会を例にしてみましょう。学生会には会長がいて、会長を支え、協力していく各委員会の人がいます。積極的に意見を交わし、方針を立てて進んでいきますが、最終的には「会長に全面的について行く」という固い絆が必要だと思います。

上に立つ人にはたくさんのことが求められ、華々しく活躍してほしいとか、魅力ある会にしてほしいとか、自分たちをグイグイ引っ張ってほしいとか、そのほかいろんなことが聞こえてきます。または、「この人のほうが上に立つだけの器量があるのに」という声も聞こえるでしょう。けれども、それがただのいいっ放しの意見であるとか、責任者に欠けている部分の非難合戦では、ほとんど意味がないのです。

いいたいことを言って、それで終わったり、「ここでは自分の才能は生かされない」と見切りをつけることは簡単です。けれどもその中に自分をおいて、長所も短所も共に体験して、不足欠点という苦しみを味わいながら何かをつかむことは、尊いこと、価値あることだと思います。人間だれしも、欠点、不足があることは十分承知です。けれどもそれをいっしょに担い、前進してくれる人が必要です。そんな「だまってついてきてくれる人」がいるときに、責任者の「良さ」が際立ってくるのではないでしょうか。

 

わたしたちには、いろんなレベルでの「だまってついて行く人」を持っています。その人について行くために、輝かしい光の部分だけを求めるなら、それは片手落ちです。輝きだけについて行くのなら、不満も不平もひとことも出ないはずです。わたしたちの口から何かが洩れるとすれば、それは共に担っていく「影の部分」を忘れているからです。

わたしたちも、今日のペトロのように「だまってついて行く」ことを学びましょう。最後までついて行ったときに初めて、神様がその人を責任者に選んだ理由に触れるのではないかと思います。