主日の福音1992,12,27

聖家族の祝日(MT 2:13-15,19-23)

 

今日は、聖家族のお祝い日です。マタイはその中で、聖ヨセフ様の役割を強く意識して物語を進めています。私たちの家族のことも合わせて考えながら、家族の中での父親の役割についてしばらく黙想してみましょう。

 

はじめに、神様の計画について、マタイは一つのことを教えてくれます。それは、神様の計画は、ご自分の呼びかけに人間が忠実に答えるときに、最も効果的になされていくということです。その典型的な例として、ヨセフ様が挙げられています。ヨセフ様の行動を通して、神様が聖家族をどのように導いてくださったのか、考えてまいりましょう。

 

マタイは、ヨセフ様の模範を、どうも難しい場面で用いるのを好んでいるようです。はじめは、神のおん子がいいなずけのマリアを通してお生まれになるという出来事でした。今回は、「子供とその母親を連れて、エジプトに逃げなさい」という、前にもまして受け入れにくい出来事の中に織り込まれています。

ヨセフ様にとってみれば、ほんとうに理解できないことの連続だったでしょう。「神様のひとり子」が、どうしていのちを狙われなければならないのか、どうしてエジプトまで逃れなければならないのか。おそらく私たちだったら、「神様、どうしてこんな目に遭わなければならないのですか」と、神様に納得のいく説明を求めると思います。そうしないではいられないほど、要求は高いからです。

 

ヨセフ様はこれに、勇敢にお応えになりました。エジプトへの旅行、それは現代の私たちが考えるようななまやさしいものではありません。しばしば言われることですが、旅をすれば追い剥ぎに遭い、よそ者として扱われ、宿を見つけることも、食べ物を用意することも、一切の世話をしなければならなかったわけです。それらを忠実に果たして、それに対して少しもおごることがなかった。これは驚きに値する出来事ではないでしょうか。

 

ヨセフ様のこのような忠実な奉仕は、聖書の中ではあまり注目されていません。ともすれば聖家族の中でも、マリア様とおん子イエス様の姿ばかりが目立ち、ヨセフ様は影に隠れてしまいがちです。けれども、ヨセフ様の、このような目に見えない努力が、歴史の中に実際にお生まれになった神の、救いの計画のためにはぜひ必要だったのです。

 

マタイはこの点について、「預言が成就するためであった」としるしています。さりげない書き方ですが、大切な意味があります。神様の計画が、私たちの間で実際に実現するためには、おん子イエス様の成長、それも霊的な成長と同様、それと同じくらい人間的な成長が必要だったのです。神様が地上の、それも小さな国の王様であるヘロデ王を恐れ、逃げ回る必要はどこにもありませんでしたが、人間イエス様の命を守るためには、ヨセフ様の勇敢な行動が必要だったのです。神様に比べれば取るに足りないかも知れない、ヘロデを逃れてエジプトに行くこと。それは神様の計画が果たされる一つの方法でした。神様の計画は、雲の上だけで行われるのではないということを、よく示していると思います。

 

考えてみれば、神様が計画された出来事ですから、人間がどんな態度を取ろうが、それでも神様の思いは着実に果たされるとは思います。神様が、人間の剣におびえる必要はどこにもなくて、エジプトに逃げなくても、それはそれで幼子は守られたかも知れません。けれども父親ヨセフ様が、人間がそこで、神の呼びかけに忠実に答えたことは、神様にとってこの上ない喜びであり、ご自分の計画が効果的に果たされる、すぐれた方法だったのでした。

 

たとえそれが、人間の目からすると、惨めな印象さえ受ける方法であっても、神様はそれを迷わずお使いになります。要は、神様が今呼びかけた招きに、人間がすぐに答えるかどうかということです。たとえばヨセフ様が、まだ夜も更けていないのに、すぐに出かけたように、人間が神の声にすぐに答えるときに、最も効果的に神様の望みが果たされるのだということです。

 

ところで、父としてその大役を果たしておられる皆さんといっしょに考えたいのですが、言葉でこのように説明することはできても、それが自分自身と深く関わっている問題になってくると、受け入れるのはそう簡単ではありません。「あなたは、ほかの場所へ移って行きなさい。そうするときに、私の計画が果たされるでしょう」。そんな呼びかけがあったとして、果たして素直に従うことができるでしょうか。

 

たとえば、ある任命があったとします。だれの目にも成功を収めていたその職場を、理由らしい理由もなく、ほかの職場に移されたとした場合、そこで私たちは何を考えるのでしょうか。「どうして変わらなければならないんだろうか。今までこの部署で立派に務めてきたのに。何か不満でもあるのですか」。そう考えるのではないでしょうか。

 

まわりの人、また本人さえも望まぬ形で、出来事が始まることはしばしばあります。はためには、それは無慈悲で、他人の同情を買うこともあるでしょう。けれども、神様はそのような形すら、ご自分の望みを現すためにはお使いになるのです。

 

どんな呼びかけ、どんな方法も、神様が使えば効果的なものになります。問題は、それに人間がどの程度応えてくれるかということです。性ヨセフの模範に倣いながら、ぜひこころがけたいものです。