主日の福音1993,02,28

四旬節第一主日(MT 4:1-11)

キリストのいのちに生きる

神のよろこぶ心がけで準備を進めよう

 

教会の暦は、この前の水曜日、灰の水曜日から四旬節に入りました。病人訪問に出かけた時に、この季節を良い心掛けで過ごしてもらおうと思って、声をかけました。なつかしい「悲しみ節」という言葉がかえって親しみがあるらしくて、「悲しみ節が始まりましたね。イエス様は四十日すると、わたしたちのためにすべてをお渡しになります。わたしたちも大きな信頼と希望をもってこの悲しみ節を過ごしましょう」と言いました。

 

年輩の方々は、やはり悲しみ節と言ってもらったほうが、良く分かるようです。その日、回ったすべての病人が、「悲しみ節」と言ったら、「はい、神父様。悲しみ節が始まりました」。と相づちを打ってくれました。

わたしたちも、今日の福音から、始まったばかりの四旬節をふさわしい心で過ごすヒントを得たいと思います。そして、心がけができたら、それを実行に移せるような、一つ二つの例を、自分なりに考えてほしいと思います。

 

めずらしく、福音で悪魔が登場します。悪魔はご存知のように、神に逆らい、人間を悪へ誘います。やっかいなことに、天使と同じ霊ですから、人間よりも知恵と力がすぐれているとされています。こんな悪魔の誘惑ですから、イエス様も一人の人間としては、それと闘わなければなりません。注意深くイエス様の態度を見て、そこからわたしたちの模範を受け取りましょう。

 

人祖アダムとエワを誘惑したときもそうでしたが、悪魔は実に巧妙に、人間の弱いところに罠をかけて、悪へと誘います。福音ではいかにももっともらしく、聖書まで引用して、その誘いが的外れではないと主張します。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」。そう言った後に、詩編のことばを引用して、聖書にちゃんと書いてあるじゃないかと言うのです。

 

なるほど、聖書にはいろんな言葉があるでしょう。けれどもそれを引き合いに出すときに、言葉尻だけをとらえた使い方をすべきではありません。神様がそこで考えておられることを大切にした、正しい使い方が必要です。神様は必要であれば、天使に命じて足が石に打ち当たらないように、支えてくださいます。けれどもイエス様がすぐに仰っているように、それが見たくて「主を試みてはならない」のです。

 

大神学生時代、新約聖書の講義は外国人の神父様がしておられました。この神父様はもう三十年も日本に住んでいて、ふだんは面白い話をするのですが、講義になると途端に日本語らしくなくなるのでした。福音書についても長く教えていただいたのですが、ここだけの話、わたしはさっぱり身につきませんでした。講義が終わる頃に、「あ、もう終わったのか」と言いながら、目を覚ますことがしばしばありました。

それでも、一つ、神父様から「これだけは習い覚えた」ということがあります。神父様は、聖書を注意深く読んでくださいと言いたくて、こう話されました。「皆さん、聖書は一つのことを言ったら、それと正反対のことを同時に言うこともできます」ということでした。

 

神父様は、信仰を例に話されました。「パウロは、信仰について、こう言っています。『正しい人は、信仰によって生きる』(Rom 1:17)。ですが、使徒ヤコブは別のことを言っています。『行いのない信仰は役に立たない』(Jac 2:20)。信仰についての二つの説明は、正反対のものですか」。

 

聖パウロと使徒ヤコブの言葉は、意味合いを汲めば、ぶつかりあうものではないのですが、今日の福音のように、悪魔が聖書を引用する場合は、やはりイエス様が聖書をひもとくときとは正反対の目的になります。人を陥れる、という目的です。決して、正しい使い方をしません。うわべだけつじつまを合わせて、「大丈夫、心配ないさ」と唆すのです。

 

イエス様は、悪魔の唆しに乗りません。それは、悪魔が唆しているからというだけでなくて、イエス様の心の中には、「つじつまを合わせて生きる」というような考え方はまったくないからです。あと四十日して成し遂げられるご受難、ご死去、ご復活を考えても、あれほどむごい最後でなくてもよかったかも知れません。つじつまが合う程度、それも可能だったと思います。けれどもイエス様は、実に不器用に、この最後の時を迎えられるのです。考えられるすべての苦しみを受けて、理解されないままに命を渡されました。

 

わたしたちの生活はどうでしょうか。つじつまの合う程度の信仰生活にとどまっていないでしょうか。灰の水曜日は、大斉・小斉のつとめがありました。きっと、規定通りの断食をしたことでしょう。けれどもその日を過ぎた途端に、また飲食の度を過ごす過ちを犯していないでしょうか。むしろこの日をきっかけにして、目に見える犠牲を始めよう、聖書の一ページでも呼んでみようか、ミサに間に合うように起きようかと、自分の可能性を広げる必要があるのだと思います。イエス様が示した不器用さをこの四旬節に倣う必要があるのではないでしょうか。

 

この四旬節の間、イエス様が先に準備されたということを心にかけて生活しましょう。イエス様はすべてを投げ出して、わたしたちの救いを完成しようとしておられます。わたしたちも生活の思い煩いを、一切委ねるようにいたしましょう。全てを神に委ねようとする人に、イエス様は全てを返してくださいます。